天体観測

「折り入って頼みがあるんだ」
 それまであぐらをかいて談笑していた武利(たけとし)が、急に正座をして、前髪がローテーブルに置かれたコップの縁にあたりそうなほど頭を下げた。
「急にどうしたんだよ」
「和樹(かずき)にしか頼めなんだ。頼れるのはお前しかいない。お願いだから、俺の頼みを聞いてくれ」
 武利が顔を上げ、眼鏡越しに懇願のまなざしを寄越す。
「……いきなりどうした、武利」
 遊びに行ってもいいかと武利から連絡が来たのは、今日、日曜日の朝だった。非番だった和樹は予定もなかったので、いつでも来ていい、と返事をすると、武利は昼過ぎにやって来た。
「和樹、聞いてくれるの? くれないの? どっち!?」
「何も聞いていないうちから判断できないだろ」
「聞いてくれよおおぉ! 親友――いや、心の友と書いて心友の頼みをおおお!」
 ローテーブル越しに、武利が掴みかかってくる。しかしその細い手を、和樹は難なく払いのけた。
「分かったよ。とりあえず話だけは聞くから」
「和樹、さすがは心の友!」
「……で?」
「まずはこれを見てくれ」
 鼻水を垂らして泣き出すのではないかという表情を一変させ、武利が得意げな顔で、後ろに置いていた箱を指さす。武利が持ってきたものだ。
 大きな枕を二つ積み重ねたくらいの大きさで、これを持って和樹の家にやって来たときには何の説明もしてくれなかったので、何が入っているのか気にはなっていた。
「いいものが手に入ったんだ」
 眼鏡の向こうで武敏の目が輝く。それで、和樹は中身の見当がついた。
「天体望遠鏡か」
「開ける前に言うなよ……」
 和樹の言葉に肩を落とし、武利が箱を開ける。思った通り、収められていたのは天体望遠鏡だった。以前見せてもらったものより一回り大きいだろうか。
 武利は天文学を愛する十七歳で、幼い頃から天体望遠鏡を集めている。小さい頃は親にねだって買ってもらっていたそうだが、最近はせっせとバイトに励んで購入資金を貯めていた。
 わざわざ見せに来るくらいだから、新しく購入したものなのだろう。新しく、といっても、今の世の中、新品の天体望遠鏡は製造されていないから中古なのだが。
「俺が半年間、かわいくも生意気な蒼乃(あおの)の家庭教師をして貯めた金で買った望遠鏡――混乱期よりもっと前に製造されたセイメイレンズ社のGS-30だ! どうだ、すごいだろ!?」
「へえ。三百年以上前のものなのに、きれいだな」
 ボディは多少年季を感じるが、きれいに磨かれていて汚れはない。収められている箱は、新たにあつらえたものなのだろう。そちらは新品に見える。
「だろ? きっと大事にされてきたんだよ。中古屋のおじさんも、俺が買いに来るまで毎日磨いてたって言ってたし」
「いや、毎日は言い過ぎだろ」
「とにかく! 新しい天体望遠鏡を俺は手に入れたんだ、心の友よ!」
 いよいよ本題らしい。武利の声に熱がこもる。
「だめだ」
「俺まだ何も言ってないよ!?」
 天体望遠鏡を見せられた時点で、和樹は武利の頼みが何なのか、予想できていた。
「その天体望遠鏡を使うために地上に出たいから手伝ってほしいんだろ、お前は」
「……さすがは心の友。俺の頼みなんかお見通しだな。だけど、それなら話は早い」
「だから、だめだと言っただろ。一般人が無許可で地上に出るのは禁止されてる」
 今から三百年ほど前、地球の環境は激変した。人間による環境破壊が原因ではなく、自然災害が原因だった。
 隕石衝突によって巻き上げられた大量の塵が太陽光線を遮蔽し、衝突に誘発されたのか、世界各地で火山活動が活性化し、大気組成が少々変化した。その変化に付いていけなかった人類は、地下都市に引きこもることで何とか存続している。
 地上は暗くて寒く、吸えば肺を病んでしまう汚染された大気が充満している。長時間留まれば皮膚や粘膜も侵されるので、地上へ出る際は防護服とマスクで完全に体を覆わなければ危険だった。
