アリューセリドの道守/後編

 女神の姿をようやく再び見ることはできたが、その時カイの胸をよぎった嫌な予感はこびりついてなかなか消えることはなかった。それを打ち消そうとするように、カイは今まで以上に念入りに神殿や道の掃除をした。そうすれば、もう一度アリューセリドが現れて、今度は涙を流していない顔を見せてくれるのではないかとも期待した。

 ◆◆◆◆◆

 いつもと同じように供物を抱えたカイは、すぐに『それ』に気付いた。
 細い道に残された無数の足跡。人の足跡に混じり、馬の蹄らしい跡もあり、更に荷車を引いていったようなわだちも残っている。そこを通った人々は狭い道には入りきらなかったのか、道の境界の草は無惨に踏みつぶされていた。
 足跡は神殿の方へ向かっていた。
 カイは慌てて道の先、神殿のある方を見ると、うっすらと煙が上がっているのが見えた。
 はじめは火事かと思った。しかし、火事にしては煙が小さいような気がする。
 アリューセリドの神殿へ参拝する人は滅多におらず、この道を毎日行き来するのはカイと、アリューセリドくらいしかいない。突然参拝者が増えるとは思えない。踏み荒らされた道と、立ち上る煙はカイの不安をかきたてていた。
 いつもとは違う、それも良くないことが起きている気がする。カイは供物を抱え、神殿へ走った。


