第一章 亡国の王女と義手の傭兵03
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 キシルの店を出て地図屋に向かい、必要な地図を入手した。ヴェンレイディールの地図はあいにくなかった。あとは、ハルダーの旅支度を調えに彼の自宅――安い集合住宅だ――に立ち寄った。物入れに適当に詰め込み、外套を羽織るだけである。ついてきたイフェリカは、ハルダーの決して整理整頓されているとは言えない部屋を物珍しげに見回していた。
「今日中にミファナスを出るぞ」
「はい」
 ここ王都はもちろん、大きな街は頑丈な壁に囲まれていて、出入りできる門は多くない。ミファナスの門は三カ所で、どの門にも衛兵が立ち、街に入る際は身分証が必要となる。身分証は役所に申請して発行するもので、表には名前と出身地、裏には発行した役所が記されているのが、リューアティンの公式なものだ。
「無事に出られましたね」
 イフェリカがほっとした声で言った。
 キシルの助言通り、イフェリカはずっと頭巾を目深にかぶっているが、門を通るときにそれを咎められることもなかった。
「まあ、出て行くだけだからな」
 入るときには身分証が必要だが、出て行くときには必要ではないので、難なく出られたのだ。イフェリカはリューアティンが発行した正式な身分証を持っているそうだが、それを使うわけにはいかないからと、キシルが彼女の身分証を持たせていた。
 手配書があるからいつもと違って衛兵が目を光らせているのではないか、というハルダーの心配は杞憂に終わった。衛兵の数は普段と変わらず、通行人の顔をいちいちじろじろ見ているわけでもなかった。手配書はイフェリカのもの以外にも数多くある。そのすべてを覚えているわけではないのだろう。もっとも、王女の手配書は嫌でも記憶に残るはずだ。すんなり出られたということは、イフェリカの変装がそれなりの効果を発揮しているわけだ。
 街道をこのまま進んでたどり着く次の街も、壁に囲まれている。入るときは身分証が必要となるが、じっくりと検分されるわけではない。手に持つなど見える位置に掲げて、衛兵の前を通り過ぎるだけである。たぶん、一人一人身分証を検分するのが本当なのだろうが、出入りする人間の数が多いといちいちじっくりと調べていたらきりがない、というのが実状なのだ。
 油断はしない方がいいとは思ったが、次の街に入るときは案の定、検分はされなかった。夕方近くで、門が閉まる前に駆け込みで街に入ろうとする人が多く、その中に紛れ込んで衛兵の目にほとんど留まらずに入れたのもよかった。
「ここにもあるか……」
 だが、イフェリカの手配書はこの街でも出回っているようだった。人が多く集まり辻には同じものが数枚貼ってある。描かれているのが若い娘でしかも王女とあって、手配書の前で足を止めて眺める人の姿が目につく。
「申し訳ありません」
 イフェリカは消え入るような声で言うと、前が見えるのかと心配になるほど目深に頭巾をかぶり直す。
「あんたのせいじゃないだろ」
 戦争を起こしたのは彼女の兄だ。その妹だからイフェリカは手配されているだけなのだから、はた迷惑なことをしてくれた兄だな、と思うだけだ。しかし、イフェリカは王女である以上、兄の行動に責任を感じているのだろう。王族は難儀なものである。
「もうすぐ日没だから、泊まるところを探そう。どこでもいいか?」
 高級なところでないと寝られない、などというわがままをイフェリカは言わなさそうだが、確認はした方がいいだろう。
「はい。お任せします」
 思っていた通り、イフェリカは何の注文もつけなかった。
 だからといって、さすがに場末の宿に王女を連れて行くわけにはいかない。ハルダー一人で節約したいならそうするが、安いところは大抵が複数人での相部屋だ。壊れそうな寝台に、板のように薄く固い布団が敷かれ、いつ洗濯したのかもわからない敷布で覆われている。また、知らぬ者同士の相部屋となるため、寝ている間に荷物が盗まれるのは珍しくない。そんな宿で落ち着けるわけがないし、イフェリカのような若い娘が泊まるとなったら、よけいに周りの客に目を光らせなければならない。
