かげろうが消えた夏 前編

「あの夏に何があったのか、分かった」

 朝、大学へ行く準備をしていた時に立花(たちばな)君から届いた短いメッセージを見て、わたしは思わず声を上げた。
 どうしたの、と怪訝な顔をする両親に、何でもないと応えて、必要な物を急いでバッグに詰めていく。
 同じゼミに所属する立花君とは、同じようなテーマを扱っている。使えそうな研究資料を見つけたら教え合ったり、議論したりするので、共同研究者みたいな間柄だ。
 立花君のメッセージには具体的なことは何も書かれていなかったけれど、彼が何を言わんとしているのか、すぐに分かった。
 それは、わたしがずっと探し求めていたものだ。
 あの夏、いったい何があったのか。
 ようやくその謎が解ける。
 わたしは、期待と少しの不安を抱えて、家を出た。

   ●

 整備されたばかりの道路はきれいだけど、車は滅多に通らない。通行人は、わたし一人だけ。道路の両脇は雑木林で、耳が痛くなるくらいの蝉時雨だ。強い日差しがアスファルトに濃い影を作っているけれど、太陽は頭の真上にあるから、道路のほとんどは日向だった。
「……あっつい」
 うめいてから、気付いた。
 えっと、わたしは何をしているんだっけ? こんな暑い中、どこへ行こうとしていたんだっけ。
 わたしは首をひねった。なんだか、いろいろと思い出せない。深く長く眠っていて、急に目覚めたみたいに、頭がはっきりしない。屋外にいるし、道端で眠るはずもないのに。
 待って、ちょっと落ち着こう。
 ゆっくり息を吸い込んだ。熱い空気が肺を満たす。それをゆるゆると吐き出すと、少しだけ頭が覚めた気がする。
 わたしの名前は、黒木――黒木恵理(くろき えり)。大丈夫、自分の名前はちゃんと分かる。
 九州は宮崎県の山奥にある村で生まれ育った。ここは本当にど田舎だ。緑が濃い山々に囲まれ、道路はそれなりに広いのに、車はおろか人っ子一人、未だに通らない。通りかかるとしたら、車の方がまだ可能性が高いけれど。
 そうだ。また一つ思い出した。この道路を更に山奥へ進むと、ダムがあるのだ。そのダムだか周辺の道路だかの工事をしているから、工事用車両はよく見かける。今はまだ一台も通りかかっていないけれど、そうのうち大きなうなり声を上げて走り抜けていくだろう。
 噴き出した汗が滴になって首を伝う。
 日差しって、こんなに熱いものだっただろうか。肌を無数の小さな針で刺されているようだ。
 こんなに日差しが強いのに、日傘も持っていなかった。変だな。最近日焼けが気になるから、外出する時は日傘をさすようにしていたはずなのに。
 そもそも、こんな暑い中、どこへ行くつもりだったのだろう。
 濃くて短い影がぴったりと付いてくる。尋ねたところで、わたしに付いてくる影が答えを教えてくれるわけがないのに、足下を見ていた。
 気を取り直して顔を上げると、道の先、地面近くの大気が微妙に歪み、揺れていた。ぎょっとして目を擦る。改めて見てみても、揺らいでいる。
 なんだろう、と心臓が大きく脈打つ。あそこに何があるのだろう。
 ところが、大気の揺らぎは近付けばその分だけ遠ざかる。さっきまで歪んで見えた道も、そこにたどり着けば何の変哲もない。
 しかし、道の先では、また空気が揺らいでいる。
「あれはかげろうだよ」
 声変わりするまでまだ何年も待たなければならない、元気な男の子の声がした。