 そんな場所に、十七歳の子供が、勝手にほいほい出て行っていいわけがない。
「和樹は出られるじゃん」
「俺は仕事。遊びに行ってるわけじゃない」
 地下都市には空気を取り込むための通気口がある。通気口及びそれに関連した一連の設備の維持管理をしているのが空調整備局で、和樹はそこで整備士として働いている。通気口は地上に突き出しているので、メンテナンスのため、地上に赴く機会は多い。
「でも、ちょっとくらい、仕事以外で出ることもできるだろ?」
「大城さんに頼んだら? かわいい従兄弟の頼みなら聞いてくれるんじゃないか」
 和樹と武利を引き合わせたのは、武利の年の離れた従兄弟である大城蒼平(おおしろ・そうへい)だ。武利が家庭教師をしている蒼乃は、蒼平の娘である。従兄弟がどうして金を貯めているのか、蒼平は知っているだろう。蒼平は、空調整備局で働くベテラン整備士でもあった。
「蒼平兄さんにそんなこと頼もうものなら、怒られるに決まってるだろ! だから和樹に頼んでるんじゃないか!」
「俺が武利を地上に連れていったって大城さんにばれたら、俺も怒られるんだけど」
「俺に脅されて仕方なくって言えば大丈夫!」
「いや、絶対大丈夫じゃないだろ、それ……」
「頼むよ、和樹。一度だけ。一回だけでいいんだ」
 顔の前で音を立てて両手を合わせ、武利が再び深く頭を下げる。眼鏡がずり落ちそうな勢いだった。
「――地上に天体望遠鏡を持って出たところで、星なんて見えないじゃないか」
 巻き上げられた塵は地球をすっぽりと覆い、三百年間、その厚さはほとんど変わっていないという。昼間でも太陽の輪郭すらおぼろげで、あの辺りにあるだろう見当がつく程度だ。月はどこにあるのかほとんど分からず、まして星など見えるはずもない。
「分かってる。それでも、格好だけでいいから、天体観測をしたいんだ」
 地下都市では天体望遠鏡など必要ない。天文学は、観測ができなくなったためにほとんど進んでいない、むしろ後退している学問だ。古い天体望遠鏡は、今ではコレクションとしての価値しか持っていなかった。
 蒼平から、地上がどれだけ危険な場所なのか、よく聞かされているはずだ。それにもかかわらず、武利がどれほど地上に出て天体観測をしてみたいのか、和樹は知っていた。
「……一度だけだぞ」
「和樹! さすが心の友!」
 顔を上げた武利が、両手を広げて和樹の飛びついた。
 これはさすがに払いのけることができず、和樹は押し倒されたのだった。

    ●

 空調整備局の整備士たちが使う地上への出入り口は、何重もの扉を通り抜けなければならず、通路や扉付近には監視カメラも設置されている。しかし、地上に出るには全身を覆う防護服と顔のすべてを覆うマスクを装着するので、うまくやれば部外者が紛れ込んでも分からないだろう。
 ただし、空調整備局の施設内を通らなければ地上には出られないので、まず施設内に部外者が入れない。見学者として入ることはできるが、見学者も特別な許可がなければ地上には出られない。
 天体観測をしたい、という理由で許可が下りるわけがなかった。
「ここ……?」
 例の天体望遠鏡が入った箱を背負った武利が、不安そうな顔で眼鏡のブリッジを押し上げる。
「俺が知っている中で、誰にも見つからずに地上に出られる経路はここしかない」
 和樹と武利は、薄暗い縦穴の縁にいた。穴の周囲を金網の通路がぐるりと巡り、通路と何もない空間を仕切るのは、頼りない柵だけである。二人が金網に立っているだけで、時々嫌な音で軋む。穴の直径は5mくらい。内側には同じ高さに照明が三カ所取り付けられていて、それは等間隔に、深くまで続いていた。既に切れている照明も目に付く。
「ここは穴の頂上に見えるけど」
