天体観測

「折り入って頼みがあるんだ」
 それまであぐらをかいて談笑していた武利(たけとし)が、急に正座をして、前髪がローテーブルに置かれたコップの縁にあたりそうなほど頭を下げた。
「急にどうしたんだよ」
「和樹(かずき)にしか頼めなんだ。頼れるのはお前しかいない。お願いだから、俺の頼みを聞いてくれ」
 武利が顔を上げ、眼鏡越しに懇願のまなざしを寄越す。
「……いきなりどうした、武利」
 遊びに行ってもいいかと武利から連絡が来たのは、今日、日曜日の朝だった。非番だった和樹は予定もなかったので、いつでも来ていい、と返事をすると、武利は昼過ぎにやって来た。
「和樹、聞いてくれるの? くれないの? どっち!?」
「何も聞いていないうちから判断できないだろ」
「聞いてくれよおおぉ! 親友――いや、心の友と書いて心友の頼みをおおお!」
 ローテーブル越しに、武利が掴みかかってくる。しかしその細い手を、和樹は難なく払いのけた。
「分かったよ。とりあえず話だけは聞くから」
「和樹、さすがは心の友!」
「……で?」
「まずはこれを見てくれ」
 鼻水を垂らして泣き出すのではないかという表情を一変させ、武利が得意げな顔で、後ろに置いていた箱を指さす。武利が持ってきたものだ。
 大きな枕を二つ積み重ねたくらいの大きさで、これを持って和樹の家にやって来たときには何の説明もしてくれなかったので、何が入っているのか気にはなっていた。
「いいものが手に入ったんだ」
 眼鏡の向こうで武敏の目が輝く。それで、和樹は中身の見当がついた。
「天体望遠鏡か」
「開ける前に言うなよ……」
 和樹の言葉に肩を落とし、武利が箱を開ける。思った通り、収められていたのは天体望遠鏡だった。以前見せてもらったものより一回り大きいだろうか。
 武利は天文学を愛する十七歳で、幼い頃から天体望遠鏡を集めている。小さい頃は親にねだって買ってもらっていたそうだが、最近はせっせとバイトに励んで購入資金を貯めていた。
 わざわざ見せに来るくらいだから、新しく購入したものなのだろう。新しく、といっても、今の世の中、新品の天体望遠鏡は製造されていないから中古なのだが。
「俺が半年間、かわいくも生意気な蒼乃(あおの)の家庭教師をして貯めた金で買った望遠鏡――混乱期よりもっと前に製造されたセイメイレンズ社のGS-30だ! どうだ、すごいだろ!?」
「へえ。三百年以上前のものなのに、きれいだな」
 ボディは多少年季を感じるが、きれいに磨かれていて汚れはない。収められている箱は、新たにあつらえたものなのだろう。そちらは新品に見える。
「だろ? きっと大事にされてきたんだよ。中古屋のおじさんも、俺が買いに来るまで毎日磨いてたって言ってたし」
「いや、毎日は言い過ぎだろ」
「とにかく! 新しい天体望遠鏡を俺は手に入れたんだ、心の友よ!」
 いよいよ本題らしい。武利の声に熱がこもる。
「だめだ」
「俺まだ何も言ってないよ!?」
 天体望遠鏡を見せられた時点で、和樹は武利の頼みが何なのか、予想できていた。
「その天体望遠鏡を使うために地上に出たいから手伝ってほしいんだろ、お前は」
「……さすがは心の友。俺の頼みなんかお見通しだな。だけど、それなら話は早い」
「だから、だめだと言っただろ。一般人が無許可で地上に出るのは禁止されてる」
 今から三百年ほど前、地球の環境は激変した。人間による環境破壊が原因ではなく、自然災害が原因だった。
 隕石衝突によって巻き上げられた大量の塵が太陽光線を遮蔽し、衝突に誘発されたのか、世界各地で火山活動が活性化し、大気組成が少々変化した。その変化に付いていけなかった人類は、地下都市に引きこもることで何とか存続している。
 地上は暗くて寒く、吸えば肺を病んでしまう汚染された大気が充満している。長時間留まれば皮膚や粘膜も侵されるので、地上へ出る際は防護服とマスクで完全に体を覆わなければ危険だった。
 そんな場所に、十七歳の子供が、勝手にほいほい出て行っていいわけがない。
「和樹は出られるじゃん」
「俺は仕事。遊びに行ってるわけじゃない」
 地下都市には空気を取り込むための通気口がある。通気口及びそれに関連した一連の設備の維持管理をしているのが空調整備局で、和樹はそこで整備士として働いている。通気口は地上に突き出しているので、メンテナンスのため、地上に赴く機会は多い。
「でも、ちょっとくらい、仕事以外で出ることもできるだろ?」
「大城さんに頼んだら? かわいい従兄弟の頼みなら聞いてくれるんじゃないか」
 和樹と武利を引き合わせたのは、武利の年の離れた従兄弟である大城蒼平(おおしろ・そうへい)だ。武利が家庭教師をしている蒼乃は、蒼平の娘である。従兄弟がどうして金を貯めているのか、蒼平は知っているだろう。蒼平は、空調整備局で働くベテラン整備士でもあった。
「蒼平兄さんにそんなこと頼もうものなら、怒られるに決まってるだろ! だから和樹に頼んでるんじゃないか!」
「俺が武利を地上に連れていったって大城さんにばれたら、俺も怒られるんだけど」
「俺に脅されて仕方なくって言えば大丈夫!」
「いや、絶対大丈夫じゃないだろ、それ……」
「頼むよ、和樹。一度だけ。一回だけでいいんだ」
 顔の前で音を立てて両手を合わせ、武利が再び深く頭を下げる。眼鏡がずり落ちそうな勢いだった。
「――地上に天体望遠鏡を持って出たところで、星なんて見えないじゃないか」
 巻き上げられた塵は地球をすっぽりと覆い、三百年間、その厚さはほとんど変わっていないという。昼間でも太陽の輪郭すらおぼろげで、あの辺りにあるだろう見当がつく程度だ。月はどこにあるのかほとんど分からず、まして星など見えるはずもない。
「分かってる。それでも、格好だけでいいから、天体観測をしたいんだ」
 地下都市では天体望遠鏡など必要ない。天文学は、観測ができなくなったためにほとんど進んでいない、むしろ後退している学問だ。古い天体望遠鏡は、今ではコレクションとしての価値しか持っていなかった。
 蒼平から、地上がどれだけ危険な場所なのか、よく聞かされているはずだ。それにもかかわらず、武利がどれほど地上に出て天体観測をしてみたいのか、和樹は知っていた。
「……一度だけだぞ」
「和樹! さすが心の友!」
 顔を上げた武利が、両手を広げて和樹の飛びついた。
 これはさすがに払いのけることができず、和樹は押し倒されたのだった。

