十六年目の「ただいま」

 窓から差し込む光は柔らかく、狭い室内にほのかな暖かさを届けている。
 昼間とはいえ、今は冬のただ中。暖炉に薪をくべて暖を取っても良いが、若いながらも一人で細々と生活しているラズは、節約できそうなところはなるべく節約している。だから、今日のように晴れた日は、窓辺で陽に当たって暖を取っている。
 その日もラズは、少しでも陽光の恩恵を受けようと、窓際に椅子を置いて繕い物をしていた。
 来訪者が玄関の扉を叩く音を聞いたのは、日射しの向きがだいぶ変わった頃だった。
 繕い物を自分の座っていた椅子に置き、ラズは部屋を出て玄関へ向かう。
「こんにちは」
 扉の開いた先にいたのは、見覚えのない若い男だった。長い間愛用しているらしい外套(がいとう)を羽織り、隙間からは革製の胸当てが覗いていた。視線をちらりと下に落として男の腰を見ると、剣を携えているのが分かる。
「うちに、なにかご用ですか」
 男が剣を持っていることを知り、ラズは警戒した。見たところ騎士はもちろん、兵士とも思えない。魔物退治などを引き受ける剣士か傭兵だろう。そんな人が、いったいどんな用で訪ねてきたのだろうか。道を尋ねるために訪れたのかもしれないが、ラズの家ははずれにあるとはいえ、村の一角だ。家の前の道に出れば、集落が遠くに見え、この辺り一帯が村であると分かる。今の時間帯ならまだ人が出歩いているはずで、わざわざ家の中にいる人に尋ねる必要はないだろう。
「君が、『ラズ』だね?」
 男はラズの問いには答えず、逆に確かめるような口調でラズの顔を真正面から見る。
「……どうして、わたしの名を知っているんですか」
 まっすぐにラズを見る男の表情は姿の割りに誠実そうで、ラズの警戒心が緩みかけた。しかし、見知らぬ男が自分の名を知っていたことで、それもすぐに引き締まる。
「君の父、ゾイから伺っている」
「え?」
 まったく予想していなかった答えに、ラズは目をしばたたいた。
 物心つかないうちにラズは母と死に別れ、母の妹夫婦に育てられた。二年前、流行病で叔母夫婦が亡くなってからは一人暮らしだ。ラズが覚えている限り、母もそうだが、それ以上に父が存在したことはない。母が亡くなって間もなく、ラズを置いて何処かへ行ったと叔母夫婦から聞かされた。
 自分を捨てたはずのその父が、何故他人に娘の名を教えるというのか。
「これを君に渡してほしいと頼まれて、君を捜していた」
 ラズがどれほど驚いているのか男は気付いた様子もなく、懐から掌に載るくらいに小さな瓶を取り出す。緑がかった硝子製と思われる瓶の中は空だが、コルクの栓がしっかりとしてある。指よりも細い瓶の首には、首から提げるためだろう、年季の入った長い紐が括り付けられているが、それは途中で切れていた。
「どうか受け取ってほしい」
 さあと目の前に差し出された瓶を、しかしラズは受け取ろうとはしなかった。
「受け取ることは、できません」
 父子二人きりとなったのに、父は傍にいてくれなかった。それを知った時ラズは父を恨み、母の死の原因が父にあると知った時、父を憎んだ。今もそれは変わっていない。
 ラズを捨てて以来、一度も便りを寄せたことすらないくせに、ちっぽけな瓶を渡そうとはどういうつもりなのか。それも、直接ではなく人を介して。今更ラズの前に現れることができないというのであれば、小瓶を渡すのも諦めたらいいのに。何もかもが、今更だった。
 ラズが受け取る様子を見せないどころか、徐々に表情を険しくしていくのを見て、男が困ったように頭を掻いた。
「せっかくお越し頂いたのに申し訳ありませんが、お引き取りください。父とは、もう何の関わりもないんです」
 そう言って頭を下げ、それで話は終わりとばかりに扉を閉めようとした。ところが男が瓶を持っていない方の手で扉を掴み、それを止める。
「受け取るか否かは、俺の話を聞いてからにしてくれないか」
 扉を押さえる男の力にまったく敵わないことを知り、ラズは扉を閉めるのを諦めた。そして、男を怪訝そうな表情で見上げる。
