地上を往く 前編

 ローテーブルに鏡を置いて、その前に座り込んで深清(みきよ)は化粧をしていく。ベッドに恭介(きょうすけ)が腰掛けて服を着ていく様子が、鏡の端に映っていた。
「……今日、深清たちも〈一京(いっけい)〉に向かうのか」
「うん。出発するのは昼前だから、恭介たちの後だけど。お互い順調に行けば、今日の夜か明日には、〈一京〉でまた会えるね」
 鏡の中の恭介は着替えを終えていた。いつになく心配そうな顔をしている恭介と、鏡越しに目が合う。
「今の仕事、辞めないか」
「またその話? 辞めないって言ってるじゃない。わたしがあと三年頑張れば、最下層の居住権が手に入るんだよ。それまでに結婚すれば、恭介も最下層に移住できるのに」
「だったら、せめて、今日は休んだらどうだ」
 アイラインを引く手を止めて、深清は振り返った。
「でも、恭介は〈一京〉に行くんでしょう? わたしだけ休んでられない。それに、外勤の日に休んだら、居住権が手に入るのが、その分だけ遅くなっちゃう」
 だから休まないよ、と鏡に向き直る。
 本当は、〈一京〉には行きたくない。地上みたいな危ないところに出たくはない。
 そんなところへ行く深清を、恭介が心配してくれるのは嬉しい。一方で、恭介もまた危ないところへ行くのだから、深清だっていつでも心配している。
 だけど、恭介と二人で、安心して暮らせる場所に住むためだ。多少の危険や心配は我慢しなければならなかった。
「そんなことより、そろそろ仕事に行かないと遅刻するよ」
 深清に言われ、恭介がゆっくりと立ち上がった。
「……行ってくる」
「いってらっしゃい。また、〈一京〉でね」
 玄関に向かう恭介を見やると、彼は軽く手を挙げただけだった。

