水切り

 短い掛け声と共に腕をほとんど水平に振る。手に握られていた、平たい石が飛び出した。
 ほとんど水平に飛んでいく石は、川面にぶつかると弾かれるようにして波紋だけを残し、さらに川面すれすれのところを跳んでいく。少し先で同じように波紋を描き、また跳んで、また波紋が生まれる。その間隔はすぐに短くなり、小さなしぶきを上げて石は水中へ沈んでいった。
「今のは結構行ったろ?」
 隣りに立つ幼馴染みの雄太に得意げな顔を向けていた。俺が投げた石の行く末を一緒に見届けていた彼は「まあな」と言ったものの、大して悔しそうな顔ではない。それどころか、
「でも、俺の方がもっと跳ばせるね」
 余裕のある笑みを浮かべた。同い年だというのにどことなく大人びた雰囲気のあるその顔に、俺の得意げな表情はあっという間に崩れる。なんだ、その余裕。俺と歳、一緒だろ。つか、俺のが誕生日先だろ。
 胸中でなじる俺になどお構いなしに、雄太は大きな体をかがめて、手頃な石を探し始めていた。
 俺と雄太がさっきから興じているのは、いわゆる水切りである。水面に向かって石を投げて跳ねさせる遊びだ。
 通学路にある川沿いの道を歩いていたら、久しぶりに水切りをやってみようということになって、石ころだらけの川原に下りたのだ。カバンを適当に投げ出すと、なるべく平たい石を選んでは川に向かって投げていた。
 上手くいくときは何段にも跳ねていくつもの波紋を残していくが、上手くいかないときは、すぐそこに水没してしまう。遠くまで跳んだときにはガッツポーズを決め、すぐ手前で沈んでしまったときには肩を落とす。それをいったいどれだけ繰り返しているのかはもうすっかり分からなくなっていた。だけど、川原に下りたときはまだ青かった空が、西の端から色を変えつつあるので、それなりに熱中していたらしい。
 雄太が短く鋭く息を吐いた。長い腕をしなやかに振り、石を放つ。二人が立っているところから十メートルほど先で一段目、二段目はその半分ほどの距離で、水面に輪を描いてさらに遠くへと跳んでいく。雄太の投げた石が水没したのは、俺の渾身の一投が没した場所より明らかにここから遠かった。
「ほらな」
 俺が石の行方をちゃんと見届けていることを確かめるように顔を向けると、雄太は口の端を持ち上げて笑った。そんな表情も、同い年の中学生のものとは思えない。
「雄太は俺より手が長いんだから、そりゃ遠くに跳ばせるだろ」
 口を尖らせて俺は悔し紛れに言った。自分の最長飛距離をやすやすと超えられて、そのうえまるで兄が弟を見るような顔をするんだから、悔しくって仕方がない。
「腕の長さなんて、大した違いじゃないだろ。投げ方だよ、投げ方」
 石を持っていない雄太は、手ぶらのまま投げる仕草をして見せた。
 歳は一緒――それどころか俺の誕生日は雄太より半年も早い――というのに、雄太はいつでも俺より一歩高いところに立っている。雄太の身長が185cmなのに対して、俺は155cm。身長差ばかりが関係しているわけではあるまい。俺には四つ年上の姉がいるが、雄太には九つ下の妹がいる。俺は姉の使いっ走りを現在進行形でさせられているが、雄太は忙しい彼の母に代わって妹の面倒をよく見ている。その差も大きいのだろう。
 中学三年生になったというのに、俺の身長は劇的に伸びることがない。整列するときは前から三番目。元々体の大きな方ではないのだが、背が小さいうえに体付きも細いので、同級生のからかいの対象になることはしょっちゅうだ。
 そんな俺をいつでもかばい助けてくれるのが、中学に入学する時点で今の俺よりも身長の高かった、雄太だ。彼は俺とは対照的に小さい頃から大きくて、一年ほど前に180cmを突破した。それからもまだ伸びているのだから、きっと190cmまでいくのだろう。今でも見上げなければ目を合わせられないのに、これ以上雄太の身長が伸びたら、俺は仰け反るしかなくなってしまう。仰け反りすぎて、そのうち背中を打つかもしれない。
 長身に加えて、雄太はスポーツでもしていそうな体付きだから、知らない人には中学生には見えないだろう。185cmの高みから、切れ長の目で見下ろされ「お前らだって俺よりチビだろ」と言われれば、身長が俺より高くとも雄太よりは低い同級生たちも、口をつぐむ。
