聖女の真実 騎士の約束 前編

 骨が軋み、皮膚がひきつる。針で刺されるような痛みが全身を苛む。血管が蛇のようにのたうち、その中を嵐のように血が巡る。嵐に耐えきれず、何カ所も内側から破れていた。
 飛んできた石の礫が顔に当たった。
 嵐は彼の内側だけにあるのではない。周囲も嵐だった。大きな雨粒が肌を叩き、鼓膜を破らんばかりに風が吹き荒れ、油断すればラオシュの体を地面から引き剥がそうとする。
 また礫が体に当たった。彼が流す血は、内から破れて流れたものの方が多いが、飛来物によるものも少なくなかった。
 ――自分の怪我など大したものではない。背に負う彼女に比べれば。
 ぐったりとして、この嵐の中でも指先さえ動かない。支える腕でかすかにわかる温もりだけが、希望だった。
 痛む体を揺すって彼女を背負い直し、しっかりと前を見据えた。吹き荒れる風と雨の帳の向こうに稜線が見えた。
「イグネス、頑張れ。色んな場所へ案内すると約束しただろう」
 あの山を越えた先は当初の約束には入っていなかったが、彼女が見たことのない地には違いない。
 イグネスの体がそれまで保つか。彼自身が倒れてしまわないか。そんな考えはすぐに嵐に吹き飛ばされる。
 一歩、また一歩。彼は前に進み続けた。

   ●

 北の辺境に化け物が出たという噂が王都に届いたときには、辺境の村がいくつか消えていた。
 国境でもある北の山脈のふもとには、隣国の侵略に備えて、村人の大半が魔術師という村があった。消えたのはその村だった。たった一人しか生き残らなかったため、近くの村に知らせるのが遅れた。生き残りが人々に知らせた頃には、辺境のあちこちで化け物が暴れ回っていた。
 北の辺境最大の街に化け物が現れたとき、都市部で暮らす人々は、それが自分たちの身近で起きている、生命を脅かすほどの危険であるとようやく認識したのだった。
「建国間もない頃に封じた〈魔性のもの〉が復活したのです。冬の終わり、春の始め。ふもとの雪が溶ける頃、北の辺境で異変あり――昨夏、わたしが占術で導き出した通りのことが、起きているのです。〈魔性のもの〉が放つ邪気が化け物を生み出しているのです」
 季節は初夏になりつつあり、騎士団が化け物討伐のために出動した回数は片手では足りないほどになっていた頃、宮廷占術師はいけしゃあしゃあと国王に告げたのである。
 巷にも、前からわかっていたのだとしたり顔で言う占術師はいた。宮廷付きの占術師がそれと同じというのはなんともお粗末だが、王国の体面を守るためには、予見されていたことだと押し通すしかなかったのである。
「かの〈魔性のもの〉を再度封じることができるのは、選ばれし聖女のみ。魔を封じる聖なる力をたたえた娘は、王国の北におりまする。小麦色の髪に、新緑色の瞳をした、齢十八の乙女です。名は――イグネス」
 厳かに告げる占術師の言葉に、家臣たちの間に小さなどよめきが起きる。そんな小娘に化け物を生み出す元凶である〈魔性のもの〉を倒せるのか、と危ぶむ声、本当にそんな娘がいるのか、と訝しむ声が混じっていた。
 王の御前であり重臣たちが集まる広間の隅で、直立不動で表情を変えずに一部始終を聞いていたラオシュは、心の中で唾棄した。
 宮廷占術師はいかにも託宣を得たという体でいるが、とんだ茶番である。聖女だというイグネスは、このときすでに、騎士団が密かに保護して監視下に置いていた。辺境の村唯一の生き残りである彼女を聖女に仕立て上げ、すべての危険と責任を押し付けるために。
 聖女を迎えに行くため、護衛の騎士を数名派遣するよう、国王が命じ、ラオシュもその一人に選ばれる。これもまた、あらかじめ決められたことだった。
 この茶番を知る者は、国王陛下や宮廷占術師など、ごく少数である。どよめいた重臣たちのほとんどには知らされていないが、察している者もいるだろう。
 王国と王への求心力を高めるため、〈魔性のもの〉の復活を利用する。対応が遅れたことへの挽回として、聖女を仕立て上げる。
 このとき、ラオシュは茶番劇の真相はそれだけだと思っていた。イグネスは、たまたま生き残ったから白羽の矢を立てられた気の毒な魔術師だ、と。

