聖女の真実 騎士の約束 後編

「お願い、イグネス。助けて」
 彼女は泣いてすがったが、イグネスにはどうすることもできなかった。
 この村で生まれた魔術師たちは、幼い頃から自分たちの役割を言い聞かされて育つ。だから、自分にその役割が回ってきたとしても最後には仕方ないと諦め、受け入れるのだ。
「これは大事な役目よ。あなたにしかできない。ずっと続けてきたことを、あなたが断ち切るの?」
「イグネス。あなたは、あの人の妹でしょう。後生だから助けて」
 魔術を封じる檻の中から彼女が手を伸ばしてイグネスの裾を掴んだ。
「……ごめんなさい」
 涙を流して懇願する姿には胸が痛む。けれど同時に、かすかな苛立ちもあった。なぜ今更、まるで何も知らなかったかのように泣きわめくのか。
「助けるのが無理なら、せめて一目、あの人に会わせて」
 妹のあなたにしか頼めない。泣きはらした目に、つい、ほだされてしまった。会わせるだけならいいのではないか、と。

   ●

 破城槌を使って開けたような穴は、化け物がその膂力だけでやったものだ。
 王都やそこに近い都市と比べれば、北の辺境最大の街とはいえ、街を囲む壁や結界は見劣りするだろう。だが、大掛かりな道具と大量の人員を投入しなければ、人間では壁に穴を開けられない。化け物がいかに驚異的な力を持っているのか、ぽっかりと空いた穴を見るだけでも十分だった。
 建物という建物に凶悪な力を無遠慮に叩きつけ、動くものは人でも犬でも片っ端から口の中へ放り込む。まるでこの世で起きている出来事とは思えなかった。
 騎士団が腰を抜かして現実逃避などしていられない。もうすぐ王都から救援の騎士団も駆けつけてくれる。それまでは街に常駐している騎士団だけでこの化け物と戦うのだ。
 建物の倒壊に巻き込まれたラオシュは、瓦礫の中で意識を取り戻した。気を失っていたのは一瞬だったようだ。まだ近くで化け物が暴れている音や、仲間の声が聞こえる。
 運良くテーブルと床の間に挟まったおかげで、ラオシュの体はどこも押し潰されていなかった。
 瓦礫の外に出る。少し離れたところに化け物の背中が見えた。触手が本体とは別の生き物であるかのように気味悪く動き、飛んでくる矢を叩き落としている。
 背中に触手はあるが、目はない。好き勝手に動いてそれがたまたま、矢に当たっているだけに見えた。矢が突き刺さっている触手もある。ただ、大した痛手ではないらしい。
 化け物の腕に比べれば、数は多いが触手は短い。かいくぐって、首の後ろに刃を突き立てることはできるか。
 化け物は暴れながら、少しずつ前進している。ラオシュは一つ隣の通りへ入った。先回りして、建物の上から化け物に躍り掛かるのだ。ちょうど行く手には塔がある。
 内側の螺旋階段を駆け上った。最上階の扉が開いているが、躊躇わずに飛び込む。
「騎士団の方?」
 そこには先客がいた。小麦色の髪に、新緑を思い起こさせる瞳の若い娘が、窓辺に。
「君。そこは危ない。早く避難して!」
 このあたりの住民はとっくに避難させたはずなのに。しかも、窓から化け物の姿が見えた。すぐそこまで来ている。
「わたしは大丈夫。あなたこそ、早くここから逃げて」
 娘は暗い色の外套をまとっていた。まるで魔術師のような出で立ちだ、と思ったとき、塔が激しく揺れた。娘は膝を突いたが、すぐに立ち上がり、窓を開け放った。
「何をするんだ。危ない!」
 化け物のつるりとした頭が見える。娘は呪文を紡ぎ始めた。紡ぎながら、両腕で外套をめくり上げた。その両手には短剣が握られていた。柄を握る手や刃が青白く光っている。小さな文字の集まりだった。それが光を放ち、まとわりついているのだ。
 塔がまた大きく揺れた。その瞬間、娘は窓から身を踊らせる。慌てて追いかけたが、間に合うはずもなかった。
 ラオシュは窓から身を乗り出した。娘が化け物の頭に短剣を突き立て、さらに呪文を唱え続けている。短剣の刺さったところから、幾筋もの光が化け物の体の表面に走る。背中の触手が、娘をはたき落とそうとした。しかしその前に飛び降りる。相変わらず呪文は唱え続けたまま、化け物を見据えている。
 化け物が苦悶するように叫んだ。だが、体中を這う光に縛り付けられたようにその場から動かず、小刻みに震えているだけだった。周囲には仲間の姿が見えたが、誰もが呆気に取られていた。
 やがて、化け物がゆっくりと地面に倒れた。あんなに暴れていたのにぴくりとも動かない。死んだように見えた。だが、誰もすぐには、動けなかった。
 魔術師の娘が塔を見上げる。ラオシュと目が合うと、彼女は小さく笑った。

