賭けと夕陽と女と、そして 03

 ルアソルの目を見たウィシュカに「夕陽のようだ」と言われて以来、褒美として女を与えられるというのなら、ウィシュカがいいと言い続けてきた。ヴァラトナに呆れられようとも、自分が何故そこまで執着するのかはっきりとした答えを出せないままでも、ルアソルはウィシュカを望んでいた。
 その彼女が今、自分の腕の中にいる。三年前と同じように。
 違うのは、ここが闘技場の中ではなく外だということだ。中であれば、きっとまた一夜限りの関係だっただろう。しかし外ならば。そして名を教えてもらった今ならば。
 一夜限りとならないのではないか。


 屍の山を築いて十年間を生き抜いたように。
 自分の目と同じ色をしている夕陽をこの目で見たように。
 思い込むように願っていた女との再会を果たしたように。
 自分の願いが、ここならば――外の世界ならば叶うのではないか。

 ウィシュカの体温を感じながら、ルアソルは淡く期待していた。

◇◆◆◇

 鈍い痛みと、嗅ぎなれた臭いで目が覚めた。
「ぐっ……」
 目が覚めると、痛みを強く感じた。血が流れている。いったいどうして。ここはもう闘技場の中ではなく、自分は命をかけて闘う闘士ではなくなったはずなのに。
 ルアソルは荒い息をしながら、痛みのする当たりを手で探った。傷は右の脇腹の少し上あたりにあった。あっという間に掌が濡れるほど血が溢れている。刃物は刺さっていない。抜かれた後か。刺さったままならば、出血を抑えられただろうに。
「ウィ、シュカ……」
 彼女を抱き、二人してそのまま眠りについたはずだ。何故かは分からないがルアソルが何者かに刺された以上、ウィシュカの身にも同じことが起きているかもしれない。ルアソルはウィシュカがいるはずの、自分の左側に腕を伸ばした。
 だが、そこには誰もいない。ウィシュカがいたならばあったはずの、ぬくもりさえ残っていない。
 逃げたのだろうか。それならそれでいい。だが、自分は何故こんなことに――。
 予想もしない怪我と出血で、ルアソルは近くに人の気配があることにすぐには気づかなかった。
 右側に、誰かいる。襲った相手か。
 顔を右に向けると、確かに人影があった。暗く見えづらかったが、それが誰なのかは分かった。
「ウィシュカ……」
 見たところ、傷を負っている様子はない。無事だったのかと安堵する。だが今度はすぐに、ルアソルは『それ』の存在に気づいた。
 ウィシュカの手に握られているもの。暗闇の中、わずかな光を反射しているそれ。長さからすると、短剣。
 それが、ウィシュカの手に握られている。
「おまえが、刺したのか……?」
 ルアソルの右側に座り、ウィシュカは静かに彼を見下ろしている。手当をしようともせず、手には短剣を握ったまま。その状況から判断するならば。
 わずかにウィシュカの首が縦に揺れた。そして、彼女は微かに震えていた。
 ウィシュカは、今まで一度だって人に刃を突き立てたことなどないのだろう。震える手、そしておそらくは蒼白な顔。ルアソルが初めて試合に出て、相手を倒した時、今の彼女と似たような状態だったことを思い出していた。もっとも、そんな状態は長く続くことはなく、試合を重ねるにつれ、慣れてしまったが。
 ルアソルがかつての自分を思い出したわずかな間にも、血はどくどくと流れ続けている。手で傷口を押さえているが、なんの効果もない。これは致命傷だ。止血をしたとしても、これだけ血が流れたらおそらく助からない。
 自分のことだというのに冷めた感想だった。
 そのことに驚きさえしないのは、幼いうちから死や痛みが身近すぎたせいだろう。あれだけ死の恐怖を叩き込まれ、死にたくないから同じように育った仲間の闘士を殺してきたというのに。死にかけている今、恐怖はなかった。
 あるのは、疑問だけだ。
「何故だ……」
 わめくでもなく、叫ぶでもなく。静かな声で、ルアソルはそれだけを言った。
「――仕方ないのよ。仕方ないの! あんたが自由になりたくて他の闘士を殺したみたいに、わたしもあんたを殺して自由になるしかなかったのよ!」
 わめいたのはウィシュカの方だった。それまで息をしているかどうかさえ怪しいほど静かだったウィシュカは、剣を握り締めてわめいていた。
「自由を得た闘士を、何人目の刺客が殺すか。そんな賭けが、あるの。ううん、それだけじゃない。どの闘士が自由になるか、そんな賭けだってある。貴族は、闘士に関するあらゆることを、賭けにしてるのよ」
 なるほどつまり、ウィシュカはルアソルを殺すために放たれた刺客ということか。ルアソルはあっさりとその事実を受け入れた。
 ヴァラトナをはじめとする貴族たち。飽きもせず何年も足繁く闘技場を訪れる連中は、よほど賭け事が好きなのだろう。闘技場で闘士たちを闘わせるだけでは飽き足らない、そんなところか。


