あぶくは願う

 山が赤く色付く季節で、海は冷たかった。けれど、水の冷たさなど取るに足らない。
 豪奢で幾重もある衣は、海に落ちた瞬間から彼女の体にまとわりつき、水を吸ってますます重くなった。陸であっても動きづらい花嫁衣装は、もはや枷でしかない。その上、手足は縛られ、重石も付けられている。こんな有様でいくらもがいても、大量の泡が彼女を残して海面へ向かっていくばかりだった。
 息はすぐに苦しくなった。喉は空気を求め、海水が容赦なく肺に押し寄せた。
 海面はどんどん遠ざかり、冷たい海水は彼女を押し潰さんとするかのようだ。涙を流しているはずだが、それはすべて海に溶けてしまい、わからない。
 苦しい苦しい苦しい。怖い怖い怖い怖い。助けて助けて助けて誰か誰か助けて――!
 彼女の動きはやがて鈍くなり、小さな泡を吐ききると、それきり動かなくなった。

   ○

 澪(みお)は岩にもたれ、海面を見上げていた。爪の先ほどの白い太陽を背にして、大きな影が三つ見える。鱶(ふか)ではなく仲間の姿だ。小魚の群れと一緒に泳いでいた。
 楽しそう。
 呟いた澪の口から小さな泡が零れて浮き上がる。あの泡を追いかけていけたら――。
 だが、澪はしばらく泡を目で追っただけで、また岩にもたれかかると、尾鰭を一振りした。
 行ってみたいけど、行ってはいけない。澪に許されているのはこの深さまで。
 澪よりも幼い人魚でさえ、海面近くまで泳いでいくことはよくある。なのになぜ澪だけは許されないのか、幼い頃は、もっと浅いところへ行きたいとだだをこねた。
 十六になった今、自分だけが禁じられている理由は理解していた。
「澪」
 声に振り返る。澪がもたれている岩の後ろは、さらに深いところへ続く緩やかな斜面になっている。その斜面に沿って、波(は)弥(や)斗(と)が短い髪を揺らしながら上ってくるのが見えた。
 澪の二つ年上で、彼の父親はここ天(あま)ヶ(が)内(うち)海(かい)の人魚を統べる長。波弥斗はその跡継ぎだ。
「こんなところで、何をしてるんだ」
 波弥斗は、澪がいる岩のてっぺんに腕を乗せた。澪は別にと言って視線を逸らす。
 澪が決して海面に近付いてはいけない理由。それは、彼女が波弥斗の許嫁だからだ。
 陸地に挟まれている天ヶ内海は、人間の船がよく行き来している。人間はそれは恐ろしい存在だ。人魚の肉を食べれば不老長寿が得られるという迷信を信じて、人魚を見つければ捕らえて食ってしまうという。
 ならば、ほかの人魚たちも海面に近付かない方がいいはずだが、人間に見つからないように気を付けなさいとしか言われていない。
 波弥斗もそうだ。澪には海面に近付くなと言いながら、自分は悠々と白い太陽に向かって泳いでいく。
「わたしももっと上へ行ってみたい」
「澪はだめだよ。わかっているだろう」
 海面に近付いてはいけないのは、澪が跡継ぎの許嫁という理由だけではない。零れたため息は泡になり、目の前を通り過ぎた。
 人間は恐ろしい存在だが、水の中で生きる術を持たない彼らは、海に落ちれば簡単に溺れてしまう。そうして海で死んだ人間は、人魚に生まれ変わる。もう苦しまなくていいように、海がそうしてくれるのだという。
 澪は、海で死んだ人間の生まれ変わりなのだそうだ。
 天ヶ内海沿岸に住む人間には、若い娘に白い衣を着せて海に沈める奇習がある。天ヶ内人魚の長の妻にと、差し出しているらしい。
 人魚が妻をよこせと要求したことは一度もないが、人間は、不漁や嵐が続いたりすると、若い娘を海に沈めた。娘を差し出す代わりに大漁にしてくれ、と願っているらしかった。
 十七年前、白く豪奢な衣を着た娘が沈められた。それが、生まれ変わる前の澪だ。