 驚いて、声を上げた。男の子は、さっきまで誰もいなかったはずの、わたしの視線の先にいたのだ。
「えっちゃん、どうしたの」
 男の子は虫取り網を肩に担ぎ、緑色の虫かごをたすき掛けしていた。水色のTシャツと黒色のハーフパンツ、それに野球帽。いかにも、夏休みを満喫中! という出で立ちだ。
 すぐ近くではないけれど、かげろうよりはずっと近い。わたしから五メートルほど先にいる彼は、歩いていた途中で足を止め、振り返ったような体勢だった。
「早く行こう。ショータたちが待ってるよ」
 男の子は、わたしの返事を待たずに行こうとする。しかし、わたしが一歩も動かないのに気付いて、数歩歩いてまた振り返った。
「えっちゃん、行こうって。蝉取り楽しみにしてたじゃん」
 野球帽をかぶっているけれど、彼は顔も腕も足も、見えるところはどこも日によく焼けていた。毎日外で元気に遊んでいるのだろう。
 えっちゃん、というのはきっとわたしのことだ。だけどわたしは、男の子の名前を思い出せない。顔は見たことがあるのに。
「ねえ……君の名前、なんだっけ……」
「えっちゃん?」
 男の子が首を傾げる。それから、声を上げて笑った。
「暑さでおかしくなったのかよ。トモだよ、俺。米良智則(めら とものり)。忘れるなんてひっでえ」
 そう言いながら、彼はなおも笑っていた。つられて、わたしも笑い出す。
 そうだ、そうだった。彼は、幼なじみのトモ。こんな小さな集落だと、同年代の子供たちはみんな幼なじみだけど、トモはその中でも特別だ。家は小さな川を挟んで隣同士、両親共に仲がよくて、わたしとトモは、兄妹みたいに育ったのだ。
 わたしの手に、いつの間にか虫取り網があった。トモと同じように、虫かごもある。わたしがかぶっているのは麦わら帽子。おばあちゃんに買ってもらった、お気に入りのものだ。
「ほら、行こう」
 もう待ちきれないと、トモが走り出す。
「待ってよー!」
 小さな背中を追いかけて、わたしも小さな足を踏み出していた。
 気が付けば蝉取りに行く格好になっていたように、手足が縮んで、トモと同じ年頃になっていた。
 日差しも日焼けも気にならない。脱げそうになる麦わら帽子を片手で押さえながら、トモを追いかけた。
 トモには追いつけたけどかげろうにちっとも追いつけない、とはしゃぎながら、転げるようにトモと走った。
 きれいだった道路はぼろぼろのアスファルトに変わり、その道を外れて道路脇の林に駆け入る。雨よりも激しく蝉の声が降り注ぐ。
 大きな木の根本で、わたしたちと同じように虫取り網を持った子供が三人、喉を反らして身長よりずっと高いところを見ている。
 わたしたちに気付いたルカナがこっちだと手を振ると、蝉が逃げる、とショータが怒った。ケンカしないでよう、とあっくんがおろおろする。
 ほら蝉が逃げた、となおも頬を膨らませるショータに、あっくん以外の全員が、蝉はたくさんいるよ、とそれぞれが見つけた蝉を指さした。
 次は邪魔するなよ、とルカナに念押しして、ショータはすぐに蝉を捕まえた。幼なじみの中で、蝉取りはショータが一番うまい。
 ルカナは目がいいから、高いところにいる蝉も鳥も、すぐに見つける。あっくんは植物の名前をたくさん知っていて、トモは木登りが得意だ。わたしはどれも苦手だけと、みんなと一緒に遊ぶのがとても楽しい。