    ●

 重そうな雲が垂れ込めている。時刻は午後二時三十八分。昼間だが、雲のせいで薄暗い。
 いや、地上はいつでもこうだ。空から水平方向に視線を変えれば、どことなくかすんでいるように見える。
「今日は視界がいいな」
「一昨日雨が降ったから、そのせいでしょうね」
 助手席の渡辺(わたなべ)の言葉に対して、運転席の東郷(とうごう)は気のない返事だ。もっとも、それはほとんど意味のない会話で、そこから話が広がることはなかった。
 渡辺は渡辺で、進行方向を見たり、助手席側の窓の外を見たりと、視線をあちらこちらに向けている。その目つきは厳しく、彼がよそ見をしているのではなく、警戒を怠っていないのだと分かる。
 運転席側の後部座席に座る深清も、窓の外に視線を戻した。移動中、乗員は常に周囲に気を配らねばならないのだ。
 道は、かつては四車線あったと思われる。しかし、まともに車が走れるのは中央の二車線だけだ。その二車線も舗装がぼろぼろで凹凸が激しく、装甲輸送車は絶えずエンジンのせいではない振動をしている。
 この仕事に就いたばかりの頃は慣れなくて、ひどい気分に見舞われたものだ。周囲を警戒するのもおぼつかなかった。
 道の両側には、砕けた大小様々ながれきが転がっている。遠くには山々が連なっているはずだが、視界がいいとはいえ、それは見えなかった。この道から稜線が見えるのは、よほど視界がいい日に限られる。
 深清が都市間連絡員となってから二年たつが、まだ一度しかお目にかかっていなかった。
 約二百四十年前、小惑星衝突によって、大気中に膨大な量の塵が巻き上げられた。そして、運悪く、あるいは隕石の衝突が誘引したのか、世界各地の火山活動が活発化し、地球の環境は激変した。
 成層圏まで巻き上げられた大量の塵は厚い層となって地球を覆い、太陽光を遮断。火山から吹き出した大量のガスは、その塵と化学反応して、大気の組成は生物にとってあまりよくない方向に変成した。
 環境の急激な変化についていけないと判断した人類は、地下都市を建設してそこに移住した。火山活動が収まり、塵がなくなるまでの間だけ、と我慢して。
 それから二百年以上たつが、塵は未だに地球を覆っている。地上は昼間でも薄暗く、大気は有毒なままだ。防塵機能付防毒マスクと全身を包む防護服なしでは、とても歩けたものではない。その上、もっと危険なものが、地上にはいるのだ。
 そんな場所を、深清たちは、大型の装甲輸送車に乗って移動していた。小型バスほどの大きさで、深清の隣にいる葉(よう)を含めて、乗員は四人。後部座席の後ろは壁で仕切られていて、その向こう側に、深清たちが運搬している大事な積み荷があった。
 地下都市は、蟻の巣のように縦にも横にも広がっている。深清たちが住んでいるのは、そんな地下都市の一つ〈広咲(ひろさき)〉だった。
 今は、北の地下都市〈一京〉を目指し、ひたすら灰色の地上を走っていた。
 深清たちが目指している〈一京〉は、ここ関東地方では最大規模を誇っている。〈一京〉に及ばないが、〈広咲〉も大規模な地下都市だ。
 地下都市は、運営するために必要なほとんどすべてを内部で生産しているが、一都市だけではどうにもならないものや、事柄もある。
 その一つが、情報だった。
 かつては世界中の人間と、コンピューターネットワークなど様々な手段で手軽に繋がることができたという。今は、同じ地下都市内であれば問題はないが、隣の都市とでさえ容易ではない。
 一つ一つの都市は巨大だが、都市と都市を繋ぐ術が、物理的手段しかないのだ。塵のせいで、通信衛星は遙か昔に無用の長物となっていた。都市と都市を繋ぐ通信ケーブルのデータ送信量は限られているので、それを利用できるのは行政機関だけだ。
 その行政機関でも、即時性が求められないものや重要度が低いものは、通信ケーブルで送信せずに都市間連絡員が運ぶ。
 深清たちは〈広咲〉の都市間連絡員だ。積み荷の多くは行政機関のデータだが、民間のデータも少なくない。それに、個人のものもある。電子的なデータだけでなく、書類や手紙、小包などの物理的な積み荷も多い。
「『キリンの首』を通過」
 渡辺が事務的な声で告げる。
 かつて人間は地上で暮らしていて、道路があるところには街並みがあった。建ち並ぶビルや建物、その向こうに広がる遠景で、自分がどこにいるか分かった。
 けれど今、往時の姿をとどめているものはない。すべてがれきとなり果て、地上は似たような光景がどこまでも広がっている。遠くの景色は、細かな塵に阻まれて見えない。
 そのため、特徴のあるがれきには、目印として名前を付けていた。『キリンの首』もその一つである。『キリンの首』が元はどんな構造物だったのかは、誰も知らない。