   ●

 もう夏だというのに、北の稜線は白かった。山から吹き下ろす風が荒涼とした大地を撫でていく。この季節、青々としているはずの木々に一枚の葉もなく、幹や枝は奇妙にねじくれていた。〈魔性のもの〉の邪気の影響で、北の辺境は死の世界に変わり果てていた。
「もう一度、言ってくれ」
 ラオシュの声は怒気をはらんでいた。だが、ファイナーもルネリタも吹き抜ける風より冷たい表情だった。それが苛立ちを煽る。
「イグネスの魔力と肉体を〈魔性のもの〉に同化させ、抑え込むのだ」
「それじゃあイグネスは死ぬも同然じゃないか。他に方法はないのか。あんたたちは魔術師なんだろう!」
「ないわよ。他の方法があれば、とっくにそうしてる」
 ルネリタは冷たく言い放ち、遠くにいるイグネスを見やった。〈魔性のもの〉がいる場所まで、イグネス一人で向かっているのだ。
「〈魔性のもの〉は、元はイグネスの祖先たちが生み出したものなの」
「え」
「建国間もない頃はまだ戦が多くて、魔術師たちは能力を強化した魔術戦士を生み出す研究していた。その果てに生まれたのが、生き物を変質させる邪気を放つ戦士だった。だけどそんなもの、戦に使えるわけがない。魔術師たちはここにそれを封印して、監視していくことになった。イグネスの村は、その魔術師たちの末裔なの」
 だから、イグネスは自分の責任だと言っていたのか。だが、一族すべてで負っていた責任を、生き残ったたった一人が負うのは余りに過酷ではないだろうか。
「おぬしにはイグネス一人に責任を押し付けているように見えるだろうが、これはイグネスが申し出たことだ。〈魔性のもの〉の封印は数十年に一度やり直していた。この冬の終わりに、再び封印が施されることになっていたのだが、本来その役目を引き受けるはずの魔術師が逃げたのだ。恋人の手引きでな」
「その恋人というのがイグネスの兄よ。イグネスは、封印役の魔術師と兄の面会を許したのよ」
 ルネリタが吐き捨てるように言った。彼女がなぜイグネスを憎んでいたのか、ようやくその理由がわかった。イグネスが、一人で責任を負おうとしているわけも。
「――そうだとしても、結局、イグネス一人に押し付けているじゃないか!」
 ラオシュは地を蹴った。山から吹き下ろす風は強く、イグネスの外套の裾が大きく翻っている。空には暗雲が立ちこめていた。嵐が近付いているのかもしれない。
 走り出したラオシュだったが、背中を強い力で押さえ付けられ、地面に引き倒された。ライナーかルネリタの魔術だ。足音が近付いてくる。
「行ってどうするのだ、ラオシュ。ただの騎士のおぬしに何ができる」
「おれは、イグネスを守るための騎士だ」
「おぬしが守らねばならぬほどイグネスは弱くない。おぬしは〈聖女〉の見栄えをいささかよくするための単なる飾りだ。護衛騎士としての役目など求めておらぬ」
 イグネスと初めて会ったとき、彼女は騎士団でも手を焼いていた化け物をたった一人で倒した。ラオシュの手助けなど必要ないし、助けたところで何の力にもなれないだろう。
 だからと言って、何もせずに見ておくことも、ラオシュにはできなかった。
 乾いた冷たい土を掴む。
「おとなしくしておけ。もうすぐ終わる」
 少々呆れた声のファイナーに向かって、ラオシュは掴んだ土を投げた。そのいくらかが、老練な魔術師の目に入ったのだろう。小さなうめき声とともに、背中を押さえ付けていた力が一瞬ゆるむ。
 素早く起き上がると、ラオシュはファイナーの鳩尾に拳を叩き込んだ。ファイナーの腕に自分の腕を絡めて足を払い、王国有数の魔術師の体を地面に叩きつける。
「何をするの!」
 腰の短剣を素早く引き抜き、ルネリタに向かって放った。それと同時に、彼女に向かって駆け出す。短剣は単なる牽制だ。ラオシュはルネリタの首を片腕で抱え、走ってきた勢いに乗せて投げた。背中から叩きつけられたルネリタは、受け身も取れずに息を詰まらせる。
 ラオシュは今度こそイグネスの元に急いだ。遠目に、イグネスの体が少し変形しているように見える。腕が異様に長くなり、地面に伏している何かに絡み付いている。あの調子で〈魔性のもの〉と同化してしまうのか。
「イグネス!」
 彼女の顔がこちらを向く。ラオシュは全力で駆けた。

   ●

 王城の一角にある小部屋の窓辺に彼女は立っていた。初めて会ったときを思い出す。
「おれを覚えているかい」
「塔にいた騎士の方ですよね」
「ラオシュだ。君の護衛騎士に任命された。これから、よろしく」
 ゆっくりと歩み寄りイグネスの隣に立った。
「……〈聖女〉なんてものに付き合わせることになってしまって、ごめんなさい」
「気にしなくていいよ。こちらこそ、こんな茶番に付き合わせて悪いね」
 イグネスは窓の外へ視線を向けた。不本意なことに巻き込まれてしまったと憤慨しているのだろうか。冷や冷やしながらも、他に何を言えばいいのかわからず、ラオシュも城下町を見やる。
「……王都ってとても大きいんですね。ずっと辺境の村にいたから、びっくりしました」
 イグネスはラオシュを見上げていた。
「たくさんの人が暮らしているんですよね。ここだけじゃなくて、色んな街に。――その人たちを守るためなら、〈聖女〉を演じるくらいなんてことないです」
「今すぐは無理だけど、〈魔性のもの〉を封印したら、城下を案内するよ。君が望むなら、他の街も」
「本当ですか? 楽しみです」
 イグネスが唇の端に小さな笑みを乗せた。
 化け物を一人で倒すような魔術師だから、街の散策に興味を持つか少し不安だったが、どうやらふつうの娘と変わらないところもあるようだ。
 ラオシュも彼女に笑みを返す。まずはどこから案内しようか、そう考えながら。

〈了〉

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