 うなり声を上げて穴の底から風が吹き上げてくる。風は強く、様々なもののにおいが混じり合って、何ともいえない気持ち悪さだった。
「一度下におりる。途中に横穴があるんだ。そこから、地上に出られる」
 和樹はその横穴を指さしたが、ちょうど照明と照明の間に位置しているので、はっきりと見えない。のぞき込めば見えるかもしれないが、武利は壁に張り付いていて柵に近寄らなかった。
「どうやっておりるの?」
「あの梯子をつたって」
 通路の一カ所が切れて、そこから梯子が下に延びている。柵同様、頼りなさそうな梯子だった。
「……大丈夫なの、あれ」
「さあ」
 ここは、この地下都市が建設された当時に使われていた排気口だ。現役の頃は地上まで延びていたらしいが、今は塞がれて、この縦穴だけが残されている。
 使われなくなった排気口なので、当然誰もメンテナンスなどしていない。
 和樹がここへ来るのは二度目だ。ただし、来たのはこの通路まで。梯子を下りて横穴に入ったことはない。空調整備局に保管されている古い図面を見て、昔の排気口を見学しに来ただけだった。
 図面通りなら、10mほど下りたところに穴があり、そこの穴から、今度は梯子を登って地上に出られるはずだ。昔の、メンテナンス用の通路だったのだろう。
「武利、やめるか? 今ならぜんぜん遅くない」
 呆気に取られたように穴に見入っていた武利が、激しく頭を振る。
「行くよ。行くに決まってる」
「分かった。じゃあ、ここで着替えていくぞ」
 和樹は、持っていたバッグから二人分の防護服とマスクを取り出した。空調整備局の事務所から、こっそり持ち出してきたものだ。
 武利は、見よう見まねで防護服とマスクを着ける。和樹はそれを直してやり、梯子へ向かった。
 和樹が先に下りていく。メンテナンスされていないが、思っていたよりも梯子はしっかりとしている。和樹が合図をすると、武利がゆっくりと梯子に張り付いた。
「武利。下は見るなよ。手元と足元だけ見るんだ」
 和樹は仕事柄、長い梯子を使った移動に慣れている。落下防止用の安全帯も装着し、武利にもその使い方を教えてあるが、初めてなので手元はおぼつかないし、一つの動作に時間がかかる。和樹はせかすことなく、数段降りては、武利の様子を見守った。
 やがて、横穴が見えてきた。穴の側面に、長方形の口がぽっかりと空いている。小さいながら足場が突き出て、柵もあった。
「――やっと着いた」
 横穴に入ってすぐ、武利は腰が抜けたようにへたり込んだ。穴の中は狭い通路で、背負っていた箱が背後の壁にぶつかる。武利は悲鳴を上げて、箱を背負い直した。
「まだまだ先は長いぞ。今度は地上まで30mは登るんだから」
「……そんなに?」
「引き返すなら、今来た10mを戻ればいいだけだ。どうする?」
「行く。行くよ。ここまで来たからには、なんとしてでも行くよ」
 先ほどより声は小さくなっているが、武利の気持ちに変わりはないようだった。
 横穴の通路内の照明はすべて死んでいた。ヘッドライトを点けると、縦穴に沿うように湾曲した通路が浮かび上がる。ようやく人がすれ違えそうなくらいの幅だった。
 数m進むと突き当たりで、上に延びる梯子があった。通路よりも細い穴が、図面通りであれば、地上まで続いているはずだ。
 縦穴から吹き上げる風は横穴に入り、煙突のようなこの穴の中を駆け上っていく。マスクを着けているおかげで、穴の頂上でかいだようなにおいはなかった。
「武利。この先、絶対にマスクを取るな。それから、俺が危険だと判断したらすぐに戻る。いいな?」
「分かってる。和樹の言うことを聞くよ」
 うなずく武利の肩を叩き、和樹は梯子に足をかけた。

    ●

 梯子の出口は、錆び付いた金属製のふただった。何十年も前に使われなくなったものなので、開くかどうか不安だった。だが、内側のフックを外して腕に力を入れて押すと、金属が擦れ合う甲高く耳障りな音に続き、隙間ができた。煙突のような通路を上ってきた空気が、一足先に外へ出て行く。