 人間の娘を差し出されても、人魚にはどうしようもない。人間の大漁不漁は関わりがないことだし、人魚に嵐を鎮める力などない。
 ただ、人間は生きていけない海に無理矢理沈められた娘たちを哀れに思い、彼女たちの生まれ変わりである人魚を、せめて幸せにしてやろうとするだけだ。
 だから、澪は、波弥斗の許嫁なのだ。また恐ろしい目に遭わされるかもしれないから、海面に近付いてはいけないのだ。
 だけど本当に、人間は恐ろしいのだろうか。澪には人間だったときの記憶はない。海面に近付けないから、人間の影さえ見たことがない。仲間から聞く話だけでは、恐ろしいのかどうかわからなかった。
 澪よりもずっと海面に近いところを泳いでいる仲間を、また見上げる。
「そろそろ戻らないと、人間に見つかってしまう」
 澪の視線を追いかけるように顔を上げた波弥斗が、眉間にしわを寄せた。
 魚の群れはどこかへ去り、友人たちは尾を揺らして追いかけっこをしているようだ。
 そののんびりとした動きが急に乱れ、慌ただしくなった。一斉に白い太陽に背を向け、深いところを目指してくる。しかし、ひときわ小さな影だけは、仲間たちとは逆方向――海面に向かっていた。何かに絡め取られ、そこから逃れようとしてばたばたと暴れていた。
 それを見た波弥斗が勢いよく飛び出した。
「波弥斗!?」
「澪はそこにいろ!」
 全身を大きくしならせ、波弥斗はぐんぐん海面に向かって泳いでいく。下りてくる仲間と途中ですれ違ったときには、小さな人魚の影は見えなくなっていた。その代わり、いつの間に現れたのか、舟の影があった。
 逃げてきた仲間たちは澪のそばまで来ると、不安そうな顔で海面を見上げた。
「どうしよう、澪。志(し)夜(よ)が捕まってしまった」
「いきなり網が投げ込まれたの」
「人魚を捕まるための網よ。目が大きかったもの」
 友人たちが口々に言う。
「『あの人間』に違いないわ」
 人間はいつでも人魚を狙っているわけではない。人間が主に捕るのは魚だ。澪が知る限りでは、人間に捕まって食べられた人魚はまだいなかった。
 ただ、捕まえる人間はいる。それが『あの人間』だ。しかし、捕まえられた人魚はすぐに解放された。『あの人間』は、人魚を捕まえるが食べはしない。なぜ捕まえるのか、解放された人魚は口を閉ざすので、目的はわからなかった。
 波弥斗は『あの人間』が乗っている舟の真下にいた。人間は網だけでなく銛も使う。刺されたら大変だ。しかし、舟の真下にいれば、その心配は多少は減りそうだ。
 舟は、波弥斗の倍ほどの長さがあった。その舟に、波弥斗は体当たりをした。尾鰭で船底を叩き、手で押して揺らしている。澪も逃げてきた仲間も、固唾を飲んで見守った。
「あ!」
 海面近くに、小さな影が現れた。舟から飛び出すように現れたその影は、泡に包まれ、勢いよく尾鰭を振って深いところを目指す。
 波弥斗も舟から離れ、逃げる志夜の後を追いかける。力強く泳ぐ波弥斗は志夜に追いつくと、寄り添うように泳ぎ始めた。その頃には、澪たちも安堵の表情に変わっていた。
 澪たちのところまで波弥斗と志夜がたどり着くと、二人を取り囲み、志夜を抱きしめて無事を喜んだ。
「さすがは天ヶ内人魚の次の長ね」
「波弥斗がいなかったら、どうなっていたかわからなかったわ」
「俺はたいしたことはしてないよ。誰もけがをしなくてよかった」
「こんなことを言ってはなんだけど、波弥斗の勇敢なところを見られて、澪は惚れ直したんじゃない?」
 すっかり安心しきったひとりが、澪の肩をこづいた。それを聞いた仲間たちが、わっと盛り上がる。
 しかし澪は、ただ曖昧な笑みを浮かべただけだった。