「俺がゾイと出会ったのは、四年前のことだ」
 男はラズの返答を待たず、ゆっくりと閉じかけていた扉を開け、話し始めた。

 ○●○●○

 約四年前、〈天空の涙〉と呼ばれる貴石の採掘現場で、同じ護衛としてタルクとゾイは知り合った。

 〈天空の涙〉は晴天の空から滴り落ちてきたような澄んだ青色の宝石で、それ故に昼を象徴するとされている。そして、〈天空の涙〉の採掘には魔物の襲撃が付き物であるため、数ある宝石の中でも希少性が高い部類に入る。魔物は闇の眷属であるが故に〈天空の涙〉に執着すると言われているが、はっきりしたことは誰にも分からない。
 ただ、魔物が〈天空の涙〉に執着することは事実であり、そのため〈天空の涙〉を採掘する時は護衛する人間も必要だった。
 タルクが働いていた現場での採掘が始まってから半年ほど経った頃、比較的多勢の魔物が襲来し、数名の護衛が命を失った。それから間もなく、新たな護衛が雇われてやって来たのだが、その中の一人に、ゾイがいた。
「あんなのが役に立つのか」
 岩盤を掘る鉱夫達も魔物を退ける護衛達も、〈天空の涙〉の採掘現場にいる者は大体が屈強な体付きをしている。しかしゾイは、そこにいる誰よりも細身で、とても魔物を倒せるほどの力があるようには見えず、新たに加わった仲間に混じるひ弱そうな男を見て、誰かがそう呟いたのは無理もないことだった。
 タルクも、口には出さなかったものの、ゾイを見て「あの男は今度の襲撃で死ぬんじゃないのか」と心配になったのを覚えている。
 だが意外なことに、ゾイは強かった。体が軽い故に身のこなしが素早く、迫りくる魔物の爪をかわして懐に飛び込み、一撃で急所を突く。夜の訪れと共に現れる魔物の存在を誰よりも早く察知し、そして誰よりも多く退治した。
 それだけの活躍を見せれば弱そうな見た目に関係なく、仲間から信頼を得そうなものだが、ゾイは違っていた。彼の腕を疑う者は何度かの魔物襲撃を経ていなくなっていたが、彼に積極的に話しかけようという者も、日を追うごとにいなくなっていたのだ。
 ゾイの首に提げられた、硝子製の小さな瓶。ことあるごとに彼はその小瓶を撫で、語りかけていた。愛しげとさえ言える表情で、柔らかく優しい声音で。
 その姿はたびたび目撃され、護衛達の間に話が広まるのにそう長くはかからなかった。ゾイ自身が積極的に人の輪に加わろうとしなかったことと相まって、「強いが変人」という評価が定着していった。タルクも、ゾイをそういう男だと認識し、積極的に関わることをしなかった。しかし。
「――星がこぼれ落ちないのが不思議なくらい、とても美しいんだよ」
 ある夜、魔物の襲撃を警戒して見回りをしていたタルクは、積み上げられた資材の上に座り、星空を見上げているゾイを見つけた。
 冬の初めとはいえ、夜は冷え冷えとした気配に包まれる。仰ぎ見れば、季節が移ろっていることを示すかのように、冷めた夜空を彩る星々が冴え冴えと輝いている。黒い空に浮かぶ星影をすべて数え上げることなど、到底不可能だろう。ゾイの言うとおり、どれか一つくらい落ちてきてもおかしくないほど、夜空は星で満ちあふれていて、美しいという言葉がこれ以上にないくらい似合っていた。
 胸元の小瓶を手に、そんな満天の星空を見上げるゾイの口振りは、まるでかたわらに誰かがいるようだったが、そこにはゾイとタルク以外の誰の姿もない。あれがゾイの変人たる所以かと、タルクは関わり合いを避けようと、その場を立ち去ろうとした。
「いつか、おまえにも見せてあげたいよ……ラズ」
 大切なものの名をそっと呟くゾイの声が、その前に耳に飛び込んできた。そして、変人と噂される男の、まさにその根拠となる現場に居合わせたタルクは、しかしゾイの横顔に隠しきれない寂しさが宿っているのを見てしまった。愛おしそうに小瓶を撫で語りかけながら、ゾイの目は、泣くのではないかというくらいに悲しげだったのだ。ゾイはそれきり何も言わず、寂しげな表情をそのままに小瓶を握りしめ、星空を見上げていた。