    ●

 空調整備局の整備士たちが使う地上への出入り口は、何重もの扉を通り抜けなければならず、通路や扉付近には監視カメラも設置されている。しかし、地上に出るには全身を覆う防護服と顔のすべてを覆うマスクを装着するので、うまくやれば部外者が紛れ込んでも分からないだろう。
 ただし、空調整備局の施設内を通らなければ地上には出られないので、まず施設内に部外者が入れない。見学者として入ることはできるが、見学者も特別な許可がなければ地上には出られない。
 天体観測をしたい、という理由で許可が下りるわけがなかった。
「ここ……?」
 例の天体望遠鏡が入った箱を背負った武利が、不安そうな顔で眼鏡のブリッジを押し上げる。
「俺が知っている中で、誰にも見つからずに地上に出られる経路はここしかない」
 和樹と武利は、薄暗い縦穴の縁にいた。穴の周囲を金網の通路がぐるりと巡り、通路と何もない空間を仕切るのは、頼りない柵だけである。二人が金網に立っているだけで、時々嫌な音で軋む。穴の直径は5mくらい。内側には同じ高さに照明が三カ所取り付けられていて、それは等間隔に、深くまで続いていた。既に切れている照明も目に付く。
「ここは穴の頂上に見えるけど」
 うなり声を上げて穴の底から風が吹き上げてくる。風は強く、様々なもののにおいが混じり合って、何ともいえない気持ち悪さだった。
「一度下におりる。途中に横穴があるんだ。そこから、地上に出られる」
 和樹はその横穴を指さしたが、ちょうど照明と照明の間に位置しているので、はっきりと見えない。のぞき込めば見えるかもしれないが、武利は壁に張り付いていて柵に近寄らなかった。
「どうやっておりるの?」
「あの梯子をつたって」
 通路の一カ所が切れて、そこから梯子が下に延びている。柵同様、頼りなさそうな梯子だった。
「……大丈夫なの、あれ」
「さあ」
 ここは、この地下都市が建設された当時に使われていた排気口だ。現役の頃は地上まで延びていたらしいが、今は塞がれて、この縦穴だけが残されている。
 使われなくなった排気口なので、当然誰もメンテナンスなどしていない。
 和樹がここへ来るのは二度目だ。ただし、来たのはこの通路まで。梯子を下りて横穴に入ったことはない。空調整備局に保管されている古い図面を見て、昔の排気口を見学しに来ただけだった。
 図面通りなら、10mほど下りたところに穴があり、そこの穴から、今度は梯子を登って地上に出られるはずだ。昔の、メンテナンス用の通路だったのだろう。
「武利、やめるか? 今ならぜんぜん遅くない」
 呆気に取られたように穴に見入っていた武利が、激しく頭を振る。
「行くよ。行くに決まってる」
「分かった。じゃあ、ここで着替えていくぞ」
 和樹は、持っていたバッグから二人分の防護服とマスクを取り出した。空調整備局の事務所から、こっそり持ち出してきたものだ。
 武利は、見よう見まねで防護服とマスクを着ける。和樹はそれを直してやり、梯子へ向かった。
 和樹が先に下りていく。メンテナンスされていないが、思っていたよりも梯子はしっかりとしている。和樹が合図をすると、武利がゆっくりと梯子に張り付いた。
「武利。下は見るなよ。手元と足元だけ見るんだ」
 和樹は仕事柄、長い梯子を使った移動に慣れている。落下防止用の安全帯も装着し、武利にもその使い方を教えてあるが、初めてなので手元はおぼつかないし、一つの動作に時間がかかる。和樹はせかすことなく、数段降りては、武利の様子を見守った。
 やがて、横穴が見えてきた。穴の側面に、長方形の口がぽっかりと空いている。小さいながら足場が突き出て、柵もあった。
「――やっと着いた」
 横穴に入ってすぐ、武利は腰が抜けたようにへたり込んだ。穴の中は狭い通路で、背負っていた箱が背後の壁にぶつかる。武利は悲鳴を上げて、箱を背負い直した。
「まだまだ先は長いぞ。今度は地上まで30mは登るんだから」
「……そんなに?」
「引き返すなら、今来た10mを戻ればいいだけだ。どうする?」
「行く。行くよ。ここまで来たからには、なんとしてでも行くよ」
 先ほどより声は小さくなっているが、武利の気持ちに変わりはないようだった。
 横穴の通路内の照明はすべて死んでいた。ヘッドライトを点けると、縦穴に沿うように湾曲した通路が浮かび上がる。ようやく人がすれ違えそうなくらいの幅だった。
 数m進むと突き当たりで、上に延びる梯子があった。通路よりも細い穴が、図面通りであれば、地上まで続いているはずだ。
 縦穴から吹き上げる風は横穴に入り、煙突のようなこの穴の中を駆け上っていく。マスクを着けているおかげで、穴の頂上でかいだようなにおいはなかった。
「武利。この先、絶対にマスクを取るな。それから、俺が危険だと判断したらすぐに戻る。いいな?」
「分かってる。和樹の言うことを聞くよ」
 うなずく武利の肩を叩き、和樹は梯子に足をかけた。

    ●

 梯子の出口は、錆び付いた金属製のふただった。何十年も前に使われなくなったものなので、開くかどうか不安だった。だが、内側のフックを外して腕に力を入れて押すと、金属が擦れ合う甲高く耳障りな音に続き、隙間ができた。煙突のような通路を上ってきた空気が、一足先に外へ出て行く。
 和樹は一気にふたを開け、地上へ出る。後から登ってきた武利が外へ出るのを手伝い、ふたを閉めた。
 下の排気口へ来た時点で、夜の十一時だった。和樹の防護服は仕事用のものなので、業務で使う極薄型端末が、手首など数カ所に設置されている。
 そのうち、手首付近にある端末の表面をなでた。起動した画面が光を放つ。時刻は十二時を回っていた。
 昼間でも薄暗い地上は、今は真っ暗だ。塵で覆われる前の地上でも、この時間は真っ暗だっただろう。ただ、星や月は見えていたはずだ。
 天体望遠鏡で観測すべきものは、今やどこにも見えなかった。ヘッドライトと端末の光は、周囲を照らすにも十分ではない。弱々しい光は闇に飲み込まれ、二人を包むそれは果てしなく深かった。
 世界中を覆う塵さえなければ、この闇は観測にうってつけだったろう。
 ほとんど真っ暗で見るべきものなどないが、梯子登りで体力を消耗したらしい武利は、地上に出るなり四つん這いになって肩で息をしていた。しかし、やがて顔を上げ、ため息とも感嘆とも付かない声を漏らした。立ち上がり、空を見上げる。
「地上って寒いんだな」
 武利が腕をさすりながら、和樹を振り返る。地下都市は空調管理が徹底しているので、地上の季節変化の影響を多少は受けるが、基本的には過ごしやすい温度になっている。
「今は一月半ばだからな。真冬なんだよ。おまけに夜だから、昼間よりももっと寒い」
 整備士は地上に出る機会が多いので、地上の季節変化を肌で感じている。地下都市での服装は年間を通して大して変わらないが、防護服は季節に合わせたものを着ている。今は冬用のものだが、それでも真夜中の地上は寒かった。
 こんな寒さを体験したことがないであろう武利は、寒い寒いと繰り返しながらも、初めて地上に出られて興奮しているようだった。
「……明日、学校があるんだろ。戻るのにも時間がかかる」
 空と地面の境がどこなのかも分からない暗闇の世界にいると、和樹と武利の二人だけしかいないような錯覚に陥る。いや、真夜中の地上にいる酔狂な人間など、和樹と武利くらいかもしれない。
「そうだね。早くしないと」
 防護服を着るときは手間取っていた武利だが、天体望遠鏡で観測できる体勢を整えるのは手慣れた様子だった。家でも、何度もやっていたのだろう。
 地面は平面なところがどこにもなく、三脚を立てるのに多少苦労しているようだったが、それぞれの足の高さを調整して、満足いくセッティングができたらしい。
 真っ白なボディの天体望遠鏡を、真っ暗な空に向ける。
 灯りがあると観測の邪魔になると言われ、和樹はヘッドライトの光量を絞った。
 完全に消すと闇に飲み込まれてしまう。地上には危険な生き物が潜んでいて、最低限の照明は確保しなければならないので、それは武利にも了承してもらった。
「あ、マスクが邪魔でうまくのぞき込めない!」
 防毒マスクは顔全体を覆う全面型だ。マスクの半分以上は強化プラスチックになっていて視界は確保されているが、小さなところをのぞき込むのには不向きである。
 天体望遠鏡の大砲のような胴体には、スコープのようなものが付いている。武利はそこをのぞき込もうとしているが、マスクがあるせいで顔を十分に近付けられなかった。
「マスクは絶対に取るなよ」
 地上の大気には人体に有害な物質が含まれている。それを直接吸ったらすぐに死ぬわけではないが、吸わないに越したことはない。
「もちろん、分かってる……しかしこれは、マスクがあるせいで感覚が違うな……」
 武利はぶつぶつ言いながらも、スコープにマスクを押しつけ、望遠鏡の下部に付いているねじを回している。
「うん、まあ、これでいいかな」
 何も見えていないはずだが、武利は一度顔を上げた。それから、先ほど回していたねじのそばに上向きに付いている小さな筒をのぞき込む。筒とマスクのプラスチックがぶつかり合う音がした。
「今の季節なら、南の空に大犬座が見えるはずなんだ」
 のぞき込んだまま、武利は続ける。
「大犬座の中でいちばん明るい星がシリウスで、シリウスは太陽以外でいちばん明るく見える星なんだって」
 天体望遠鏡が向いている先に、和樹は目を向ける。空は墨で塗り潰したよりも真っ黒だった。
 しばらくして、武利が顔を上げた。
「……何か見えたか?」
「ううん、何も」
 和樹の方に顔を向け、歯を見せて笑う。武利の表情は満足そうだった。
「和樹も見てみる?」
「ああ」
 武利の前をして、小さな筒をのぞき込む。思った通り、何も見えなかった。
「ずーっと昔は、シリウスだけじゃなくて、月も火星も土星も、見えてたんだよなあ」
 武利がしみじみと言う。見えていたのは、もう三百年以上前のことだ。
「和樹、知ってるか? 土星には輪があるんだぞ」
「知ってるよ、それくらい」
 地球は塵で覆われて、人類は地下に潜り、天文学は衰退した。
 それでも、先人たちが残した記録や知識は現在に引き継がれている。太陽があって水星があって、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星があるのを、和樹も知っている。それから、冥王星、ケレス、エリス、ハウメア、マケマケ――塵の向こうには、宇宙が広がり、数え切れないほどの星がある。想像しただけで、その果てしない世界に圧倒されそうだった。
「――いつか、この目で見られたらいいな」
 真っ暗な空を見上げる武利の目には、どこまでも広がる宇宙が映っているのだろうか。マスクの強化プラスチックと、眼鏡のレンズがあるせいで、はっきりとは分からなかった。
 そんな日が来るさ、と和樹は口にしなかった。言ったところで気休めにもならない。
 塵がすべてなくなるまで、あとどれくらいの時間がかかるのか、誰も正確には分からない。少なくとも、和樹たちが生きている間に、空が晴れることはないのだ。
「……武利、そろそろ帰ろうか」
「うん」
 準備したときと同様、武利はてきぱきと片付けた。
「和樹のおかげで、念願の天体観測ができたよ」
 すべてを箱に収めてから、武利が言った。
「ありがとう」
 この世界が晴れることはない。地上に出るまでもなく、それは誰もが知っている。
 だけど、武利の笑顔は晴れ晴れとしていた。見ている和樹の気持ちも晴れるような顔だった。