 闘士。それがルアソルの肩書きだった。


 そして結局、ルアソルにはそれがすべてだったのだ。


 一度闘士となったからには、逃れられないのだろう。
 十年勝ち続けようとも。
 闘技場の外へ出ようとも。


「だから、仕方ないのよ!」
 ウィシュカの声は、涙声になっていた。彼女は何が悲しいのだろうと、ぼんやりと思った。
「仕方ないの、ルアソル……」
 泣きながら、ウィシュカがゆっくりと短剣を振り上げる。とどめを刺すつもりのようだ。だが。
「必要、ない……」
「え?」
 ルアソルは血まみれの右手で、ウィシュカを制した。ウィシュカが呆けた声をこぼす。
 もう長くない。それくらいのことは分かる。ならば、これ以上ウィシュカが手を汚すことはないだろう。
 殺されかけているというのに、ルアソルは落ち着いていた。もう死は目前だというのに、やはり恐怖を感じない。何故なのだろうと考えて、すぐに答えに行き当たった。


「俺は……、満足してる」


 そうだ。ああ、そうなのだ。満足しているから、恐怖がないのだ。落ち着いていられるのだ。
「夕陽を、見た」
 そのために闘い、自由を得た。
「え」
「おまえが……似ていると、言った。俺の目の、色と夕陽の色が……。だから、一度でいい。見てみたかった……」
 あの鮮やかな赤を鮮明に思い出せる。これなら、死んだ後にも持って行けそうだ。
「それに……」
 ウィシュカを制していた手を、彼女の頬に伸ばす。ウィシュカの体が驚いたようにびくりと揺れた。
「……おまえに、また、会えた」
 夕陽は、十年間勝ち続ければ見られただろう。だが、ウィシュカとの再会までは分からなかった。願ってはいたが、期待はしていなかった。その分だけ、再会できたことが嬉しかった。

 ウィシュカがルアソルを殺すために彼の前に現れたのだとしても。
 十年かけて手に入れた『自由』がわずか一日だったとしても。
 外へ出て抱いた淡い願いはもう決して叶わないとしても。

 ルアソルが長年抱きつづけた願いは、すべて叶ったのだ。
 外へ出て、ほんの束の間抱いた願いなど、息絶えようとしているこの瞬間にも、ウィシュカの温もりを感じていられるのであれば。
 目に焼きついている夕陽と同じように、死後も忘れることはないだろう。
「ウィシュカ……」
 彼女の名を呼びながら、ルアソルは夕陽の赤さを思い出していた。
 毎日見るものが血ではなく、あの鮮やかな赤だったならば。

 夕陽に染まったような目だと、ウィシュカは言ってくれただろうか――。

◇◆◆◇

 自分の頬に触れていた手が、支えを失ったようにどさりと落ちる。
「……ルアソル?」
 ウィシュカは恐る恐る、男の名を呼んだ。屈強な体を持つ男は、目を開いたまま、応えない。動かない。


 ルアソルを倒す刺客としてウィシュカを指名してきたのは、ヴァラトナだった。ルアソルのことは、正直なところよく覚えていなかった。赤い目の男だと言われ、そう言えばそんな闘士もいたという程度にしか、彼女の記憶には留まっていなかった。
 あの男を殺すことができれば、おまえを自由にしてやる。ヴァラトナはそう言った。
 ウィシュカは幼い頃、食い扶持を減らすためにヴァラトナに売られた。家族にどのくらいの金が渡ったのか、その正確なところは知らない。しかし、家族に支払われた分だけ、ウィシュカは稼がなければならなかった。そうすれば自由になれると言われた。
 そうやって己の体を商売道具にして何年経ったのか、数えるのも嫌になる。身を粉にして働いてきたのに、ヴァラトナから一向に自由になれなかった。まだまだ足りない、そう冷たく突き放されて。
 逃げだそうとしたこともあるが、結局は捕まえられてひどい罰を与えられるだけと分かったので、逃げることを諦めた。
 いつか必ず自由になれる。そう信じることだけが、ウィシュカを支えていた。だから、刺客の話を受けた。相手が十年間勝ち続けた闘士が相手であろうと、やり遂げる自信があった。
 男に取り入る術は持っている。なんとでも言って、夜を共に過ごすことができれば、相手が油断して気を許した隙に殺すことができると思った。ルアソルがウィシュカに執着しているようだと、ヴァラトナから教えられたことも、ウィシュカの密かな自信に繋がっていた。自分に執着しているのなら、もっとたやすく殺すことができるだろう。
 そんな思惑を笑みの下に隠して、ウィシュカはルアソルの前に姿を見せたのだ。


 そして、やはりルアソルはウィシュカを覚えていた。ウィシュカがすっかり忘れていたことまで、覚えていた。

 あんたの目、夕陽みたい。

 ルアソルの目を見た時、自然とそう思った。何気なく口にしただけだった。まさかそれを、ルアソルが覚えているとは思わなかった。ウィシュカはあの時、彼になにを言ったのか全然覚えていなかったのに。
 だが覚えていなくとも、どういうことを言ったか想像はつく。男の気を引くような甘い言葉を囁いていたのだろう。どうせお互い、ゆきずりの身。まして闘士のルアソルは、明日をもしれぬ命。二度と会うかどうかさえ分からない。
 それなのに、たった一晩寝ただけの女の戯れ言を覚えているなんて。
 そして、その戯れ言を確かめられて満足したと。
 その戯れ言を口にした女に会えて満足したと。
 ルアソルはそう言って、微笑を浮かべていたのだ。笑っていた。確かに、彼は笑っていたのだ。
 知らなかった。
 考えもしなかった。
 何故、ルアソルが自分に執着しているかなど。
「そんな……。ねえ、ルアソル」
 手から短剣がすり抜ける。ウィシュカは前に屈み、動かぬルアソルの顔をのぞき込んだ。赤い目は、虚ろだった。しかし、顔は満足げだった。
 自分が命を奪った男の死に顔の、なんと穏やかなこと――。


 自由と引き換えに、ルアソルを殺す。
 ヴァラトナから刺客の話を聞いた時、二つ返事で承諾した。
 だが、いざ実行する時になり、無防備に眠るルアソルを前にして、恐ろしくなった。彼はウィシュカに何の疑いも抱いていないようだった。自分の命が狙われていることも、まだ賭け事の対象となっていることも、想像さえしていなかったに違いない。
 そんな男を、自分のために殺していいのかと急に怖くなったのだ。
 躊躇した時間は長かったように思うが、実際は短かったのかもしれない。
 ウィシュカは、ルアソルだって十年間他人の命を奪い続けて今こうしているのだと思うことで、自分を正当づけたのだ。勝ち続けてきたルアソルの立場が逆転するだけだと言い聞かせ、彼に刃を突き立てた。
 言い聞かせたはずなのに、刃を通して伝わる肉を裂く感触、短剣を抜いたそばから溢れ出る鮮血を見て、やはり怖くなった。うめいて目を開けたルアソルを見て、自分はとんでもないことをしたのではないかと、更に恐ろしくなった。
 ルアソルが長くなさそうなのは、見て取れた。浅く早い呼吸。弱々しい言葉で何故と訊かれて、ウィシュカはわめいていた。ルアソルの疑問に答えるというよりは、自分に言い聞かせるためだった。
 苦しげなルアソルの姿を見て、少しでも早くこの恐怖から逃れたくて、ウィシュカはとどめを刺そうとした。ルアソルの死を決定的なものにすれば、もしかしたらもっと恐ろしいのではないか。その疑問には目を瞑って。
 だが、それはルアソル自身の手で制された。そして、満足しているという、耳を疑うような一言を聞いたのだ。
 自由を得たその日に殺されたのに。どうして。ウィシュカに恨み言の一つも言わず、満足だと。
「なんでよ……」
 ルアソルは、ヴァラトナたち貴族の賭け事のために殺されようとしていたのに。ウィシュカが恐怖を抑えつけて刃を突き立てたというのに。どうして、笑って逝けるのだ。
 恨み言でも言ってくれれば、きっと罪悪感はもっと少なかった。それなのに。
 自分の言った何気ない一言を、ずっと覚えていた。
 自分に会えて満足したと言った。
 そんな男に手をかけたのは、もしかしてとんでもない間違いだったのではないか――。
「確かに、おまえの手で殺したようだな」
 背後から知らない男の声がした。ウィシュカは心底驚いて、慌てて振り向いた。
 暗闇から一人の男が抜け出てきた。闇に紛れ込むような黒い装束を着ていた。顔の下半分を隠している。
「なに……? 誰なの、あんた」
 唐突なことに、ウィシュカは体を隠すことも思いつかず訊いた。
「見届け役だ。刺客が闘士を殺せるかどうかの」
 男の声にはなんの感情もこもっておらず、淡々としていた。そして、それは彼の行動についても同じだった。
 男はすたすたとウィシュカの前までやって来ると、なんの前触れもなく剣を閃かせた。
 体の前面をばっさりと斬られたと分かったのは、男が剣についた血を振り払ってからだった。
「どうして……」
 斬られたところから溢れ出た血は、ウィシュカの体を伝って流れ落ちていく。男はウィシュカの呟きに答えず、やはり感情のない目でウィシュカを見ていた。
 意識が急速に遠退いていく。自分がルアソルを殺したように、自分もまたあの男に殺される。そういうことなのか。

 いやだ、後悔ばかりじゃない。
 ウィシュカは自嘲した。それが表情となって現れているかは分からない。
 ルアソルのように満足したと言って笑えない。
 ルアソルを殺さなければ良かった。その後悔だけだ。
 でもそれは、ルアソルを殺したから自分も殺される。そういう後悔ではなく。
 もっと単純に、彼を殺さなければ良かったという後悔だった。
 ルアソルが最期に自分の名を呟いてくれたことが、無性に嬉しく思えてきた。
 ウィシュカは自分の体を見下ろした。暗闇の中では、血の色はどす黒く見えた。
 ルアソルの赤い目とはずいぶん違う。

 やっぱり、あんたの目は夕陽みたいだよ――。

◇◆◆◇

 自分で殺した男の上に倒れ込むように、女は事切れた。
 ウィシュカを殺した男は、彼女も死んでいることを確認すると、素早く場を整えていく。
 二人が無理心中したと見せかけるのだ。

 闘技場で貴族たちが行っている賭け事。
 庶民すら闘技場の存在は知っているが、公のものではない。賭けを闘技場内だけに留めることと王が定め、黙認されているのだ。
 だが実際には、闘技場の外でも行われている。それを隠すために、闘士を殺した刺客も最終的に殺される。もっとも、本当に王が闘技場の外でも賭けが行われていると知らないことはないだろうが、そのこともまた黙認しているのだろう。
 一応王に禁じられている闘技場の外でも賭けを行う貴族たちは、よほどの賭け事好きだ。
 男は笑うが、そんな貴族たちに命じられ、こうして後始末をする自分自身のことも笑った。
 口が堅く信用がおけるからと、今は後始末を任されている。しかしそんな自分もまた、いつか誰かに殺されるかもしれない。そして、それもまた貴族たちの賭け事の一つとなっているかもしれない。
 その時自分は、ルアソルとかいう闘士のように満足したと言って逝くだろうか。
 それとも、ルアソルを殺したウィシュカのようにどうしてと言って逝くだろうか。
 あるいは、やはりなと言って笑って逝くだろうか。
 もっとも、その時になればいやでも分かることであったが。

 ルアソルがウィシュカを斬り捨てた後、自分の腹を刺して自殺したように見せかけると、男は自分がいた痕跡も消して、夜の闇へ紛れた。

〈了〉

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