君と会う空の下

「今日未明から降り出した雨は、夜半まで降り続く見込みで――」
 画面の向こうにいるお天気キャスターは、いつもながらの美しく楚々としたたたずまいで、憂鬱な今日の天気の行方を説明している。キャスターの爽やかな声は、暗いうちから音をたてて泣き出している空とは対照的だ。気をつけてお出掛けください、という締めくくりの言葉を合図に、リモコンの電源ボタンを押してテレビを消した。
 いつかコンビニで買った安物のビニール傘を取り、足早にアパートを出る。雨音がいっそうはっきりと聞こえてくる。
 季節は梅雨のまっただ中。毎日降り続く雨とまとわりつくようなじめじめとした空気に、うんざりする人も多いだろう。
 けれど僕は違っていた。ビニール傘が雨音を弾く音は軽快なリズムとなって、僕の心を躍らせるのだ。


 雨が奏でる旋律と一緒に、いつものように駅を目指す。
 大きさも形もまちまち、彩りも様々な傘が花のように咲き乱れている。雨の朝に咲く花々は、先を急ぐようにぬれた路面の上を流れていく。たくさんの花とすれ違ううちに、ぴんと張った青い花弁の下に、捜している人を見つけた。
 駅前の大きな交差点は雨が降っているせいか、いつもよりも混んでいる。
 目の前を通りすぎる車の向こう、横断歩道の対岸で、彼女は控えめな青い色の傘をさして信号が変わるのを待っていた。
 毎日、歩いて駅へ行く僕。
 雨の日だけ、駅前ですれ違う彼女。
 彼女の存在に気が付いたのは、今年の春。
 しとしとと春雨が降りしきる日、気紛れに吹き抜ける強い風に青い傘を翻弄されて困った顔で歩く姿が目に入った。覚めるような青い傘と社会人一年生と思われる初々しい出で立ちが、目を惹いたのかもしれない。
 彼女と毎朝すれ違うことに気が付いたのは、それから数日の間、雨天が続いたからだ。
 雨の日にしか彼女を見かけないことに気が付いたのは、更にそれからしばらく晴天の日が続いて、また雨の日があってからだ。
 雨が降るたび、青い傘の彼女はいるのだろうかと、すれ違う人の顔を見るようになったのはそれからほどなくしてだった。

      ○

「これはもう、恋だね」
 同僚の鈴木が、からかうように言った。
 ある日に彼女のことを話して以来、雨が降るたび今日は会ったのかと訊いてくるようになった。色恋沙汰がいかにも似合わなさそうな僕がそんなことを言ったものだから、面白がっているらしい。
「名前も知らない人に?」
 そう、僕は彼女の名前を知らない。それどころか、彼女について何も知らないのだ。知っていることといえば、彼女の傘の色は青いということだけである。
 何故雨の日にだけ見かけるのか、その理由は分からなかった。雨の日だけいつもとちがう時間帯の電車に乗っているのか、雨の日だけ電車を利用しているのかもしれない。
「そういうこともあるって。雨の日は、その子を捜すんだろ?」
「まあ、否定はしないけど……」
 乗り気な鈴木と違って、自分のことだというのに僕は及び腰だった。
 確かに、彼女の存在は気になる。目が覚めてから雨が降っていると、今日は会えるかもしれないと気持ちが明るくなるのは事実だ。けれど、それだけで彼女のことを好きになっていると決めるのは早計ではないだろうか。何も知らないのにその人のことを好きになるのは、彼女に対して不誠実なことをしているように思える。
「素敵です、ロマンチックです、なんか恋愛小説みたいでいいじゃないですか、兼田さん」
 アルバイトの東子(とうこ)ちゃんが、横から話に加わってきた。
 大学二年生の彼女は、女の子だけあってこの手の話が好物らしい。ちょっと離れたところにいても、東子ちゃんは耳ざとく聞き付けてやって来る。
「書店員が小説のような恋をする……かあ。本にしたら、売れるかもしれない」
 鈴木がいいことを思いついたと、ニヤリとした笑みを浮かべる。
「人をネタに、金儲けしようって言うのか?」
 それ以前に、鈴木に文才などあるのだろうか。僕も彼も本を読むのが好きで職業柄かなりの冊数を読破しているが、だからと言って文才があるとは限らない。
「うちの店だけで独占販売するんだ。それで話題になれば、来店者も増えてほかの書籍の売り上げもアップ。俺と兼田クンに功労賞が出ること間違いなし! ナイスアイディアだろ?」
 僕の軽く非難めいた口調にも、鈴木は悪びれるどころか冗談めかした答えを返してきた。
「わたしには何にもないんですかぁ?」
 東子ちゃんまで鈴木の冗談に乗っかって、不満そうに唇をとがらせる。
「もちろん、東子ちゃんにもあるとも。兼田クンがケーキバイキングに連れて行ってくれるに決まってる」
「わあ、やったぁ!」
 それなら行きたいお店があるんですと、東子ちゃんと鈴木は捕らぬタヌキの皮算用も良いところな話をどんどん進めていく。最初は僕が話題の中心だったはずなのに、すっかり置いて行かれてしまった。
「二人とも、そろそろ仕事の時間だよ」
 それにいじけたわけではないけれど、僕は休憩時間の終わりを宣言すると、ケーキバイキングの話に盛り上がる二人を休憩室から追い立てたのだった。