いつかまた君と、ここで

 見上げれば青い空。視線を下げると水平線が横に長く伸びている。海は空よりも青い。
 さらに視線を下げると、海岸線が見えた。白い砂浜ではなく、洗濯板のような岩が広がっている。
「『鬼の洗濯板』と呼ばれてたらしいよ」
 篤志の目線と同じ高さに展開している仮想ディスプレイに、この場所の説明が表示されていた。
 ここは、かつて九州南東部にあった宮崎県の景勝地の一つだという。
「洗濯板なんて映像資料でしか見たことないけど、確かに似てるね」
 ガードレールにもたれ掛かって、美帆は眼下の光景を眺めていた。
「ねえ。もっと近くで見てみよう」
 美帆は、篤志の返事を待たずにガードレールを乗り越えた。その先は断崖絶壁になっているが、美帆は軽々と地面を蹴って飛び出した。
「美帆!」
 篤志がガードレールに両手をついてのぞき込むと、美帆が軽やかに『鬼の洗濯板』に着地したところだった。
「仮想夢の中なんだから、大丈夫に決まってるじゃない」
 篤志を見上げ、美帆が笑う。
「そうだけど……」
 いきなり飛び降りられるのは心臓に悪い。
 ここは仮想夢の中だ。仮想とついているが、夢と同じようなものなので、現実ではできないようなこともできる。けがをする心配もない。
 篤志は、一定の距離を保ってついてくる仮想ディスプレイを手を振って消すと、美帆と同じように崖の向こうへ飛び出した。

 仮想夢は、地下都市〈高春〉で最近流行っているレジャーである。
 詳しい仕組みを篤志は知らないが、ヘッドギアを装着して、リクライニングシートに座りリラックスをすると、意識は仮想夢の中へ移動していた。いや、移動するのではなく、装着者の意識が仮想夢世界とつながる、という説明をされた気がする。
 ともかく、その仮想夢は精巧に作られていて、現実と錯覚するほどだ。
 篤志と美帆が体験している仮想夢の世界は真夏の設定になっていて、肌を刺すような強烈な日差しと熱気を感じる。
 この圧倒的な現実感と、失われた地上の光景が売りであり、流行の要因なのだろう。
 数百年前に起きた自然災害による環境の激変で、人類は地上に住めなくなってしまった。今は地下都市で生きている。人体に有害な大気が充満しているので、もはや地上に出ることすらかなわない。
 自然災害の影響や地下都市への移住期に起きた混乱で、地上の景観は、人類が地上にいた頃と激変しているという。
 二人が見ているのは、遙か昔、地上に存在していた過去の光景だった。
 地下都市は広いが、地上には到底かなわない。広い空も白い雲も青い海も、疑似的に作られたものは〈高春〉にもあるが、本物には及ばない。
 本物は、もはや映像資料や仮想夢の中にしか存在していないが。
 地上に住めなくなっても、地下で生まれ育って地上に一度も行ったことがなくても、だからこそ、地上へのあこがれを抱く者は一定数存在する。
 篤志と美帆も、失われたものへのあこがれを抱いていた。もう二度と手に入らないゆえに、触れてみたくて仕方がなかった。
 用意されている仮想夢世界には様々な時代や場所があり、さらには現実世界だけではなく、空想世界もあるそうだ。
 まさに、手軽に旅行気分が味わえる。
 手軽とはいっても、高校生がデートで行くには、少々奮発しなければならないが。仮想夢体験は時間制で、二人の小遣いでは一時間がやっとだった。
 篤志と美帆が今いるのは、二十一世紀初頭だ。肌がぴりぴりとする日差しだが、天気は良くて風も穏やかだ。美帆と並んで海を眺めていたときには、海面で飛び跳ねるイルカを見つけて興奮した。
 目の前に広がるのは果てしなく青い海と空で、世界は本当はこれほど広かったのかと、ただただ喫驚した。一時間しかいられないのに、二人してしばらく見とれていた。
「すごい! 本物みたい!」
 美帆が、洗濯板といわれている岩の表面をなでて歓声を上げる。
 崖の上からだと、映像資料にあったような、人が手で扱う大きさに見えた。
 だけど、これは『鬼』の洗濯板だ。近くで見ると、一つ一つの幅は大きい。階段より幅があるだろうか。この岩で洗濯をする鬼は、見上げるほど巨大なのだろう。
 篤志もざらりとした表面をなで、潮だまりで小さなカニを見つけた。それを美帆に教えると、目を輝かせてやって来て、小さい、かわいい、とはしゃいだ。
「波も水も、本物としか思えない!」
 仮想夢体験は、二人とも今日が初めてだ。
 想像していた以上の現実感と、未だかつて見たことがない青空と大海原に、高揚しっぱなしだ。
「本物の海も空も、俺たちは見たことないけどな」
 篤志が少々意地の悪いことを言うと、わかってるよ、と美帆は頬を膨らませた。
 それから、しゃがんで両手で海水をすくう。まさか飲むのかと思ったら、その水を篤志の顔にかけた。
「うえっ、しょっぱい!?」
「でも、本物とそっくりじゃない」
 してやったり、という顔で美帆が笑う。
〈高春〉の人工海水浴場に行ったことはあるが、水は塩辛くなかった。
 それに比べたら、ここは全然本物だ。目にも少し入ったようで、痛い。こんなところまで本物らしいとは。
「ああ、もう我慢できない」
 くるぶしまで海水に浸っていた美帆が、いきなりブラウスを脱ぎ捨てた。
 放り投げられた淡い緑色のシャツが、波間にたゆたう。
 篤志はぎょっとしながらも、美帆をここまで大胆にさせるこの世界の開放感に感謝し、すぐにがっかりした。
 美帆は、ブラウスの下に濃い緑のタンクトップを着ていたのだ。
「冷たい。気持ちいい!」
 白いスカートの裾を大きく翻し、美帆は沖に向かって走っていく。すぐに腰までの深さになって、スカートは海中でふわふわと揺れていた。
 篤志は気をつけろよ、と言いながら、揺れるスカートのあたりに視線が釘付けとなる。
 波と光の反射で、確かな輪郭が見えそうで見えない。お、と期待した瞬間に水面が揺れて、美帆の輪郭は大きく揺らぐ。
「篤志も、海、入ろうよ」
 美帆が大きく腕を振る。タンクトップの脇から、やはり見えそうで見えない。
 美帆の声に誘われたのか、見えそうで見えない状況にしびれを切らしたのか、その両方なのか。
 ともかく、篤志は吸い寄せられるように海に入った。
 ジーンズが海水を吸ってあっという間に重くなり、足にまとわりつく。早くと美帆がせかすが、これは動きづらい。
 どうしてこんなところは本物そっくりにしているんだ、ともどかしくなる。
 崖の上から飛び降りても平気なのに、海の中で服を着たままだと陸上と同じように動けないなんて。設定がおかしくないか。
 しかし、その設定のおかげなのか、スカートは相変わらずゆらゆらと悩ましげに揺れているし、まるで誘うように美帆は腕を振っている。
 これはなんとしてもたどり着かなければ――。