   ○

 当分は海面に近付かないように、と澪以外のまだ若い人魚たちも強く言われた。けれど、しばらくすればまた浮上を始める。澪だけは、いつまでたっても海面に近付くことさえ許されないけれど。
 澪は、海藻の間をすり抜け、時折仰向けになって半ば海流に身を任せて泳いでいた。
 海の中ほどを泳ぐ者もいない。漁をする人間の船が見えるから、昨日の一件がなくとも、海面に近付く人魚はほとんどいなかった。
 昨日の舟より二回りも三回りも大きい船だ。『あの人間』も乗っているのだろうか。それとも、あの舟に乗って人魚を捜しているのだろうか。『あの人間』は、どうせ逃がすのに、なぜ人魚を捕まえるのだろう。
『あの人間』の目的を、ここでいくら考えても答えなど出ない。人魚の誰に尋ねても同じだ。海の中に答えはない。あるとすれば、海の上にいる『あの人間』が持っている。
 仰向けに泳ぐのをやめ、澪は体をぐんと大きくしならせて速度を上げた。
 澪の求める答えは海の中にはない。だけど、手がかりはあるかもしれない。

 人魚は、海流の穏やかな岩礁の隙間や海底の穴をねぐらとしている。海は広いがねぐらに適した場所は限られていて、必然的に、特定の範囲に集まっていた。
 だけど、そこから外れた場所を好む人魚もいる。佐(さ)々(さ)は、そんな人魚のひとりだ。
「跡継ぎの嫁御がお出ましとは珍しい」
 彼女のねぐらは少し浅い海域にある。ほかの人魚であれば避けるような場所だ。海面はまだ遠いが、澪が普段過ごしている場所に比べれば、昼間はだいぶ明るかった。
「まだ夫婦にはなってません」
「いずれ夫婦になるんだから同じことさ。それより、こんな浅い場所に来たのがばれたら怒られるんじゃないのかい」
 佐々は、澪が知る中でいちばん長生きしている人魚だ。顔も上半身もしわだらけで、尾鰭の鱗は古びて、端はすり切れている。
「佐々どのに質問があるんです」
「海のことなら、跡継ぎか長に訊けばよかろう。天ヶ内海のことはすべて長の耳に入る」
「『あの人間』はなぜ人魚を捕まえるんですか」
「あたしだって知らないさ、そんなこと。でも、どうせろくでもない理由だろう」
 昨日の一件は、佐々の耳にも届いているのだろう。人間は恐ろしい生き物なんだから、と付け足した。
「おまえさんは、人魚に生まれ変わってよかったのさ」
「……わたしは本当に人間の生まれ変わりなんですか」
「親御からそう聞いていないのかい」
「聞いてます。でも、そんな自覚はないから本当なのかなって……」
「おまえさんが生まれる一年ほど前、娘が沈められた。人間の花嫁衣装を着た娘がね。その後、最初に生まれた人魚がおまえさんだ」
 佐々はただでさえしわだらけの顔をしかめ、さらにしわを深くした。
「これ以上浅いところへ行けば、おまえさんを殺した人間たちに見つかりやすくなる。せっかく人間の世界とおさらばしたんだから、おまえさんは海面に近付いちゃいけないよ」