      ○

「早い地域では、今日の午前中にも雨が降り出すでしょう」
 いつものお天気キャスターが、テレビ画面の中でそう言うのを聞いて、窓の外へ目をやった。
 僕の住んでいる地域は、どうやらその『早い』ところに該当するらしい。起きた時にはどんよりとしていた空は、もう待ちきれないとばかりに雨粒を落とし始めていた。
 僕はいつもの時間に家を出ると、傘をさして駅へ向かう。
 今日は会えるだろうかと思いながら歩いていて、彼女と会う日はいつも、朝起きた時には雨模様だったことを思い出した。
 今日みたいに曖昧な天気の日は、果たして会えるのだろうか。彼女を見かけて以来初めて、僕の心は空模様と同じになりそうだった。
 そういう不安に限って的中してしまうものだ。
 彼女の姿をいちばんよく見かける場所、駅前の交差点付近にたどり着いても、青い傘も彼女の姿はなかった。
 今まではどんなに空が憂鬱な表情をしていても、朝から雨の降っている日であれば、僕は上機嫌に仕事を始められていたけれど、今日ばかりは肩を落とすしかない。とうとう駅に着いてしまい、コンコースで傘をたたんだ。
 溜息まじりに顔を上げたとき、僕は思わぬ人の姿を見つけた。
 彼女だった。
 改札を抜けた人たちは一連の流れ作業をするように、傘をさしてどんどん駅からも出て行く。けれど、彼女はその流れの真ん中で、途方に暮れたように立ち尽くしていた。
 どうしたのだろうと訝しんで見ていると、彼女の手には何も握られていないことに気が付いた。
 もしかして、傘がない? 
 雨が降り始めたのは、三十分ほど前だっただろうか。僕は雨が降り出したあとに家を出たけれど、彼女はそれよりももっと前に家を出たのかもしれない。傘を持たずに。
 傘が必要のない日は、彼女を見かけない。そんな日は家を出る時間が違うのか、電車を使わないで来ているのかは分からないけれど、彼女を見ることは一度もなかった。
 今日みたいに曖昧な天気で始まった日は、傘を持たずに家を出る人も少なくはないだろうから、キオスクやコンビニの傘が売り切れたのかもしれない。
 僕がいろいろと想像を巡らしているうちに、彼女はどうやら傘なしで行く決心を固めたらしい。このままでは遅刻するからいつまでも逡巡していられない、と言わんばかりにコンコースの外を睨んでいる。
 駅から彼女の勤務先までどれくらいの距離があるのか分からないが、傘のないまま駅前の交差点を渡った頃には、早くも全身がしっとりとしてしまうような雨足である。
 ぬれたままエアコンの効いたオフィスにいたら風邪を引いてしまうかもしれない。そう思ったときには、僕は弾かれるように足を前に出していた。
「あの、すみません」
 覚悟を決めた表情でコンコースを出ようとした彼女は、いきなり声をかけてきた僕をキョトンとした顔で見上げた。
「あの……もし傘がいるんでしたら、この傘、使っていいですよ」
 僕の口がそう言って、僕の手が彼女に傘を差し出す。僕は、姿を見るだけで満足していた名前も知らない女性に声をかけ、そのうえ頼まれてもいないのに傘を貸そうとしている。
 自分のことだというのに信じられなかった。雨に洗い流されたように、現実感は希薄だった。だからこそこんな大胆な行動をとれたのかもしれない。
「え。でも……」
 彼女は見知らぬ男からの突然で意外な申し出に戸惑い、ちょっと警戒心を見せる。
 その様子を見て、僕は少しずつ冷静さを取り戻してきた。朝っぱらから傘をダシにナンパする変な奴、と思われているかもしれない。
「僕は、この駅ビルに入ってる太平堂書店に勤めてる兼田と言います。僕はもう傘は使わないので、よかったら使ってください」
 怪しい奴だと誤解されてはせっかくの大胆行動の意味がない。すぐさま自分の名前と職場を明かし、内ポケットに入れているはずの名刺を探る。
 あいにく名刺は切らしていたけれど、僕がいかにも焦った様子でバタバタと背広の内側を探っていたおかげで、彼女の警戒心は緩んだのだろうか。あるいは、もう迷っている時間がないと思ったのかもしれない。
「あの……本当に、いいんですか?」
 少しおずおずとしていたものの彼女が拒否の言葉を返してこなかったことに、大いに胸をなで下ろした。
「大丈夫ですよ」
 僕はできうる限り穏やかな笑みを浮かべ、傘を差し出した。安物のビニール傘ではあるけれど、これなら女性が使っても違和感がないから大丈夫だろう。
「太平堂書店にお勤めなんですよね。遅くなるかもしれませんけど、必ずお返ししますから」
 彼女は傘を受け取ると、初めて笑顔を見せてくれた。
 ありがとうございますと言ってぺこりと一礼すると、透明なビニール傘を広げて雨の中へ歩き出して行った。