   ●

 誰もが憔悴しきっていた。身を寄せ合うように一カ所に集まり、うずくまっている。
 離れたところにある村からはまだ黒い煙が幾筋も立ち上っていた。焦げ臭いにおいが風に流されてくる。うずくまる人々はそれから逃れるように、膝の間にますます顔を埋めた。
「絶対、許さない」
 人々の輪から外れてたたずむ彼女は、目に涙をにじませていた。その視線は、もはや死につつある村に向いている。その最期を見届け、目に焼き付けようとするかのごとく、見据えていた。
「絶対に」
 その言葉が誰に向けられたものなのか。ルネリタの傍らにいたイグネスは、村からも、そして彼女からも視線を逸らした。どちらも直視できなかった。かといって、うずくまる人々の中に混じることはもっとできない。
 絶対に許さない、と繰り返すルネリタの声は徐々に小さくなり、やがて嗚咽に変わった。堪えきれず、ルネリタもとうとう膝を折っていた。滂沱とあふれる涙が冷たい地面に吸い込まれていく。
 立っているのはイグネス一人だけだ。
 自分には、ルネリタのように泣く資格はないし、うずくまる人々のように悲しみと途方に暮れる資格もない。
 家族も故郷もなくしたイグネスに残されたものは、ただ一人の生き残りとして果たすべき役割だけだった。

   ●

「わたしの夫と両親は、化け物に殺された」
 ラオシュを見る青い目は、凍った湖のようだった。その底には、決して消えることのない憎悪の炎があった。
「イグネスが――イグネスの村の魔術師たちが対応を間違わなければ、彼女の村は滅びなかったし、化け物が生まれることもなかったのよ」
 ラオシュにかざした手を、ルネリタは少しだけ持ち上げる。ラオシュのつま先が地面から離れた。彼の喉を掴む見えない手が、ますます強い力で締め付ける。
「だからと言って、イグネスを憎むのは間違っているだろう。君は、イグネスを助けるためについてきたんじゃないのか!」
 息をするのさえ苦しかったが、ラオシュは大声を上げた。ルネリタのまなざしは冷えたままだった。
「何も知らないのね。〈聖女の護衛騎士〉なのに――いえ、知らないからこそ、任命されたのかしら」
 喉が解放され、ラオシュは地面に落とされた。大きく咳き込んでいると、影が差した。ルネリタが彼の目の前にかがんでいた。彼女は、憎悪と怒りと、そして軽蔑が混ざり合った目で彼を見ていた。
「イグネスを、辺境の村でたった一人生き残ってしまった上に聖女に祭り上げられた哀れな娘、と思っているのなら大間違いよ」
「……どういうことだ」
「どうして国境に近いところに〈魔性のもの〉が封印され、その近くに魔術師が多く暮らす村があったと思っているの。イグネスは、不運で気の毒な娘なんかじゃないのよ。彼女の兄が――」
「ルネリタ!」
 騒ぎを聞きつけて駆けつけたのか、息を切らしたイグネスがそこにいた。
「ルネリタ。わたしはちゃんと自分の役目をまっとうするわ。だから、ラオシュに乱暴なことはしないで」
「……余計なことも言わないで、と付け足さないと駄目なんじゃないの?」
 ルネリタが立ち上がる。イグネスは奥歯を噛みしめるような表情になった。
「なんだよ、余計なことって……。君たちは、おれに何を隠しているんだ」
「何も」
 答えたのはイグネスだった。
「ええそうね、何も隠してなんかないわ」
 ルネリタも同意する。だが、イグネスのために口を揃えたわけではないように見えた。
 この状況で、彼女たちの言葉をそのまま受け取れるわけはなかった。だが、二人とも口を閉ざしてしまい、ラオシュに教えてくれる気配はない。
「……ルネリタ、イグネス。おれは〈聖女の護衛騎士〉だ。おれは、おれの役目をまっとうする。何があろうとも」
「頼もしい騎士様ね」
 ルネリタは小馬鹿にしたように笑い、きびすを返した。
「……ありがとう、ラオシュ。でも、無理はしなくていいのよ」
 遠ざかるルネリタの背を一瞥して、イグネスが微笑した。どこか悲しげに見えたのは、ラオシュに隠していることがあるせいなのか。それとも、そんな風に見えたこと自体、彼の自惚れだったのだろうか。