 佐々のねぐらから帰りしな、志夜を訪ねた。
 志夜はねぐらの近くにいた。ねぐらから遠く離れるのも嫌なのだろう。あるいは、親にそう言い付けられたか。
「こんにちは、志夜」
「澪ねえさま……!」
 跳ねるように寄って来た志夜の頭を、澪は優しくなでた。だが、志夜の表情は曇っていた。
「澪ねえさま、ごめんなさい!」
「どうしたの、いきなり」
「『あの人間』に捕まったとき、澪ねえさまのことを喋ってしまったの。だから、澪ねえさまは絶対に海面に近付いちゃだめ」
「『あの人間』がわたしのことを訊いたの?」
 見舞いのつもりで志夜を訪ねたのだが、昨日のことを訊くためでもあった。志夜は怖い思いをしたばかりで気は引けたが、『あの人間』が人魚を捜す理由の手がかりがほしかった。まさか、志夜から言い出すとは思わなかった。
「人間の生まれ変わりか訊かれて、違うって言ったら、そういう人魚を知らないかって、すごく怖い顔で言うの。だから、澪ねえさまのことを……本当にごめんなさい!」
「いいのよ、志夜。もし答えなかったら、何をされるかわからなかったんでしょう?」
「でも、ねえさまの名前まで教えちゃった……ごめんなさい、ごめんなさい!」
「大丈夫よ。わたしは海面に近付かないから」
「近付かないでね。『あの人間』はきっと澪ねえさまを捜してるんだよ。見つかったら捕まって、二度と戻ってこられないかも」
「志夜、このことを誰かに話した?」
「ううん、まだ誰にも。波弥斗にいさまにも……」
 話せば怒られると思っているのだろう。波弥斗が知れば、なぜそんなことを教えたのだ、と志夜を叱るに違いない。
「じゃあ、誰にも話さなくていいから」
「いいの?」
「ええ。わたしが知っていればいいことでしょう? ありがとう、志夜。教えてくれて」
「うん……」
 不安そうな表情を浮かべる志夜に再度お礼を言って、澪は自分のねぐらに向かった。
 海中は暗くなりつつあった。遠い海面を見上げるが、舟の影はない。日没が近付き、人間たちは陸地に戻っていったようだ。
『あの人間』も陸に帰ったのだろうか。
 彼はどうして、会ったこともない澪を捜しているのだろう。もしかして、人間だったときの澪を知っている人なのだろうか。

