賭けと夕陽と女と、そして 02

その日聞いた喚声を忘れることはないだろう。
 十年の間に負った傷の数と築いた骸の数、どちらが多いのかはもう分からない。
 数年ぶりに現れた、無敗の闘士。だが、十年間を勝ち抜いた闘士に降り注ぐのは歓声と、そしてやはり罵声だった。


 少ない荷物を抱え、ルアソルは闘技場と外をつなぐ扉の前に立っていた。いつもは闘士たちを外に出さないために立っている見張りも、今は扉の前ではなくその横に立っている。扉が見張りの手で開けられて、ルアソルは一歩を踏み出した。
 壁の内側の日陰になっているところから一気に日なたへと出たことで、光の加減が急激に変わる。思わず目を閉じた。
 後ろで扉の閉まる音に続き、錠の下ろされる音がした。ルアソルが壁の内側と断絶された合図だった。眩しいのも構わず、目を開く。
「空が……」
 視線の先に見えるのは、頑丈な壁ではなかった。
 真っ青な空は四角ではなく、どこまでもずっと広がっている。形などないように見えた。左右を見ても、同じように空。頭上を振り仰いでも、やはり青い空。真上から視線を下におろしていく。少しだが青色は薄くなっていった。

 これが、空。

 ルアソルは想像以上の空に、魅入ってしまう。
 壁の中から見上げた空の、なんと小さかったことか。
 壁の外の空の、なんと広いことか。
 闘技場だけが生きる世界だったルアソルにとって、空は途方もなく広く見える。ルアソルの意識は空にすべて吸い込まれていた。
 やがてようやく空を見るのをやめた彼は、夕陽の見えそうな方向を目指すことにした。しかしその前に、長年暮らした世界を振り返る。
 内側と外側の壁に、大差はなかった。見上げる壁の高さも同じだ。ただ、闘技場はルアソルが思っていたよりも大きく見えた。闘士たちが暮らし、訓練し、闘う場所。それが闘技場のすべてだと思っていたのだが、どうもそれ以外の建物もくっついているらしい。試合を行う場所に隣接しているようだ。ルアソルはそこを目指して歩いていく。
 すると、そこには壁の半分ほどの高さがある巨大な柱が目に飛び込んできた。柱はルアソルの知らない建物からせり出している屋根を支えている。屋根の下は巨大な石が敷き詰められていて、その向こうはぽっかりと大きな口が開いている。見張りらしい人影がその口の両端に立っているが、驚いたことにその横を行き来する人の行く手をふさぐようなことは一切していない。
 あそこは、巨大な出入り口なのだ。闘士のものなどではないのは、咎められることなく往来する人影から明らかだった。
 闘技場と繋がっている建物があることも知らなければ、そこに巨大な出入り口があることも知らなかった。同じ建物の中で長年暮らしながら、一方には狭く小さい出入り口しかない。それなのに、もう一方には壁を大きく穿った入り口がある。
 空を見たときとは違う衝撃が、ルアソルを襲う。壁一枚隔てただけで、まるで違う世界がある。
「晴れて自由の身となった感想はどうだい、ルアソル」
 聞き覚えのある声に、ルアソルは再び驚いた。見ると、ヴァラトナが立っていた。彼から少し下がったところには、ヴァラトナよりは身なりの劣る男が立っている。そのさらに後ろには、人が数人入れそうな、車輪と扉の付いた箱があり、その箱には二頭の馬がつながれている。あれが、馬車というものだろう。
「君が見ているあれが、闘技場への入り口だよ。巨大な玄関になっている」
「……あんたたちは、あそこから試合場に来ていたのか」
 見上げるのではなく、初めて同じ高さに立ってヴァラトナと話す。ヴァラトナはルアソルより頭一つ分くらい背が低く、見上げていたときよりも小さく見えた。
「あれが我々の玄関だ。大きさに驚いたかい」
 ヴァラトナはおかしげに言った。後ろに立つ男は、軽く目を伏せて表情を変えない。
「自由を得た闘士で、あの玄関の存在に気付いた者は、その大きさに驚く。君もその例に漏れないようだ」
 本当は大きさだけに驚いたわけではないが、ヴァラトナが話している間はそれを黙って聞くという癖がついてしまっている。ルアソルは否定も肯定もしなかった。
「次に驚くのは、闘技場の周囲の景色。何もないだろう」
 ヴァラトナは両手を広げ、あたりを示して見せた。彼の言う通り、闘技場の外は、がらんとして何もなかった。貴族たちが大勢やって来るのだから、彼らは闘技場のすぐ近くに住んでいるのだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。では彼らはいったいどこに住んでいて、どこからやって来るのだ。
 ルアソルの反応を満足げに見ながら、ヴァラトナが言葉を続ける。
「あちらを見てごらん、ルアソル」
 ヴァラトナは、玄関の正面となる方向を指さした。小さなでこぼこが見える。近くにそびえる壁しか知らないルアソルには、それがどれほど遠いのか見当がつかなかった。だが、これが『遠くの景色』だと思うと、闘技場を出てまでヴァラトナの話を黙って聞かなければならない今の状況も、大したことではない。
「あれが、ここファルホートの王都ホルファトだよ。我々はあそこに住んでいる」
「おうとほるふぁと?」
 ここがファルホートという国であるということは知っていた。国がどんなものかはよく知らないが。
「王都。王のおわす街で、その名がホルファトという」
「まち?」
「闘士は、本当に闘うためだけに生きてきているんだな」
 改めて感心したように、ヴァラトナが腕を組む。
「街とは、多くの人間が集い生活している場所のことだよ。人が多い場所ほど大きな街ということになるが、ホルファトはファルホート最大の街だ。あそこへ行けば、望む物はなんでも、手に入る。金はいるがね」
 闘士が命を賭けて闘うことと同等の価値がある金には、そんな意味があったのか。
 闘技場を出るときに渡された小袋を思い出す。口を縛っていた紐をほどいて中身を見てみたら、丸く小さい金属の板が十数枚入っていた。大きさ、色は様々で、同じ種類の板には同じような模様が刻印されていた。それが金と呼ばれるもので、硬貨というのだと初めて知った。金と硬貨は同じものだが、違う呼び名があることに驚いた。
「金は持っているだろう、ルアソル」
 訊かれて、ルアソルは頷いた。
「ここからいちばん近い街がホルファトだが、歩いて行くには遠すぎる」
「……見えているのにか?」
 地面から生えているようなでこぼこが、おそらく建物なのだろう。すべての建物は繋がっているのか、同じような灰色に見えた。かすんではいるものの、見えている。見えているのに、遠すぎるというのか。歩いてどれほどの時間がかかるのか、ルアソルにはまったく想像がつかなかった。
「――見えていても、遠いもの、手の届かないものはいくらでもある」
 ヴァラトナが口元に笑みを浮かべた。
「今まで闘技場の中にいたおまえにも、それは分かるだろう?」
 そう言われると、頷くしかなかった。彼の言う通り、闘技場の壁はあまりに高く、端が見えていても、そこに手をかけ乗り越えることは決してできなかった。
「わたしが送っていこう。乗りなさい」
 ヴァラトナはそう言うと、馬車に乗るようルアソルに促した。