「十五時か……。東郷君、少し遅れてない?」
 深清の隣にいる葉が、運転席の東郷を見る。もっとスピードを上げろ、と言いたげだった。
「雨の後で道の状態が悪いから、スピードを出せないんですよ」
「こんな都市と都市の間で横転したら、誰かが通りかかるまでにどれだけ待てばいいか分からないんだ。葉、文句を言うな」
 渡辺が振り返った。葉は「別に文句を言ったわけじゃないけど」と呟いてシートに身を沈める。
〈広咲〉を出発してから、一台の車も見かけていない。地上を走るのは都市間連絡員だけでなく民間の運送業者などもいるのだが、滅多にすれ違うものではなかった。
 渡辺の言うことは分かる。しかし、夫と娘を〈広咲〉に置いて地上に出てきている葉は、早く荷物を届けて家族の元に戻りたいのだ。彼女は、都市間連絡員となってもうすぐ丸五年たつ。
 地下都市を循環する空気は、地上から取り込んだ大気をフィルターなどに通して浄化したものだ。下層へ行くほど、空気が通過するフィルターの数は多くなる。
 行政機関の発表では、空気の清浄度も平均寿命や疾病の発症率も、階層による差はほとんど見られないとされている。けれど、最下層への移住希望者は後を絶たない。
 地下都市では、現在住んでいる階層より下の層へ簡単には引っ越せず、特別な許可が必要だ。地下都市は居住空間が限られていて、一つの階層に人口が集中するのを避けるため、というのが行政機関の言い分である。
 もっともらしい理由だが、上の層への移住は簡単に許可が下り、行政機関の中央庁舎はすべて最下層にある。本音は、最下層の人口増加を抑制したいのだ。
 最下層の居住権を手に入れる手っ取り早い方法は、行政機関に就職することだ。危険度の高い業務を担う公務員となり、勤務実績などで一定の条件を満たすと、早ければ数年で最下層へ移住できる。
 この方法のいいところは、競争相手が少ない点である。最下層の居住権はほしいが危険を冒すのも嫌だ、と考える人の方が多いのだ。
 地上という過酷で危険な場所で働く都市間連絡員は、五年勤め上げれば、地下都市最下層の居住権か、他都市への移住権を取得できる。葉は移住権を手に入れて、夫と娘と共に最下層へ移住するため、都市間連絡員になったのだ。
 今回、行って戻ってくると、ちょうど五年たつと言っていた。早く〈広咲〉に戻って、居住権を手にすると同時に退職願を出したいに違いない。
 葉に限らず、大概の連絡員は居住権や、他の職種より比較的高額な給料が目的だった。
 深清は葉と同じで、最下層への居住権がほしかった。恭介と付き合い始めた頃、居住権を得られると知り、家族や恭介の反対を押し切って都市間連絡員となった。
 東郷は、弟の治療費のためだという。渡辺はかつては居住権が目的だったが、今は養育費のためらしい。妻子だけが最下層へ移住し、その後離婚したそうだ。
「なんだ、あれは」
 助手席の渡辺が身を乗り出す。東郷もハンドルにかぶさるようにして行く手を見ていた。
「どうしたの?」
 葉と深清は、中腰になって前部座席の隙間から前を見やった。
「煙と炎……?」
 深清は目を丸くした。
 行く手に見えていたのは、黒い煙と炎だった。まだ距離はあるが、黒煙の量が尋常でなく多いのが分かる。
「東郷さん、スピードを上げてください!」
 深清の叫ぶような声に、東郷と葉が驚きの声を上げる。
「嶋田(しまだ)さん、何言ってるの!? あれはどう見ても、襲撃されてる最中か、その後よ」
「俺もそう思いますね」
 身を乗り出すのをやめた東郷は、むしろスピードを落としていた。
「この時間にこの辺りを走っているとしたらオサカベ運送です。助けに行かないと」
「嶋田、どうしてオサカベ運送だと分かるんだ」
 渡辺だけが落ち着いた声だった。
 オサカベ運送は、〈広咲〉を拠点に、都市間の運送を請け負っている民間業者だ。地上を移動する者として、都市間連絡員もその名前を知っている。
 ただ、具体的な運送時間など知るはずもない。普通は。
「……恋人が、オサカベで働いてるんです。わたしたちより先に〈広咲〉を出て〈一京〉に向かうって……」
 オサカベ運送で働く恭介とは、いつ、どこの地下都市へ向かうのか教え合っていた。お互いにそれは機密事項ではなかったからだ。
 知ったところで、何かできるわけではない。だけど、相手が地上のどこにいるのか、少しも分からずに心配を募らせるよりは、全然ましだった。
 ただ、こんな場面に遭遇すると、それが果たしてよかったのか分からなくなる。
 深清たちより早く〈広咲〉を出た恭介たちオサカベ運送は、今頃〈一京〉を目前にしているか、到着しているはずだった。
 それなのに、あの煙と炎。
 不安と絶望が一気に押し寄せる。

〈後編に続く〉

コメント

タイトルとURLをコピーしました