あちらこちらから視線を感じるが、室内にエリステイア以外の人はいない。
エリステイアが訪れるまでは室内は無人であった。
空気はよどむことも揺らぐこともなく、冷え冷えとしている。
その冷たさは霊廟か神殿を思い起こさせた。
あるいは、墓所なのかもしれない。
エリステイアは自分を見つめる視線の主の一人を見た。
壁に掲げられているのは、肖像画。ほぼ等身大の、上半身の姿が描かれている。
室内の壁には、ずらりと肖像画が掲げられているのだ。
肖像画の中の人物は、いずれも絵を見る者を射抜くような眼差しを向けている。
兜鎧を身に付けた肖像画の中の人々は、今にも額から出てきて動き出しそうなほど生き生きと描かれていた。
ここに飾られているのは、《南の獅子》とも呼ばれるフィドゥルム王国が誇る騎士団の、歴代の団長たちの肖像画である。
フィドゥルムには四つの騎士団があるため、肖像画の数は多い。
ここに飾られる肖像画は、歴代の中でも特に優秀であった団長のものばかりだ。
飾りきれないそのほかの団長の肖像画は、専用の倉庫で丁重に保管されている。
王宮の一角にあるここは、《騎士の間》と呼ばれる。
歴代の名のある騎士と並んで己の肖像画が掲げられるのは、フィドゥルムの騎士にとって最高の名誉の一つであろう。
ここに、エリステイアの肖像画も飾られる資格を持つことになる。
けれど、エリステイアはその栄えある名誉を素直に喜ぶことができなかった。
むしろ、エリステイアの心は猜疑が多くを占めている。
自分などが、彼らと肩を並べてここに肖像画を掲げる資格があるのか。
その資格を得ることが、果たして正当であるのか。
認められたのは己の実力ではなく、この身に流れる血なのではないか――。
エリステイアは己の中に湧いた疑問に、苦しめられていた。
かつて、フィドゥルムの騎士団は男子にしかその門戸を開けてはいなかった。
ところが今からおよそ百年前、一人の女性が騎士に叙任された。
フィドゥルムははるか昔から、北に位置する小国デイルダと小競り合いを続けている。
初の女性騎士である彼女は、北の国境線を守る役目を負った騎士団《緋の夏陽(ひのかよう)》の一騎士として、北の最前線で戦ってめざましい功績を打ち立てた。
男性騎士に引けを取らない剣技で戦場を駆け抜ける彼女を、人々はやがて《戦女神》と呼ぶようになる。
彼女が参戦した戦に負けはなく、《戦女神》の名声はますます高まり、やがて戦陣に彼女の姿があるだけで騎士たちの士気は否応なく盛り上がり、獅子の領域へ踏み込もうとするデイルダを撃破した。
彼女のその功績を讃えて、フィドゥルムは《戦女神》を一つの称号として認め、更に騎士団の門戸を正式に女子にも開いた。
それから百年。
初代を含めて三人の《戦女神》が、戦場を駆け抜けた。
女性に門戸が開かれたとはいっても、騎士の務めは生半可なものではない。
騎士の叙任を受けることはできても、男に負けぬ戦績をあげることは更に難しい。
百年でたった三人しか《戦女神》がいなかったことが、その証であった。
三代目の《戦女神》が引退して、二十数年。
デイルダとの小競り合いは未だ終結する気配はなく、むしろ泥沼の様相を呈してきている。
長年にわたる戦で、前線に立つ騎士や兵士の士気は下降気味である。
近年は、デイルダに押されることもしばしばであった。
国境線を守るために、騎士たちの士気を高める存在が必要だった。
そこに現れたのが、他ならぬエリステイアであった。
エリステイア・シャスレス・シュナウツ。
曾祖母の名は、コントラルト・ヘイリー・シュナウツ。初代の《戦女神》、その人である。
長らく不在であった《戦女神》の席を埋める騎士が、初代の曾孫。
初代の再来と、人々は言う。
エリステイアの実力が称号に見合わぬとしても、初代の直系であれば多少実力の見劣りがあったとしても目をつむる、という判断があったのかもしれない。
そんな気がしてならないのだ。
エリステイアの実力を正当に評価した結果授けられるのではなく、この身に流れる血を評価した結果、四代目の《戦女神》に任じられるのではないかと。
エリステイアは顔を上げた。
正面にある肖像画の中の人物と目が合う。
そこに描かれているのは、エリステイアの曾祖母。
初代《戦女神》の、コントラルト・ヘイリー・シュナウツであった。
自宅に飾られているコントラルトよりずっと若い。
二十代後半のコントラルトの姿が、そこにはある。
結い上げられた髪の色は黄金色。