 幼馴染みが自分を守ってくれるのは嬉しい。けれど、微かな悔しさや屈辱がないわけではない。からかう同級生たちを跳ね返せない己の弱さを分かっているが、雄太も俺の弱さを知っている。その事実がよりいっそう悔しかったし、雄太に守られることに安心している自分が嫌だった。そこから抜け出そうとしない自分も。
 そんなことが中学に入ってから増えたから、雄太にとって俺は同い年の弟のようなものになったのかもしれない。見た目に迫力のある雄太だが、幼馴染みの俺にその迫力はほとんど通じない。上から睨まれるのにだって慣れっこだ。それでも「兄貴風を吹かすなよ」とは面と向かって言えない。
 雄太は、俺のように身長のことでウジウジ悩んだり、同級生のからかいを気にしたりしているわけにはいかないのだ。
 彼の父親は五年前に病気で亡くなった。残された彼の母親は、雄太と、生まれて一年も経っていなかった雄太の妹を女手一つで育てるため、必死に働いている。そして雄太は、母親を助けるために妹の面倒をほとんど一人で見ていた。
 俺や同級生たちのようにのんきではいられない。それを知っているから、俺は大人びてしまっている幼馴染みに文句を言えない。今日のように寄り道をして一緒に遊ぶことの方が珍しかった。教職員の会議だかで授業が五時限で終わったから、保育園にいる妹を迎えに行くまでの限られた間ではあるけど、こうして一緒に遊べるのだ。
 雄太と二人きりで遊ぶのは久しぶりだった。休みの日に雄太の家に遊びに行くと、彼の妹も交えて遊ぶことが大半なのだ。おままごとがしたくてたまらない彼女にとって、俺は恰好の遊び相手の一人で、男なのにお母さん役をやらされることがほとんどである。雄太と水切りをして最後に遊んだのがいつだったか、俺は思い出せなかった。
 雄太の言動に悔しさを感じることはあるが、それ以上に俺は幼馴染みのことが好きだったから、せっかく久しぶりに遊んでいるのだし、つまらない愚痴は自分の胸の内に留めておくことに決めていた。
「次は負けねー」
「次も勝たせねー」
 俺が言うと、その口調を雄太が真似る。「全然似てなねえよ」と笑っていると、
「そこのでこぼこコンビー!」
 背後から、大声が飛んできた。元気のある女子の声には聞き覚えがあった。
 俺と雄太は、示し合わせたように同時に振り返った。川沿いに伸びる土手の上に、自転車に乗った二人の女子生徒がいた。手前の自転車にまたがっている女子が、大きく手を振っていた。
 クラスメイトの源川だった。一緒にいる女子に見覚えはないが、彼女の友達なのだろう。
 でこぼこコンビというのは、俺と雄太に付けられたあだ名のようなものだ。幼馴染みで、偶然にも三年間同じクラスで、一緒に行動していることが多いから、いつの間にか二人まとめてそう呼ばれるようになっていた。俺はチビで細く、雄太はデカくててがっしりだから、悔しいことにでこぼこコンビはうってつけだ。
 もっとも、俺はともかく雄太に遠慮して(というかびびって?)、でこぼこコンビと真っ正面から言うやつは少ない。源川は、女子の中ではほとんど唯一、怖じ気づくこともなく今みたいにでこぼこコンビと言える生徒だった。
「いつまでも遊んでないで、早くおうちに帰りなさーい!」
 先生みたいなことを言う。でもおちゃらけた言い方だから、帰り道に俺たちが遊んでいるのを見つけて、声をかけてきただけなのだろう。
「言われなくても分かってるよー!」
 俺も源川に負けじと大声を出す。雄太は、軽く手を振っているだけだ。
 ああ、くそ。こういう対応の仕方の違いが、俺をガキっぽく、雄太を大人びて見せる。格好付けているわけじゃなくて、雄太は自然体でできる。だから、女子生徒の間で雄太は密かに人気があるのだ。
「ちゃんと宿題もしなさいよー!」
「源川こそ、ちゃんとやれよ!」
 でも、源川が大声で言うものだから、俺もついつい大きな声で返してしまう。
 源川は「分かってるよー」と言って、それから「ばいばーい」とまた大きく手を振ると、待っていた友人に声をかけ、ペダルを漕ぎ出した。
 校則で決められている白いヘルメットと白い合い服が、夕陽を受けて淡いオレンジ色に見える。ヘルメットからこぼれているおさげとセーラー服の紺色の襟をなびかせながら、源川は友達と颯爽と走り去っていった。