   ●

 〈魔性のもの〉が振りまく邪気を浴びると、どんな生き物であっても化け物になり果ててしまう。かつての面影がないほど体は変化し、ときに巨大化し、他の生き物に襲いかかる。暴れ、食らうという本能だけに突き動かされる。それが満たされることは決してなく、倒されるまで本能に従い暴れ続けるという。
「それでは、おれたちが討伐した化け物は、元は人間だったかもしれないんですか?」
 たき火にあたっているのに、背筋がすっと冷たくなった気がして、ラオシュは小さく身震いした。
「そうとは限らぬ。どんな生き物でも、と言っただろう」
 ファイナーは淡々としていた。五十を越えた人生経験がそうさせるのか、それが彼の元来の性分なのかは、ラオシュにはわかりかねた。
 ラオシュたち騎士団が戦った相手は、家より巨大だった。かろうじて人型だったと言えるが、背中には人の腕より太い触手が何本も生えていて、つるりとした頭には鼻と口以外には何もなかった。あれを見て、およそ元は人間だったと考えた者はいなかった。
「〈魔性のもの〉の放つ邪気は生きとし生けるものすべてに悪い影響を及ぼす。本質も肉体も変化させ、ただ暴れて食らうだけの存在に貶めるのだ。邪気を浴びれば浴びるほど、大きく変化すると考えられている。〈魔性のもの〉のそばに長くとどまっていた犬や猫、あるいはもう少し大きな家畜が変化したものだったかもしれぬ」
「ではなぜ、辺境から離れた街で、あんなに巨大な化け物が現れたのですか。途中にある村が、あれに襲われたという話は聞いていません」
 人間ではなかったかもしれない。そう聞いて、ラオシュは多少顔色を取り戻していた。
「〈魔性のもの〉は辺境の、封印された場所から動いていないはずなんですよね?」
 北の辺境一の都市に、化け物は前触れなく現れたのである。北の辺境とはいっても、国境から五日ほどかかる街だ。暴れて食らうだけが本能の化け物が、途中の町や村を襲わないはずがない。
「邪気を浴びすぎれば悪影響を受ける。だが、おそらく個体差があるのだ」
 ファイナーは宮廷魔術師だ。数多くいる魔術師の中でも、その筆頭と言っていい実力者である。〈聖女の護衛〉であるラオシュたち一行の中で最年長でもあり、彼が実質的な統率者といってよかった。そして、一番の知識人だった。ラオシュは、化け物や〈魔性のもの〉についてほとんど何も知らない。
「辺境の村の住人や家畜のすべてが化け物になったわけではない。現に、イグネスは最も〈魔性のもの〉に近い場所にいて、最も長く邪気を浴び続けているはずだが、あの通り人のままだ。ルネリタも同じだ。彼女らの話によると、隣人や飼っている犬が、突然化け物に変わったという」
 ファイナーの視線が、ラオシュを通り越してその後ろに向けられる。イグネスとルネリタが、外套にくるまり、互いに背を向けて眠っていた。
 イグネスは最初に消えた村の唯一の生き残り。ルネリタは、そこから少し離れた村の住人だった。交流も活発で、いわば姉妹のような村だったという。イグネスの村のように全滅こそしなかったものの、生き残った村人は少なかったと聞いている。
「北の街に現れた化け物は、おそらく邪気に対する感受性が高かったなんらかの生き物だろう。現に、あれから化け物は現れてないだろう?」