エリステイアをまっすぐに見つめる眼差しは深い青色。
フィドゥルムではどこでも見られる髪と眼の色である。
ほかの団長たちの肖像画を描いた画家もそうであるが、コントラルトを描いた画家も、正直者だったのだろう。
少しも美化されていないコントラルトの姿が、描かれている。
自宅に飾られている、もう少し年老いた曾祖母が描かれた肖像画を思い出す。
女神と冠されるからにはきっと美人であったに違いないと思い込み、コントラルトの肖像画と相対した人々は一様に拍子抜けした顔を見せる。
コントラルトは、決して見目麗しい人ではなかった。
むしろ地味であるといってもいい造作である。
しかし、意志の強そうな凛とした眼差しがとても印象的な人であった。
《騎士の間》の曾祖母も、同じように凛とした眼差しをしていた。
間違いなくその血を受け継いでいる自分は、果たして眼差しまで同じものを受け継いでいるのだろうか。そして実力は――。
「ここにいたのか」
聞き覚えのある声が、部屋の入り口から届いた。
振り返ると、一人の若い騎士がエリステイアの方へやって来るところだった。
「捜したぞ、エリステイア」
現れたのはクラフト・ヒム・シクロフォン。
エリステイアの一つ年上の幼馴染みで、騎士としては先輩にあたる青年である。
「授与式を前に、曾祖父母どのにご挨拶か?」
クラフトはエリステイアの隣までやって来ると、その前の壁に飾られている肖像画を見やった。
《緋の夏陽》第十二代団長でもあった曾祖母の肖像画と並ぶように、もう一枚肖像画が掲げられている。
《蒼の冬月(あおのとうげつ)》第十四代団長である、オイセルスト・ルフティヒ・シュナウツ。
オイセルストはエリステイアの曾祖父であり、コントラルトと並んで《フィドゥルムの双璧》と謳われた騎士である。
そう。
エリステイアに流れるのは、初代《戦女神》の血だけではない。
《フィドゥルムの双璧》と謳われた、二人の騎士の血が流れている。
二十数年ぶりに現れた《戦女神》として、北の騎士たちの士気を高めるのに、エリステイアほど打って付けの騎士はほかにいないだろう。
だからこそ、エリステイアは《戦女神》の称号を賜る、十日後の授与式を固辞したかった。
曾祖母が、エリステイアと同じ歳の頃に打ち立てたような戦績がエリステイアにはなく、曾祖父と並び《双璧》と謳われるほどの実力もない。
「……わたしは《戦女神》には相応しくないよ、クラフト」
授与式の話を総団長から聞かされたのは、二十日前。
友人や家族、同僚たちは皆、エリステイアに祝いの言葉を贈ってくれた。
しかし、エリステイアは素直に受け取れないまま今日に至っている。
いつしか、女性騎士に与えられる最高の名誉が、《戦女神》の称号となっていた。
《戦女神》は同時に、初代が率いた騎士団《緋の夏陽》の団長にも就任する。
四代目としてその栄誉を授けられる。
それを光栄に受け止めこそすれ、喜ばない者はいないはずだ。
誰もがそう信じて疑わない。
だからエリステイアは、自分は相応しくないのだと言い出すことができなかった。
「そんなことはない。おまえの実力は、ダルムザイテ団長はもちろん、総団長も認めている」
エリステイアとクラフトが配属されている《碧の秋星(みどりのしゅうせい)》の団長が、ダルムザイテである。
彼の推薦もあり、エリステイアは称号を受けることになったと聞いている。
「……《緋の夏陽》の団長にふさわしい騎士は、もっとたくさんいる」
エリステイアの脳裏に、何人もの騎士の顔が浮かぶ。
その誰もが、実力と実績を兼ね備えている。
《碧の秋星》は、治安維持が主な任務である。
実戦部隊である《緋の夏陽》、《蒼の冬月》とは、任務内容が大きく異なる。
騎士は一度は必ず、《緋の夏陽》、《蒼の冬月》どちらかに配属され、前線を経験する。
エリステイアも数年前まで、《蒼の冬月》の騎士として前線にいた。
たちこめる血と泥の臭い。
終わりの見えない、不毛とも思える戦。
誰もが、戦場という名の、外界とは切り離された地での戦いに疲れ果てていた。
疲れても、休むことは許されない。
気を抜けば、デイルダの侵入を許してしまう。
それは、己の肉体と精神を磨り減らしてまで守ってきた故国が、蹂躙されることを意味している。
だから、疲れた体に鞭打ち、剣を握り締めて再び立ち上がる。
エリステイアは、北の地で過ごした日々を思い出していた。
《戦女神》となれば、かつての一騎士のようなにはいかない。
《南の獅子》の名にふさわしい牙を剥かなければならない。