 和樹は一気にふたを開け、地上へ出る。後から登ってきた武利が外へ出るのを手伝い、ふたを閉めた。
 下の排気口へ来た時点で、夜の十一時だった。和樹の防護服は仕事用のものなので、業務で使う極薄型端末が、手首など数カ所に設置されている。
 そのうち、手首付近にある端末の表面をなでた。起動した画面が光を放つ。時刻は十二時を回っていた。
 昼間でも薄暗い地上は、今は真っ暗だ。塵で覆われる前の地上でも、この時間は真っ暗だっただろう。ただ、星や月は見えていたはずだ。
 天体望遠鏡で観測すべきものは、今やどこにも見えなかった。ヘッドライトと端末の光は、周囲を照らすにも十分ではない。弱々しい光は闇に飲み込まれ、二人を包むそれは果てしなく深かった。
 世界中を覆う塵さえなければ、この闇は観測にうってつけだったろう。
 ほとんど真っ暗で見るべきものなどないが、梯子登りで体力を消耗したらしい武利は、地上に出るなり四つん這いになって肩で息をしていた。しかし、やがて顔を上げ、ため息とも感嘆とも付かない声を漏らした。立ち上がり、空を見上げる。
「地上って寒いんだな」
 武利が腕をさすりながら、和樹を振り返る。地下都市は空調管理が徹底しているので、地上の季節変化の影響を多少は受けるが、基本的には過ごしやすい温度になっている。
「今は一月半ばだからな。真冬なんだよ。おまけに夜だから、昼間よりももっと寒い」
 整備士は地上に出る機会が多いので、地上の季節変化を肌で感じている。地下都市での服装は年間を通して大して変わらないが、防護服は季節に合わせたものを着ている。今は冬用のものだが、それでも真夜中の地上は寒かった。
 こんな寒さを体験したことがないであろう武利は、寒い寒いと繰り返しながらも、初めて地上に出られて興奮しているようだった。
「……明日、学校があるんだろ。戻るのにも時間がかかる」
 空と地面の境がどこなのかも分からない暗闇の世界にいると、和樹と武利の二人だけしかいないような錯覚に陥る。いや、真夜中の地上にいる酔狂な人間など、和樹と武利くらいかもしれない。
「そうだね。早くしないと」
 防護服を着るときは手間取っていた武利だが、天体望遠鏡で観測できる体勢を整えるのは手慣れた様子だった。家でも、何度もやっていたのだろう。
 地面は平面なところがどこにもなく、三脚を立てるのに多少苦労しているようだったが、それぞれの足の高さを調整して、満足いくセッティングができたらしい。
 真っ白なボディの天体望遠鏡を、真っ暗な空に向ける。
 灯りがあると観測の邪魔になると言われ、和樹はヘッドライトの光量を絞った。
 完全に消すと闇に飲み込まれてしまう。地上には危険な生き物が潜んでいて、最低限の照明は確保しなければならないので、それは武利にも了承してもらった。
「あ、マスクが邪魔でうまくのぞき込めない!」
 防毒マスクは顔全体を覆う全面型だ。マスクの半分以上は強化プラスチックになっていて視界は確保されているが、小さなところをのぞき込むのには不向きである。
 天体望遠鏡の大砲のような胴体には、スコープのようなものが付いている。武利はそこをのぞき込もうとしているが、マスクがあるせいで顔を十分に近付けられなかった。
「マスクは絶対に取るなよ」
 地上の大気には人体に有害な物質が含まれている。それを直接吸ったらすぐに死ぬわけではないが、吸わないに越したことはない。
「もちろん、分かってる……しかしこれは、マスクがあるせいで感覚が違うな……」
 武利はぶつぶつ言いながらも、スコープにマスクを押しつけ、望遠鏡の下部に付いているねじを回している。
「うん、まあ、これでいいかな」