 ハルダーが選んだのは、街の中心から遠くもなく近くもなく、まあ無難であろうという宿だった。相部屋ではなく寝台もきちんとしていて、清潔感がある。部屋の鍵もしっかりとかかるから、これなら落ち着いて休めるだろう。ハルダーは。
 イフェリカには目の届く範囲にいてほしい、というのが護衛としての要望だ。移動中はもちろん、寝るときもである。必然、同室とならざるをえなくなる。それをイフェリカに言うと、返事はあっさりとしたものだった。
「はい、構いません」
 今日が初対面の男と同室、というのはいくら依頼人と雇われ側、という立場とはいえ躊躇するのではないかと思っていたハルダーは、肩透かしを食らった気分だった。一人部屋がいいとごねられるのも困るが、こうもあっさりしていると、この王女様はもしかしなくて世間知らずなのではないか、と心配にもなる。
 部屋に荷物を置いて、夕飯のために外へ出た。泊まる宿に食堂は併設されているが、手狭なのでやめた。とにかく、街中では人混みに紛れている方が目立たなくていい。
 宿から二区画離れたところに、広くて安い大衆食堂があったので、そこに決めた。
 店内はにぎわっていて、既にできあがっている者もいるが、隣の客の顔をまじまじと見つめる者はいなかった。
「こういうお店は初めてです」
 真ん中よりやや奥まった席に座ると、さすがに屋内とあって、イフェリカは頭巾をかぶるのをやめた。
「どれにする?」
 こんなものは食べられないと言い出したらどうしようか、と心配しながら、品書きを示す。イフェリカは物珍しそうに見ながら、飲み物と食べ物を決めた。
 ここでも文句一つ言わずにいるから、もしかしたら意外と庶民的な王女様なのかもしれない。
 店の入り口近くの壁には手配書が数枚貼ってあって、イフェリカのものが一番新しいが、手配書はどこの食堂へ行こうとおそらくあるし、こういう店に手配中の王女が来るとは誰も思わないだろう。
 ハルダーも食べるものを決めると、忙しそうにしている店員を捕まえて注文した。
「ハルダーはお酒は飲まないのですか?」
 料理がそろって食事を始めてすぐ、イフェリカが尋ねた。
「普段は飲むが、仕事中は飲まないんだよ」
 酔っていざというときに対応できないのは困るので、そう決めている。
「周りの方はみなさんお酒を召し上がっているようですので、それが普通なのかと……」
「そう言う自分も飲んでないじゃないか」
 ハルダーは茶にしたが、イフェリカは果汁を砂糖水で割ったジュースだ。品書きを見てそれがいいとイフェリカが言ったとき、料理と一緒によくもそんなに甘ったるいものを飲めるな、と内心呆れた。
「私はお酒は苦手なので……。あの、こういうお店では、やはり頂く方がよかったのでしょうか?」
 イフェリカは本気で心配しているようだった。やはり、庶民的ではなくて、世間知らずなのかもしれない。
「いや、飲みたくなければ飲まなくていいんだよ。気にするな」
 そう言った直後、通路を挟んだ隣の席から、盛大に杯をぶつけて乾杯と叫ぶ声が上がった。ハルダーたちが来たときから既にいた客だが、ますます盛り上がっているようだ。
 イフェリカが声の大きさに驚いた様子で隣を見るので、放っておけと言って、自分は料理をかき込んだ。店内の喧噪は大きくなるばかりである。酔っぱらいに絡まれないうちにさっさと食事を済ませて退散するのがいい。
「おい、兄ちゃんたち。飲まねえのかよ」
 にわかに降ってきただみ声に、ハルダーは小さく舌打ちした。料理を半分も食べないうちに絡まれるとは、ついていない。
「飲みたい気分じゃなくてね」
「そういうときこそ飲むのがいいんだぜ」
 男は図々しくもハルダーの隣に腰を下ろす。
「なんだ盛り下がってるじゃねえか」
「楽しく食べて飲む! これがたまんねえのに」
 仲間が河岸を変えたのに気づき、更に二人、酔っぱらいが寄ってきた。一人がイフェリカの隣に座り、ハルダーは眉をひそめた。
「あれ、つれねえな」
 イフェリカがぎょっとしてあからさまに体を引いたものだから、男がその顔をのぞき込む。