 目の前の光景が、ぶつりと途切れてなくなった。
 うたた寝から目覚める時のように、篤志はびくりと震えた。自動音声案内が、体験時間の終了を知らせている。
 ヘッドギアを外すと、隣にいた美帆と目が合った。
「もっとあっちで遊びたかったね」
 彼女はちゃんとブラウスを着ていて、どこも一滴も濡れていない。篤志も、もちろん同じだ。
 こちらが現実なのに、リアルな夢から覚めたばかりの時のように、現実感が乏しい。日差しの熱も、濡れたジーンズの重さと動きにくさも、まだ鮮明に覚えている。
 けれど、この目で見て、この体で感じたすべては、もうどこにもなかった。
 はじめから現実には存在していなかったのだが、頭と体にはしっかりと刻み込まれていた。
「……また来よう。バイトして、お金貯めてから」
 美帆の手を握り、リクライニングシートから起き上がる。
 見えそうで見えなかったものを、見るためにも。
 ただそれは、現実の方でもいいかもしれない。いや、断然現実の方で見たい。
 けれど、ここではない世界でというのも、悪くない。

糸島くんと山田くんとにぎやかな仲間たち

 壁は淡い緑色で、床は濃い緑。天井は壁と同じ色で、無機質な白いライトが等間隔に緑の廊下を照らしている。廊下の行き止まりは扉になっていて、「関係者以外使用禁止」と赤い文字で書かれている。緑の背景に赤い文字は、目に痛い。この扉を見るたびにいつもそう思う。慣れることはない。やはり毎回そう思いながら、左手の壁にある操作パネルにパスワードを入力する。次いでセンサーをのぞき込んで網膜認証。扉のロックが解除される。
 センサーから顔を離すのと、扉が開くのはほぼ同時だった。
 人ひとりが通れるほどの小さな扉。全開になった細長い穴から、むせかえるような緑のにおいが押し寄せる。扉の向こうは深い森だった。
 かつては地上でよく見られた落葉樹林を再現した一大空間である。広さは約二ヘクタール。約十メートル分の人工土壌が敷き詰められている。この空間に立てば、足下にはある意味で地下があるわけだ。
 地下都市なのに、地下がある。これもまた、ここへ来るたびに思うことだ。
「そんなこと言われ笑う人は、愛想笑いしてくれてるだけだよ」
 口にしたわけでもないのに、こちらの胸の内を読み取ったかのように毎度つっこまれる。
 声は右斜め上から降ってきた。手のひらくらいの大きさの鳥が、しっぽを上下させてこちらを見下ろしている。頭から続く黒い羽毛が、白いお腹を縦に二分割するように延びている。頭は黒いが、頬は白い。見ようによっては白が四分割だろうか。木の枝に留まっているので今は見えないが、背中は緑を帯びた青色だ。
「おはよう、糸島くん」
「おはよう、山田くん」
 糸島は、お腹をそらしてふんぞり返っているようにも見えるその鳥――シジュウカラを見上げて挨拶した。
 本物の鳥が人の言葉を話すわけがない。山田くんは精巧な鳥型ロボットである。
 山田くん、という呼び名は、糸島が勝手に付けたものだ。山田くんは糸島の愛玩ロボットではなく、この落葉樹林をより本物らしく見せ、かつ監視するために、管理会社によって放たれている人工鳥なのだ。つまり、会社の所有物である。ちなみに、この空間にある植物はすべて本物で、本物のシジュウカラをはじめとする鳥が数種類放たれている。
「昨夜は異常は?」
「B3区に営巣しているヤマガラのひなが一羽、巣から転げ落ちてキツネに食われた」
 木の枝から糸島の肩に移動した山田くんは、毛繕いしながら報告した。鳥以外に、本物のキツネやタヌキも、この森に棲んでいる。
「そうなのか」
「許容範囲内の出来事だから異常とは言えないが、糸島くんはあのヤマガラ親子を気にかけていたから教えておこうと思ってね」
「残念だな。もうすぐ巣立ちかと思っていたのに」
「自然界ではよくあることだ。ここは、作られた森だがね。それでも、本物の生命の営みは、地上であった頃のそれと変わりない」
 それより、と山田くんは糸島の首をつついた。
「さっさと君の仕事を始めたまえ。お客さんが入ってくるまで、あと一時間もないんだぞ」
 ここは研究目的の場所ではなく、かつて地上に存在した落葉樹林を限りなく本物そっくりに再現した観光施設だ。山田くんのような人工鳥以外は本物の樹木や動物なのでかなりコストがかかり、そのために入園料は割高だ。それでも、地下都市で暮らす人々にとっては魅力的な空間で、毎日来園者は絶えない。
「わかってるよ、そうつつくな」
 糸島の仕事は、人工鳥たちの管理である。ここにいるのは全部で十羽。すべて違う鳥のロボットだ。糸島はその一羽一羽に勝手に名前を付け、彼らのメンテナンスをしている。山田くんは、監視用人工鳥のリーダーとして設定してあるので、いつもいちばんに糸島の元へやってくる。
「そろそろ『換羽』だ。申請してくれ」
「まだきれいに見えるけど」
 糸島は左腕に山田くんを留まらせ、背中を撫でる。
「君は我々のメンテナンス担当の割に鈍いな」
 鳥なので表情は変わらないはずなのだが、山田くんはまるで呆れたような顔をした。口調のせいでそう見えたのかもしれない。
「わかったよ、新しい羽を発注しておく」
 糸島は携帯端末にメモをした。それから、毎日の点検項目通りに山田くんの状態をチェックしていく。そうしているうちに、次の人工鳥が飛んでくる気配を感じた。
「鈴木さんが来たぞ」
「わかってるよ」
「田中くんが来るまであと七分といったところか」
「山田くん、少しは黙ろう?」
「いつも思うのだが、君はネーミングセンスを少し磨いた方がいい。山田だの鈴木だの田中だの、工夫がない」
「全地下都市の山田さん鈴木さん田中さんたちに失礼なやつだな」
 そんな無駄話をしている間に、田中くんの姿が見えた。いつもより来るのが早い。いや、糸島の仕事が遅れ気味なのだ。今日は日常点検に加えて、月に一度の点検項目もあるせいだ。
 人工鳥たちが一堂に会してせっつき出すと、とてもかまびすしい。そうなる前に次々終わらせたいが、すでに鈴木さんにせかされはじめているので、にぎやかになりつつあった。