 何も見えていないはずだが、武利は一度顔を上げた。それから、先ほど回していたねじのそばに上向きに付いている小さな筒をのぞき込む。筒とマスクのプラスチックがぶつかり合う音がした。
「今の季節なら、南の空に大犬座が見えるはずなんだ」
 のぞき込んだまま、武利は続ける。
「大犬座の中でいちばん明るい星がシリウスで、シリウスは太陽以外でいちばん明るく見える星なんだって」
 天体望遠鏡が向いている先に、和樹は目を向ける。空は墨で塗り潰したよりも真っ黒だった。
 しばらくして、武利が顔を上げた。
「……何か見えたか?」
「ううん、何も」
 和樹の方に顔を向け、歯を見せて笑う。武利の表情は満足そうだった。
「和樹も見てみる?」
「ああ」
 武利の前をして、小さな筒をのぞき込む。思った通り、何も見えなかった。
「ずーっと昔は、シリウスだけじゃなくて、月も火星も土星も、見えてたんだよなあ」
 武利がしみじみと言う。見えていたのは、もう三百年以上前のことだ。
「和樹、知ってるか? 土星には輪があるんだぞ」
「知ってるよ、それくらい」
 地球は塵で覆われて、人類は地下に潜り、天文学は衰退した。
 それでも、先人たちが残した記録や知識は現在に引き継がれている。太陽があって水星があって、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星があるのを、和樹も知っている。それから、冥王星、ケレス、エリス、ハウメア、マケマケ――塵の向こうには、宇宙が広がり、数え切れないほどの星がある。想像しただけで、その果てしない世界に圧倒されそうだった。
「――いつか、この目で見られたらいいな」
 真っ暗な空を見上げる武利の目には、どこまでも広がる宇宙が映っているのだろうか。マスクの強化プラスチックと、眼鏡のレンズがあるせいで、はっきりとは分からなかった。
 そんな日が来るさ、と和樹は口にしなかった。言ったところで気休めにもならない。
 塵がすべてなくなるまで、あとどれくらいの時間がかかるのか、誰も正確には分からない。少なくとも、和樹たちが生きている間に、空が晴れることはないのだ。
「……武利、そろそろ帰ろうか」
「うん」
 準備したときと同様、武利はてきぱきと片付けた。
「和樹のおかげで、念願の天体観測ができたよ」
 すべてを箱に収めてから、武利が言った。
「ありがとう」
 この世界が晴れることはない。地上に出るまでもなく、それは誰もが知っている。
 だけど、武利の笑顔は晴れ晴れとしていた。見ている和樹の気持ちも晴れるような顔だった。

いつかまた君と、ここで

 見上げれば青い空。視線を下げると水平線が横に長く伸びている。海は空よりも青い。
 さらに視線を下げると、海岸線が見えた。白い砂浜ではなく、洗濯板のような岩が広がっている。
「『鬼の洗濯板』と呼ばれてたらしいよ」
 篤志の目線と同じ高さに展開している仮想ディスプレイに、この場所の説明が表示されていた。
 ここは、かつて九州南東部にあった宮崎県の景勝地の一つだという。
「洗濯板なんて映像資料でしか見たことないけど、確かに似てるね」
 ガードレールにもたれ掛かって、美帆は眼下の光景を眺めていた。
「ねえ。もっと近くで見てみよう」
 美帆は、篤志の返事を待たずにガードレールを乗り越えた。その先は断崖絶壁になっているが、美帆は軽々と地面を蹴って飛び出した。
「美帆!」
 篤志がガードレールに両手をついてのぞき込むと、美帆が軽やかに『鬼の洗濯板』に着地したところだった。
「仮想夢の中なんだから、大丈夫に決まってるじゃない」
 篤志を見上げ、美帆が笑う。
「そうだけど……」
 いきなり飛び降りられるのは心臓に悪い。
 ここは仮想夢の中だ。仮想とついているが、夢と同じようなものなので、現実ではできないようなこともできる。けがをする心配もない。