   ○

 澪は海底近くを泳いでいた。流れが速く、一日の間に何度も海流の向きが変わる場所なので、この近辺をねぐらにする人魚はいない。
 舟を操る人間にとっても難所のはずだが、この辺りの魚は味がいいのを知っているようで、船影をよく見かける。
 今日も数隻やってきていた。しかし、澪が求める舟の形ではない。
 あれから毎日、海面を見上げていた。澪がそうするのはいつものことだが、志夜の話を聞いてからは漫然と泳がなくなっていた。
『あの人間』がなぜ澪を捜し続けているのか、その理由を直接聞きたかった。
 人間は危険な生き物だ、海面には決して近付くなと言われながら、そして実際に志夜が捕まるところを見てもなお、澪は海面に――『あの人間』への関心が尽きなかった。自分が人間の生まれ変わりだからそう思うのか、単なる好奇心なのか、『あの人間』に会えばはっきりするのではないか。そう思うのだ。
「あの舟……」
 海面が赤に染まり、海中はすでに暗い。今日もだめだったかとあきらめかけたとき、見覚えのある舟の影を見つけた。
 ねぐらに向かいかけていた尾鰭をよじった。
 櫂で水をかき、舟は陸を目指していた。
 澪は全身を大きくしならせ、舟を追いかけた。辺りにほかの人魚の姿はなく、澪を咎める者はいない。離れたところにいたとしても、暗い海の中では、それが澪だとわからないだろう。
 海面が近付くほどに、全身を包む海水の圧が弱まり、温かくなる。体も軽い。澪はますます勢いづいて泳いだ。
 海面はすぐそこだった。澪は速度を弛め、船尾側の海面からそっと頭を出した。海上は、海水よりももっと温かかった。
 生まれて初めて海の外をのぞいた興奮や感動はそっちのけで、澪は舟の様子をうかがう。舟と波がぶつかる音、櫂が水をかき分ける音が絶え間なく聞こえる。櫂を掴む人の姿があるが、舟の縁に隠れて上半身しか見えない。それだけだと、人魚とさほど変わらない後ろ姿だ。人魚と違って布をまとっているが。
 白髪の交じる黒髪は短い。布は海の深みのような藍色。がっしりとした肩幅の男だった。
 前方を見据えて舟を進める男は、澪の存在にまだ気付いていない。舟の斜め後ろから近付く澪には、男の顔は見えなかった。
 彼が『あの人間』だ。きっとそうに違いない。海の底から見上げた舟の形は、志夜が捕まったときと同じ。それに、舟をこぐ男の後ろ姿を見て、なぜか、彼が澪を捜している人間に違いない、という確信があった。
 澪は腕を伸ばして縁を掴んだ。舟がわずかに傾ぐ。異変に気付いた男が振り返った。
 髪に白髪が交じっているからもっと年寄りかと思ったが、意外と若い。とはいえ、澪よりはずっと年上だ。三十路は越え、四十路の方が近いかもしれない。
 瞠目する男と目が合った。男は、人魚を見た、という驚きとは違う、あるいはそれ以上の何かに驚いているように見えた。
「凪(な)海(み)……」
「――あなたは、誰」
 男が口にしたのは、もちろん澪の名前ではない。男に見覚えなどない。人間に会うのはこれが初めてなのだ。それなのに、澪は胸が締め付けられたように痛くて苦しくて、目頭が熱くなり、海の中では決して形を取ることのない涙を零していた。
「……おまえは、凪海じゃないのか?」
 澪は首を横に振った。そんな名前は知らない。だけど、胸の奥がざわつき、懐かしさがこみ上げてくる。
「わたしは澪。あなたは?」
「俺は耕太だ。洲(す)央(おう)村の耕太」
「耕太……」
 かみしめるように男の名前を呟くと、胸の奥のざわめきはますます大きくなり、また涙が零れた。
「この前、小さな人魚を捕まえたのは、あなた?」
「……澪という名前の人魚が、人間の生まれ変わりだと聞いたよ。それがおまえか?」
 耕太はもう驚いた顔はしていなかった。怖い顔でもない。志夜やほかの人魚を捕まえた人間だとわかっているのに、怖いという感情が澪の中には湧いてこなかった。
「ええ、そう。わたしは、あなたが捜している人魚――ねえ、わたしは、凪海という人間の生まれ変わりなの?」
「凪海と瓜二つだよ」
 耕太の表情が弛む。
「本当に人魚に生まれ変わったんだな……」
 微笑んでいるけれど、耕太の表情は悲しそうにも見えた。
「生贄の娘は人魚に生まれ変わって、長の妻になると聞いた。澪も、そうなのか」
「長の跡継ぎの許嫁なの」
 そうか、と耕太が呟く。その姿を見ているだけで胸が痛い。
「澪は今、幸せか?」
「……わからない。でも、不幸ではないわ」
 澪にひどいことをする人魚はいない。波弥斗の許嫁だからと大事にしてくれる。波弥斗も澪をいつでも気にかけてくれる。海の中にいれば、それはきっとずっと続くのだろう。穏やかで変わらない日々。それは決して不幸な暮らしではない。
 それなのに、幸せとは言い切れなかった。不足はない。けれど、心のどこかが常に満たされていないのだ、と澪は気が付いた。
「長の跡継ぎの許嫁なのに? そいつは澪にひどいことをするのか?」
「波弥斗はひどいことなんてしない。でも、生まれたときから波弥斗の許嫁だと言われて、わたしの気持ちは誰も聞いてくれない」
「波弥斗が嫌いなのか」
「嫌いじゃない。でも、波弥斗のことは友達としか思えない。誰と夫婦になるか、わたしは――」
 生まれたとき、いや生まれる前から、澪は波弥斗の許嫁と決まっていた。誰もがそれを疑わない。波弥斗自身も。だけど澪は、どうしてなのかと思い続けていた。だって、誰と夫婦になるかは、自分で決めたいではないか。ほかの人魚は、自分たちで決めるのに。
「澪。俺と来るか?」
 いつの間にか、また涙を流していた。その涙に耕太の指先が触れる。
「凪海は俺の恋人だった。だが、身寄りがいないという理由で生贄にされたんだ」
 ああ、と澪は声にならない声を零した。今はっきりと、自分が何を望んでいるのかがわかった。
 わたしは、耕太と一緒にいたいのだ。