それができるのか。
皆は、ついてきてくれるのか。
《双璧》の血を引いているだけの、騎士に。
エリステイアは、今までずっと抱えてきた思いを、クラフトに打ち明けていた。
これまで誰にも言えずにいた思いだった。
皆の期待を裏切るのではないか。誰かに、この苦い思いを打ち明けてしまえば。
そんな考えが頭をかすめ、口にすることができなかった。
それを、クラフトに話すことができたのは、彼が幼馴染みだからである。
母親同士の仲が良く、物心つく前から一緒にいて、まるで兄妹のように育った。
クラフトならば、エリステイアの苦悩を理解してくれる。そう期待してのことだった。
「おまえは、曾祖父母の栄光を重荷に感じているのか」
エリステイアの告白を聞き終えたクラフトは、静かに言った。エリステイアは頷いた。
「あの二人に敵う騎士など、きっともう現れないだろう」
エリステイアが小さな声で言った。その刹那。
エリステイアとクラフトの間に流れる空気が変わったと思った。
その空気がどんなものであるか頭で明確に認識するよりも先に、体は反応していた。
日頃の訓練のたまものに違いない。
空気を切り裂く音に続き、響き渡ったのは甲高い金属音。
「クラフト!?」
隣りに立つクラフトが剣を抜き放ち、前触れなくエリステイアに打ち込んできたのである。
エリステイアはとっさに体を左に半回転させ、同時に自分の剣を抜いて辛うじて受け止めていた。
一度剣を退き、更に間合いを取ったクラフトの目はひどく冷たかった。
エリステイアの知る幼馴染みの眼差しではなかった。
まるで仇敵でも見据えているかのような視線。
何故、クラフトがそんな眼差しでエリステイアに剣を向けるのか、分からない。
「クラフト。いきなりなにを――」
戸惑うエリステイアをよそに、クラフトは踏み込み剣を横に薙ぐ。
エリステイアは中途半端に抜きかけていた剣を完全に抜き放つ。
その勢いでクラフトの剣を弾き返した。
クラフトが二撃目を打ち込んでくる前に、エリステイアは後ろへ下がって距離を保つ。
「クラフト。どうして」
エリステイアの悲痛な声が、《騎士の間》の空気を震わせる。
しかし、クラフトは弁解をしようしない。
見たこともないような冷めた目で、エリステイアを睨んでいる。
見たこともないような?
否、見たことがある。知っている。あれは、人の命を奪う時の目だ――。
「どうして、クラフト――」
「腑抜けたことを言う騎士に、誰がついてくる」
北の地で、デイルダの兵士がエリステイアを見据えた時と同じ目。
クラフトは、あの土地のあらゆる寒さを思い起こさせる声で告げた。
「情けない団長を戴いた騎士たちが、北で無惨に死ぬ前に、俺がおまえを殺す」
言葉が本気であることは、すぐに分かった。
クラフトの一撃は、どれもエリステイアの急所を狙っていた。
エリステイアはその全てを受け止めていたが、次々とクラフトは打ち込んでくる。
反撃する暇は与えられなかった。
だが、エリステイアにはクラフトを害したいという気持ちさえない。
それゆえ、なおさらに防戦一方になってしまう。
しかしクラフトは違う。
エリステイアを殺すと確かに言い、そしてそれを確かに果たそうとしている。
幼馴染みの変貌ぶりにエリステイアは戸惑った。
だが、おちおち気を抜くことはできなかった。
クラフトに、せめてその態度の変貌の理由を聞くまでは。
とにかく、クラフトに攻撃の手を止めさせることが最優先だ。
金属音と、気を吐く音。二人が固い床を叩く音だけが、《騎士の間》にこだまする。
防戦一方のエリステイアは、徐々に壁際へ追い詰められていく。
あと数歩で、完全に退路がなくなるところまで追い詰められたとき。
クラフトの剣が、エリステイアの右肩を狙って振り下ろされる。
エリステイアは剣を頭上で水平に構えて左手の甲を刃に添える。
甲高い音が頭上で響く。予想していたより、衝撃は軽い。
エリステイアは渾身の力で剣を押し、クラフトの剣を弾いた。
クラフトはすぐさまエリステイアの左体側に打ち込んできた。
一方のエリステイアは、剣を弾き返したために体の前面が大きく開き、右手に持つ剣先はクラフトの左後方を向いている。
先の一撃は、このための牽制だったのだ。
鎧も何も着ていない今、まともに受ければ胴をえぐられる。
クラフトの腕力ならば、致命傷に至るだろう。
エリステイアは咄嗟に、死を予感した。
北の地でも、幾度か同じ予感を抱いた。