 どのくらいそのままだったのか、タルクにも分からない。ゾイが星空を黙って見上げているのと同じように、タルクもまた、じっとゾイを見ていた。さっさと見回りに戻れば良かっただろうに、足は動かなかった。
 〈天空の涙〉の採掘現場に、ゾイほど不似合いな容貌を持つ男はいないだろう。その男が見せる奇妙な言動と表情の理由を、知りたかったのかもしれない。
「一人でそんな外れにいると、危ない」
 タルクは資材の上のゾイを見上げ、静かに言った。
 魔物は夜陰に紛れて姿を現す。夜、人々が集まる場所には灯りがあるが、こんな外れの場所ではそれもない。魔物はそんな暗がりから現れる。タルクがゾイにかける言葉として警告を選んだのは、彼の行動を盗み見た後ろめたさからだった。
 ゾイはタルクの心情を知ってか知らずか、星空からタルクへ、ゆっくりと視線を下ろす。
「俺と一緒にいる方が、危ない」
 タルクが予想もしていなかった応えが返ってきた。ゾイの表情は穏やかだったが、先程タルクが見た寂しさは変わらない。
「君は皆がいる所へ戻った方がいい。俺なら大丈夫だから」
 思えば、タルクがゾイと話をするのは今夜がほとんど初めてだった。護衛達は数人の班を組んで魔物を退治するが、タルクとゾイは班が違うから接触する機会が少なかったのだ。落ち着きのあるわずかに掠れた声は、彼によく合っていると思った。
「俺は魔物の気配に聡い。だから、大丈夫だ」
 まるで一人にして欲しいと言わんばかりの口振りに、逆にタルクは離れる気がなくなっていた。先程湧き上がったゾイへの興味のせいもあっただろう。
「隣、いいか」
 ゾイのいる資材の上にあがると、ゾイの返答も待たずに隣へ腰を下ろした。タルクが横へ来るのを見て、ゾイは小瓶に栓をする。小瓶を扱う手付きは丁寧だった。
「大切な物なのか」
 ゾイはタルクを一度見て、それから小瓶に視線を落とした。そして、それを手に取る。掌にすっぽりと収まる位の大きさしかなく、中は空だった。
「君も、変わっているね」
 目を細め、声なく笑う。君も、と言うことはゾイは自分が変わっていると自覚しているのだろう。
「ならばこんな話を、信じるかな」
 タルクの返答を待たず、ゾイは先を続ける。
「俺は昔……そう、今の君よりも若かった時、〈黒月石(こくげつせき)〉を体内に取り込んだんだ」
「〈黒月石〉を?」
 それは、魔物の体から稀に取れる真っ黒な石だ。出所は魔物だが、漆黒の輝きが重宝される、〈天空の涙〉に並ぶ貴石である。ある特殊な液体にのみ溶け、それを飲めば、その〈黒月石〉を持っていた魔物と同じ強さを手に入れることができると言われている。ただし――。
「ああ、そうなんだ。〈黒月石〉をある液体に溶かして飲めば、その〈黒月石〉の出所である魔物と同じ強さを得られるんだよ。知っているかい」
 タルクは頷いた。誰もが知っている話ではなく、むしろ眉唾物の奇妙な伝説であるが、タルクは知っていた。
「俺は、倒すのにかなり苦労した魔物から〈黒月石〉を手に入れた。そして、本当に魔物の強さを得ることができるのか、試してみたんだ」
 その結果は聞かずとも分かった。この方法で強さを得るには、愚かな勇気が要る。〈黒月石〉を飲んでもそれが体に合わなければ、死んでしまうのだ。ゾイが、それを飲んでも生きているということは。
「だから、あんたは強いんだな」
 一見弱そうな容姿に反する強さは、そのためだったのかと納得する。それと同時に、タルクはゾイが人を遠ざける理由を知った。
 〈黒月石〉が体に合えば、魔物の強さが得られる。ただし、〈黒月石〉を体内に取り込むということは、ある意味では闇の眷属になることでもある。だが、魔物を倒して闇の眷属になった人間を、魔物は同族とは認めない。むしろ同族殺しの憎き仇として、魔物に付け狙われることになる。得た力が大きければ大きいほど、魔物に狙われやすくなるという。