 篤志は、一定の距離を保ってついてくる仮想ディスプレイを手を振って消すと、美帆と同じように崖の向こうへ飛び出した。

 仮想夢は、地下都市〈高春〉で最近流行っているレジャーである。
 詳しい仕組みを篤志は知らないが、ヘッドギアを装着して、リクライニングシートに座りリラックスをすると、意識は仮想夢の中へ移動していた。いや、移動するのではなく、装着者の意識が仮想夢世界とつながる、という説明をされた気がする。
 ともかく、その仮想夢は精巧に作られていて、現実と錯覚するほどだ。
 篤志と美帆が体験している仮想夢の世界は真夏の設定になっていて、肌を刺すような強烈な日差しと熱気を感じる。
 この圧倒的な現実感と、失われた地上の光景が売りであり、流行の要因なのだろう。
 数百年前に起きた自然災害による環境の激変で、人類は地上に住めなくなってしまった。今は地下都市で生きている。人体に有害な大気が充満しているので、もはや地上に出ることすらかなわない。
 自然災害の影響や地下都市への移住期に起きた混乱で、地上の景観は、人類が地上にいた頃と激変しているという。
 二人が見ているのは、遙か昔、地上に存在していた過去の光景だった。
 地下都市は広いが、地上には到底かなわない。広い空も白い雲も青い海も、疑似的に作られたものは〈高春〉にもあるが、本物には及ばない。
 本物は、もはや映像資料や仮想夢の中にしか存在していないが。
 地上に住めなくなっても、地下で生まれ育って地上に一度も行ったことがなくても、だからこそ、地上へのあこがれを抱く者は一定数存在する。
 篤志と美帆も、失われたものへのあこがれを抱いていた。もう二度と手に入らないゆえに、触れてみたくて仕方がなかった。
 用意されている仮想夢世界には様々な時代や場所があり、さらには現実世界だけではなく、空想世界もあるそうだ。
 まさに、手軽に旅行気分が味わえる。
 手軽とはいっても、高校生がデートで行くには、少々奮発しなければならないが。仮想夢体験は時間制で、二人の小遣いでは一時間がやっとだった。
 篤志と美帆が今いるのは、二十一世紀初頭だ。肌がぴりぴりとする日差しだが、天気は良くて風も穏やかだ。美帆と並んで海を眺めていたときには、海面で飛び跳ねるイルカを見つけて興奮した。
 目の前に広がるのは果てしなく青い海と空で、世界は本当はこれほど広かったのかと、ただただ喫驚した。一時間しかいられないのに、二人してしばらく見とれていた。
「すごい! 本物みたい!」
 美帆が、洗濯板といわれている岩の表面をなでて歓声を上げる。
 崖の上からだと、映像資料にあったような、人が手で扱う大きさに見えた。
 だけど、これは『鬼』の洗濯板だ。近くで見ると、一つ一つの幅は大きい。階段より幅があるだろうか。この岩で洗濯をする鬼は、見上げるほど巨大なのだろう。
 篤志もざらりとした表面をなで、潮だまりで小さなカニを見つけた。それを美帆に教えると、目を輝かせてやって来て、小さい、かわいい、とはしゃいだ。
「波も水も、本物としか思えない!」
 仮想夢体験は、二人とも今日が初めてだ。
 想像していた以上の現実感と、未だかつて見たことがない青空と大海原に、高揚しっぱなしだ。
「本物の海も空も、俺たちは見たことないけどな」
 篤志が少々意地の悪いことを言うと、わかってるよ、と美帆は頬を膨らませた。
 それから、しゃがんで両手で海水をすくう。まさか飲むのかと思ったら、その水を篤志の顔にかけた。
「うえっ、しょっぱい!?」
「でも、本物とそっくりじゃない」
 してやったり、という顔で美帆が笑う。
〈高春〉の人工海水浴場に行ったことはあるが、水は塩辛くなかった。
 それに比べたら、ここは全然本物だ。目にも少し入ったようで、痛い。こんなところまで本物らしいとは。
「ああ、もう我慢できない」