 神殿の周りで繰り広げられている光景は、カイにとってはこの世の終わりそのものと言ってもいいものだった。そんな光景を見て打ちひしがれた時の、胸を押し潰されるような苦しさを人は絶望と呼ぶのだろう。
 神殿の周りには、平和を司る女神にはふさわしくない、武装した兵士たちの姿が多くあった。わだちを残していったのは馬車らしく、その馬車からは大きな袋や、この場所に最も似つかわしくない様々な種類の武器が降ろされ、それが神殿の中へと運び込まれている。神殿の前には大きな穴が掘られ、その中でなにかが燃やされており、煙が上がっていた。
 いったい何が起きているのか分からず、カイは呆然とその光景を見ながら、いつしか足の動きは遅くなっていた。
「止まれ!」
 神殿のすぐそばまで来た時、恫喝するような声が耳を打つ。道の終わりに立っている兵士が二人、まるで行く手を阻むように槍を交差させていた。その内の片方の兵士は、カイのよく見知った人物だった。
「この先は立ち入り禁止だ。用がないのなら、帰れ」
 見知らぬ方の兵士は反論など許さないような強い口調で命令したが、カイは頷くわけにはいかなかった。
「フロイ。これはいったい何事なんだ!」
 もう一人の兵士――数ヶ月前に見送った友人に詰め寄った。フロイは、口を固く引き結び、気まずそうにカイから視線を逸らした。
「おまえが、フロイが言っていたハインズ家の者か」
 兵士が、フロイに詰め寄るカイを睨む。フロイはきっと、このあたりに詳しいから連れてこられたのだろう。そしてこの兵士はフロイから、神殿を守る一族がいるという話を聞いたに違いない。
「いいか、アリューセリド神殿は、今日より第三師団の宿営地となった」
 兵士は冷たく、突き放すような口調で告げた。
「宿営地? そんな勝手に……しかも、よりによって平和の女神の神殿を?」
 兵士の言葉をにわかには信じられず、カイはその兵士とフロイを交互に見る。フロイはますます気まずそうな表情になり、小さな声で「そうだ」と言った。
「ここは元々我が国が所有する地だ。貴様のものではない。帰れ」
 兵士はとりつくしまもなく、帰れと繰り返し、手で追い払う仕草をした。だがそれでも、カイは退こうとはしなかった。
「この神殿を守れと、ハインズにその役目を授けたのも我が国です」
「何百年前の話だ。それに今はもう、平和の女神など誰も必要としていない」
「何十年と終わらない戦を続けているのならなおさら、平和を祈ることが必要ではないのですか!」
 平和を司る女神アリューセリド。彼女を否定することは、ハインズ家の歴史そのものを否定することと同じだった。カイのこれまでの人生もまた、同じである。
 自分は、誰にも必要とされていないものを守り続けてきたのではない。戦乱の世が終わりを告げることを願い、平和な時代が訪れてアリューセリドが微笑む日が来ることを祈り、カイはこれまで神殿とそこへ繋がる道を守り続けてきたのだ。
「黙れ! 戦にも行かずに田舎に隠れ暮らしていた貴様のような奴が、知ったような口をきくな!」
 兵士の怒鳴り声が響き、その声を聞き付けたほかの兵士たちの何人かが振り向いた。振り向き、カイを見る誰もが、怒鳴りつけた兵士と同じ目でカイを見ていた。
 その目は、カイを見る村人たちの目と同じだった。
 腰抜けだ村の恥だと言い、冷ややかな目で遠くからカイを見る。カイは、村人たちのそんな評価を甘んじて受け入れてきた。こんな世の中だからこそアリューセリドを信仰するのだと言い続けているが、心の奥底では、戦に出るのが恐ろしくてたまらないと思っているのもまた、事実だったからだ。だが、それでも、平和を祈る気持ちを持ち続けることは必要だとも信じていた。そうでなければ、兵士たちはいったい何のために戦い続けているのだ。
「貴様の役目は終わったんだ。戦に出て役に立つ気がないならば、帰れ」
 先程よりは抑えめな口調で、兵士が言った。フロイが心配そうな顔で、カイを見る。
 ここで引き返せば、本当にカイの役目は終わってしまう。しかしだからといって、フロイのように兵士になって戦う気にはなれない。自分には、アリューセリド神殿を守るために生まれ、そのために生きてきたのだから、それ以外の生き方など考えられなかった。
「カイ……ひとまず、帰ってくれないか」
 フロイが、ようやく口を開いた。しかしその口調は重い。この場を収めるために、フロイがそう言ったのは口調から分かった。
「フロイ……」
 引き返すことも、兵士になることもできない。この場に留まり続けることも、きっとできないだろう。どうすればいいのかと思いあぐねているカイの目に、信じがたい光景が飛び込んできた。
 等身大の、石で作られた古い女神像――その石像を作った人は神殿の主の姿を見たことがあるのか、アリューセリドとよく似ている――それを、兵士たちが神殿の中から運び出していた。
 運び出されたものは、使えそうなものと使えそうにないものに次々と仕分けされている。使えそうにないと判断されたものは、神殿の前に掘られた穴に投げ込まれていた。穴にものが投げ込まれるたび、炎が大きくうねる。
 数人がかりで抱えている女神像は、その穴の方へ運ばれていくところだった。
「やめてくれ!」
「カイ!」
 駆け出そうとしたカイの腕を、フロイが掴む。
「離せ、フロイ!」
 腕を掴むフロイの手をふりほどこうとするが、兵士として鍛えているフロイの力にカイがかなうはずもない。だがそれでも、カイはがむしゃらに腕を振り回した。
 アリューセリドとそっくり同じ姿をしている石像。朝に出掛け、夕方に帰ってくる女神は神殿にいる間、その石像に宿り休んでいるのだと聞かされた。昼間の今、女神はあの像の中にはいない。けれど夜の間女神が宿る石像は、カイにとって、草原の中を歩む女神と同じ、彼女そのものだった。
 それが、まるで荷物のように運ばれて、穴の中へ投げ込まれようとしている。この神殿を守り、女神に使えることを役目としてきたハインズ家の末裔として、見過ごすことなどできるはずもない。
 しかし、フロイの腕をなかなかふりほどくことができない。カイは、暴れることをやめた。それで、カイが諦めたのだと油断したフロイが、カイの腕を掴む手の力を緩める。