 ――ああ、わたしは、夢を見ているんだ。楽しかった過去の思い出を、夢に見ているのだ。
 夢の中で、自分が夢を見ていると気付くことが、稀にある。今がまさにそうだった。
 蝉取りをしていたはずなのに、辺りは真っ暗になっていた。
 公民館の駐車場で、みんなで集まって花火をしていた。
 トモはもちろん、ルカナもショータもあっくんもいる。上級生の人たちもいるし、わたしたちより小さな子もいる。二十人くらい。それが、この集落にいるすべての子供たちだ。
 今夜は大人たちが公民館で寄り合いをして、子供たちは持ち寄った花火をして遊ぶ。夏の間、二度くらいそういう日があって、わたしもトモも、子供たちはみんな楽しみにしている行事だった。
 昔、もっとたくさん人がいた頃は、夜祭りをしていたけど、今は人が減ったのでなくなってしまったそうだ。わたしが物心付いた頃には、もうお祭りはしていなかった。
 その代わり、大人たちが集まるのに合わせて、子供たちで花火をする。
 大声で騒いでも、うるさいと怒られる距離に家はないし、公民館の中にいる大人たちは、お酒を飲んで盛り上がっていて、その声が外に聞こえるほどだ。
 持っていた花火が消えると、すぐに次の花火を手にして、ろうそくで火をつける順番待ちをする。
 中学生のレイおねえちゃんが、今年小学校に入学したマナト君が花火に火をつけるのを手伝っている。火がついて、勢いよく光の筋が吹き出すと、マナト君は歓声を上げて、レイおねえちゃんがよかったねと笑顔で言った。
 わたしも小さい頃、年上のおねえちゃんたちに手伝ってもらって花火に火をつけていた。
 自分が大きくなったら、同じように小さな子の手伝いをするつもりだ。
 トモも、ルカナもショータもあっくんも、そうだと思っていた。いや、きっとわたしと同じように考えていた時期はあったはずだ。
 だけど、五年生になる前に、ショータは町に建てた家に家族と引っ越していき、あっくんは中高一貫の学校に進学して集落を出て行った。わたしとトモとルカナは同じ中学校に入学したけど、一年生の夏頃から、ルカナは急にお化粧をするようになって、学校へ来ないことも多くなった。休みの日にルカナの家に行っても、不在がちだった。
 公民館の花火に行くのは、わたしとトモだけになっていた。
 ルカナがどこで何をしているのかは、ルカナの親も把握していなくて、あっくんは帰省しているらしい、という噂を聞くだけだった。ショータが町で何をしているのか、もう誰も知らない。
「仕方ないよ、みんなそれぞれ、事情があるんだし」
「うん。そうだけど……」
 変わらないと思っていたものは、すべて変わってしまうのだ。
 そんなことを思ったのは、いつだっただろう。
 わたしとトモが小学生だった時よりも、子供の数は減っていた。歓声の大きさはかつてほどでなくても、公民館で花火をする時は変わらずにぎやかだ。
 高校生になっても、わたしもトモも公民館の花火に顔を出していた。最近は中学生や小学校の高学年の子がなかなか来ないから親たちに頼まれた、という事情もあるけれど、花火をするのは今でも楽しい。
 でも、それも、今年で最後になるかもしれない。
 わたしもトモも、大学進学を目指して勉強している。こんな山奥から通える大学なんてないので、無事に合格すれば、どこへ進学しようとも集落を離れることになる。わたしは理系、トモは文系で、志望する大学はそれぞれ違う。
 夏休みはあっても、果たして帰省するだろうか。帰省していても、公民館に足を運ぶだろうか。
 あっくんは、帰省していても花火には来なくなった。ルカナは、町の高校に進学したものの一年で中退して、今はフリーターをしている。忙しいのか帰省しない。何年も前に引っ越したショータは、もはやこの集落に現れない。
 すべて変わってしまう。わたしもトモも、来年以降はどうなるか分からない。でも、知らない土地へ行って新しい環境に身を置いたら、きっと変わらずにはいられない。
 わたしは、山に囲まれた狭い夜空を見上げた。街灯も家の明かりも少ないせいで、空には数え切れないほどの星が瞬いている。変わらないのは、この夜空だけ。楽しかった過去の思い出には、もう手が届かない。
「一日も、花火、あるんだってな」
 言葉少ない帰り道、トモが言った。
 九月一日、夏休み最後の土曜日。公民館で、平成最後の花火大会と称して、また集まるのだ。
 もしかしたら、平成最後というだけでなく、この集落でする最後となるかもしれない、花火。
「恵理も、行くだろ?」
 夜空から隣に視線を移すと、トモがわたしを見ていた。
 そういえば、いつから、えっちゃんではなく恵理と呼ばれるようになったんだっけ。学校でそう呼ばれると、付き合っているの? とクラスメイトたちに冷やかされて恥ずかしい。でも、嬉しくもあった。トモが下の名前で呼び捨てにするのは、わたしだけなのだ。
「うん。行くよ」
 何もかもが変わる。手を繋ぐ意味は、子供の頃と今では違っていた。
 九月一日まで、あと十日ほど。
「台風、来ないといいね」
「あと、もう少し涼しくなってると助かる。ちびたちにまとわりつかれると、暑い」
「それは暑さとあまり関係ないよ。それに、一ヶ月後でもこの辺はまだ暑いんだし」
 満天の星を仰ぎながら、他愛もない話をして、家路に着く。平成最後の夏、なんていっても、去年と変わらない。
 でもやっぱり、変わっていくものもある。
 お盆の時、珍しくルカナが帰省していて、年末に子供が生まれると言った。あっくんとも会って、なんと告白された。どうせダメもとだから、とあっくんは笑っていた。東京の大学を目指していて、これからは今まで以上に勉強しないといけない、と言っていた。
 平成最後の夏は、高校最後の夏でもあり、進学を希望するわたしたちにとって大事な時期だった。
 日々はあっという間に過ぎて、今日でもう八月が終わる。