あるいはそれよりも鮮やかな/後編

 丹野の真っ赤な防護服に見慣れ、真新しかった堀川の作業着にも、いつの間にか、こすり洗いしても落ちない汚れが着くようになっていた。丹野の防護服のLEDライトが点灯するとろこはお目にかかったことがなかったが、特に気にしなかった。慣れとは恐ろしい。丹野の仕事ぶりが、ほかの班員よりも人一倍丁寧でまじめで熱心だったせいもあるのかもしれない。
 外勤の班にいるとはいえ、定期的なメンテナンス以外で地上に出るのは誰もが避けたい事態だった。そんなとき、都合がつきさえすれば、丹野は率先して地上へ出ていった。急を要することだし、のんびり説明をする暇はないかもしれないとあらかじめ言われていたが、堀川も、やはり極力丹野について地上へ出ていた。少しでもたくさんの経験を積んでおきたかったのだ。
 秋元が、子供を産めなくなるかもしれないから地上に出る時間を短くするのに超したことはない、と堀川にこっそり言ったことがある。堀川は「そうですか」とだけ返した。秋元は異動願いを出している。ほかの班員も、出していない人はいないらしかった。
 吸気口から異音がするようだ、と地下部分のメンテナンスをしている内勤の班から言われ、急遽地上へ出る必要が生じた。日没が近付いていて、ただでさえ暗い地上はいっそう暗い。様子を見に行くと言ったのは、丹野だった。堀川は、ついて行きたいとすぐに申し出た。
 丹野と二人で地上へ出ると、想像以上に暗くなっていた。いよいよ丹野のLEDライトの出番かと思ったが、丹野はそれをつけなかった。
「足下、暗いですね」
「でこぼこしてるから気をつけろよ。それから、周辺にも注意しろ」
「周辺、と言うと?」
 これほど暗くなってから地上に出るのは、今回が初めてだった。しかし、足下が暗い以外、それほど不安はない。
「混乱期の殺戮兵器だ。暗がりから襲ってくることがある」
「……近くにいるんですか」
 混乱期にばらまかされた殺戮兵器は、破壊されたり寿命になったりしてがらくたとなったものも多いが、未だ稼働しているものもある。そのため、地上に出るとき、堀川たちは必ず銃を携行していた。
「分からない。今のレーダーじゃ関知できないものも多いし、人をおびき寄せて襲いかかるものもある。暗さなんて関係ない奴も多い。とにかく、周りをよく見ておけ」
 丹野の口調はいつになく真剣だった。彼以外の班員が地上へ出たがらない理由はこれか、と堀川は察して銃を握る手に力が入る。
 丹野が作業する間、堀川は銃を手に周辺を警戒していた。どんよりとした灰色の雲は、昼間以上に濃い色になり重たそうに見える。吸気口のファンが回る音は、地中から漏れ出るうなり声のようだ。ときおり、丹野の独り言が聞こえる。どうやら、手元が暗くなって見えづらいらしい。
「丹野さん。LEDライトはつけないんですか」
「今はつけるわけにはいかないだろ。懐中電灯でなんとかするさ」
「わたしが持っておきましょうか」
「いや、堀川は警戒を頼む。異変があればすぐに教えてくれ」
 丹野の防護服のLEDライトは、袖口にもついている。それをつければ、懐中電灯を片手に持って作業するよりよほどやりやすそうに思えるのだが、本人がつけないと言うので仕方がない。
 灰色の雲の向こうに隠れていようとも、太陽は太陽だ。まだ十分ほどしか経っていないのに、地上に出てきたときより暗くなっているのが分かる。このままではあっという間に暗くなってしまいそうだ。
 地下都市は、照明の光量を調節して昼と夜を作り出している。夜になれば、灯る明かりの数は少なく、その光は弱い。しかし、人々が行き交う場所が完全な闇に飲み込まれることはなかった。真夜中といえどもどこかにかすかな明かりがある。そんな世界で育った堀川にとって、太陽が沈み、照明もない世界は未知のものだ。闇は深いのだろう。しかし、頭で理解していても、実感としてのそれがどれほどのものかまったく分からなかった。
 丹野の作業はまだ終わりそうにない。辺りは刻々と暗くなっていく。暗がりから殺戮兵器が襲ってくる、という丹野の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
 視界の端で何かが動いた気がして、堀川は銃口をそちらに向けた。
「虫……?」
 大きさは掌くらいで、黒い楕円形だった。八本の足を小刻みに動かして、凹凸のある地面を這い回っている。だが、虫にしては、楕円形に歪みがない。光沢のある表面は、金属を思わせる。なにより、こんな大きな虫が、今の地上で生きていけるものだろうか。
 堀川は引き金を引いた。弾は、虫のすぐそばに地面に当たった。虫は驚いて逃げるどころか、堀川に向かってくる。
「堀川、どうした!?」
「妙な虫がいます。おそらく兵器です」
 二発目も外れた。素早く動く虫をしとめるのは、銃の使い方を教わったばかりの堀川では無理だ。しかしこれくらいの大きさならば、撃つよりも叩き潰す方が早い。
 向かってくる虫を蹴り飛ばした。思いの外あっけなく、それは飛んでいく。
「堀川?」
「ほかに怪しい動きをするものはありません。丹野さんは作業を続けて――」
 蹴り飛ばした虫は、すぐに堀川の視界の中に戻ってきた。地面のくぼみから姿を現したと思った瞬間、虫が何かを撃った。
 銃のような派手は発射音はなく、圧縮した空気が抜けるような音だと思った次の瞬間、堀川は右の太股に激痛を感じ、声を上げた。
「堀川!」
 ひざを突く堀川の腕を丹野が掴んだ。おかげで、倒れ込むのは免れる。しかし、激痛はやまない。あふれる血が、まだ新しい白い防護服を赤く染めていく。
 傷口を押さえてうめく間に、銃声が聞こえた。丹野が虫を狙ったのだろう。三発の銃声のあち、小さな爆発音が響く。
「堀川、大丈夫か」
「大丈夫……です……」
 しゃがんだ丹野が、堀川の傷口を見る。
「すぐ戻ろう」
「でも、メンテは」
「治療が先だ。それに、本体が来る前に早くこの場を離れた方がいい」
「本体?」
「さっきの奴は斥候だ。本体はもっとでかい。バグ・アームズは、小型のロボットを斥候として使い、索敵するんだ。俺たちは見つかってしまった」
 入局後の研修では、仕事に必要な様々な知識を叩き込まれた。殺戮兵器に関するものも、その中にあった。バグ・アームズは虫の形を模した兵器の総称だ。その生態までも模しているものもあるという。
 丹野は堀川の右に立ち、肩を貸してくれた。前に進もうとして足に力を入れると、それだけで右足に激痛が走る。左足だけで歩くしかなかった。
「慌てなくていい。落ち着け、堀川」
 撃たれたことで、堀川の防護服には穴が空いてしまった。防護服の下にはいつもの作業着を着ているが、穴からは汚染大気が侵入し、少しずつ肌を浸蝕していく。丹野の言うとおり慌てなくていいが、すぐに戻らなければならなかった。
 だが、数歩進んだところで、丹野が舌打ちをした。堀川に肩を貸したまま、片手で銃を構える。二人の行く手を阻むように現れたのは、斥候のバグ・アームズと似た形状の、大人よりも大きなそれだった。
 体は同じ楕円形。しかし、足が数え切れないほど多い。虫が得意といえない堀川は、無数の足が動く様に鳥肌が立った。
 間近で銃声がした。丹野が撃った弾を、巨大な虫の体ははじいてしまった。
「応援を呼べ!」
 丹野は本格的に応戦すべく、堀川から離れた。
 堀川は痛みをこらえ、防護服の左腕に装着されている端末を操作する。〈春時〉の空調整備局に繋がるや、相手の言葉を待たずに現状を伝えた。向こうが何か言ってくるが、銃声と通気口のファンの音にかき消されてうまく聞き取れない。ともかく、異常事態は伝わっただろう。
 端末では音声しか伝えられない。映像も転送できたらいいのに、と顔を上げた堀川は、目を丸くした。
 真っ赤な防護服に身を包む丹野が、光り輝いていた。手元が暗くなってもつけようとしなかったあのLEDライトがすべて点灯している。真っ白で透明な光の帯が、丹野の体の上を走っていた。
 バグ・アームズは、その光に吸い寄せられるように、丹野に向かっている。
 あの色とライトはもしかして――
 閃光と爆音が視界と耳を覆い尽くす。丹野が手榴弾を使ったらしい。銃以外の武器も携行していたとは。
「堀川!」
 丹野の叫ぶ声に顔を上げた堀川は、目を見開いた。すぐ近くに、あの巨大な虫がいた。足のいくつかはちぎれ、体の隙間からコードらしきものが飛び出ている。動きが多少ぎこちなくなっているものの、勢いは衰えなかった。
 銃を構える。胴体を狙ってもはじかれる。狙うならば装甲の隙間だ。踏ん張ろうにも、足に力は入らない。それどころか痛みが増すばかりだ。
 うまく照準が合わせられないまま、迫り来る虫に銃を放つ。足が焼けるように痛い。あのバグ・アームズにひと思いにやられたら、この痛みともおさらばできるだろうか。
 引き金を引く。しかし、何も起こらない。弾切れだ。しまったと思ったときには、虫が足の一本を振り上げていた。近くで見るそれの先端は鋭く、まるで槍のようだ。
 腹に、重い衝撃を感じた。