 そういえば魔物が現れた時、魔物達はゾイの周りに多くいなかっただろうか。ゾイが次から次に鮮やかな剣さばきで倒していくから気付かなかったが、ゾイが魔物の群に向かうのではなく、魔物がゾイに向かっていたのではなかっただろうか。
「偽りの強さだよ」
 ゾイは自らの浅はかさを悔やむように笑った。
「〈黒月石〉を飲んで、俺は確かに強くなった。最初のうちは、その強さがあれば魔物に狙われても恐ろしくないと思っていたよ。だけどある女性と出会って、彼女と共に生きたいと願った時、俺は自分のしたことの愚かさに気付いたんだ」
 言葉を切ったというよりは自分の言葉を噛みしめるような間を置いて、ゾイは再び口を開いた。
「魔物は俺の存在を許さず相変わらず付け狙う。戦う術を持たない者と共にいることは難しい……。それでも俺と彼女との間に娘ができた。俺は、二人を守りきるつもりだった」
 そう語るゾイは、今ここに一人でいる。
 沈黙が、星影を浴びる二人の間に流れる。ゾイは、小瓶を持っていない方の手を固く握りしめていた。
 タルクはゾイの話を嘘とは思わなかった。だが、かける言葉は何も出てこない。何を言っても気休めにしかならないだろう。〈黒月石〉で力を得るには、愚かな勇気の他に孤独に生きる覚悟が必要なのだ。その覚悟がなければ、ゾイのように誰かを失い悲しむこととなる。
「俺は元の体に戻りたい……。娘と、ラズともう一度共に暮らしたいんだ」
 長い沈黙の間にいつのまにかうつむいていたゾイが、絞り出すように呟いた。
 タルクはゾイが失ったのは彼の妻だけだったことと、娘と離れてでも元の体に戻ることを切実に欲していることを悟った。二人の存在が、それだけ彼に大きな変化をもたらしたのだろう。
「これが大切な物かと、さっき尋ねたね」
 顔を上げ、ゾイは握りしめている小瓶を示した。タルクが小さく頷くと、ゾイはそっと小瓶を撫でて言った。
「この小瓶に語りかければ、その言葉はそのまま中に収められる。そして、ある言葉をかければ収められた言葉を聞くことができる――娘と離れて間もなく、古物商で手に入れた代物だよ」
 まるでそれが、離れ離れになっている娘であるかのようにゾイは小瓶を見つめていた。
「俺は酷い父親だ。妻が死んだのは俺のせいも同然なのに、娘を人に預けて今こうしているんだからね。その罪滅ぼしというわけではないけれど、娘と離れてから俺が見たもの聞いたことを、これに語り続けているんだ。いつか娘と再会した時、離れていた間の俺を知ってもらおうと思って」
 だから、ゾイは変わり者と思われようとも小瓶に語り続けていたのかと納得する。同時にそれは、彼の娘への想いの深さを表しているように思えた。
「娘と離れて十三年になる。でもここでの採掘が一区切りつけば、俺は元の体に戻れる」
 その時になってようやく、ゾイの顔に笑みが浮かんだ。〈黒月石〉で得た強さは、〈天空の涙〉で消すことができるのだ。〈黒月石〉の話以上に眉唾物で、魔物の強さを得た者しか知らないであろう言い伝え。ゾイはきっと十三年もの間、元に戻る術を探し求めてとうとう〈天空の涙〉にたどり着いたのだろう。この現場の護衛達は、採掘に区切りがついたらわずかではあるが、〈天空の涙〉をもらえることになっているのだ。
「娘さんに会えるといいな……」
 タルクはようやくそれだけを言った。それ以外に言えることは何もなく、ゾイにとってそれが最も励ましになる言葉だろうと思って。

 ○●○●○

「それに、父の声が……?」
 玄関先に立ったままタルクの話を聞いていたラズは、タルクの手中にある小瓶を見た。とても信じられない。だが、語るタルクの表情は真剣そのものだった。
「彼の想いと共に、中に詰まっている」
 タルクは再度ラズに小瓶を差し出す。ラズは、まだ受け取るのはためらわれ、その代わりに小瓶を見つめた。
「どうして父は、それをあなたに託したんですか。あなたの話が本当なら――」
 自身の手でラズに渡すことこそ、父の望みだったのではないか。
「彼は、採掘に区切りがつく直前に亡くなった。魔物と戦っている最中に紐が切れて、落ちた小瓶を拾おうとして……。三年前になる」