 わたしは、強い日差しの降り注ぐ、舗装されたばかりの道路を歩いていた。八月が終われば、九月が来る。九月一日は、公民館で、平成最後になるであろう花火をする予定だ。
 けれど、わたしはその日、花火をしたのか覚えていなかった。どうしても思い出せない。
 平成最後の夏となった二〇一八年八月。高校生活最後の夏で、いよいよ本腰を入れて受験勉強をしていたあの夏は、とても暑かった。
 わたしが住んでいるところだけでなく、全国的に暑くて、毎日のように猛暑を伝えるニュースをやっていた。
 その暑さは七月からずっと続いていて、八月に入っても相変わらず暑かった。何度か台風が通り過ぎたりかすめたりして、八月の終わりにはまた新しい台風が発生した、なんてニュースも見た。
「最後の花火の日、晴れるかな」
「台風はまだ来そうにないから、大丈夫じゃない?」
 そういう会話を、八月最後の日にトモとしていたのも覚えている。その日もよく晴れていて、とても暑かった。
 そんなによく覚えているのに、どうしてその次の日のことを思い出せないのだろう。


 道路を歩いていたはずなのに、いつの間にか蝉時雨の注ぐ林の中にいた。
「次は邪魔するなよ」
 ショータが口を尖らせ、ルカナは邪魔してないもん、と舌を出す。その間に、ショータはもう蝉を捕まえていた。あっくんが、すごいと声を上げる。
 これは、小学校低学年の頃、夏休みにしょっちゅう繰り広げられていた光景だ。夢の中で、わたしはまた過去に戻ったのだ。
 公民館で花火をしていると、レイおねえちゃんがマナト君の花火に火をつけるのを手伝っている。大人たちの声をかき消すほどの子供たちの歓声。けれどそれは少しずつ小さくなって、公民館に集まるメンバーの中から、ショータがいなくなってあっくんがいなくなってルカナも消えていく。
「一日も、花火、あるんだってな。恵理も、行くだろ?」
 小学生の頃は目線の高さが同じくらいだったのに、今のトモは見上げないと目が合わせられない。
 トモを見つめたまま、わたしは、この場面を見たことがあると思った。既視感よりももっとはっきりとした感覚がある。
「恵理?」
「あ、うん。行くよ」
 そうだった。これは夢だ。わたしは、過去を振り返る夢を見ているんだった。だから、見たことがあると思ったのだ。
 二人で見上げた満天の星も、繋いだ手から伝わる温もりも、何度も体験したことなのだ。
 わたしは、トモと最後の花火に行った記憶がない。それどころか、夏以降の記憶がなかった。
 まったくないのだ、ということに気付いた。
 台風は来たのか。九月になっても暑かったのか。志望大学に合格したのかさえ、覚えていない。
 足下の地面が急に消えてしまったような、不安と恐怖に包まれる。
 待って。落ち着いて。落ち着いて、覚えていることを並べていくのだ。
 わたしの名前は黒木恵理で、山間の小さな集落で育って、幼なじみにはトモがいて、彼だけはずっといつまでもそばにいて――。
「えっちゃん?」
 顔を上げると、道の先にトモがいた。野球帽をかぶって、虫取り網とかごを持っている。
 また、子供の頃の夏に戻ったのだ。でも、何度過去をたどっても、わたしは平成最後の夏から先へ行けない。
「えっちゃん。蝉取り、行こうよ」
 トモのずっと先の道では、空気が揺らいでいた。かげろうだ。それが、だんだんとこちらに迫ってきている。いや、広がっている。
 虫取り網の先端がぐにゃりと歪み、トモの野球帽も同じようにゆらゆらと、水面の下にあるみたいに揺れる。
「えっちゃん」
 その声も、揺れていた。子供の時の声と大きくなってからの声が重なっている。
 わたしは声を出せなかった。トモは今や全身が歪んでしまい、どんな顔なのか分からない。
 いや、わたしはトモの顔を知っているから、思い出せるはずだ。
 思い出せるはず――なのに、もうどんな顔だったのか、思い出せない。
「……くろき……」
「え」
「くろき……」
 どこからか声が聞こえた。トモの声かと思ったけど、違う。そもそも、トモはわたしを黒木と呼ばない。
 大人の、男の人の声だった。聞いたことがあるような気がするけど、思い出せない。でも、トモの声ではない。これは、誰の声だっただろう。
「――くろき……黒木!」
 頭の中に直接響く。わたしはうずくまって頭を押さえた。声のせいだけではない。周りの景色が全部歪んでしまい、見ていると頭が痛くて気持ち悪くなった。
 もうこんな夢から目覚めたい。自分が誰なのかも分からない状態から抜け出したい。
 ――夢から覚めて、すべて思い出せるのだろうか。平成最後の夏から先にどうしても進めない、わたしが。
「黒木、起きろ! 目ぇ覚ませ!」
 頭の中で響く声は大きくなる。聞いたことがある声だと分かるのに、誰の声だったのかまだ思い出せない。
「黒木! 黒木――おい、恵里香! 起きろ!」
 あ、と自分が声を上げたのかは、よく分からなかった

〈後編に続く〉

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