    ●

 最初に見えたのは、白い天井だった。見覚えがない。ここはどこだろうと頭を左右に振って、点滴や、ベッドの転落防止の柵が見えた。どうも病院らしい。
 瞬きを数度して、堀川は記憶を反芻した。バグ・アームズに襲われて、まずは太股を怪我した。その後、腹をやられたはずだ。堀川は、おそるおそる右手を動かした。
 動く。衝撃を感じた辺りをそっと触れると、ガーゼらしきものがある。
 起きあがろうと思ったが、やめた。少し腹に力を入れると、顔をしかめるくらいの痛みがあった。
 バグ・アームズに襲われた途中で記憶は途切れているが、助かったらしい。堀川はゆっくりと息を吐いた。ただ、それが安堵からのものなのかは、自分でも判然としなかった。
 扉の開く音がしたので、頭を入り口に向ける。
「堀川……目が、覚めたのか」
 てっきり看護師か医師と思ったから、堀川も目をしばたたかせた。丹野は、驚き、それからうれしそうな顔になっていた。
「丹野さん。ここは……それに、あのバグ・アームズは?」
「ああ、起きなくていい。寝てろ」
 ベッドの脇に来た丹野は、見舞い客用のパイプ椅子に腰を下ろした。
 私服の丹野を見るのは初めてだった。作業服は支給のものを着ているが、防護服は目にも鮮やかな赤を着ている男だ。私服は派手なのかもしれないと思っていたが、ベージュのシャツに濃い色のジーンズという、ラフで落ち着いた色合いだった。
「ここは〈春時〉の上層の病院だ。あのバグ・アームズは、俺と、応援に来た連中で破壊した。おまえは、五日、寝たまんまだったよ」
「そうでしたか」
 五日も寝ていたとは、信じられない。堀川にとって、バグ・アームズに襲われたのはついさっきのことのようだった。
「命に別状はないけど、意識が戻らないから心配したよ。よかった、目が覚めて」
 丹野が目を細める。本当に、よかったと思ってくれているようだった。
 堀川は、そんな丹野から目をそらして、天井を見つめた。本当によかったのだろうか、という疑問が湧いてくる。目が覚めないのなら、それでもよかったかもしれないのに。
「……堀川? どこか、痛いところでもあるのか?」
 丹野が首を傾げる。堀川の些細な変化にめざとく気付いたらしい。
「痛むところは特に。ただ、目が覚めてしまったのか、と」
「どういう意味だ」
「……このまま、眠ったままでもよかったかもしれないと、思ったんです。どうせ、わたしを待ってる人なんていないから」
 堀川は、丹野と反対の方向へ顔を向けた。
 最下層で生まれ育った堀川が、上層に来て空調整備局の外勤を希望した理由は、自分でも役に立てると思った、それだけではない。
 堀川にはきょうだいがいない。人付き合いが苦手で、友達といえる人もいなかった。それでも最下層にいたのは、清浄な空気があるからではなく、両親がいたからだ。
 堀川の両親は、元々は上層で暮らしていた。子供ができたのをきっかけに、空気がきれいな環境で生きてほしいと、最下層へ移住したのである。
 下の層へ移住するのは容易ではない。しかし、両親は苦労をして最下層の居住権を手に入れた。そうして堀川は、両親の希望通りに最下層で生まれ育ったが、本人が最下層育ちでも、両親がそうでないとなると、理不尽な偏見にさらされる。内向的で人付き合いが苦手な性格もあって、堀川は常に一人だった。そばにいるのは、両親だけ。子供の頃は気がつかなかったが、最下層で、両親は堀川以上に苦労しただろう。
 その両親が亡くなってしまったので、堀川が最下層にいる理由もなくなってしまった。両親がいたから堀川は最下層にいたのだ。両親が亡くなった今、いつまでも堀川を受け入れない最下層にいる意味は、何一つなかった。周囲の望み通り、最下層を出て上層へ行ってやろう。そんな気持ちで、空調整備局の門を叩いたのだ。
 唯一、堀川を気にしてくれた両親はもういない。友人はもとよりいない。ならば、いつでもこの世からいなくなってしまってよかった。どうせ、生きている意味も大して見いだせないのだ。
「俺は、待ってたぞ」
 丹野ははっきりと言った。思わず、堀川は彼に顔を向ける。
「堀川の目が覚めるのを待っていた。目が覚めて、もう一度話ができるのを待っていた。おまえが生きていてよかったと、俺は心底思ってる」
「丹野さん……」
「秋元も、心配してたぞ。ほかの連中も。みんな、堀川が戻ってくるのを待ってる」
 それは、気休めだったのかもしれない。いや、多分きっとそうだ。丹野は、一時的ではあるが堀川の上司で、研修中に重傷を負うような目に遭わせてしまった。その負い目があったに違いない。
 それでも、待っていた、というその一言は、堀川に深く突き刺さった。
 丹野は、伸ばした手を握ってくれた。ずいぶんと久しぶりに感じる誰かの体温は、堀川の涙腺をゆるませるのに十分だった。
 それから一ヶ月後、堀川は空調整備局に復帰した。入院していたので研修期間は一ヶ月長くなったが、以前と同じく丹野が指導することになった。
 丹野は相変わらず汚れが染み着いた作業服を着ていて、地上に出るときは真っ赤な防護服だった。LEDライトは点灯させないまま、日没後も作業をしていた。
 私服は、見舞いに来たときのように、地味なものが多かった。シャツが好き、というよりは、ほかの形状のものを選ぶのがどうも面倒らしいかった。しかし、派手な柄ものは好まず、無地か、うっすらと模様が入っているものを着ていた。シャツの色に合わせてズボンを選び、足下はたいていスニーカーだった。歩きやすいからこれが一番いい、というのが丹野の言い分だった。
 何もまとわない丹野は、意外なほどしまった体つきだった。丹野や堀川は技術屋だが、地上に出る以上、先日のように殺戮兵器と戦う場面もある。体を鍛えておくに越したことはない、と丹野はご自慢の筋肉を見せつけ、堀川に得意げに言った。
 待っていない人が誰もいないわけではない。そう思えるようになっていた。

    ●

 研修期間の終わりが近付き、堀川の配属先が正式に決まった。研修先だった丹野の班を外れ、藤原霧子が率いる外勤の班に配属となった。研修先にそのまま配属となる場合もあるというが、堀川と丹野の関係を考慮して、違う班に配属したのだろう。
 不満はなかった。プライベートは同じ時間を共有できるのだ。仕事の時ぐらい、別々の時間を過ごしてもいいだろう。
「初めまして。藤原霧子だ」
「堀川芽衣です。よろしくお願いします」
 新たな上司となる藤原は、丹野と同時期に入局したと聞いていた。少々厳しいところもあるが、仕事ぶりはまじめで熱心だと丹野から聞いていた。
 配属初日、藤原があれこれと説明をしてくれた。丹野の班とは、多少やり方が違うところもある。メモを取る堀川に、藤原が不意に言った。
「堀川は、丹野と付き合ってるんだってね」
「……ええ、まあ」
 隠しているわけではないが、大ぴらにしているわけでもなかった。社内恋愛が禁止されているわけでもないが、二人は自分たちの間柄について公言を避けていた。気恥ずかしかったせいもあるし、プライベートのことなのであえて公言することもないと思っていたのだ。
「わたしは丹野と同期で、あいつが何人かの女と付き合って別れるところを見てきたよ」
「……」
 丹野は三十三歳。それなりの遍歴があるだろうということは、堀川も承知していた。嫉妬が全くないわけではないが、丹野の年齢を考えれば仕方がない。
「丹野についていけないと言って、女の方から離れていったんだ」
「……ついていけない、というのは」
「あいつが地上に出るとき、どんな格好をしているか、堀川は知ってるだろう。丹野は、考えなしにあんな格好をしてるわけじゃない」
 語る藤原の口調は、堀川を諭すでもなく、責めるでもなく、淡々としていた。
「入局一年目に、同期二人が外勤中の敵襲で死んだ。それから五年の間に、さらに二人。わたしと丹野以外の同期は、今ではみんな内勤だ。丹野は、内勤にしてくれと言う親の頼みさえ振り切って、あんな格好で仕事をしてる。殺戮兵器が、自分を一番に標的と認識すればいい、と思って」
 灰色の地上で、丹野の真っ赤な防護服は遠くからでも目立つ。LEDライトを点灯すればなおさらだ。
「丹野にそんな危ないことはやめてくれと言って、でも聞き入れられずに、あいつと付き合ってた女は離れていったんだ」
「……わたしは、違います。赤い防護服を着ているのが、丹野さんです。そうではない彼を、わたしは知りません」
 これまで丹野と付き合った女は、きっと地上がどんな世界が、本当の意味ではわかっていなかったのだ。同期を失い、ほとんどの者がそこから去ってもなお、丹野が真っ赤な防護服を着て地上にとどまった心境を、堀川は理解できていると思った。そうすることで役に立てるのなら、やってやろうと思い、丹野は赤い防護服を着て地上へ赴いているのだ。
「――それなら、堀川がしっかりとつなぎ止めておきなよ」
 まるで懇願するような藤原の表情に、意表を突かれる。てっきり反対されているのだと思っていた。
「わかりました」
 堀川は頷いた。自分は、今までの女とはちがう。丹野をつなぎ止めておくことができる。根拠のない、自信があった。