   ○

「今日も来たのかい」
 佐々は先日以上に驚いていた。
 澪は周囲を見回した。元々この辺りを泳ぐ人魚はほとんどいないが、誰もいないことを改めて確かめる。そんな澪の行動を、佐々はしっかりと見ていたようだ。
「内密な用件でもあるのかい」
「佐々どのは天ヶ内海でいちばんの物知りで、何でも知っているとみなが言います」
「そんなことはないさ。現に、この前、おまえさんの質問に答えられなかった」
「人魚が人間になる方法は、知っていますか」
 海で死んだ人間は人魚に生まれ変わる。ならばその逆があってもいいのではないか。死んでしまうのは困るが。
「知ってどうするのさ、そんな方法」
「わたしは人間になりたい――人間に戻りたいんです」
 人魚のままでは耕太と一緒にいられない。尾鰭を捨て足を得て、陸に上がるのだ。
「……おまえさんがそう思うのは、仕方がないことなのかもしれないね」
 佐々は深々とため息をつくと、ちょっと待ってな、とねぐらの奥に入った。戻ってきた彼女の手には、大きな二枚貝があった。
「生贄にされた娘の生まれ変わりを、何人も見てきたよ。その中には、夫も子供も置いて陸へ上がった人魚もいた」
 佐々が持つ二枚貝は鮮やかな赤い色で、天ヶ内海では見たことがないものだ。
「海から上がってこの中に入っている薬を飲めば、尾鰭が人の足に変わる」
「佐々どの。ありがと――」
 受け取ろうと澪が手を伸ばすと、佐々はさっと手を引っ込めた。
「これを飲めば人間にはなれる。その代わり、体のどこかの機能が失われるよ」
「どこか、というのは?」
「どこか、だ。人魚によって違う。目が見えなくなるかもしれないし、耳が聞こえなくなるかもしれない。手が動かなくなるかもしれないし、足を得ても歩けないかもしれない――そういう薬だ。それでも、飲むかい?」
「飲みます。人間になれるのなら」
 澪の決意が固いのを見て、佐々は黙って二枚貝を差し出した。
「ありがとうございます。佐々どの、このご恩は陸に上がっても忘れません」
「人間になるのなら、海の中のことはみんな忘れてしまいな」
 佐々はそう言って、澪に背を向けた。それから、さっさと行けとばかりに手を振る。
 澪は、海藻のように揺れる佐々の白い髪に頭を下げ、赤い二枚貝をしっかりと握りしめ、力強く尾鰭をしならせた。