◇◆◆◇

 様々な衣装をまとった大勢の人がいた。子供もいる。大人もいる。男も、女も、年寄りもいた。
 これほど多くの人を、ルアソルは見たことがなかった。闘技場に集まってくる貴族たちの数よりもずっと多い。
「人の多さに驚いたかい」
 行き交う人々を見ているルアソルを、ヴァラトナは面白そうに見ていた。
 馬車に乗せられ、ホルファトまで連れてこられたルアソルは、街の一角で降ろされた。ヴァラトナの話では、最もにぎやかな場所に近いところだという。
「ここから向こうの方へ行けば、もっと人がたくさんいる。宿もある」
 ヴァラトナが指さした方を見る。そちらの方へ歩いていく人の方が多いようだった。
「宿の取り方、買い物の仕方、その他日常的なことは、さっき教えた通りだよ。覚えているね?」
 ホルファトまでの道中、ヴァラトナは闘技場の外のことを色々と教えてくれた。外で育っていれば誰もが知っている『当たり前』のことだということだったが、それでもルアソルの知らないことばかりで、今までで一番熱心にヴァラトナの話を聞いていた。
「それでは、ここでお別れだ、ルアソル」
「最後に、訊きたいことがある」
 馬車に乗り込もうとするヴァラトナを、ルアソルは引き留めた。馬車の中では、生活していくための話ばかりだった。その話を聞くこともルアソルにとっては必要なことで、また夢中になっていたのは確かだが、知りたかったことはそれだけではない。肝心なことを訊いていない。
「……なんだい?」
 乗り込むのをやめ、ヴァラトナがルアソルに向き直る。
「夕陽は、どこへ行けば見られるんだ」
 その質問に、ヴァラトナは軽く目を見開いて驚き、それから笑った。
「なるほど、闘技場の中にいては夕陽を見ることはできまい。しかし、まさか闘技場から出た闘士が、夕陽を見たいと言い出すとは思わなかったよ」
 ヴァラトナはひとしきり笑ってから、言った。
「あそこに見えるのが、王のおわす城だ。ここからでも、階段が見えているだろう」
 多くの人々が流れていく方から少し東よりの方を、ヴァラトナが指さす。ほかの建物よりひときわ大きな建物がそびえているのが見え、ちょうどほかの建物の隙間から、城とかいう大きな建物に繋がっているらしい階段も見えていた。
「あそこの上までは、自由に出入りできる。そこへ行けば、夕陽がよく見えるだろう」
 そう言うと、ヴァラトナは今度こそ馬車へ乗り込んだ。
 馬車が走り去るのと同時に、ルアソルは城を目指して歩き始めた。多くの人とすれ違いながら、教えられた階段をひたすら目指す。
 ようやく階段に辿り着いた時には、空の色が、少しずつ変わり始めていた。ルアソルはその空を眺め、階段を大股で上っていく。
 頂上は広場のようになっていて、まばらだが人影がある。階段から更に広場を真っ直ぐに突っ切っていった先には、この位置からでも見上げなければならないほど大きな城がそびえている。
 ルアソルは広場に足を踏み入れ、辺りを見回した。広場は柵でしきられていて、そこから街を見下ろせる。大抵の建物は、広場よりも低い位置にその屋根があり、見晴らしが良かった。
 昼間の真っ白な色から赤く変わり始めている太陽に惹かれるように、柵に近づいていく。
 西の空は、ルアソルが闘技場を出た時に見た空と同じとは思えないほど、赤く染まっていく。それよりもずっと赤い太陽が、今はルアソルとほぼ対面する高さにまで落ちてきていた。

