ハネムーン・サラダ

 西暦二〇××年、日本時間九月九日、午後八時三七分。
 終業時間から二時間以上経過した室内に人の姿はなく、私がいる一画以外、照明も落とされている。機械の駆動音が低く静かに響いているのみだ。
 明日の終業開始時刻までこの状態は続く――と思っていたら、室内のドアが開いた。忍び足で入ってきたのは二人。照明をつけもしないが、この部屋の一画には絶えず人工太陽に照らされている私たちがいるので、照明をつけなくても暗くはない。
 ここはカベウスクレーターにあるカグヤ基地。日本が建設した月面基地で、ここにいる職員は全員日本人だ。今は一日の仕事が終わり、明日の朝までの自由を楽しむべき時間であろうに、宇宙開発の最前線でも、日本人の働き方は大昔とそれほど変わらないのか。呆れ半分に、私たちがいる一画をのぞき込む二人を見つめ返す。
 カグヤ基地内では若手の二人だった。女性の方は、この部屋で働いているので知っている顔だが、男性の方は知らない。
 女性は私たちを指さし、ほら元気に育っているでしょう、と言う。男性は、工場のよりも艶がいいし瑞々しいように見える、と応える。
 職員たちは月面に長期滞在するため、基地内には野菜工場があり、様々な野菜が水耕栽培されている。カベウスクレーターには水が埋蔵されているので入手しやすいとはいえ、地球上のように潤沢に使えるわけではない。地球上の実験ではうまくいっていた野菜工場も、月面では地球のようにはいっていない。生長速度もだが、なにより味がいまいちらしい。
 食事は、栄養補給の面からはもちろん、気持ちをリフレッシュさせるためにも重要だ。仲間とのコミュニケーションの場にもなる。
 そんな大事な場面で口にするもの不味くていいわけがない。昔に比べれば、フリーズドライの割合は減っているが、それでも生鮮食品は圧倒的に少ない。野菜工場で生産された野菜は、カグヤ基地だけでなく他国の月面基地にいる人々にも提供されている。数少ないせっかくの新鮮な食べ物が不味くては、みんながっかりするだろう。
 そこで、よりおいしい野菜を育てるための研究がカグヤ基地内で行われている。私たちの生育室をのぞき込む彼女はその研究を担当している一人で、私はおいしくなるべく育てられているレタスだ。
 数世代前の先祖は地球育ちだが、私はれっきとした月生まれ、月育ちのレタスである。そして、親世代よりもおいしいこと請け合いだ。彼女をはじめとする研究者たちは日夜私たちをおいしくするべく頑張っているし、私たちも、彼らの頑張りに応えたいので精一杯おいしくなるように踏ん張っている。
 私のそんな気持ちが通じたのか、男性が、おいしそうだな、と呟く。本当においしそうなものを見るようなうっとりとした目だ。そんなまなざしで見られると、もうじき食べ頃を迎えるこの身はきゅっと引き締まり、おいしい栄養素を逃がさないようにしてしまいそうだ。
 しかし、生育室の私たちは、様々な条件で育てられていて、私の収穫時期は三日後と決まっている。
 それに、まだ研究段階の私たちを口にできるのは、担当者たちだけ――のはずなのだが、彼女が、ちょっとだけなら大丈夫よ、と生育室の扉を開ける。
 伸びてきた手が、遠く離れたポットから、収穫時期前の私の仲間を摘み取った。とれたてのレタスは男性に手渡され、あっという間に彼の口の中に消えた。
 彼はおいしいと顔を輝かせるが、声が大きい、と彼女にたしなめられた。彼は反省しながらも、もう少し食べたい、と彼女におねだりする。口で言うだけでなく、体も妙に密着させて。
 そういうことは、私室に引き上げてからにしていただきたい。私はやれやれと呆れながら、降り注ぎ続ける人工太陽を見上げた。
 職員たちが各国の基地間を行き来する機会は多く、大昔の宇宙ステーションに比べれば、閉塞間はうんと少ない。それでも、閉じこめられているという感覚がないわけではないようだ。開放感を求める若い二人が、若気の至りで何かをやらかす可能性は否定できないし、それが重大な事態を招くことでなければ、厳しく咎められるものでもないだろう。
 そう、たとえば、もう少しだけ盗み食いをするのは、重大にはほど遠い、些細なやらかしだ。
 ねだる彼に根負けして、彼女が再び生育室の扉を開ける。先ほどの近くから収穫するのは避け、私のいる方へ手を伸ばす。どれにしようかとしばし逡巡した手は、私を選び取った。
 ああ、今食べられてもおいしい自信はあるが、できれば三日後の方が、もっとおいしかったはずなのに。
 生育室の外に出された私を、彼がじっと見つめる。先ほどはすぐに食べてしまったからだろうか。彼女の手に摘まれたままの私をしばらく観察した彼は、これもおいしそうだ、と彼女の手から私を取った。そして、私の端っこをくわえ、君も食べてみなよ、と彼女に顔を近付けた。おいしそう、と彼女はうっすらと口を開け、私は彼と彼女の唇の間に挟まれて――。
 私がどんな味だったのか、知っているのは彼と彼女だけである。

〈了〉

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