「おいおい。小僧かと思ってたら、かわいい顔したお嬢ちゃんじゃねえか」
 酔っぱらいは目を瞬かせて歓声を上げた。立ったままの一人もイフェリカを見て口笛を吹き、ハルダーの隣の男も身を乗り出す。
「へえ、きれいな顔だな」
「なんだ、飲んでるのはジュースか」
「お嬢ちゃん向けの甘い酒もあるぜ。おごってやるよ」
 男たちに次々と言われ、イフェリカは心底困り果てた顔でハルダーを見る。
「おい、俺たちのことは放っておいて――」
「あれ? ちょっと待て。お嬢ちゃん、どっかで会ったことあったっけ?」
 イフェリカの隣の男が、彼女の顔をまじまじと見つめる。
「おまえとそんなかわいい嬢ちゃんが、前にどこかで会ったことなんてあるわけねえだろ」
「いや、俺もどこかで見たことある気が……」
 ハルダーの隣に座る男も、じっとイフェリカの顔を見つめる。
 まずい、と思った。男たちは、手配書のイフェリカの顔を見たことがあるに違いない。
 髪を切り色を変え男装していても、すぐに女だと気づかれた。そこまではまあいいとして、見覚えがある、と言われるほどあっさり見抜かれては、変装の意味がない。
 しかし、男たちはイフェリカではない別の誰かと勘違いしている可能性も、ないわけではない。可能性としては低いとしか思えないが、今はまだこの男たち以外は、自分たちの席で盛り上がっていて、こちらのことには気づいてもいない。
「――あ、そうか!」
 勘違いであってくれ、と願うハルダーの隣で男が手を打った。
「あんた、手配書の王女に似てるんだ!」
 隣の男を今すぐ殴り倒したい衝動に駆られた。そんなことをすればいらぬ注目を集めるのでできないが。
「そうだ、あの王女に似てるよ。通りでどこかで会ったことあると思ったんだ」
「似てるかぁ? 髪の色も違うし」
 立っている男だけは、目が悪いのかしかめっ面でイフェリカを見ている。が、ほかの二人は似ていると連呼していた。そして当のイフェリカは――。
 顔を青くして絶句していた。その反応に、ハルダーは頭を抱えたくなった。
 男たちは「似ている」と言っているだけで、一人はまだ疑っている。平静にしておけば勘違いで済ませられるかもしれない。だが、イフェリカの表情を見れば、本物ではないかと言い出すのは時間の問題だった。
「いいから、おまえ、あそこに貼ってある手配書持って来いよ。横に並べて見比べりゃわかるって」
「似てねえと思うけどなあ」
 そう言いながらも、立っている男はそのまま手配書の貼ってある壁に向かう。
 このまま男たちを無視して店を出るか、と思ったが、逃げれば本物だと騒ぎ立てられるだろう。かといって、このまま手配書が来るのを待っていても、同じ結果になるだけだ。全力で否定してごまかすしかない。
「似てるって言うか、本人じゃねえのか?」
「確かにそっくりだよな」
「おい。あんたら近づき過ぎだ。ちょっとは離れろよ」
 イフェリカの隣の男は更に顔を近づけ、イフェリカは椅子から転げ落ちそうになるくらい端まで逃げている。中年の見知らぬ酔っぱらいに詰め寄られた若い娘の反応として、これは至って普通だろう。ましてハルダーの隣の男も更に身を乗り出しているのだ。
「なんだ、兄ちゃん。妬いてるのか?」
「いいから離れろって。見ろ、嫌がってるだろうが」
 とりあえず隣の男の襟首を捕まえたら、男がにやりと笑う。そんなハルダーたちのやりとりの横で、イフェリカの隣の男が直球で核心を突いた。
「なあ、お嬢ちゃん。あんた、手配されてるヴェンレイディールの王女様なのか? 名前……なんて言ったっけ?」
「えーと確か、イフェリカ・イェセス・ヴェンレイディール」
「そう、それ。その王女様だよな?」
 男たちは酔いが多少醒めた目でイフェリカを見る。ハルダーは、苦い思いで成り行きを見守るしかなかった。ここでイフェリカが否定すれば、やっぱり王女がこんなところにいるわけがない、と男たちは笑うだろう。手配書と見比べてそっくりだと言われても、他人の空似だと言い張ればなんとか乗り切れる――はずだった。
「……そうです」


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