「……見惚れているな、誠一」
 俺は雄太の声で我に返った。慌てて雄太の方を見ると、意味深な笑みを浮かべて俺を見下ろしている。俺は、顔の温度が一気に急上昇するのを感じた。耳が熱い。
「ち、違う。そんなことねえよ!」
 さっきと同じくらい大きな声が出ていた。これではバレバレだと自分でも分かっていたけど、素直に自分の気持ちを認めるのは恥ずかしすぎる。
「分かりやすいなあ」
 雄太が笑った。
 まったくだ。自分でもそう思う。
 俺は、源川のことを心憎からず思っていた。際立って目立つような容貌ではないけど、元気がよくて明るくて、ほかの女子と比べるとずいぶんとサバサバした性格は、とても話がしやすい。源川とは二年、三年と同じクラスで、親しいとまではいかないけれど、友達と言えるくらいの仲だと思っている。それを、友達以上の関係になれたらいいなと密かに考えるようになったのは――。
「二年の秋くらいから?」
 雄太の指摘は実に鋭かった。さすが幼馴染み。源川のことは、雄太どころか誰にも話したことがないというのに。
 俺は確かに、二年生の秋くらいから、源川のことを単なるクラスメイト以上の存在として意識するようになっていた。
 二年の一学期、俺と源川はたまたま同じ係になった。活動内容関係の話をしているうちに、それ以外の雑談もするようになった。
 でも、二学期は別々の係になった。俺は、源川と一緒に係活動をした一学期は楽しかったことを思い出して、どうせなら二学期も同じ係をしたかったなと思ったのだ。係が別になってもお喋りをすることに違いはなかったけど、もっとたくさん、色んなことを源川と話したかった。
 それで、俺は源川のことを好きなんだ、と気が付いた。でも、それで何かが変わったわけじゃない。源川と話す内容は相変わらずで、昨日見たテレビ番組のこととか、最近よく聞いているお気に入りのミュージシャンのこととか、他愛もないことばかりだ。
 三年になって、また源川と同じクラスになったと分かったときは、雄太も同じクラスだということと同じくらい嬉しかった。それでもやっぱり源川と話をする内容は変わっていない。変わらないまま、源川のことが好きだと気が付いてから、半年以上経っていた。
「源川に告白しないの?」
「はあ?」
 雄太の唐突な言葉に、俺は間の抜けた声を出していた。
「だって、好きなんだろ」
 それはそうだけど、と俺は口ごもった。少しも照れることなく「好き」という言葉を口にする雄太が、いつも以上に大人びて見えた。俺は自分の気持ちを、源川にはおろか、雄太にさえ正面切って言うことができないのに。どうしてこいつは、臆面もなく言うことができるんだろう。
「源川は、彼氏いないみたいだしさ」
「……それでも、しない」
 俺はほとんど自分の耳にしか届かないような小さな声で言った。でも、雄太には聞こえていたみたいだった。「なんで?」という顔を俺に向けた。俺はそれに気付かず石を探すふりをした。
 告白なんて、できるわけがない。俺は、源川と友達以上になりたいと願いながらも、それ以上に今の関係が変わってしまうことを怖がっていた。
 クラスメイトとして、源川とは上手くやれていると思う。
 三年生になってからは、進路のこともよく話をするようになっていた。俺も源川も、理数系のコースがある普通科を受けるから、情報交換という形ではあるけど、今まで以上に話をする機会が増えていた。その関係が心地良くて、抜け出すことができないのだ。
 源川に告白すれば、きっともう、今までのようにはいられない。告白をして、上手くいくはずがない。俺は源川より背が小さいし、同級生にからかわれても雄太に守られてばかりいる、情けない奴だ。雄太のことを格好良いと思う女子はいても、俺のことをそう思う女子はいないだろう。源川だって、きっとそうだ。
 それなら今のまま、友達のままでいる方がずっと良かった。
「告白しないんだ」
 拾った小石を両手でもてあそびながら、雄太が言った。
「それなら、俺がしようかな」
「……え。何を?」
 思わず聞き返していたけど、雄太が何をしようと言い出したのか分からないほど、俺も鈍いわけじゃなかった。俺は源川に告白なんてしないし出来ないけど、雄太は。