 勢いよく海上に頭を出した澪は、舟の縁を掴んだ。
「澪」
 耕太が、縁を掴んでいた澪の手を握り、舟の上に引き上げる。澪は初めて、海の中から完全に出た。小さな舟は耕太と二人でも窮屈で、折り曲げた尾鰭の端が彼に当たる。
「これを飲めば人間になれるわ」
 澪は二枚貝を耕太に見せた。
「この薬を飲んで人間になった人魚もいるの。ただ――」
 体のどこかの機能が失われる、と伝えると、耕太は眉をひそめた。
「人間になっても何かが失われるのでは……」
「耕太と一緒にいられるなら構わないわ」
 澪は二枚貝を開いた。貝の中には、粘膜に包まれた、魚卵のような黒い粒がぎっしりと詰まっていた。
 それを口の中に一気に流し込み、飲み下す。
 ひどく苦くて舌がしびれ、喉が焼け付くように熱くなる。吐き出しそうになるのをこらえ、澪は口元を手で押さえた。えづく彼女の背中を耕太がさする。ごわごわとして固い掌は温かく、少しだけ慰められた。
 尾鰭を引き裂かれるような激痛が走った。食いしばった歯の隙間から、うめき声が漏れる。痛みは強くなったり弱くなったり、まるで波のようだ。
 耕太の胸にすがり、澪は痛みに喘いだ。全身に脂汗が浮かぶ。耕太が励ましてくれているが、彼が何と言っているのか、痛みのあまりよくわからない。
 体が裂かれるように痛いのは、きっと足に変わっているからだ。澪の体から尾鰭と一緒に失われるものは何だろう――。
「澪!」
 激しい水音と共に舟が揺れ、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
 耕太の胸からゆっくり顔を持ち上げると、怒りを滲ませる波弥斗の顔が船縁にあった。
「澪、そいつは長年人魚を襲っていた人間だ! 戻ってこい。人間の世界じゃ、澪は幸せにはなれないんだぞ」
「俺はほかの連中とは違う。澪は凪海の生まれ変わりだ。陸で俺と一緒になるんだ」
 耕太は澪をさらに抱き寄せる。痛みはこんな状況でもお構いなしに、澪の体を苛んでいた。澪はますます耕太にすがりついて、痛みと苦しみを紛らわせようとした。それが波弥斗の目にどんな風に映るか、考える余裕はなかった。
「澪……!」
「海に帰れ、小僧。澪は俺と一緒に陸へ戻るんだ」
 勝ち誇った耕太の声に、水音が続く。波弥斗は素直に海へ帰ったのだろうか。しかし、彼が簡単に引き下がるとは思えない。
 舟が大きく揺れた。転覆するのではないかという揺れに、澪と耕太の体が離れる。
 波弥斗だ。彼に違いない。
 船底を掴み、投げ出されないように這いつくばった。耕太は、彼は無事だろうか。
 顔を上げた澪の目に飛び込んできたのは、海から大きく飛び上がった波弥斗の姿だった。飛び散った水が太陽の光を弾いて煌めいていた。驚く耕太を睨む波弥斗の手には、銛が握られていた。いったいどこで手に入れたのか。舟に積んであったものを奪ったのだろうか。
 そんな疑問は、今は些末なものだった。波弥斗が何をするつもりなのかは容易に想像できて、澪は痛みも忘れて叫んだ。
「――!?」
 痛みに喘いでいたはずの喉からは、わずかな音も出てこない。どうしてと思う前に、銛の先端が耕太の胸に食い込んでいた。
 耕太の名前を叫ぶが、やはり声は出なかった。前のめりに倒れ込む彼の体を支えた。波弥斗が海に落ちて大きなしぶきが上がり、再び舟が大きく揺れる。耕太の体を支えたままでは船縁を掴めず、二人で海に投げ出された。
 海に落ちても、澪は耕太の体を離さなかった。ぐったりとして動かない彼を放してしまえば、海の底まで沈んでいくに違いない。
 ひとり抱きかかえていても、泳ぐのは難しくない――はずだった。
 息が苦しく体は重く、下半身を大きくしならせても、少しも浮かび上がらない。なぜと自分の体を見下ろす。澪の腰から下に続くのは、尾鰭ではなく二本の細い足だった。
 波弥斗がものすごい形相で耕太に掴みかかり、澪から引きはがそうとしていた。離せと言っているようだが、澪には泡が弾ける音しか聞こえなかった。
 澪はさらに強く耕太を抱きしめた。彼の腕が抱き返してくることはなかったが、構わなかった。
 今度は独りで沈んでいくわけではない。最後に一目、耕太に会わせてほしいという凪海の願いは聞き入れられず、冷たい海に突き落とされた、あのときの悲しみと絶望と苦しみに比べれば、耕太と一緒にいる今は――。
 海で死んだ人間は人魚に生まれ変わる。耕太と一緒に人魚に生まれ変われば、今度こそ二人で一緒に生きていける。
 無数の泡を見上げる彼女に、かつて抱いたような絶望はなかった。


〈了〉

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA