24.蝋燭

 脱いだ防護服をハンガーに掛け、ロッカーをばたんと閉じると、少しせき込んだ。地上から前室に戻る時、二度、エアシャワーを浴びて表面に付いた塵などを吹き飛ばすので、防護服にもマスクにもほとんど埃は付いていないはずだ。だけど、ロッカーを閉めた勢いで、中にうっすらとたまり続けている埃が飛び出してくるような気がして、咳が出る。
 本当は埃などやはりほとんどないけれど、もう癖になっているのかも知れない。それだけ頻繁に、俺は地上に赴いていた。
 ほんの数ヶ月前までは、まさか自分が地上に出て行って、空調設備のメンテナンスをするなんて夢にも思っていなかったし、今も時々、俺は何でこんなところにいるんだ、と思う。
「お疲れさま。コーヒー、飲む?」
 給湯室に行くと、一足先に戻っていた堀川さんがいた。
「インスタントだけど」
 水屋から、粉末の入ったスティック状の袋を取ると、俺に差し出した。
「……頂きます」
「はい、これも」
 次いで渡されたのは、やはりスティック状の袋に入った人工甘味料だった。俺が甘党で、ブラックは飲めないのだとすっかり把握されている。
 ここへ来て三ヶ月。地上に出てメンテナンスを終えた後は、給湯室で一服するのが習慣となっていた。時々は堀川さんも一緒に。
 なかなか悪くないな、と思いながら、熱いコーヒーを少しずつすすった。

 久しぶりに訪れた中層は、これほどきらびやかで明るかっただろうか。駅を出た時、思わず立ち止まってしまった。駅から出て行く人も入っていく人も、多い。最上層に比べると人工の月と星が映し出された天井はずいぶんと高く、ビルと呼べるような建物も目に付いた。
 中層で生まれ育ったはずなのに、まるで違う世界へ踏み入れてしまったような感覚に陥る。そういえば、最上層の空調局に配属されて以来、何かと忙しくて下へ下りていなかったのだった。
「よう、久しぶり」
 居酒屋の個室には、先に到着していた西園がいた。大学時代からの友人で、同じく国土建設省に配属になった同期でもある。
「元気そうじゃん」
「西園もな」
「早速だけど、まずはビールでいい?」
 タッチパネルを操作して、西園は飲み物とつまみをいくつか注文する。俺が来るまでに、メニューを眺めていたのだろう。迷いがない。
 ビールはすぐに運ばれてきた。よく冷えている。音を立てて乾杯し、二人して三分の一ほどを、一気に飲んだ。
「江田が思ったより元気そうでよかったよ。辞令を言い渡された後はこの世の終わりみたいな顔してたし、壮行会でもどんよりしてたから、みんな心配してたぜ?」
「……その節は迷惑をかけたな。今は何とか、うまくやってる」
「そうみたいだな。元気なのは何よりだけど、正直、ちょっと残念でもある」
 そこに、今度はつまみがいくつかやってくる。
「残念? なんで」
「江田が一番行きたくなかった、左遷じゃないかとささやかれるような異動先で、もうすっかりいじけてくじけてくたびれて憔悴しきって俺の前に現れるもんだと思ってたのに、案外けろっとしてるじゃねえか。俺が身も心も慰めてやろうと意気込んでたのに。俺のやる気をどうしてくれる」
 ぶつくさと言いながら、西園はすごい勢いで枝豆を食べていく。冗談めかして言っているが、だいぶ本気だったのだろう。
 学生時代、互いに恋人がいなかった時なんかに、体力その他を持て余していた俺たちは、二人で発散したものだ。失恋した時や落ち込んだ時にも慰め合っていた。
「悪かったな、けろっとしてて」
 今は、西園に慰めてもらわなくても大丈夫だ。自分でも意外なことではあるが。
「で、意外と平気な理由はなんなんだ? 最上層って言うほど悪くないのか? ――いや、そんなことはないな。あそこの大気の数値は俺もよく知ってるし」
 枝豆を食べ尽くした西園は、今度は卵焼きに箸を伸ばす。
「別に、思っていたよりひどくなかっただけだよ」
「いやいや、そんなことはない。好きな奴ができたんだろう。それとも、もう恋人になったか? 手が早いなあ」
 付き合いが長いだけに、鋭い。卵焼きをほおばる西園の目は、確信に満ちていた。
「手が早いって何だ。何もしてねえよ!」
「まだ、何もしてないわけか。それで、どんな奴なんだ? 男? 女? 職場の誰か? 行きずりの相手とかいうのはやめてくれよ」
「……女。俺のチューターをしてくれてる人」
 さっき、狭い給湯室で並んでコーヒーを飲んだ時のことを思い出す。と言っても、何か劇的な出来事があったわけではない。夏が近づき地上の寒さがましになってきたとか、コーヒーは天然物の方がやはりうまいとか、他愛もない会話をしただけだ。
「へえ。じゃあ、年上? 珍しいな。いつもは同じ歳か、年下なのに」
「たぶん年上。転職して空調局に入ったらしいけど、そういえば年齢は聞いてない」
「片思いか。相手は独身なんだよな? 不倫はやめとけよ」
「誰が不倫なんかするか!」
「で、その人、恋人はいるのか?」
「……それが、よくわからないんだよな」
 思えば俺は、堀川さんのことをよく知らない。彼女がいつも付けているトパーズのピアスは贈り物なんだと秋元さんから聞いたが、贈り主が誰なのかは知らない。秋元さんは知っているっぽかったが、教えてもらえなかった。家族や友人ではなく、恋人なのだろう。だけど、堀川さんに、今は恋人はいないらしい。これもまた、本人ではなく秋元さんから聞いたのだが。
「よくわからないのに、好きになっちゃったのか。一目惚れ?」
「いや、さすがにそこまでは……」
「どういう人なんだよ。俺の江田を奪った女は」
「いつから俺はお前のものになったんだよ……」
 呆れつつ、西園に食べ尽くされる前に卵焼きを一切れ取る。出汁がきいていてうまい。
「――そうだな、なんか、蝋燭みたいな人、かな」
 堀川さんはにぎやかな人ではないし、西園のようにちょこちょこ冗談を織り交ぜてくることもない。仕事に対してとにかく真面目だ。地上がどんな天候であろうとも、危険があろうとも、嫌な顔一つせず出て行くし、戻ってきても疲れたとか言わない。淡々としているが、ただ仕事をこなしているのとは違う。あの赤い防護服が、その証だ。