「何をって――告白。源川に」
 雄太は一度石を高く放り投げて、目線の高さまで落ちてき石を掴み取るようにしてキャッチした。雄太がやるとさまになる、なんてのんきなことを思っている場合じゃない。
「ちょっと待てよ、雄太。なんで、急に」
 俺は慌てて立ち上がって、雄太を見上げた。源川に告白するということは、雄太も源川のことが好きだっていうことなのか? いや、そうじゃなきゃ告白なんてしないだろうけど、でも、そんな素振りを雄太が見せたことはない。
 俺と源川がよく話すようになってから、自然と雄太も源川と話をするようになっていた。
 源川は、雄太とお近づきになりたいけどその雰囲気に尻込みしているほかの女子と違って、臆することがなかった。ごく普通に打ち解けていって、背中を叩いてツッコミをするほどだ。なんだか雄太とは俺以上に話をしているように見えることもあって、密かにヤキモチを焼いたりしたこともあった。
 でも、源川と話をするときの雄太は、俺と話をするときとどこも変わらないように見えたから、少なくとも雄太は源川に対して俺と同じ感情を持っていないと思っていた。その逆までは分からなかったけど。考えないようにしていたけど……。
「何かきっかけがないとさ、なかなか踏ん切りってつかないだろ」
 雄太も源川のことが好きだったなんて、まだ信じられない。いつも一緒にいて、雄太は俺の気持ちに気が付いていて、俺は雄太の気持ちに気が付かなかった。
 今、きっかけをつかんで踏ん切りを付けようとしているのは、雄太だ。雄太は、俺よりいつでも一歩先んじている。俺より前を歩いていて、後ろにいる俺を振り返る余裕もある。だから、俺をきっかけにしてさらに前に進もうとしている。
 俺は、いつの間にか強く拳を握り締めていた。なんだか心の中が妙に波立ってきていた。怒りにも似た感情がわき起こってくるけど、それが雄太に対してのものなのかどうかまでは分からなかった。
「……もしかして、不満?」
 雄太は一歩先を行く者の、余裕ある笑みを浮かべる。
 俺はそんな雄太を精いっぱい睨んでみせた。不満はある、当然。雄太が俺をきっかけにしようとしていることもそうだし、俺が雄太の気持ちに気が付かなかったこともそうだ。それなのに雄太は俺の気持ちにずっと前から気が付いていたことも、俺が変わることを怖がっていたことも、今さらだけど、気に食わなくなってきた。
「当たり前だろう」
 思っていたよりも大きな声が出なかったけど、きっぱりと答えた。雄太は、俺が返事をすると思っていなかったのか、少し驚いた顔をした。けれどすぐにまた、余裕のある笑みを浮かべる。
「なら、勝負しよう、誠一」
「勝負?」
「そう。勝負して、勝った方が源川に告白する」
「なんだよ、それ」
 どうして源川に告白する権利を賭けないといけないんだ。
「水切りで同時に投げて、遠くまで跳んだ方が勝ち。簡単だろ?」
「え。ちょっと待てよ、雄太。それ、卑怯だろ」
 雄太は俺の意見なんて聞かずに勝手に決めて、さっさと石を探し始めている。
 さっきから水切りをやっていたけど、俺の会心の一投も、雄太にあっさりと超えられてしまった。やる前から勝負なんてついている。俺が勝てるはずがないのに、それを分かっていて雄太はこの勝負を持ち掛けてきたとしか思えなかった。そんなに、源川に告白したいのか、俺にさせたくないのか。
「五回勝負な」
 屈んで石を探しながら、雄太が大きな手を広げる。
「待てよ、雄太!」
 俺の方を見ようともしない雄太に、大声を上げていた。雄太の顔だけが振り返る。
「勝負するなら、もっとフェアなものにしろよ。水切りは……お前が勝つに決まってるだろ」
「そんなの、やってみないと分からないだろ」
「やる前から分かってるだろ。さっきからずっと水切りやってて、俺は雄太に一度も勝ててないのに!」
 声は大きいまま、俺は川原に仁王立ちしていた。俺が雄太にかなわないことは自分でも分かっていたはずなのに、それを口にするのはひどく胸が苦しいことだった。思っているだけと、実際にそれを口にするのとで、こんなに違うことを俺は初めて知った。
「誠一は、いつもそうだよな」
 俺が怒ったように大声を上げているのに、雄太は落ち着いていた。石を手に持ったまま、立ち上がって俺の方に体ごと向き直る。