      ○

 休憩時間に、まるで夢のような今朝の出来事を、鈴木と東子ちゃんに尋ねられるまま話していた。今まで見ているだけだった僕が行動に出たので、二人とも大いに興奮して耳を傾けていた。
「ようやくお話しできたのか。よかったじゃん」
「これがきっかけになってお付き合いが始まるかもしれないですよ、兼田さん」
 鈴木も東子ちゃんも、いつになく目を輝かせている。
「いくらなんでも、そこまでは……」
 僕は身を乗り出してそう言う二人に若干気圧されていた。
「それにほら、コンビニのビニール傘だし、返しに来るの忘れるかもしれないよ。忘れても、安物だからまあいいかって思ってそのまま――」
 返しに来ないことも十分に考えられるではないか。
 自分で言っておきながら、へこみそうになった。必ず返すと言っていたけれど、そう言ってくれただけに彼女が現れなかったらさすがにちょっと悲しい。
「きっと返しに来ますよ。わたしだったら、困ってるところにスッと手を差し伸べて助けてくれる男の人が現れたら、グラリと来ますもん、這いつくばってでも返しに行きますよぉ」
 東子ちゃんが目を輝かせたまま、しかし鼻息は少々荒くそう言った。
 這いつくばってまで返しに来たら、ちょっと怖い。励ましてくれているのか、単に自分だったらそうすると言いたいだけなのかは分からなかったけど、東子ちゃんにはありがとうと返した。

      ○

 東子ちゃんの励ましのおかげもあってか、夕方になると、いつ彼女が来るだろうと期待に胸を膨らませ始めていた。帰宅途中のお客さんで店内が混み始めた頃からは、それどころではなくなっていたけれども。
「疲れた……」
 混雑する時間帯は過ぎてそろそろ一段落といった頃、店内をざっと見渡してすぐにレジへ来そうなお客さんがいなかったから、気を抜いて少しぐったりとしていた。
「すみません」
「あっ、いらっしゃいませ」
 レジにいながら声をかけられるまで気付かないなんて、とんでもない失態だ。僕は慌てて顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。
「あの、今朝は傘をありがとうございました」
 彼女は柔らかく微笑んで、安物のビニール傘を持ち上げて見せる。
「――いえ、こちらこそ、逆に返す手間を作ってしまったようで、すみません」
 返しに来ないだろうと高をくくっていたわけではないし、返しに来て欲しいと期待もしていた。
 だけど、仕事に追われて傘を貸したこと自体をすっかり忘れていたから、彼女の訪問はまるで不意打ちだった。頭の中は真っ白になって、何と返せばいいのやら、言葉はひとつも浮かんでこない。
 とりあえず傘は受け取らなければいけない。レジから急いで出て、傘を受け取る。
「本当に助かりました」
 彼女は再びありがとうございましたと言うと、会釈をして店を出た。
 その一部始終を、鈴木と東子ちゃんはどこからか見ていたらしい。彼女が帰ったのを見るや、僕のところへそろってやって来た。
「よかったな、兼田クン。晴れてバラ色の人生への第一歩が踏み出せたんだ!」
「おめでとうございます、兼田さん! 応援してますよ!」
「いや、あの二人とも……僕は彼女の名前も知らないんだし」
 お客さんもいるのだし落ち着いてくれと、当の僕以上にはしゃぐ鈴木と東子ちゃんをなだめながら、少しだけ僕も期待していた。
 雨の日にしか会わない彼女と、違う天気の日にも会えることを。