 目立つため――無人兵器を引きつけるため、こういう格好をしてるんだ。
 
 何故そんな防護服なのか、意を決して、堀川さんに聞いたら、彼女はわずかに笑って、そう答えた。自分が注意を引きつけている間に、助けを呼びに行けるように、逃げられるように。
 どうして、堀川さんがそんな危険を冒すのか。そうも聞いたが、その答えはなかった。彼女は、ただ笑っていただけだ。
 秋元さんや藤原さんに聞いても、好きにさせておけばいい、という答えしかもらえなかった。呆れているというよりは、諦めているようだった。
 上司たちをも諦めてしまった、赤い防護服。蝋燭の火、そのものだ。
 あの静かな情熱も蝋燭の火のようだ。炎は小さくとも、近付けば熱い。熱いけれども、周囲を巻き込んで熱くするほどの火力はない。いや、堀川さんに、巻き込むつもりはないのだろう。上司である藤原さん達に、赤い防護服を着るべきだと言っているところを見たことはない。
 彼女は己の中にある小さな火を一人で守り、絶やすことなく燃やし続けている。
「なるほどね。それは、俺も一目見てみたいな」
「だめだ。見るな」
 冗談だと分かっているのに、とっさに口をついて出る。
「本気じゃん」
 西園がニヤリと笑った。
「俺の出番は、おまえが失恋した時みたいだな。いつでも言えよ、慰めてやるから」
「もっと違う激励の仕方はないのかよ」
「ないね」
「卵焼きももうないし……」
 話している間に、またもや西園に食べ尽くされてしまった。残っていたのは大根おろしだけ。それを口に放り込んでみるが、しみいる辛さに思わず顔をしかめた。

〈了〉

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