 表情を曇らせているタルクの話を聞いてすぐに、父への恨みが消えることはない。だけど父への思いがわずかながらも変わりつつあるのは事実だった。
 もとよりいない者だと思っていたにもかかわらず、その父の死をはっきりと知った今、ラズは少なからずの衝撃を受けていた。そして、そんな自分自身にも驚いている。
「三年も、わたしを捜していたんですか……」
 しかし口から出て来たのは、父の死とはまったく関係のないことだった。
「彼の最期の頼みだったからね。俺はそれを、叶えてあげたかった」
「どうしてですか。あなたは父と、それほど親しかったわけではないんでしょう」
 タルクが三年もの月日を費やしたという事実は、別の意味で驚きだった。話を聞く限りでは、タルクがゾイのためにそんな時間をかける義理はないはずだ。
「俺も、ゾイと同じだったんだ」
 タルクは、微かに苦笑した。
「昔、俺も〈黒月石〉で力を得た。ゾイほどの強さはなかったけどね。それでもその力に嫌気がさして〈天空の涙〉を求めていた時に、ゾイが同じ境遇だと知った――だから、ゾイの気持ちがよく分かる」
 束の間の付き合いしかなくとも、三年の月日をかけることができる、かけるだけの理由となる。それが、〈黒月石〉で強さを得るということなのだろうと、ラズは驚きと共に感じた。
「受け取ってくれ、ゾイの想いを。君の言葉に応えてくれるから」
 タルクは扉の把手からラズの手をそっと引き離し、小瓶を握らせた。ラズは引き寄せられるようにコルクの栓をつまみ、そっと開けた。ここに、ラズの知らない父の声が詰まっている。
「……父さん」
 ためらいと戸惑いが入り交じった声でささやく。
「――やあ、ラズ。これを聞く頃には、いくつになっているかな」
 ラズの呼びかけに応えるように、瓶の中から少し掠れた、彼女の知らない声が聞こえてきた。男の少し掠れた声は、どうしてラズを置いていってしまったのか、その理由を語り、謝罪をする。
「離れていた間の俺のことを知ってほしいと思って、声を残すことにしたよ。でももしかしたら、俺は生きておまえの元に戻れないかもしれない。そのためにも、何かを残しておいた方が良いかと思ったんだ――」
 魔物と戦ったことのないラズでも、魔物がいかに恐ろしく手強いものかは幼い頃から教えられて知っている。〈黒月石〉で強くなったとはいえ、ゾイは元の体に戻るという志半ばで死ぬかもしれないことを、覚悟していたのだろう。
 やがて声が美しい風景、珍しい出来事を語っていく。少し掠れた、しかし温かい声に耳を傾けながら、ラズは涙を流していた。
 こんな瓶、放っておけば良かったのだ。そうすれば、今ラズの目の前にいるのはタルクではなく、ゾイだったかもしれないのに。瓶に頼らず自分の口で、ラズの知らない風景や出来事を語ることができただろう。ラズとゾイの間にある十六年分の空白は、言葉を交わすことで埋められたかもしれない。戻ってこれないかもしれないと覚悟したことが、逆にゾイに無理をさせることになったのかもしれない。
「こんなの、ずるい」
 ラズのためだけに語るゾイの声は、優しさに溢れている。けれど、ゾイは語るだけだ。一方的に語りかけてくるだけだ。
 ラズが長年父に対して抱いてきた色々な思いを、空の瓶が受け止めて言葉を返してくれることは、決してない。
 そう思うとなおさら涙が溢れてくる。父は、一度もラズの恨み言も何も、聞いてはくれなかった。
 それでも、あるのは恨み言ばかりではない。
 父への恨みが、すぐに消えることはないだろう。すべてが消え去ることもないだろう。けれど、小瓶から溢れてくる父の声が、それを少しずつ和らげていく。
 ゾイの長い長い話をすべて聞くには、長い時間がかかるだろう。どれだけ時間をかけてもいいと、今なら思える。
「おかえりなさい、父さん……」
 両手で小瓶を握りしめ、ラズは涙と共に呟いた。

〈了〉

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