「小さいのはいましたけど……」
 ラオシュは今は〈聖女の護衛騎士〉だが、元々は北の辺境最大の街に常駐する騎士団の一員だった。突然現れた化け物の討伐にはとても手を焼き、被害は甚大だった。だが、家よりも大きな化け物はその一体だけで、あとはせいぜいが牛くらいの大きさだった。簡単な相手ではなかったものの、巡回する場所は回数を増やしたおかげで、人里に侵入する前にいずれも退治できた。
「〈魔性のもの〉の近くには今や人はおらぬ。動物も、危険を察知して逃げているだろう。邪気は今も垂れ流しの状態だが、遠くへ行くほどに薄まってはいる」
「しかし、薄くとも生き物が邪気を浴び続けているのに変わりはないわけですね?」
「そうだ。だからこそ、一刻も早く〈魔性のもの〉を封じなければならぬのだ。辺境に近い場所に住む者ほど、邪気を浴びている。いずれ、許容値を超えて一斉に人々が化け物に変わるかも知れぬ。その前に、封じねばならぬのだ」
「一刻を争う事態なら、なぜ、我々四人だけなんですか」
 ラオシュ以外の三人は、いずれも魔術師だ。ファイナーは宮廷付きで、イグネスとルネリタは民間の魔術師だが、二人ともラオシュから見ても相当の実力者とわかる。だが、〈魔性のもの〉を封印するために動いているのは、剣という武器しか持たないラオシュと、魔術師三人だけなのだ。イグネスを〈聖女〉に仕立て上げて責任を押し付けるにしても、数が少なすぎるし、万が一のことが起こりえる危険性が高いのではないか。茶番と知りながらも、ラオシュはそう感じていた。
「邪気に対する感受性は個体差がある。大人数で向かえば、邪気に当てられ途中で化け物になるものもいるかも知れぬ。イグネスとルネリタは、北の辺境で生まれ育ったからおそらく他の者より耐性が高い。ラオシュ、おぬしも、出身は北であろう」
「だから、おれが選ばれたんですか」
 辺境という程ではないが、ラオシュは北部の村で生まれ育った。
「おぬしも承知の通り、〈聖女〉は民意発揚の茶番だ。少数精鋭にしたのは、そのためでもある」
 たった三人のお供だけで悪しき存在を封じた。それを喧伝し、国の対応の遅れを誤魔化すために。
「イグネスは、そのための犠牲なんですか」
「犠牲などではない。おぬしに思うところはいろいろあるだろうが、そう気に病むな。イグネスもルネリタも、承知の上のことだ」
「〈聖女〉という茶番をですか?」
 ファイナーは答えなかった。それを肯定と取るべきか、否定と取るべきか。否定だとすれば、ファイナーは――いや、ファイナーだけではない。イグネスもルネリタも、何かをラオシュに隠しているということになるのではないか。そんな疑念が湧いてくる。
 だが、ラオシュは頭から無理矢理それを追い出した。
 〈聖女様ご一行〉として派手に王都から送り出されてまだ三日。たった三人しかいない仲間に疑心暗鬼を抱いても益はない。ラオシュは、ラオシュの役目を果たすだけだ。〈聖女〉イグネスが、ラオシュの助けなどおよそ必要にないほどの魔術師だとしても。

〈後編に続く〉

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