「いつも、やる前から『どうせダメだから』って言って、やらない。源川に告白しないのも、どうせふられるから、って思ってるからだろ?」
「……」
 何も言い返せなかった。幼馴染みゆえの遠慮ない言い方だったけど、悔しいくらいに、雄太の言っていることは正しかった。
「たまには、ダメ元でやってみようって思わないのかよ。俺は、誠一のそういう後ろ向きなところ、時々イライラする」
 雄太は感情の起伏はなだからな方だ。怒ることはあまりなくて、俺が一方的に怒るばかりで雄太はそんな俺を冷静にあしらうから、ケンカにもならない。だけど、今の雄太は珍しく怒っていた。語気が強くて、目にも感情が表れているようだ。
「少しは男らしいところ、見せてみろよ。誠一が勝負しないなら、俺は明日、源川に告白するから」
 俺をじっと見る雄太の目は、本気だった。本気で怒っているし、本当に明日、源川に告白するつもりだと思った。
 それでも、俺はすぐには何も言えなかった。俺は雄太にきっと勝てない。たとえ俺が勝ったとしても、源川が俺を選んでくれるかどうか、分からない。いや、きっとその可能性は低いだろう。源川にとって俺は男友達に一人だから。そしてきっと、雄太は違う。源川のことをよく見ているから、気が付かないわけにはいかなかった。
 勝負をしても、先は見えている。そう思うと、俺はなかなか言葉が出てこなかった。「やる」と言えないのはもちろん、「やらない」ともすぐに言えないのは、雄太に「いつもそうだ」と非難されらからだった。
 そんなどっちつかずの俺に業を煮やした雄太が、ため息をついた。それから、拾った石をその辺に投げ捨て、踵を返した。俺に呆れた雄太が、俺を置いていこうとしている。その時になってようやく、俺の口は動いた。
「待てよ、雄太。――俺は、絶対に負けないから」
 俺から離れかけていた雄太が立ち止まって、振り返る。さっきまで怒っていたのが嘘のように、明るい顔をして笑っていた。
「そうこなくっちゃ」
 やっぱり雄太は、俺より一歩先にいると思った。なんだかうまく乗せられたような気がするけど、もう今は、勝負もしないうちから負けた気はしなかった。

       ※

 二人同時に石を投げて、より遠くまで跳んだ方が勝ち。五回勝負をして、先に三勝した方が源川に告白をする。
 単純明快な勝負だった。
 お互い納得するまで探した石を握り締め、掛け声に合わせて川面に投げた。
 一回目は、雄太の石は四段跳ねただけで水没したけど、俺は雄太の倍以上の距離を跳んでいった。十段は跳ねて、俺の圧勝だった。
 幸先が良いと思った二回目は、石を投げるタイミングが少しだけ遅くなってしまって、ボチャンと無惨な音をたてて目の前で水没した。一方の雄太は、一回目の俺と同じくらい遠くまで跳んだ。
 三回目、二人ともすぐに水没することはなかった。食い入るように石の行方を追う。俺の投げた石は少し左の方へ、斜めに跳んでいって、先に沈んだ。その直後、雄太の石も沈んで、これで雄太が二勝。リーチだ。
 四回目。これで俺が負けると、勝負も終わる。雄太に三連勝させるわけにはいかない。
 俺はできる限り平べったい石を探した。雄太はいい石を見つけたのか、俺が石を見つけるのをじっと待っていた。ようやく納得のいく石を見つけ、俺は雄太の隣りに立った。掛け声と共に、二つの石が川面に飛び出していく。今度は雄太の石が左斜めに跳んでいった。俺の方は真っ直ぐ跳んでいく。先に沈んだのは、雄太の石だった。雄太は「しまったな」と言ったけど、あまり悔しそうには見えなかった。次こそは勝てる、という自信があるからなのかもしれない。でも俺は、胸をなで下ろして、これで勝負が終わらなくて良かった、と思うのが精いっぱいだった。
 そして、二勝二敗で迎えた五回目。この結果で勝負が決まる。俺は、さっき以上に真剣に石を探した。雄太は、今度もすぐにいい石が見つかったのか、もう川の方を向いて待っていた。
 夕陽はさらに西に傾いていて、川原に下りた頃に見えていた青空はもうどこにも残っていなかった。雄太はそろそろ遊ぶのをやめて、妹を迎えに行かないといけない頃合いだ。
