透明な恋のはじめかた 後編

「もう二週間経つのに、全然戻る気配がないね」
 帰り道、明が半分諦め、半分苦笑いする声で言った。彼女も帰宅部だった。放課後も教室でだべることの多い大倉と根本を置いて、透は明と一緒に先に帰ることが増えた。
「透明なのにも慣れちゃったな」
「うん。鏡を見ても驚かなくなっちゃった」
 最初のうちは、毎朝洗面所で自分を見る度に驚き、中身の詰まった服だけがそこにある光景に違和感を拭えなかったが、慣れとは恐ろしい。寝癖があってもよくわからないので直さなくていいから楽だ、とさえ透は思い始めていた。
 戻りたくないわけではないが、透明になって特段に困ったことが起きているわけでもない。
「ま、そのうち戻るんじゃないか」
「そうかな」
 ただ、明は不安そうだ。
「そんなに心配しなくても、今のままでも誰も驚いたりしないし、困ったことは起きてないし、大丈夫だよ」
 同じ日に透明になったが、もしかしたらどちらかだけが元に戻ることもあるかもしれない、と思っていた。でも今は、どちらかが先に戻ったら、いずれもう一人も戻るのだろうと気楽に考えている。明は心配そうにしているから、同じタイミングで戻らないのであれば、彼女が先に戻れた方がいいかもしれない。

 昼休みの教室は今日もにぎやかだ。
 今日は購買でパンを買うという根本は、昼休みになるなり教室を出て行った。透と大倉が机の上で弁当を広げてふたを開けたところで、根本が戻ってきた。
「篠原は、堀内と付き合い始めたのか?」
 袋を勢いよく開けてパンにかぶりつき、根本がいきなり訊いた。
「あ、それ、おれも気になる。山崎に続いて篠原も抜け駆け?」
 大倉も興味津々の顔だ。
「……なんで、そんな話になるんだよ」
「いや、最近さっさと教室出て行くことが多いなと思ったら、堀内と一緒に帰ってんじゃん。ふつう、付き合い始めたと思うだろ」
「思えば山崎もそうだったよな。あーあ、篠原にも彼女できちゃったのか」
「いや、付き合ってないし」
「じゃあなんで一緒に帰ってんだよ」
「別に、友達と帰るのはふつうだろ」
 大倉や根本たちと一緒に帰るのと同じ――はずだ。だが、明としゃべりながら駅まで歩くのは、大倉たちとは違う楽しさを感じているのも事実だ。だから、放課後になるとすぐに教室を出るのだ。
 そんな自分の気持ちをなんと呼ぶのか、透も薄々わかっている。だが、直球で訊いてきた根本のように、透はストレートには返せない。
「堀内は友達なの? いつのまに」
「いや、ほら、堀内も透明だろ。それで意気投合しただけで」
 なんでもない風を装いながら、ご飯を口に放り込む。根本が、ふうん、と言った。
「堀内って結構かわいいよな」
「根本の好みって堀内みたいな顔だっけ?」
 三人の中で明の顔をはっきりと知っている大倉が、意外そうな顔をする。透も、心の中で首を傾げた。根本はきつめな感じの美人が好みだったはず。透明だからわかりづらいが、明はどちらかといえば柔らかい雰囲気の顔つきで、根本の好みとは正反対ではないだろうか。
「いや、透明だからよくわかんないけど、なんかそれで逆にかわいく見えるっていうか」
「そんなもんかな」
「なあ、篠原。おまえさ、全身が透明なんだよな。足とか、胴体とかも」
「……そうだけど」
「堀内も同じなのかな」
 大倉はあまり興味なさそうに言うが、根本は違うようだった。
「同じじゃねえの? 触った感触があるならどっちでもいいし」
 品のない笑みだった。根本のそんな顔は初めて見る。意外と思う前に不愉快だと感じた。
「……どういう意味だよ」
「胸とかさ、触れるならそれでいいじゃん。ま、透明で見えないのはちょっとつまらねえかなって思うけ――っ!?」
 透はほとんど反射的に、根本の胸ぐらを掴んでいた。勢いよく立ち上がったせいで、いすが大きな音を立て倒れる。クラス中の視線が透たちに集まった。
「おい、篠原」
 大倉が目を丸くし、根本は目を見開いていた。
「じょ……冗談だって。そんなに怒るなよ」
 クラスメイトたちが、すわけんかか、と見ているのを感じる。周囲でひそひそとささやき合う声が聞こえた。
 透は根本を乱暴に解放すると、倒したいすを起もせずに大股で教室を出ていった。
 根本が本気であんなことを言ったわけではないのはわかっている。だが、冗談だと受け流して昼ご飯の続きを食べる気にはなれなかった。
「わっ」
 飛び出したものの、行くあてのないまま廊下を突き進んでいたら、教室から出てきた生徒とぶつかりそうになった。
「あ……篠原くんか。びっくりした」
 明が、髪をかきあげるような仕草をする。ボブヘアらしいが、髪の毛も透明なので長さはよくわからない。
「珍しいね。篠原くんが昼休みにこの辺にいるの」
 校則で髪の染色は禁止されている。だが、髪の色には個人差があるものだ。明の髪はどんな色なのだろうか、とふと思った。
「――堀内。今日の放課後、時間あるか。ちょっと話がしたいんだ」
「帰りながらってこと?」
「いや、できれば、ゆっくり話がしたいんだ」
「……うん。いいけど」
「じゃあ、授業終わったら、屋上で」
 明は戸惑った雰囲気を醸し出しながらも、わかった、と言ってくれた。

