10.私は信号

 なんとかベッドから出ることなくアラームを止めようと手を伸ばすが、届かない。止めるのを諦めようにも、無理矢理叩き起こされた頭に甲高い音はつらい。結果、這うようにベッドを出て、そのまま目覚まし時計をわし掴みする。
 ようやく静寂を取り戻したので、ベッドに帰りたいところだが、そうもいかない。そのための目覚まし時計だ。
 のろのろと立ち上がってカーテンを開ける。室内が多少明るくなるが、外は今日もどんより曇っている。真四角に切られたはめ殺しの窓から見えるのは灰色の空と、それに少し青を足した海だった。何とも色彩に乏しい風景は、生まれた頃と変わりがない。

「おはよう、朔。今日はいい天気だね」
 いつも早起きの父が、すでに台所に立って朝食を作っていた。ダイニングキッチンにも窓があって、カーテンは全開だ。その窓もはめ殺しで、そこから見える風景は、朔の部屋と同じである。
「おはよ。今日も曇りだよ」
「雨が降ってないならいい天気だ。もうすぐご飯ができるよ。顔洗っておいで」
「……母さんは?」
「夜中に呼び出しがあって、そのまま。今日は帰って来られないかもって。寂しいなあ」
 しゅんとした横顔に背を向け、洗面所に向かう。
 思いっきり顔を洗いたかったが、全開にしても出てくる水はちょろちょろだ。両手にためた水をなるべく無駄にしないようにして、寝起きの顔を洗う。
 こんなとこ、出て行きたい。