 これで勝敗が決まるのだから、下手に妥協をして後悔したくはない。だけど、兄のお迎えを今か今かと待っている雄太の妹のことを思うと、いつまでもぐずぐずと石を探しているわけにもいかない。俺は、納得できたわけではなかったけど、そこそこ平たい石を見つけ、それに勝負を預けることにした。
 川面は夕陽に照らされて黄金色に輝いて見えた。その黄金色の中に、黒い小さな点が二つ、飛び込んでいく。どちらも今度は対岸を目指すように真っ直ぐに跳んでいく。一段、二段と石は大きく跳ねて波紋ができる。六段、七段を数える頃には跳ねる間隔がだいぶ短くなっていた。
 俺は祈るような気持ちで見ていた。頼むから、少しでいいから、雄太よりも遠くまで行ってくれ。
 一方の石が、小さな波紋を最後に見えなくなった。もう一方は、そこからさらに二つの波紋を残して川の中へ消えた。
 俺は、川の流れにあっという間にかき消された波紋を呆然と見ていた。

       ※

「――俺の負けだな」
 勝ったのは俺だった。雄太は負けたのに、少しも悔しさのにじんでいない、それどころか嬉しそうな顔を俺に向けた。
「誠一だって、やればできるじゃん」
「あ、ああ」
 どうして雄太は悔しくないのか、不思議だった。負けていたのが俺だったら、きっと今頃悔しがっているに決まっているのに。
「勝ったんだから、ちゃんと源川に告白しろよ」
 雄太に勝てたのは、たぶんこれが初めてだ。なのに、嬉しさはこみ上げてこない。困惑の方がよっぽど俺の中を占めていた。雄太が、さっさと帰り支度をしているからだ。
「なあ、雄太。お前……なんでそんなに、あっさりしてるんだ?」
 勝負を始める前、真剣な目をしていたのを俺は確かに見ている。あれが雄太の本気だと俺は思っていたから、負けても少しも悔しそうにしていない今の態度が解せない。
 雄太は俺にお構いなしに、川原に投げ出していたカバンを拾い上げる。
「だって俺、源川のことは単なる友達だと思ってるから」
「は? だってさっき、源川に告白するって――」
「するって言ったけど、何を告白するかは言ってないだろ」
 雄太の顔に、意地悪な笑みが浮かぶ。
「誠一だって、聞かなかったし」
「なっ……屁理屈だ、そんなの! 普通は、雄太も源川のことが好きなんだって思うだろ!」
「俺は、そんなこと一言も言ってない」
 たしかにそうだ。雄太は源川のことが好きだ、とは言っていない。だけど、これではまるで――。
「雄太、お前……俺をはめたな?」
「だってそうでもしなきゃ、誠一はいつまで経っても源川と友達のままだろ。俺は幼馴染みとして、お前に協力してやったんだよ」
 そう言って、さっさと歩き始める。俺は慌てて自分のカバンを拾って、そのあとを追いかけた。
「だからって、あんなやり方ないだろ! だいたいどうしていきなり、協力とかって」
「そんなことより、早く家に帰って宿題しろよ、誠一。明日は数学の小テストもあるから、予習もしないと」
「俺の質問に答えろよ!」
「質問のある人は手をあげてから言ってくださーい」
 雄太は完全にはぐらかす口調で、大股に歩いていく。足の長さに差があるから、追いかける俺はほとんど小走りだった。
「だから、どうして急に協力なんて言い出すんだよ」
「今日はもうお迎えに行かないといけないから、質問はまた明日にしてくださーい」
「答える気がないのかよ!」
 さっきまで俺と雄太の間にあった緊迫した空気はすっかりなくなっていた。雄太が源川のことを好きではなかったこと、またいつも通りふざけあえる雰囲気に戻れたことに、俺は内心ではほっとしていた。するといきなり、雄太が俺の肩に長い腕を回した。
「誠一」雄太は今日いちばんの真面目な声で言った。「源川に告白しろよ」
 強引に肩を組まれたから、いつもは高い位置にある雄太の顔が近かった。俺の反応を待つように、じっと目を見つめている。俺はその視線に堪えかねて、ふいと雄太から顔を背けて正面を見る。
「……分かったよ」
 雄太に乗せられているとしか思えなかったけど、このきっかけを逃したら、きっと俺はいつまで経っても踏ん切りをつけられない。
 幼馴染みがくれたきっかけを、俺はしっかりと握り締めた。

〈了〉

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