 カイはその隙をついて、フロイの手を振りほどくと同時に駆け出していた。
「カイ! 戻れ!」
 フロイの慌てた声が追いかけてくるが、カイは当然のように立ち止まることも、振り返ることすらせずにひたすら、女神像のもとを目指した。
 一目で部外者と分かるカイが、制止の声を上げるフロイに追いかけられていれば、その場で作業していた兵士の誰もが、カイを不審者と見なすだろう。騒ぎを聞き付け、作業を中断して、フロイの加勢をしようとする兵士もいた。そのうちの一人が、カイの行く手を阻むように立ちはだかる。
 捕らえようと伸びてきた腕をかいくぐる。自分がそんなに素早く動けたことにカイは驚きながらも、女神の無事を祈る詞を口にしながら走っていた。
「やめてくれ!」
 とうとう穴のふちまで女神像を運んできた兵士たちに向かい、カイはあらん限りの声で叫んだ。何事かと兵士たちが振り返る。
「やめてくれ! それは女神アリューセリドがや――」
 中途半端なところでカイは言葉を打ち切った。背中にずっしりとした重い衝撃を感じる。その衝撃に、足も止まる。
「……え?」
 振り返ると、すぐ後ろに一人の兵士が立っていた。作業を中断して、カイを止めようとやって来た一人だろう。その兵士の肩越しに、顔を青くして立つフロイの姿も見える。
 兵士は、血塗れた剣を持っていた。
 それで自分は後ろから斬られたのだと、カイはまるで他人事のように理解した。
「カイ!」
 フロイが悲鳴のような声でカイの名を叫んだ。
 自分が斬られたのだと認識した直後、カイは背中に焼け付くような激しい痛みを感じ、膝から崩れ落ちた。
「カイ!」
 フロイが自分を呼ぶ声が、急速に遠ざかる。痛みと熱さが、ほかのすべての感覚を凌駕していて、自分を取り巻く喧騒のすべてが、まるで川の対岸で起きている騒ぎのようだった。
 頭の芯が痺れてしまうほど、痛い。痛くて痛くて、何も考えられない。この痛みから逃れたい。どうしてこんな痛みを、自分が。
 激痛で散漫になる意識を必死につなぎ合わせ、カイは歯を食いしばり顔を上げた。女神像は、まだ穴のふちにある。そうだった。自分は、女神像を、アリューセリドが宿るあの石像を守らなければならないのだった。
 神殿の中に戻さなくてもいい。けれど、炎で埋め尽くされた穴の中に、まるでがらくたのように投げ込むのだけは、どうか。これ以上、あの美しい女神を悲しませるようなことをしないでくれないか――
 声に出してそう言ったつもりだったが、カイの口からは鮮血と痛みにうめく声しか出てこなかった。背中の傷は燃えるように熱いのに、手先から冷たくなっていくような気がした。もう、膝で立っていることも辛い。カイはぐらりと地面に倒れた。頬に触れた土が冷たくて、ほんのわずかの間、痛みから逃れられた。
 目がかすんで視界がはっきりとしない。自分が目を開けているのかさえ分からなくなってきた。誰かが自分の体に触れているような気はしたが、誰にも触れられたくなかった。
 女神像を目の前にして倒れてしまったのだ。カイのほかに誰が、あの女神像を守ることができる。それならば女神像が投げ込まれるであろうあの穴に、自分も葬ってくれないか。それが無理なら、せめてここで果てたい。死んだ後も永く、女神の傍にとどまるために――
 かすんだ視界に、柔らかな光が降り注ぐ。しかし、もはや顔を動かす力も残っていないカイは、何故急に光が現れたのか、確かめることもできない。何が起きたのかと思っていると、かすんでいる目に、真っ白な素足が飛び込んできた。
 滑らかな肌の女の足だった。ゆっくりと、カイの方へ近付いてくる。兵士しかいないはずのこの場所に、素足の女がいるのはどう考えても不自然なはずなのに、女は誰に咎められることもなく、カイの元へやって来る。
 カイはわずかに首を動かし、自分に近付いてくる女が誰なのか見ようとした。
 カイの傍らまでやって来たその女は、ゆったりとした白い衣が汚れることも構わず、かがみ込んだ。銀色の細やかな髪が、さらさらと肩から流れ落ちてくる。白い手がすっと伸び、カイの頬に触れた。
 かすむ視界の中、彼女の姿だけがはっきりと見えていた。夢を見ているのだろうか。背中の痛みから逃れるために、幻を見ているのかもしれない。だが、夢でも幻でも構わなかった。
 女神アリューセリドが、自分に触れてくれているのだ。
 夕刻にはまだ早い。それなのに彼女が何故神殿にいるのか分からなかったが、最期の時にこうしてすぐそばで彼女の姿を見られ、そのうえ触れてくれさえした。思い残すことは、あとひとつだけ。
「あなたの神殿を守れなかった……許して、ください」
 ちゃんと声になっていたかどうかは分からない。しかしアリューセリドにカイの言いたいことは伝わったのか、彼女はそっと目を伏せ、首を横に振った。そして、涙が流れ落ちる。
「カイ・ハインズ。あなたはよく頑張ってくれました」
 女神の唇が動いた。澄んだ鈴の音のような声を、カイは確かに聞いた。
「あなたの願いを聞き届けることのできなかったわたしを、どうぞ許してください」
 アリューセリドがカイの手を取り、泣きながら続ける。
 許すなど。最期に、ずっと会いたいと想い続けていたアリューセリドに会えたのだ。願いを聞き届けてくれた。だからどうか、泣かないで――
 カイはアリューセリドの手を握りかえし、ゆっくりと体を起こした。もう痛みは感じない。土の冷たさも。
 アリューセリドに導かれるように立ち上がる。見下ろすと、背中を真っ赤に染めて地面に横たわっている自分の姿が見えた。それにすがるフロイの姿に、少しだけ心が痛む。けれどもう、戻ることはできない。
「行きましょう――」
 アリューセリドに促され、カイは自分の体からゆっくりと離れる。慌ただしく動き回る兵士たちの間を縫って歩く二人を気にする者は、誰もいない。
 この世の者でなくなったカイは、アリューセリドと手を取り合って、陽光に溶け込むように消えていった。


 それから五年後、神聖アスタニア教国は、大陸から最初に名前を消す国となる。

〈了〉

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