その北から遠い場所で、デイルダの兵ではなく幼馴染みの手で、自分は死ぬのかもしれないのか。
そんなのは――いやだ。
エリステイアは左手を腰に伸ばす。
鈍い感触が、左腕に伝わる。
それには構わず、エリステイアは右手の剣をひるがえす。
勢いよく薙いで、ぴたりと、クラフトの首もとで止めた。
「――俺の、負けだな」
クラフトの剣は、エリステイアの鞘に刀身を食い込ませていた。
左胴をえぐられると思った時、エリステイアは鞘に手を伸ばした。
鞘は吊り金具で、剣を収めた時に剣先がほぼ真下を向く形で、腰帯から伸びた補助の帯に固定されている。
補助帯の分だけ、ある程度の範囲内を動かせる。
エリステイアは、固定されているところを中心に鞘を半回転させた。
そこに、クラフトの剣が食い込んだのである。
刃は、鞘の中程まで食い込んでいた。
鞘にもう少しだけ強度が足りなかったら、あるいはクラフトの剣の勢いがもう少しあったら、鞘ごとエリステイアの身体は裂けていただろう。
「クラフト。何故、わたしを殺そうとした――」
エリステイアは剣を退いた。
クラフトは鞘に剣を食い込ませたまま、急に表情を緩ませた。
それまでの殺伐とした雰囲気が、風に吹かれるように消えていく。
「おまえが、情けないことを言うからだ」
「それは……」
「もっと自分の力を信じろ、エリステイア。おまえは実力で、たった今、俺に勝った」
クラフトが、笑う。
それは、エリステイアにとって馴染みのある、彼の表情だった。
「でも、クラフト」
「おっと。俺が弱いから、勝ったところで嬉しくないとか言うなよ。これでも、多少は腕に覚えがある」
「……知っている」
エリステイアは苦笑した。
クラフトは鞘から剣を引き抜く。
「俺たちは、《南の獅子》の牙たる存在だ。デイルダとの戦は過酷だが、ならばなおのこと、牙たる己の存在意義を示さなければならない。それは、一騎士であろうと《戦女神》であろうと同じことだ」
「そう、だな……」
エリステイアは頷く。
エリステイアはそれを、知っていたはずだ。
曾祖母のコントラルトのように、国を守るために自ら剣を取った。
それをいつの間にか忘れてしまったのは、《双璧》の曾孫であるという事実に、エリステイア自身が囚われて飲み込まれてしまっていたからだ。
剣を取った時点で、エリステイアは《双璧》の曾孫ではなく、フィドゥルムの騎士であり、《南の獅子》の牙だったのだ。
そのことを、クラフトのおかげで思い出せた。
「ありがとう、クラフト」
それから、エリステイアは曾祖父母の肖像画の前に向かう。
クラフトが、黙って後に付いてきた。
二人の正面に立つ。
凛とした眼差しでエリステイアを射抜くのは、コントラルト。
自信に満ち溢れた眼差しでエリステイアを見るのは、オイセルスト。
伝え聞いている二人の性格を、よくとらえている肖像画だと思った。
エリステイアは、会ったことのない曾祖父母に思いを馳せる。
彼らも、エリステイアのように悩むことがあったかもしれない。
けれど、それを乗り越えてきたに違いない。
「わたしも、あなた達のようになりたい――いえ、きっとなります」
そして、いつかあなた達と同じこの場所に、自らの肖像画を掲げられるほどの騎士になる。
エリステイアは、曾祖父母の前で誓った。
「……とはいえ、やはり団長には下っ端にはない気苦労も多いだろう」
ところがクラフトが、エリステイアの決意に水を差す。
エリステイアは怪訝な目でクラフトを見た。
「その時は、今日みたいに俺に話せばいい」
クラフトは肩をすくめ、エリステイアの視線を受け流す。
「俺も、《戦女神》の隣りに立つにふさわしい騎士を目指すからな」
「クラフト、それは――」
どういう意味だと訊く前に、クラフトはさっと踵を返していた。
「そうそう。ダルムザイテ団長が、おまえを捜しているぞ」
クラフトはまるでついでのように言ったが、本来の目的はそれを伝えることだったのだろう。
「それを、まず最初に言え」
エリステイアはクラフトの後を追いかけ、肖像画の前を離れる。
「いやぁ、すまんすまん」
クラフトは少しも誠意の感じられない謝罪をする。
そんなクラフトの態度に苦笑する。
《騎士の間》を出る直前、エリステイアは振り返った。
そして、心の中でそっと呟く。
いつか、必ず――。
冷え冷えとした室内は、音にならないエリステイアの言葉を静かに受け止めた。
〈了〉
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