森のほとりの怒れる人

〈マの森〉に一人で入るな、と大人達が口を酸っぱくして言っているのに、ポラはいつもお構いなしだ。今日は朝から姿を見かけないなと気付いた頃に、全身草まみれで現れる。
「キュラ、お土産だよ」
 満面の笑みで、小さく綺麗な花束や、珍しい木の実を差し出してくる。怒っているキュラの表情など見えていないように。
〈マの森〉には幻獣がいて、幻を見せて森の奥へ奥へと誘い込むと言われているのだ。〈マの森〉に一人で入り、二度と帰ってこなかった人は過去に何人もいる。ポラがいつ幻に誘われてしまうか、キュラは気が気でないのに。
「幻になんか惑わされないよ。キュラが村にいるから、ちゃんと帰るよ」
「幻がなくても、遭難するかもしれないでしょ」
 キュラが本気で怒っていることにようやく気が付くと、ポラは謝り、もう行かないと言うのだが。

「ポラが……昨日からいない?」
 数日前からキュラは熱を出して寝込んでいて、ポラを見ていない。どうせまた〈マの森〉に行ったのだろう。謝る時のポラは真剣そのものだけど、しばらくするところりとそれを忘れてしまうのだ。
 でも、ポラは必ずその日のうちに帰ってくる。帰ってこないことはなかった。
「ポラ……」
 まさか。まさかそんなこと。
 ポラの家族や村人達で、探しているという。キュラも手伝わないと。
「まだ熱があるんだから、寝てなさい。キュラの分までお母さん達が探すから」
 キュラの今の体調では、すぐに倒れてしまい、別の騒ぎになってしまうかもしれない。歯痒くはあったが、諦めるしかなかった。
 けれど、静かな家に一人で寝ていると、色々な想像が浮かんでは消えていく。その中身は、良くないものが多かった。
 そんな自分の悪い想像に駆り立てられて、キュラは寝台を抜け出していた。
 足は、考えるまでもなく〈マの森〉に向かっていた。熱のせいで全身がだるく、いつも通りには走れない。歩いても歩いてもいっかな前に進まず、もどかしくって仕方がない。熱があるにしても、進まなさすぎる。こうしている間にも、ポラは森の奥へ奥へと向かっているかもしれないのに、キュラは全然それに追いつけない――。

「――ラ、キュラ。キュラ、大丈夫?」
 聞き覚えのある声だった。すぐ近くから聞こえる。ゆっくり目を開けると、枕元にポラがいた。
 キュラは何度も瞬きをした。〈マの森〉にポラを探しに行ったはずなのに、今は自分の寝台で横になっている。そして、行方不明になっているポラがいる。
 これは、もしや〈マの森〉の幻獣が見せる幻だろうか。横になっていては森の奥には入れないが、幻獣としてはいいのだろうか。
「キュラ?」
 ポラが首を傾げる。昨日からいなくなっていたとは思えない、いつも通りの彼だ。ではやはり、幻かもしれない。
「……ポラ、みんな心配してるから、早く村に戻ってきてよ……」
 幻にそんなことを言っても仕方がない。でも、キュラにはほかにもうどうしようもなかった。
「キュラ、寝ぼけてるの? 僕は戻ってきてるじゃないか」
「……え?」
 怪訝な顔をするキュラに、ポラが笑う。
「はい、熱冷ましの薬草。探すのにちょっと時間がかかっちゃった」
 差し出されたのは、瑞々しい青い草だった。熱によく効くけれど、生えているのは〈マの森〉で、しかも滅多に見つからない。
「……わたしのために? 待って、ポラは本物? わたし、〈マの森〉に行ったんじゃ……」
 熱のせいなのか、頭が混乱する。ポラは、そんなキュラを不思議そうに見ていた。
「キュラ? 起きてるの?」
 部屋をのぞき込んだのは、キュラの母だった。その表情が、一瞬で驚愕の色に染まる。
「ポラ!? あなた、なんでここに!?」
「こんにちは、おばさん。勝手に上がってごめんなさい」
「いえ、それよりもっと他に謝ることが――いやいや、今までどこに行ってたの!? 家には帰ったの!?」
 母の慌てふためく大声が、熱のある頭にキンキンと響く。
「お母さん、あの……」
 熱でふわふわする頭が、少しだけ冷静さを取り戻してくる。母の声はお説教に変わっていた。
「――とりあえず、皆に言ってくるから。ポラ、あなたは家に帰りなさい!」
 一通り気が済んだのか、母は部屋を飛び出していった。さっきまで怒っていた声が遠ざかり、急に静かになる。
 どうやら、キュラが〈マの森〉に行ったと思ったのは、夢だったらしい。幻ではなくて良かった、何もかも。
「おばさん、すごく怒ってたね」
 ポラは、母が見たら再び怒り出しそうなほど、のんびりとした声だった。
 彼はいつもこうだ。怒られても、ちっとも響かない。キュラが一生懸命怒って、ようやく謝るくらいなのだから。
 だけど。
「――ポラ、ありがとう」
 今回は、いつものようには怒れそうにない。
 キュラのために薬草を探してきてくれた、それがどうしようもなく嬉しいから。お土産の小さな花束をもらった時よりも、珍しい木の実をもらった時よりも、ずっと。
「どういたしまして」
 ポラがにっこりと笑う。
 今は怒れそうにない。だから、熱が下がったら、いつものように怒るのだ。

〈了〉

コメント

タイトルとURLをコピーしました