 赤い――。

 目を焼き尽くさんばかりの輝きだったが、ルアソルは目を細めて沈みゆく陽を見ていた。
 燃えるような赤。闘技場で、血に濡れてきたルアソルにとって、赤は見慣れた色のはずだった。それなのに、こんなにも違う。
 これほど鮮やかな赤を、ルアソルは見たことがない。
 赤い夕陽の色を取り込もうとするように、ルアソルは夕陽を見つめていた。言葉にならない感情が湧き上がる。ただただ、目を離すことができないでいた。
 自分の目にも、あれと同じ赤があるのか――。
「きれいな夕陽ね」
 不意に声をかけられて、ルアソルは驚いてその声の主を見やった。夕陽に気を取られていて、人が近付いてくるのに気付かなかった。
「おまえ……」
 ルアソルは驚いて目を見開いた。
 小麦色の肌をした女が、夕陽を受けて立っていた。
「きれいな色だね」
 女は微笑を浮かべ、ルアソルを見る。
 ルアソルは言葉もなく、女を見つめ返していた。


 夕陽を見れば女に会えると願っていた。
 それが思い込みであることは承知していた。


 まさか本当に、女に再会できるとは思っていなかったのだ。

◇◆◆◇

 小麦色の肌を持つ女に誘われるまま、ルアソルは彼女についていく。ヴァラトナに教えられた、最もにぎやかだという場所に戻ってきていた。
「ここのお店、安いけど美味しいのよ」
 彼女はルアソルの腕を引いて、その店に入った。ルアソルは物珍しげに店内を見回しながら、促されて椅子に腰掛ける。同じ丸机の向かいに、女も腰を下ろした。それから、彼女は慣れた様子で品物をいくつか注文していく。ヴァラトナに教えられはしたが、こういったところに入るのは初めてなので、ルアソルは黙って女の立ち居振る舞いを見ていた。
 ほどなく飲み物が運ばれてきた。素焼きの杯には、薄紫色の液体がなみなみと入っている。ルアソルが初めて見る飲み物だった。
「ソーというお酒」
 杯を不思議そうに見、手を伸ばそうとしないルアソルの様子に女が笑い、教えてくれた。
「あまり強くないけど、味はいいし値段も手頃だから、庶民はよく飲むの。お酒は初めて?」
「いや」
 闘技場でも、たまにであるが酒を飲む機会はあった。ただ、名も知らない酒で、このソーという酒のような色ではなかった。
「ルアソルは、お酒は強い方?」
「……俺の名を知っていたのか」
 ルアソルは彼女に名乗った覚えはない。初めて彼女と会った時も同じだ。女がルアソルの名を呼んだのは、今が初めてだった。
「知ってるよ。闘技場で、勝ったあんたの元を訪れる前に、教えられた」
 そうだったのか。彼女と過ごした夜、彼女がルアソルの名を口にすることはなかった。知らなかったからだと思っていた。また、二人しかいないあの場で、ゆきずりの身である者同士が名を呼び合うのも、どうにもおかしいとも思っていた。
 しかし、今はどうなのだ。ルアソルはその疑問の答えを求めるように尋ねた。
「おまえの名は?」
 女はあの夜と同じで、一夜限りだからと答えないだろうか。
 しかし、女が答えてくれなかったとしても、ルアソルはきっとそれがなんでもないことのように、彼女と酒を酌み交わすだろう。自分の望みが簡単に叶うことはなく、むしろ願いは叶わないものだという前提で考えるのが当たり前になっている。
 だが、もしも彼女が答えてくれたとしたら、それの意味するところは――。
 外の世界を知らず、共に育った仲間の屍を乗り越えてようやく辿り着いたのだ。叶わないとどこかで考えているのと同じように、叶うかもしれないとどこかで考えてもいいではないか。
 女は酒をひとくち飲み、もったいぶるようにルアソルの目を見つめる。それから、唇を綻ばせた。