 放課後の屋上は人気がなかった。授業が終わると部活や塾へ行き、帰宅部の生徒は教室でしゃべるか、寄り道をして帰るかする。まだ風が冷たいこの季節。わざわざ寒いところに行こうという者はほとんどいなかった。
 明はまだ来ていなかった。透はフェンスに寄りかかって待っていた。
 あれから教室へ戻ると、透をからかうための冗談だったのだと根本が素直に謝った。透もそれを素直に受け入れ、自分もちょっと乱暴なことをしたと謝り、大倉がほっとした顔をしていた。
 午後はずっと、明のことを考えていた。
 冗談とはいえ、根本の言葉を思い出すとあまり愉快ではなかった。どうしてそんな心持ちになるのか、理由は分かり切っている。
 知り合ってから二週間くらいしかたっていないが、堀内明の存在は、透の中で自分でも驚くほど大きくなっている。
 あのときは怒りに任せて勢いで言ったが、冷静になってみれば、なんとも意味深な発言をしてしまった、と何度も頭を抱えそうになった。
 告白して失敗したとき、明と気まずくなる可能性も考えた。だが、同じ透明人間だからという親近感を明も抱いている、と透は思っている。少なくとも悪い印象は持たれていないだろうし、一緒に帰る程度に仲良くしているから希望がないわけではない。
 いきなり透明人間になるという奇妙な現象で知り合ったのだ。ならば透明なうちに、その縁を深めてみようではないか。
 昼休みの勢いを取り戻しつつあったそのとき、明が屋上に現れた。
「遅くなってごめんね」
「いや、全然待ってないよ」
 明が傍らに来たので、透はフェンスにもたれ掛かるのをやめた。
「話って?」
 早速本題か、と一瞬戸惑ったが、話があると言ったのは透の方だ。軽く咳払いをすると、まっすぐに明を見た。透明だから、目に飛び込んできたのはほとんど背景だったが。
「知り合ったのはついこの間だから、信じられないかもしれないけど、おれ……堀内が、好きなんだ」
 明が目を見開いているのが、おぼろげな目の輪郭からわかる。透は、全身がかっと熱くなった。顔も赤くなっているに違いない。だが、透明だから顔色はわからない。真っ赤な顔を明に見られるのは気恥ずかしかったから、透明で良かった、とこの体になって初めて思った。
 と、透が一人で安堵していたのも束の間。明が眉間にしわを寄せたと思ったら、両目からぼろぼろと涙をこぼし始めたのだ。透明な顔を伝う透明な涙は、目や口よりも輪郭をつかみづらかった。だが、泣いている、というのは確実にわかった。
「あの、ごめん。おれ、そんなつもりじゃなくて……その、泣くほどいやだった?」
 嬉し泣きには見えない。まさか泣かれると思っていなかったからショックだったが、明を泣かせたという罪悪感の方が大きかった。
「違うの……謝るのは、わたしの方なの。ごめんね、篠原くん」
 明は涙声でそう言うと、両手で顔を覆い、その場に座り込んでしまった。
「どうして堀内が謝るんだよ。おれは別に何もされてないよ」
「篠原くんの体が透明になったの、たぶんわたしのせいなの」
「え?」