 百数十年前、地球に小惑星が衝突した。あらゆる面で今よりよっぽどいい時代だったのに、衝突する前にその小惑星をどうにかできなかったのかと時々腹が立つけれど、ぶつかってしまったものは仕方がない。
 ともかく、小惑星が衝突したせいで地球は塵に覆い尽くされ、その後に起きた地球規模の活発すぎる火山活動でのおかげで火山性ガスがまき散らされ、塵と化学反応して、地上の大気は人間にとって有害なものとなってしまった。
 塵に覆われて地表に届く太陽光は大幅に減って寒冷化するし、そもそも特殊なマスクがないと肺とかやられちゃって死んでしまうから、人類は地下に都市を建設して、そこへ移住することにした。地下都市内は浄化した空気で満ち満ちていて、気温湿度はばっちり調整されているので年がら年中快適。下に横に拡張し続けていて、小惑星衝突前とほとんど変わらない暮らしが、そこにはあるという。
「別世界の話じゃん、もはや」
〈ホール〉の窓は、朔が知る中で一番大きい。ただし、もちろんはめ殺しだ。迂闊に窓を開けて有害な外気が流入しないよう、この船の窓はほとんどがはめ殺しになっている。
 朔が見ている風景は、地上――太平洋上の光景だった。地下都市なんて、生まれてこの方見たことがない。というか、この船から降りたことすらない。朔はこの船の中で生まれ、この船の中で育った。地面を見たことはない。父によると「世界でも数少ない地上生まれの子」だそうだ。地上ではなく、海上だけど。
「よう、朔。やっぱりここにいたな」
 聞き慣れた声が飛んでくる。窓辺に置いているリクライニングの椅子にだらりと座っていた朔は、のっそりと起き上がった。
〈ホール〉は朔の部屋を何十倍も広い。元々は大勢が入る食堂だったそうだ。今は食堂としては使われず、運動をしたり大勢で集まってお祭りをしたりする場所になっていて、〈ホール〉と呼ばれている。
「……なんだ、ナダ兄か」
「なんだとはなんだ。朔が頼んだものをちゃーんと買って、お土産まで持ってきた皆田お兄さまに、もっと笑顔を振りまいたらどうだ?」
 右手には紙の手提げ袋、左手には色とりどりの花束を持っている。花束はともかく――いや、花も本当は嬉しいけど、それよりも頼んだものが、ようやく届いたのだ。朔は椅子を飛び降り、皆田に駆け寄った。
「そんなに慌てなくても、逃げたりしないぞ」
「早く見たいの!」
 紙袋に手を伸ばすが、皆田はさっと持ち上げてしまった。朔は身長が150cmにぎりぎり届かないが、皆田は180cmを軽く越えている。
「ナダ兄!」
「お礼は?」
「いつも買ってきてくれてありがと!」
「よろしい」
 大仰に言って、皆田が腕をおろす。朔は紙袋をひったくるように受け取った。袋は大きいが、中に入っているのは小さな箱が三つシンプルな色合いとデザインだが、中身はそれぞれ鮮やかだ。これがあれば、様々な色を生み出せる。
「ウルトラマリン、クリムソンレーキ、カドミウムイエロー……うん、間違いない。ありがとう、ナダ兄」
 箱の中に入っていたのは油絵の具だ。メーカーはバラバラだけど、チューブに入っているのは同じ。今持っている分は残りが心許なかったから、助かる。
「青、赤、黄色。信号みたいだな。それで今度は何を描くんだ?」
「んー、色々。その花でもいいよ」
「よし。じゃあ、俺もモデルになってやるよ」
 花束を胸に抱き、皆田が明後日の方向を見上げる。
「……わたし、人物は描かないよ」
「たまには描いてみたらおもしろいかもしれないだろ? ほら、さっさとデッサン? しろよ。三分くらいなら保つ」
「短っ」
 広々とした〈ホール〉に、朔と皆田の笑い声が響く。
「皆田君、やっぱりここにいた」
 先ほど皆田が現れた扉から、今度は呆れた声が飛んでくる。
「母さん」
「やあ、すみれさん。おはようございます」
「小村さんが探してたよ。仕事が終わってないのにナダの奴消えやがったってね」
「やだな。これも仕事の一つですよー」
 朔の絵の具と皆田の花束に注がれているすみれの視線は、やや批判めいていた。
 皆田はいつでもおどけた調子で朔の前に現れるので忘れがちだが、彼は遊びでこの船を訪れているわけではない。補給船の乗組員である皆田は、この船に必要不可欠な物資を届けるのが仕事であり、朔のお使いはほんのおまけだ。
 この船は、元々は海洋観測のために建造された船だが、今は当初の役目を果たすことはなく、海底に根を生やしたようにほとんど動かない。海に浮かんでいるだけだ。けれどそれが、この船の役割だった。
 地球が塵に覆われてしまったせいで人工衛星との通信が絶たれ、GPSが使えなくなった。太陽も月も星もまったく見えなくなって、外洋を航行するのは小惑星衝突以前よりかなり困難になった。
 地形や地上、海上の目標物を頼りに航行するしかない。朔や両親が乗るこの船は、海上の目標物の一つ――灯台船だ。海洋観測船を改造して、船から生えるように灯台が突き出ている。灯台が動いては目標物の意味がないので、この船は、六年に一度の定期検査の時以外、いつでもここにいる。
「『ここの仕事』は終わったみたいだから、早く持ち場に戻る。すぐに陸に戻って持って来てもらいたいものがたくさんあるんだから」
「何か足りないものでもありました?」
「灯台のランプの調子が昨夜から悪いの。ランプ自体もだけど、配線とか基盤とか、交換しないと。あれじゃ定期検査まで保たない」
「在庫、もうないんですか」
「元からあってないようなもんじゃない。必要な物はもう小村さんに伝えてるから、早く」
「やれやれ。補給船員はどこに行ってもゆっくりできないねえ」
 すみれに再三せかされて、皆田はぼやきながら〈ホール〉を出ていった。
「……母さん。定期検査の時、わたしも陸に行けないかな」
 定期検査は二ヶ月後。朔が生まれてから三回目である。
 灯台船は海上の重要な目標物だ。定期検査の時は代船が来るので、朔達は一時的にその船に移って、灯台船の帰りを待たなければならない。
「無理よ。定期検査している間は船にいられないし、代船で灯台守をしないといけない。それに、わたしたちは海上(ここ)が住所と定められているし、陸に下りても行くところなんてないよ。知ってるでしょ」
 すみれは肩をすくめる。