 くるぶしまで海水に浸っていた美帆が、いきなりブラウスを脱ぎ捨てた。
 放り投げられた淡い緑色のシャツが、波間にたゆたう。
 篤志はぎょっとしながらも、美帆をここまで大胆にさせるこの世界の開放感に感謝し、すぐにがっかりした。
 美帆は、ブラウスの下に濃い緑のタンクトップを着ていたのだ。
「冷たい。気持ちいい!」
 白いスカートの裾を大きく翻し、美帆は沖に向かって走っていく。すぐに腰までの深さになって、スカートは海中でふわふわと揺れていた。
 篤志は気をつけろよ、と言いながら、揺れるスカートのあたりに視線が釘付けとなる。
 波と光の反射で、確かな輪郭が見えそうで見えない。お、と期待した瞬間に水面が揺れて、美帆の輪郭は大きく揺らぐ。
「篤志も、海、入ろうよ」
 美帆が大きく腕を振る。タンクトップの脇から、やはり見えそうで見えない。
 美帆の声に誘われたのか、見えそうで見えない状況にしびれを切らしたのか、その両方なのか。
 ともかく、篤志は吸い寄せられるように海に入った。
 ジーンズが海水を吸ってあっという間に重くなり、足にまとわりつく。早くと美帆がせかすが、これは動きづらい。
 どうしてこんなところは本物そっくりにしているんだ、ともどかしくなる。
 崖の上から飛び降りても平気なのに、海の中で服を着たままだと陸上と同じように動けないなんて。設定がおかしくないか。
 しかし、その設定のおかげなのか、スカートは相変わらずゆらゆらと悩ましげに揺れているし、まるで誘うように美帆は腕を振っている。
 これはなんとしてもたどり着かなければ――。

 目の前の光景が、ぶつりと途切れてなくなった。
 うたた寝から目覚める時のように、篤志はびくりと震えた。自動音声案内が、体験時間の終了を知らせている。
 ヘッドギアを外すと、隣にいた美帆と目が合った。
「もっとあっちで遊びたかったね」
 彼女はちゃんとブラウスを着ていて、どこも一滴も濡れていない。篤志も、もちろん同じだ。
 こちらが現実なのに、リアルな夢から覚めたばかりの時のように、現実感が乏しい。日差しの熱も、濡れたジーンズの重さと動きにくさも、まだ鮮明に覚えている。
 けれど、この目で見て、この体で感じたすべては、もうどこにもなかった。
 はじめから現実には存在していなかったのだが、頭と体にはしっかりと刻み込まれていた。
「……また来よう。バイトして、お金貯めてから」
 美帆の手を握り、リクライニングシートから起き上がる。
 見えそうで見えなかったものを、見るためにも。
 ただそれは、現実の方でもいいかもしれない。いや、断然現実の方で見たい。
 けれど、ここではない世界でというのも、悪くない。

糸島くんと山田くんとにぎやかな仲間たち

 壁は淡い緑色で、床は濃い緑。天井は壁と同じ色で、無機質な白いライトが等間隔に緑の廊下を照らしている。廊下の行き止まりは扉になっていて、「関係者以外使用禁止」と赤い文字で書かれている。緑の背景に赤い文字は、目に痛い。この扉を見るたびにいつもそう思う。慣れることはない。やはり毎回そう思いながら、左手の壁にある操作パネルにパスワードを入力する。次いでセンサーをのぞき込んで網膜認証。扉のロックが解除される。
 センサーから顔を離すのと、扉が開くのはほぼ同時だった。
 人ひとりが通れるほどの小さな扉。全開になった細長い穴から、むせかえるような緑のにおいが押し寄せる。扉の向こうは深い森だった。
 かつては地上でよく見られた落葉樹林を再現した一大空間である。広さは約二ヘクタール。約十メートル分の人工土壌が敷き詰められている。この空間に立てば、足下にはある意味で地下があるわけだ。
 地下都市なのに、地下がある。これもまた、ここへ来るたびに思うことだ。
「そんなこと言われ笑う人は、愛想笑いしてくれてるだけだよ」