      ○

「今日も真夏日になるでしょう。水分をこまめにとり、熱中症に十分注意して――」
 彼女に傘を貸した翌日から晴れた日が続き、暑くなってきたなと思っていたら梅雨明けが宣言された。
 一週間先まで晴天の予報を告げるお天気キャスターの爽やかな笑顔を恨めしい思いで見ながら、電源ボタンを押してテレビを消した。
 晴れた日には、彼女に会えないのだ。
 空はすっかり夏色になっていて、彼女の傘と同じ青色がどこまでも広がっている。足元についてくる濃い影を引き連れ駅に向かう日が続いた。
 どれだけ捜したところで、夏の強い日射しの下を暑そうに歩く人の中に彼女を見つけることはできなかった。


「――日ぶりの雨は、今夜遅くまで降り続く見込みです」
 傘を貸し借りしたことを彼女が忘れてしまうんじゃないかと危惧し出したある日、念願の雨天がようやく訪れた。
 窓ガラス越しに雨音を聞いたときから、僕の気持ちは浮き立っていた。かといって気持ちに合わせた軽やかすぎる歩調で駅へ向かっては、彼女を見つけられないかもしれない。はやる気持ちを抑えながら、いつも通りの時間に家を出た。
 久しぶりの雨で、路上にはたくさんの傘が花開いていた。彼女の青い傘はどこで見つかるだろう、とわくわくしながら駅を目指した。
 ところが、見慣れたあの青い傘を見つけることができなかった。傘を貸したあの日と同じように、彼女を見かけることなく駅へ着いてしまう。
 僕は悄然として、あの日以上に肩を落としコンコースに入った。
 あの日は曖昧な天気だからどうなるか分からないという不安があったけれど、今日は違っていた。昨日の夜はまだ雨は降っていなかったけれど天気予報で翌日は雨と知ってから、久しぶりに彼女に会えるという期待は芽を出していたのだ。朝からぐんぐんと伸びて大きくなっていた芽は、今はすっかりしおれていた。
 雨が降った日は、鈴木と東子ちゃんが「今日は会えたのか」と訊いてくる。だけど今日ばかりは訊かれるのが辛い。思わず深々とした溜息をついていると、
「あの、すみません」
 と言われた。コンコースのど真ん中に突っ立っていたのだから、邪魔だったのかもしれない。慌てて顔を上げて、
「すみま――」
 言いかけたままの形で、口が固まる。
「あの……、どうしたんですか?」
 目の前に、彼女が立っていたのだ。
 傘を返しに来た時と同じ不意の登場に、僕の思考はまたしても白紙になる。喜びよりも驚きのほうが頭の中を占領していた。
 もっと何か言ったほうがいいのではないか、いやそれよりもどうして声をかけてくれたんだろうと、不安と期待の入り交じった顔で彼女を見ていて、気が付く。
 傘を持っていない?
 雨は朝早くから降っていた。それに、家を出る時に傘を忘れる、あるいは持って行かないなんてことはまずないような雨足である。
「太平堂書店の兼田さん、でしたよね」
 僕の名前が、控えめな色の口紅に彩られた唇から紡ぎ出される。
 覚えていてくれた。その一言だけで、僕の胸は弾むように高鳴っていた。
「あの、もしよろしければ、傘を貸してもらえませんか?」
 降りしきる雨音とコンコースの中を行き交う人々の喧噪に囲まれていたけれど、彼女の声はしっかりと耳に届いていた。僕が聞き間違いをしていない限り、彼女は確かにそう言った。
 そして、僕が見間違いでなければ、彼女の頬はほんのりと赤みがさしているようだった。
「あ、ああ。いいですよ」
 ほとんど条件反射のような素早さと抑揚のない声で、例の安物ビニール傘を彼女に差し出す。どうしてという疑問が、ぐるぐると頭の中で渦巻いていた。だけど、その疑問は混乱だけではなくて、心地良さを伴っている。
「ありがとうございます。必ず、お返ししますから」
 晴れた夏空のように輝く笑顔で会釈をすると、傘を開き、雨の下へ軽やかに踏み出した。
 僕は少しずつ遠ざかっていくビニール傘とその下にある後ろ姿をずっと見ていた。雨の帳の向こう、人混みの中に紛れていく彼女の姿をずっと目で追っていた。目が離せなかった。
 どうしてだろうと渦巻く思考の中から、疑問は次々と湧いてくる。
 どうして、雨の日にだけ彼女と出会うのだろう。晴れた日に会わないのは何故だろう。
 今日は雨なのに、どうして彼女は青い傘を持っていなかったのだろう。
 僕が傘を貸してくれなかったら、どうするつもりだったのだろう。
 どうして、僕から傘を借りようと思ったのだろう。

 そこに理由があるのなら。
 いつか、晴れた空の下で、僕はその理由を聞ける日が来るのだろうか。

〈了〉

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