 母に訊くまでもなく、朔も知っていた。人は、生まれた場所で生きていかねばならない。この世界で人が生きていける場所は限られているから、特別な許可がなければ違う場所に移り住むことはできない。だから、灯台船で生まれた朔はこの船の上で生き、いずれは両親や他の大人たちと同じように、この船で働くのだ。
「――どうして、母さん達は陸を、地下都市を出てこんな船に乗ったの」
 朔は船を下りられない。陸地を踏みしめることはない。両親の生まれ故郷である地下都市を見ることも、きっとない。
「地下都市でなら、もっと自由に生きられるのに」
 ほしい絵の具もいつでも買いに行けただろう。
「……そうでもないよ。それに、地下都市に海はない」
 すみれの目は、広間の大きな窓の、その外に向いていた。灰色の空と、それより少しだけ青い大海原がどこまでも広がっている。つまらない、見慣れた風景だ。
「……海しかない」
 ふてくされた声に、すみれが笑う。
「地下都市は本当に狭くて、こんなに遠くまで見渡せることなんてないよ、朔」
「でもぉ……」
 祖父母は今も地下都市で健在らしい。祖父母を頼りになんとか地下都市に移住――は無理だろう。両親とは折り合いが悪いのか、どちらの祖父母とも滅多に連絡を取ることはない。朔は、写真でしか祖父母を知らない。他に地下都市へ移住する方法はないものか。
「そんなに地下都市に行ってみたいの?」
 朔は無言で頷く。すると、すみれは軽くため息を吐いた。
「地下都市の人と結婚すれば、移住できないこともないよ。実際そうやって、地下都市に移った人もいなくはないし」
「どうやって地下都市に住んでる人と知り合うの」
 船から下りることすらできないのに。だが、手に持った絵の具のチューブが目に入る。
「……補給船の人……」
 母を見やると、今度は母が無言で頷く。どことなくいたずらっぽい顔をしていた。
「今のところ、朔と一番歳が近いのは皆田君ね」
「えー。ナダ兄、もうおじさんじゃん」
「父さんよりだいぶ若いよ」
「それはそうだけど……ナダ兄と結婚して、地下都市に……?」
 手に持った絵の具をじっと見つめる。まるで現実感がない。
「おじさんとは失礼な。まだ二十一だぞ」
 思いの外間近に――というよりも思いがけない声に、朔は声を上げて驚いた。
「な、ななナダ兄! なんでいるの!?」
「花束を渡すの忘れてたから。ほら」
「あ……ありがと……」
 おじさん、と言ったところから聞いていたはずなのに、皆田は何事もなかったような顔で朔に花束を差し出す。まったくの思い付きで結婚と言ってみただけなのに、朔は顔が赤くなっているのを感じた。
「後でもいいのに。早く仕事しなさいな」
「しおれる前にと思って。今度こそ戻りますよ」
 すみれも皆田も、朔の言ったことなんて聞いていなかったみたいに、先ほどとまったく変わらない様子である。一人で赤くなっている朔が間抜けではないか。
「朔! 朔、いるかー!?」
 皆田が開けっ放しにしたままの扉から、父の大声が聞こえてきた。すぐに、顔を真っ赤にした父が、〈ホール〉に駆け込んできた。
「朔! それにすみれさんも! 二人とも、いいところにいた!」
 父は大声で言いながら、朔達のところまで、重そうな動きで駆け寄ってくる。
「あら、義隆さん。どうしたの?」
「おはようございます、義隆さん」
「おお、皆田君もいたのか。みんな、見てみろ」
 義隆は肩で息をしながら、窓の外を指す。朔達は窓に張り付いて、父の示す先――灰色の海原を見た。
 いつもと変わりない、ゆっくりとうねる海面が広がっている。
 空が塵で覆われた影響は海にも及んでいる。太陽光が減ったせいで植物プランクトンが減った。食物連鎖の根底を成す生物が減ったので、海洋生物全体が激減し、海は死んだように静かになってしまった。海上にいるが、魚を捕るのは禁止されている。
「父さん。別に何も――」
 朔は言い掛けて、たわむ海面に、ぷかりと浮かぶものを見た。
「あれは……イルカ?」
 すみれが窓に額を押し付け、食い入るように海面を見下ろす。朔も母と同じように、窓に張り付いた。
 灯台船の近くの海面に、尾鰭が浮かび、沈む。それは一つや二つではなかった。数頭ほどの群が、船の近くを泳いでいる。
「イルカだよ。イルカがいるんだ。しかも群で!」
 興奮する父の声は、どこか遠い。朔は瞬きも忘れて、泳ぐイルカを見ていた。
 記録映像や図鑑でしか見たことのなかった生き物。海で生きる哺乳類。イルカのような食物連鎖の頂点にいる大型の生き物は、ほとんど絶滅しているだろうと言われていた。海は死んだようなもので、元に戻るのには何百年、いや何千年もかかるだろうと、聞いていた。
「初めて見た……」
 誰に言うともなく呟いた朔の頭を、父が撫でる。
「朔が生まれる前に一度だけ、父さん達は見たことがあるんだ」
「そうなの?」
「ああ。それで、もう一度見てみたいと思って、灯台守になったんだよ」
「それは初耳……」
「海が見えるのも悪くないでしょ、朔」
 窓から顔を離すと、母の笑う顔があった。
「……まあ、悪くはないけど……」
 両親に負けず劣らず、イルカに見入ってしまったのは認める。死んでいると思った海にあんなに大きな生き物を見て、不覚にも感動したのも。
「ま、一度地下都市を見るのも、いい経験かもしれないけどね」
 と言って、なぜか母は皆田を見る。彼は一度きょとんとし、しかしそれからにやりと笑って朔を見る。
「そうだなあ。次の定期検査まで朔の気が変わっていなければ、考えなくもない」
「つ、次って二ヶ月後?」
「それはさすがに早すぎるだろ。六年後だよ。それとも何だ、六年は待ちきれないってか?」
「はあ!? 何言ってんの! ばっかじゃないの、ナダ兄!」
「ちょっと待って、何の話をしてるの、みんな! 朔、父さんは許さないよ!?」
「父さんまで何言ってんの! 何でそうなるの! いいからみんな、早く仕事に戻ってよ!」
 朔が両手に持った絵の具と花束を振り回していたら、船内放送が入り、皆田を探す小村の怒声が〈ホール〉に響き渡った。

〈了〉

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