 口にしたわけでもないのに、こちらの胸の内を読み取ったかのように毎度つっこまれる。
 声は右斜め上から降ってきた。手のひらくらいの大きさの鳥が、しっぽを上下させてこちらを見下ろしている。頭から続く黒い羽毛が、白いお腹を縦に二分割するように延びている。頭は黒いが、頬は白い。見ようによっては白が四分割だろうか。木の枝に留まっているので今は見えないが、背中は緑を帯びた青色だ。
「おはよう、糸島くん」
「おはよう、山田くん」
 糸島は、お腹をそらしてふんぞり返っているようにも見えるその鳥――シジュウカラを見上げて挨拶した。
 本物の鳥が人の言葉を話すわけがない。山田くんは精巧な鳥型ロボットである。
 山田くん、という呼び名は、糸島が勝手に付けたものだ。山田くんは糸島の愛玩ロボットではなく、この落葉樹林をより本物らしく見せ、かつ監視するために、管理会社によって放たれている人工鳥なのだ。つまり、会社の所有物である。ちなみに、この空間にある植物はすべて本物で、本物のシジュウカラをはじめとする鳥が数種類放たれている。
「昨夜は異常は?」
「B3区に営巣しているヤマガラのひなが一羽、巣から転げ落ちてキツネに食われた」
 木の枝から糸島の肩に移動した山田くんは、毛繕いしながら報告した。鳥以外に、本物のキツネやタヌキも、この森に棲んでいる。
「そうなのか」
「許容範囲内の出来事だから異常とは言えないが、糸島くんはあのヤマガラ親子を気にかけていたから教えておこうと思ってね」
「残念だな。もうすぐ巣立ちかと思っていたのに」
「自然界ではよくあることだ。ここは、作られた森だがね。それでも、本物の生命の営みは、地上であった頃のそれと変わりない」
 それより、と山田くんは糸島の首をつついた。
「さっさと君の仕事を始めたまえ。お客さんが入ってくるまで、あと一時間もないんだぞ」
 ここは研究目的の場所ではなく、かつて地上に存在した落葉樹林を限りなく本物そっくりに再現した観光施設だ。山田くんのような人工鳥以外は本物の樹木や動物なのでかなりコストがかかり、そのために入園料は割高だ。それでも、地下都市で暮らす人々にとっては魅力的な空間で、毎日来園者は絶えない。
「わかってるよ、そうつつくな」
 糸島の仕事は、人工鳥たちの管理である。ここにいるのは全部で十羽。すべて違う鳥のロボットだ。糸島はその一羽一羽に勝手に名前を付け、彼らのメンテナンスをしている。山田くんは、監視用人工鳥のリーダーとして設定してあるので、いつもいちばんに糸島の元へやってくる。
「そろそろ『換羽』だ。申請してくれ」
「まだきれいに見えるけど」
 糸島は左腕に山田くんを留まらせ、背中を撫でる。
「君は我々のメンテナンス担当の割に鈍いな」
 鳥なので表情は変わらないはずなのだが、山田くんはまるで呆れたような顔をした。口調のせいでそう見えたのかもしれない。
「わかったよ、新しい羽を発注しておく」
 糸島は携帯端末にメモをした。それから、毎日の点検項目通りに山田くんの状態をチェックしていく。そうしているうちに、次の人工鳥が飛んでくる気配を感じた。
「鈴木さんが来たぞ」
「わかってるよ」
「田中くんが来るまであと七分といったところか」
「山田くん、少しは黙ろう?」
「いつも思うのだが、君はネーミングセンスを少し磨いた方がいい。山田だの鈴木だの田中だの、工夫がない」
「全地下都市の山田さん鈴木さん田中さんたちに失礼なやつだな」
 そんな無駄話をしている間に、田中くんの姿が見えた。いつもより来るのが早い。いや、糸島の仕事が遅れ気味なのだ。今日は日常点検に加えて、月に一度の点検項目もあるせいだ。
 人工鳥たちが一堂に会してせっつき出すと、とてもかまびすしい。そうなる前に次々終わらせたいが、すでに鈴木さんにせかされはじめているので、にぎやかになりつつあった。