    ●

 藤原の部下になっても、丹野との付き合いは変わらなかった。同じ外勤の班だが、担当している通気口が違うので、仕事終わりや休日は同じだった。役職のない堀川と違い、班を率いる丹野の方が断然忙しい。しかし、それは些細なことだった。仕事以外で共有する時間はますます増えていて、藤原の心配は杞憂だと思っていた。
 思っていたのだ。丹野は相変わらず真っ赤な防護服を着て地上へ出ていたけれど。
「丹野の班が襲撃を受けた」
 地上での仕事を終えて後片付けをしていた堀川の元に、藤原が息を切らして駆けてきた。
「……でも、丹野さんなら、大丈夫でしょう」
 バグ・アームズに襲われたときも、丹野は堀川を地下都市へ連れ帰った。今回だってきっと、同じ結末になる。
「丹野は、自分を囮にして敵を引きつけて、その間に仲間を逃がしたそうだ。無事に逃げられた仲間はみんな戻ってきたけど、丹野はまだ戻っていない。通信で呼びかけても、返答はない」
 堀川は、一度脱いだ防護服を着込み、マスクを手に取った。
「堀川。何をするつもりだ」
「助けに行きます。丹野さんは一人で戦ってるんですよね」
「上司として、それは許可できない。襲ってきたのは、不定形で様々な者に擬態できる分子機械の兵器だ。あいつは、殺戮兵器の中でもやっかいなものの一つだ。入局して一年もたたないひよっこの手に負える奴じゃない」
「丹野さんを見捨てるんですか」
「見捨てる訳ないだろう。装備や人員を整えてから、地上に向かう。ただし、堀川はその中にはいれられない」
「どうしてですか」
「まだひよっこだからだ。防護服を脱いで、事務所に戻れ。これは命令だ」
 有無をいわさぬ強い口調だった。堀川は渋々マスクを置き、防護服を脱いだ。

 藤原をはじめとする応援部隊が地上へ赴いたが、丹野も、襲撃してきた殺戮兵器も、見つからなかった。戦いながらどこかへ移動したのか、わずかな残骸が見つかっただけだった。殺戮兵器の破片と、丹野の赤い防護服の切れ端と、彼が装着していたマスク――。
 一ヶ月後、丹野新は殉職したとして事務処理が進められた。彼が使っていたデスクやロッカーは片づけられ、元から誰もいなかったかのように何もなくなった。
 葬儀も終わり、丹野が率いていた班は秋元が新たな班長となっていた。彼がいなくなっても、堀川たちは今まで通りの仕事を続けていた。こういうことは、空調整備局では珍しくないのだ。この先、堀川も何度も経験するのだろう。
 だけど、そんな経験の数は、少ない方がいいに決まっている。
「堀川、それ――」
 防護服を着た堀川を見て藤原が絶句したのは、丹野の葬儀から一週間後のことだった。入局して一年に満たない堀川の防護服は、藤原たちに比べればまだまだ白く、新しかった。新調する必要など、本来であれば、ない。
「思ったよりも鮮やかな色になったけど――似合いますか?」
 丹野が着ていたような、あるいはそれよりも鮮やかな赤い防護服を着て、堀川は藤原に笑いかけた。
「堀川……」
 丹野の元を去っていった女たちと自分は違う。堀川は、どこまでも彼について行く。真紅の防護服は、その証だ。
 藤原は、赤い防護服をとがめなかった。
 フードをかぶり、マスクを装着する。銃と弾を確認し、予備の吸収缶や弾薬の数も確かめる。メンテナンスに必要な工具類もしっかり持っている。
 LEDライトを張り付けるのは、間に合わなかった。だけど近い内に、それもつけるつもりだ。なんなら、丹野以上に派手にしてやろう。
「行きましょう、藤原さん」
 灰色の世界に、堀川は乗り込んだ。

あるいはそれよりも鮮やかな/前編

灰色の雲が空を覆い尽くし、昼間だというのに太陽がどこにあるのか分からない。もっとも、太陽を直に拝んだことのある人類は、もうこの世のどこにもいない。
 灰色の雲と厚い塵の層の向こうにあるおぼろげな姿を見られたら、運がいい。
 だけど、そんな幸運に預かろうとする者など滅多にいない。陽光の恵みが乏しくなったために薄ら寒く、人体に悪影響を及ぼす様々な微粒子を多分に含む大気に満ちた地上を捨てて、人類は地下都市へ潜ってしまっている。死の気配が漂う地上へ、見えるかどうかも分からない、見えたとしてもぼやけている太陽を求めて、わざわざ出ていくのはよほど酔狂な者だけだ。
 そんな者は、ここには一人もいない。しかし、違う意味で酔狂な者が、一人だけいた。
 灰色の雲、同じ色調で淀んだ大気、もう何の役にも立たない薄汚れたがれきの山――。濃さの違う灰色がほとんどのこの地上で、彼だけは異様なほど目立っていた。
 堀川をはじめ、皆がくたびれた白を基調とする防護服を着込んでいるのに、丹野だけは、目にも鮮やかな赤い防護服を着ていたのだ。
 灰色の世界で、その赤は鮮烈だった。そして、よく見れば、体のラインに沿うように、LEDライトが張り巡らされている。今は明かりがついていないが、暗くなったら光るのだろうか。全部点灯したら、かなり明るそうだ。いったい、何のために。
「堀川は、地上に出るのは今日が初めてだったな」
 防毒マスクだけは、皆と同じ色合いだった。LEDライトもついていない。もっとも、マスクに色を付けたり、ライトを張り付けたりする部分などほとんどない。
「見事に灰色の世界で、驚いただろう」
 顔の全面を覆うマスクだが、強化プラスチック製の風防は大きく、視界は良好。表情もよく見える。丹野は、目を丸くする堀川を見て笑っていた。ただ、彼女が驚いたのは、地上の光景を目の当たりにしたからではない。上司の、その防護服の色のせいだ。
「ようこそ、地上へ」
 しかし、配属されたばかりの新入りが何に驚いているのか誤解したまま、丹野はニヤリと笑った。

    ●

 今から百五十二年前、ユーラシア大陸に巨大な隕石が落下した。その衝撃で被った被害は、地上だけに留まらなかった。衝突により巻き上げられた大量の塵が、地球を覆い尽くしたのである。
 その上、隕石衝突の衝撃により、世界中のあちこちで、まるで誘い合わせたよう火山活動が活発化した。吹き出す大量の火山性ガスは、地球の大気組成をほんの少しだけ変えた。その少しの変化は、人体に悪い影響を及ぼすには十分なものだった。
 大量の粉塵と変成した大気は、すぐに死に直結するものではなかったが、長く呼吸していれば喉や肺を病み、目や鼻の粘膜に修復困難な損傷を与えた。
 不織布のマスクやメガネだけで対処しきれるものではなく、空気清浄機では太刀打ちできなかった。巻き上げられた塵で太陽光は遮られ、世界中が寒冷化。塵がすべて地上に落ちるには、数百年、下手をすれば千年以上の時間が必要とされた。
 地上で、隕石落下の前のように生きていくのは困難。そう判断した人類は、地下に潜ることを決めた。
 だが、地下都市の建設とて、簡単なものではない。建設に適した場所は限られ、その土地を巡り、世界中で争いが起きた。海に囲まれたこの国とて、その例外ではなかった。国内のみならず、国境を越えて、文字通りに争奪戦が起きた。
 世界中で様々な兵器が開発され、次々と投入された。ほとんどが自動制御のそれらは、巨大なものから分子サイズのものまで、形も大きさも多種多様。分子サイズの兵器は、ただでさえ汚染されていた大気の汚染度をより深刻なものとした。地下都市の必要性はますます高まり、争いは激化した。
 争奪戦に巻き込まれず、いち早く建設が進んだ地下都市も、移住が始まると、騒動と無関係ではいられなくなった。安全な場所を求め、人々が殺到したのである。
 今でこそ、百万人規模の人口を抱える巨大な地下都市は世界中のあちこちにあるが、建設直後はまだ規模が小さく、収容できる人数に限りがあった。
 建設場所を巡って争いが起き、地下都市ができあがれば、移住を希望する人々の間で争いが起きた。隕石衝突と、その後の地球規模での火山活動でも相当な混乱だったはずだが、地下都市を巡る様々な争奪戦も、全人類を巻き込んで大きな争乱となった。
 今では、それらの時代を混乱期と呼んでいる。
 人類が地下へ潜った現在は混乱期を脱出したと言われているが、そんなものは、地下の深いところで安穏と暮らしている人々ののんきな言葉だ、と堀川芽衣は考えていた。地上と地下の境界線で働いていれば、今でも混乱期は終わっていないと肌で感じる。
 混乱期にばらまかれた大量の兵器は、今も機能している。プログラムされた通り、標的である人間を探し続けている。地上に出ればそれと遭遇する危険性が、今でも十分にあった。