「ウィシュカ」

 たった今聞いた名を、口の中で小さく繰り返す。
 ルアソルは、ウィシュカの名を聞いて、ようやく自分の願いはすべて叶ったのだと思った。

◇◆◆◇

 酒を酌み交わす間、しゃべるのはもっぱらウィシュカの方だった。外の世界を知らないルアソルにできる話と言えば、これまでの闘いの日々しかない。
 酒場の中は喧騒でうるさかったが、闘技場で聞く歓声とは雰囲気がまったく違っていた。血を流すことを求めて湧き上がる怒声は、どこか狂気じみてさえいたのだと知った。血生臭さと縁遠いこの場所で、ルアソルの過去を語るのはまったくの場違いだった。
 ウィシュカもそれを承知しているのか、ルアソルに闘いについて尋ねたりすることはなく、彼女が今まで見聞きした出来事や風景を、ルアソルに次々と教えてくれた。はじめは時折相づちを打つだけだったが、いつの間にかふと思ったことを口にするようになり、それをきっかけに話は時に思わぬ方向へ転がっていった。そうして転がりついた先でも、ふとした一言で、再び話が転がっていく。酒のおかげで、口の滑りがなめらかになっていたせいもあるだろう。だが、ルアソルはそれを心地良く感じていた。


 どのくらい話をしたのか分からなくなった頃、ウィシュカがそろそろ休みたいと言い出した。机の上には二人が飲み食いした食器が溢れていた。これほどゆったりと満足いくまで食事をしたのは、これが初めてだったことに、ルアソルはそこで思い至った。そんなことにも気づかないほど、ウィシュカとの会話を楽しんでいたようだ。
 勘定を済ませて外へ出ると、空には満天の星が輝いていた。しかし、思いのほか外には多くの人がいた。にぎやかさも店に入る前とさほど変わらないが、大半の者は多少なりとも酒が入っているようだった。
「こっちよ、ルアソル」
 通りを行く人々を見ていたら、ウィシュカがルアソルの腕に自分の腕を絡めてきた。それから、店に入った時と同じようにルアソルを先導していく。目的の場所には、すぐに着いた。先程の店の看板が小さく見えるくらいにしか離れていない。そこが、眠るための宿という店らしい。
 先程入った店と内装がまったく違うのは売り物が違うからだろうが、それでもルアソルにはやはり珍しく見える。宿に泊まる手順もヴァラトナに教わっていたが、ルアソルが意気込んで泊まろうとする前に、ウィシュカがさっさと店の者に注文をつけてしまい、ルアソルの出る幕もなかった。
 宿に入ってすぐ左手にある廊下を、やはりウィシュカに先導されて進んでいく。一番奥の部屋が、今日眠る部屋らしい。ウィシュカは扉を解錠して開けたところでようやくルアソルから離れ、先に部屋の中へ入る。ルアソルも続いて中へ入り、扉を閉めかけたところでようやく気がついた。
「俺とおまえは、同じ部屋なのか?」
 男女が同じ部屋で寝るとなれば、外の世界ではどうなのか知らないが、ルアソルにとって意味することは一つしかない。
 ウィシュカはさっさと寝台に身を投げ出していた。
「……もしかして、嫌だった?」
 顔を起こして、ルアソルを見る。
「あ、いや、俺はいいんだが……」
 すでに闘士ではないルアソルには、闘うことも褒美を与えられることもないはずだ。一方、ウィシュカの現在の身の上がどうなっているのか分からないが、三年前と変わっていないのならば、彼女は遊女だ。何もしていないルアソルと寝て、彼女は構わないのだろうか。
「わたしもいいから、こうしているんじゃない」
 ウィシュカが笑う。
 その笑みにひかれるように、ルアソルは寝台へ足を向けていた。

〈03へ続く〉–>

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