23.温かい飲み物

 個人端末とにらめっこし続けるのに疲れ、堀川は椅子に座ったまま、大きく伸びをした。
 メンテナンス作業に比べると、事務仕事はまだ慣れないし、あまりおもしろくない。灰色一色で、危険も跋扈している地上で仕事をする方がおもしろい、というのもおかしな話ではあるが、堀川には体を動かす方が合っているのだ。
 とはいえ、事務仕事もやらなければならない。空調局は慢性的に人手が足りず、新人にも色々な仕事が割り振られている。上司である藤原や、周囲の先輩たちの指導を受けつつ進めているが、質問をしようと思っても、質問相手が地上へメンテナンスに出かけていたりで、なかなか進まない。
 今日は残業になりそうなので、気合いを入れ直すために、奮発して買った天然物のコーヒーを飲もう。
 堀川はデスクの奥に忍ばせていたワンドリップのコーヒーを取り出すと、給湯室に向かった。

「お、堀川」
 抽出を終えたドリップパックをカップから外したところで現れたのは、丹野だった。
「メンテ、終わったんですか。お疲れさまです。早かったですね」
 彼もメンテナンスで地上に出ていて、今日はもう会えないと思っていた。思わぬところで顔が見られて、ほっとする。
「雨が降り出したから、大急ぎで終わらせたんだよ。夏の終わりとはいえ、雨まで降ると地上(うえ)は寒いな――だが、ちょうど温かそうなものが目の前にある」
 丹野の視線が、堀川の持つカップに注がれる。淹れたてのコーヒーからは、ほんのり湯気が立ち上っていた。
「ずいぶん香りがいいな。もしかして、人工じゃなくて本物?」
「そうですよ……なんですか、その物欲しそうな目は」
「雨に濡れてすっかり体が冷えてしまった元・上司――いや、恋人に、温かい飲み物をあげたいな~とか思わないか?」
「公私の区別ははっきりしましょう、といつも言ってますよね。それに、いい歳した元・上司が、新人にたかるのってどうかと思います」
 丹野の目の前で、堀川はコーヒーの入ったカップに口を付ける。ちょっと熱いが、いい香りだ。丹野が恨めしそうな顔で堀川を見つめ、しゅんとする。
「時々きつい物言いするよね、堀川……」
「丹野さん、防護服に電熱線も付けたらいいんじゃないんですか? あのライト、発光してもほとんど発熱しないんだし」
「そして、俺をバカにしているな?」
「元・上司を心配して提案してるだけですよ?」
「心配してるなら」
 丹野の手が、カップを持つ堀川の手を掴む。
「これ、ちょっとだけでも飲ませてくれよ――芽衣」
「なっ――」
 いきなり下の名前で呼ばれ、動揺する。職場では今まで一度も、下の名前で呼んだことなんてなかったのに。いつも堀川だったのに。というか、職場でなくとも、堀川と呼ばれることの方が多かったのに。
 動揺した隙に、丹野にカップを奪われてしまった。
「あ!」
「おー、熱い。温まるなあ」
 丹野は一口だけ飲むと、すぐにカップを堀川に返した。
「ありがと、ごちそうさん」
「……なんか、ずるい」
 堀川はほんのり顔が熱くなっているというのに、丹野は涼しい顔だ。ちょっと意地悪したのを、すっかり仕返しされてしまった。
「やっぱり天然物はうまいな。どこで買ったんだ? 今度連れて行ってくれよ」
「飲んだ分、買って返してくれるなら……」
「もちろん」
 丹野は笑いながら、カップにお湯を注ぐ。白湯でいいのだろうか。そう言えば、丹野の手は少し冷たかった。その手を暖めるように、丹野はお湯を注いだカップを掌で包むように持つ。
 堀川は、空いている手で丹野の手の甲に触れた。やはり冷たい。雨に降られて冷えたのだ。これから、地上はどんどん寒くなる。
「……温かいものも、食べたいですね」
「俺は今日はもう終わりだから、作っとくよ。何がいい?」
「――ビーフカレー」
「へ?」
 答えたのは堀川ではない。驚いて声のした方を見やると、給湯室の入り口に、藤原が立っていた。
「ふ、藤原さん。いつから、そこに」
「さっきから。わたしも温かいものを飲みたいんだけど、そろそろいいかな」
 入り口側に丹野が立っていたとはいえ、給湯室は狭い。人が来れば気が付きそうなものなのに、丹野と話していて気付かなかった。いったいどこから会話を聞かれていたのか。少なくとも、最後の方は聞かれていた。
 先ほどの比ではないほど、顔が一気に熱くなる。丹野との関係は藤原も知っているとはいえ、恥ずかしい。
「どうぞ、使ってください! わたしは仕事に戻るので」
 顔から火が出るとはこのことだ。堀川は丹野を押し退け、顔を伏せたまま、逃げるように給湯室を出て行った。
 デスクに戻ってから少し冷めたカップに口を付けたが、全部飲み干しても、まだ火照りは収まらなかった。

〈了〉

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