「学校の近くに縁結びの神社があるの、知ってる?」
「最近、噂になってる神社のこと?」
「そう。縁結びのお願いをしたら片思いをしてた先輩とつき合えるようになったっていう一年生の子の話が広まって、みんなお参りに行くようになったの。その先輩が、山崎くんって、知ってた?」
「いや。ていうか、山崎って、飛び出して一年の自転車にはねられて骨折したんじゃなかったっけ……まさか、その自転車の一年生が?」
 明がうなずく。もしも神社にお願いした結果が山崎の骨折なら、とんでもない縁の結び方をする神様である。
「わたしも、お願いしたんだ。篠原くんとの縁を結んでくださいって。そしたら次の日、わたしの体が透明になってて、学校に行ったら篠原くんも透明になってたから、きっと神様がそうしたんだって思ったの」
「……堀内は、おれのこと前から知ってたのか?」
「知ってたよ。一年生の時から。篠原くんがわたしを知らないのも知ってた。でも、透明になったのは私たちだけだから、これをきっかけにして仲良くなれるかもしれないって、思ってたら、すぐに篠原くんと話ができて、一緒に下校もできて、すごく嬉しかった。だけど、すぐに怖くなったの。透明じゃなくなったら、クラスも違うし、篠原くんと話せなくなるんじゃないかって……。だから、ずっと透明のままにしてくださいって、また神社にお願いをしに行ったの」
「……なんかやり方が過激だけど、山崎のことといい、御利益はあったんじゃないのか」
 明がくすりと笑った。だが、すぐに声のトーンが落ちる。
「でも、もしかしたら篠原くんがわたしに話しかけてくれること自体が、その神社のおかげなのかもしれない。透明人間にするような神様だから、篠原くんの心を操ることもできるだろうなって。そしたら、こんな……」
 明の声が、また涙で震える。
「ごめんね、篠原くん。体を透明にするだけじゃなくて、心まで操るようなことしちゃって。透明じゃなくなったら篠原くんが離れていくと思ったけど、こんなのやっぱり良くない。元に戻してくださいって、ちゃんと神社にお願いしに行くから」
 話しながら、明がしゃくりあげる。その度、彼女の体が色を取り戻していく。透は目を見張った。さっきまでは、透けていた明の向こうに、赤くなりつつある空が見えたが、今はもうほとんど見えなくなっている。
 透は足元を見た。今は、二人の頭や手の影ができている。
「……行くんだったら、お願いじゃなくて、お礼参りだろ」
「え」
 明が顔を上げる。ようやく透を見た彼女は目を丸くする。
 一重だったのか、と思った。髪の色はきれいな黒で、まっすぐだった。
 透は、寝癖を直していないことを思い出した。ろくに鏡も見ないから、いったいどんな頭になっているのかわからない。髪の毛をかきむしってごまかした。
「今から一緒に行こう」
「――うん。でもその前に、寝癖、直した方がいいよ」
 目尻に残る涙を拭い、明が笑った。

〈了〉

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