「初めまして。今日から半年、君の研修を担当する丹野新(たんの・あらた)だ。よろしくな」
「堀川芽衣(ほりかわ・めい)です。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
 空調整備局の小会議室で、堀川は丹野と初めて顔を合わせた。
 入局したばかりの堀川は、真新しい作業服。研修期間中の上司となる丹野の作業服は、袖口がすり切れていて、薄い青色の生地は、数え切れないほど洗濯を繰り返したせいで色褪せていた。よく見れば、あちこちに、洗っても落ちなかったらしい汚れが染み着いていた。
 地下都市は、絶えず外気を取り込み、また、排出している。そのための通気口は、当然ながら地上にあった。空調整備局は、その通気口の維持管理をするための組織だ。
 汚染されている外気をそのまま都市内に循環させるわけにはいかないので、取り込んだ外気は数種類のフィルターを通過させる。そちらのメンテナンスも、整備局の仕事である。
 空調整備局では、地上に出る機会の多い通気稿の維持管理の仕事を外勤、フィルターの交換や都市内の循環装置のメンテナンスを担当する仕事を内勤、と呼んでいた。地上は今も危険な兵器があふれていて、内勤を希望する者の方が多い。
「堀川は、外勤希望なんだってな」
「はい。面接の時にそう言ったら、試験官の方々に驚かれました」
「俺も驚かれて、こっちが驚いたよ。整備局の仕事なのにさ」
 丹野が笑い、つられて堀川も表情を緩めた。
 研修先を言い渡されたとき、丹野について少しだけ教えられていた。
 ふつうは、外勤の過酷さから数年で異動願いを出すというのに、丹野は一度も異動願いを出していないそうだ。入局前から外勤一筋の変わり者、らしい。
 ならば堀川も、丹野に続く変わり者になるのだろう。面接の時からの希望は変わらず、今後も変わる予定はなかった。
 丹野は、堀川をのぞく四名の部下を率いている外勤組の班長だった。年齢は三十三歳。部下は彼より年下ばかりで、二十歳になったばかりの堀川とは比較的年齢が近かった。もっと平均年齢の高い班もあるそうだが、歳が近い方がいいと配慮してくれたのかもしれない。しかし、人付き合いが苦手な堀川にとって、同僚の年齢が近かろうが離れていようが、同じだった。
 初日から、堀川は丹野について回ることになった。例年、班で引き受けた新人の教育は丹野が担当していて、ほかのメンバーは、丹野の手が空かないときなどにサポートするのだそうだ。
 丹野の説明は丁寧で、わかりやすかった。堀川が理解するまで、呆れるでもなく怒るでもなく、説明をしてくれた。
「堀川は、最下層出身だってな。それがどうして、空調整備局の外勤で働きたいってなったんだ?」
 説明を聞くばかりで疲れただろう、と休憩室で二人でお茶を飲んでいたとき、丹野に訊かれた。
 彼について三日目。丹野やほかの班員と仕事の合間に少しは雑談をしていたし、丹野は上司だ。堀川の履歴書は見ているのかもしれない。
〈春時(はるとき)〉は上層、中層、下層、最下層の四層構造になっている地下都市だ。下の層にいくほど、通過するフィルダーの数が増えるので、清浄な空気がある。空気の清浄度の影響は、各層の住人の平均寿命に如実に現れていて、上層へいくほど短かった。それ故、下から上の層へ移住する者は少なく、珍しい。
 丹野も中層出身だというが、空調整備局がある上層のすぐ下だ。近いから、大差はないのかもしれない。だが、堀川のように一番深いところから一番浅いところへ移住してくる者は、空調整備局内でも数少ないのだろう。
「……わたしでも役に立てる仕事だと思ったからですよ」
 機械をいじるのが子供の頃から好きだったというわけではない。むしろ、ほとんどやったことがない。それでも、地上へ出て通気口のメンテナンスをする方が、最下層で働くよりもいいと思ったのだ。それに、最下層で生きていく理由が、堀川にはなかった。
「――そうか。ここはいつでも人手不足だから、助かるよ」
 丹野は、深く追求してこなかった。同じ質問をしてきたほかの班員は、そんなことはないだろうとか、最下層の方が安全な仕事も多いんじゃないかと言ってきたので、丹野の対応はありがたかった。
「地下で説明を聞くばかりなのも飽きてきただろう。午後から地上へ出るぞ」
「いよいよですか」
「ああ。でも、俺は午後一で会議があるから、準備については秋元に聞いてくれ。秋元と堀川と俺の三人で、第二排気口のメンテナンスに行く」
 秋元は、班の中で唯一の女性メンバーだった。丹野の次いで、何かと堀川の面倒を見てくれている。
 昼休みあけ、秋元について地上へ出る準備を始めた。
 汚染大気は、肺だけでなく肌や粘膜も浸蝕する。そのため、マスクと肌をすべて覆い尽くす防護服が必要だった。
 作業服は上下に分かれているが、防護服はつなぎだった。フードもついていて、着込むと顔と手足の先しか露出しない。フードをかぶり髪の毛を中に押し込め、ファスナーをしっかりしめて鏡を見る。顔だけ丸く露出していて、マスクをしていないと間が抜けた感じがする。あまり人に見られたくない姿だ、と思った。
「あと、これが堀川さんのマスク。サイズは大丈夫?」
 同じように防護服を着ている秋元が、真新しいマスクを差し出した。全面型で、風防の強化プラスチックには傷一つなく、ぴかぴかだ。使い方は丹野に教わっていたが、実際に装着するのはこれが初めてだった。
 マスクには大気中の汚染物質を濾過・吸着するための吸収缶と呼ばれる缶詰のようなものを二個、左右に取り付けるようになっている。吸収缶は使い捨てで、吸着能力がなくなる頃合いで新しいものに交換する。
 堀川は教えられたとおりにマスクを装着して、顔との密着具合を確かめる。
「大丈夫です」
「じゃあ、地上に出ましょう。丹野さんは先に行ってるってよ」
 会議が終わるや、早々に準備を整えていち早く地上へ行ったらしい。
「地上には一人で出るな、と丹野さんに言われていたんですけど」
「基本的に、二人一組で行動なんだけどね。丹野さんは、先に一人で出たがるのよ」
 マスクをつけた秋元は笑っていたが、あきらめているような口調だった。
「それより、驚くわよ」
「地上にですか? それなら、資料映像で何度も見たことが――」
「地上の光景より、驚くものがあるわよ」
 それがなんなのか、秋元は教えてくれなかった。地上へ出れば、すぐに分かるのだろう。それに、あまり興味がわかなかった。何か驚くものがあろうと、堀川の仕事に変わりはないのだ。
 秋元について地上へ出た堀川は、しかし、目を丸くした。
 丹野は落ちない汚れのついた作業着を着ているものの、その下に派手な色のシャツを着ているわけでもなく、髪を染めているわけでもない。説明は丁寧で、言動に派手なところがあるわけでもない。
 それなのに、地上にいた丹野は、真っ赤な防護服を着ていたのだ。

 驚いただろうと丹野は言うが、あなたのその格好に驚いているのだ、と堀川は言えるわけもなかった。驚く堀川を見て秋元は苦笑しているが、それだけだ。どうしてそんな真っ赤な防護服を着ているのか、尋ねていいのかも分からない。それに、予備の吸収缶を持ってきているとはいえ、地上の滞在時間は短くとどめるに越したことはない。早速始めようと丹野は言うし、結局何も訊けないまま一通りの説明を聞いて、地下に戻ることとなった。

「丹野さんの防護服は、どうして赤いんですか」
 堀川が、丹野に防護服のことを訊けたのは、彼と数回地上へ出たあとだった。丹野に指導されながらだが、堀川は自分の手でメンテナンスするようになっていた。
「この色だと目立つだろう」
「……かなり目立ちますね。LEDライトもついているし」
「さては、堀川は俺のこの格好をバカにしてるな? このライトをつけると、もっと目立つんだ」
 地下にいるときの丹野は、全く目立つ格好をしていない。どうして、見る者などほとんどいない地上で真っ赤な防護服で目立ちたいのか、堀川には皆目見当がつかなかった。
「天気が悪くて暗い日とか、手元が明るくなって意外と便利なんだぞ」
「……それなら、ヘッドライトをつければよくないですか」
 LEDライトは、下半身にもついている。丹野の言い分だと、下半身についている必要性はない。地上であっても丹野の説明は丁寧で、地下と変わりない。どうして服装に限って、不可解で納得しがたい説明しかしないのか、むしろ不思議だった。
「マスクがあるから、これ以上頭に何かつけたくない。邪魔になるし」
 しかし、深く追求するほど気になるわけでもない。結局、堀川は「はあ、そうなんですか」と言って終わりにした。