21.ボジョレ・ヌーボー

 脚の長いグラスに、深い赤色の、それでいて透明感のある液体が注がれる。並んでいる同じグラスにも、その液体は注がれた。並々ではなく、半分よりも少ない。
 赤い液体が入っていた樹脂製ボトルに栓をしてテーブルに置くと、彼は腕時計型の端末を見た。
 しばらくじっと見つめた後、口を開く。
「今、地球時間で十一月二十一日(2303年11月21日)になった」
 それを合図に、グラスに手を伸ばした。掲げたグラスを下から見上げたり、真横から見たりして、色を確認する。それから、グラスを顔に近付ける。まだ飲まない。軽く回して、香りを確かめる。
 そうしてようやく、赤い液体――ワインに口を付ける。一口目は、ほとんど舐めるように。舌に広がる味わいと、鼻に抜ける香りをじっくりと味わう。
「……去年よりは、まあまあいいかな」
 そう言って、二口目を口に含む。やはり、去年よりはましだ。
「今年は自信作だったんだけど、まあまあか」
 時刻を告げてから、自分もグラスに手を伸ばしたものの全く口を付けていなかった彼が、肩を落とす。
「去年よりいいし、一昨年よりももっといい。毎年良くなってるよ」
 グラスを傾け、香りと味を楽しみながら三口目を流し込んだ。
 彼が最初に作ったものを飲んだ時は、最初の一杯だけで後はもう飲みたいと思えなかった。それに比べると、すごい進歩だ。
「人口栽培設備も改良しているけど、やっぱり土かなあ。水耕栽培じゃ、とうてい本物のボジョレーに届かない気がする」
 自分の作ったワインを一口飲んでから、彼は溜息を吐く。自信作と言っていたのに、飲んだ後の表情が浮かないのは、彼女の評価のせいだろう。
「火星の土で試してみたら?」
「零細酒造メーカーに、火星の土壌利用の許可なんて下りないよ。試しているメーカーはもうあるし」
「……ここは火星なんだから、ボジョレーにこだわらなくていいじゃない」
 地球の、フランスはボジョレー地区で生産されたワインだけを、ボジョレーワインと呼んでいた。その年のブドウの出来映えを確かめるための新酒のワインが、ボジョレー・ヌーボーだ。ボジョレー・ヌーボーは十一月の第三木曜日が解禁日で、かつてはワイン業者向けだったのだが、いつしかイベントとして一般消費者向けに販売されるようになったという。
 今の地球でも、同じようにワインが作られて解禁日に皆で飲んでいるのかは、分からない。
「地球は塵に覆われて、ブドウの栽培なんて、多分無理だ。人類がどれだけ生き残っているかさえ分からないから、せめて火星(ここ)で、かつての地球にあったものを、わずかでもいいから再現したいんだよ」
 赤い液体をじっと見つめる彼の目には、液面に写る自分が見えているのだろう。彼女ではなく、自分自身に言っているような口調だった。
 彼女は溜息を吐いて、残っていたワインを飲み干した。
 彼も彼女も、火星生まれの第四世代、と言われる世代である。両親どころか、祖父母でさえ地球を知らない。曾祖父やそれ以前にしても、出身は月面都市だったりする。この体に流れる血は、もう何世代も前から、地球を知らないのだ。
 彼女は、地球への思い入れはない。地球が身近に見えない火星では、思い入れの持ちようもない。だが、彼は違う。昔から、地球に関する様々なものに心躍らされていたのを、知っている。
「……きっと、来年はもっといいワインが作れるよ」
 ボジョレーワインを再現したいなどという彼に付き合えるのは、自分くらいのものだろう。
 地球に思いを馳せる彼を、ずっと見つめ続けていた。おいしいワインができるまで付き合うのなんて、わけないことだ。

〈了〉

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