第一章 亡国の王女と義手の傭兵04
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 周囲は騒々しいのに、イフェリカの小さな声は、妙にはっきりと聞こえた。小さい声だったから聞き間違えたか、と思ったのは、ハルダーだけではなかった。
「え? 本当に、お嬢ちゃんはヴェンレイディールの王女様なのか?」
「……本当です」
 男たちが目を丸くし、顔を見合わせる。
 ハルダーは大声で怒鳴りたかった。何故バカ正直に答える。それもわからないほど空気が読めていない、とは、イフェリカの表情を見るととうてい思えない。顔は相変わらず蒼白で、小さな声はかすかに震えていた。答えたくないけれど、答えている。そんな感じだった。
 よけいなことを訊いた男たちははり倒したいし、バカ正直に答えたイフェリカにも、悪いが同じことをしたい気分だった。そんなことをすれば、小柄な彼女に大怪我をさせるだろうが。
「おい、早くそれ持って来い!」
 ハルダーの隣の男が、手配書を取りに行った男に大声で言う。男が仲間の声に振り返る。にぎやかな店内でも目立つ大声だったから、こちらを見る客や、男にどうしたのかと尋ねる客までいた。
「――出るぞ」
 これ以上留まるのはどう考えても得策ではなかった。ハルダーは低い声で言って立ち上がり、外套を羽織る。イフェリカも慌てて立ち上がろうとしたが、隣の男に腕を掴まれて、小さく悲鳴を上げた。
「なあ、もうちょっと待ってようぜ、王女様」
 イフェリカにかけられた懸賞金は、三ヶ月は優に遊んで暮らせる額だ。すっかり酔いの醒めた男たちの目は、今は金に眩んでいる。金以外の卑しい欲望が潜んでいることも、ハルダーは見て取った。
「手を離すんだ」
 イフェリカのそばに回り込み、男を睨む。
「せっかく見つけたんだ。離すかよ」
「そう言うと思ったよ」
 言い終わらないうちに、イフェリカを掴む腕に手刀を叩きつける。義手の方だ。掌は金属板で補強されているから、素手よりもよほど威力がある。
 悲鳴を上げる男の首根っこを捕まえて勢いよく引き剥がすと、男は椅子から転げ落ちた。自分が元いた席まで転がり、ぶつかった拍子に机上からいくつか皿が落ちる。悲鳴に次ぐけたたましい音に、店内の視線が集中する。だが、こういう店ではしばしば喧嘩は起きるものだ。すぐに大騒ぎにはならない。
「立て。行くぞ」
「は、はい」
 呆気に取られるイフェリカを立ち上がらせた。
 転がした男の一部始終を知らない仲間たちが、何をするんだと叫ぶが、無視する。
「振り返るな」
「あ、はい」
 イフェリカの腕を掴み、後ろの様子を気にする彼女を引きずるようにして店の外に向かう。喧嘩と思われているうちに外へ出なければ。
「その娘、ヴェンレイディールの王女だ!」
 男の声が店内に響き渡った。振り返ると、ハルダーの隣にいた男が、こちらを指さしている。
「本当だ、手配書と同じ顔だ!」
 周りの客たちの視線が一斉に集まり、一瞬だけ沈黙が降りる。それを破ったのは、手配書を取りに行った男だった。壁から剥がした手配書とイフェリカを見比べ、再度同じ顔だと言った。
 ハルダーはイフェリカの腕をしっかり掴むと、今度こそ引きずるようにして駆け出した。
 立ち上がって掴みかかろうとする客には容赦なく右手を叩き込み、行く手を阻もうとした客は真正面から蹴り飛ばした。
 手配書を手にしたままの男が入り口をふさごうとしたが、その顔面を右手で殴り飛ばす。後ろに倒れる男に更に体当たりを食らわせて、ついでに扉を押し開けて外に飛び出した。
 転がるように出てきた二人に通行人が驚くが、ハルダーは気にせずにイフェリカの手を掴んだまま、宿とは反対方向へ走った。
 しばらくまっすぐに進み、追いかけてくる者がないことを確かめると角を曲がって違う通りに入る。それから何度も角を曲がって、大きく遠回りをして宿へ戻った。その頃には、ハルダーでさえ息が上がっていて、肩で息をするイフェリカは顔を上げる余裕もなかった。一応彼女に合わせて全力疾走はしなかったが、イフェリカにとっては全力疾走に近かったかもしれない。
「しっかりかぶってろ」
 走っている間に脱げた頭巾をかぶり直させ、宿の入り口をくぐる。食事に出たはずなのに呼吸は荒く汗を流して戻ってきたハルダーに宿の店主は驚いたようだったが、おかえりなさい、とだけ言って鍵を差し出した。
 足取りの重いイフェリカを急かして部屋に入り、しっかりと鍵をかける。出かけるときに窓の鍵は閉めたが、それをもう一度確認する。
 ようやく人心地ついた気分になり、ハルダーは大きく深呼吸をした。呼吸を整えると、部屋に入るなり寝台に腰を下ろしたイフェリカを見やる。外套を脱ぐ気力もないようで、頭巾をかぶったまま、息を整えていた。頭巾のせいで顔は見えなかった。
「どうしてバカ正直に答えたんだ」
 ハルダーの低い声音に、イフェリカがゆっくりと顔を上げる。白い肌はほんのりと赤く、目はどこかぼんやりとしていた。
「……嘘は、つけないのです」
 消え入りそうな声だったが、ここは騒々しい食堂の中ではない。はっきりとハルダーの耳に届き、聞き間違えたかと思うこともなかった。
「正直なのは結構だが、時と場合というものを考えてくれ。あの場で、王女と訊かれてはいと答えるとどうなるかくらい、わかるだろう」
 苛立ちが声に表れているのは自覚していたが、怒るなという方が無理だ。無事にヴェンレイディールへ連れて行ってくれと頼んでおきながら、手配されていることも知っているくせに、自ら正体を明かしたのだ。いくら世間知らずの王女様とはいえ、一言二言くらいは文句を言わせてもらわなければならない。
「……わかっていました。でも」
「わかっていたのに正直に答えたのか、あんたは」
 思わぬ答えに、ハルダーは声を高くする。イフェリカはそんなハルダーから視線を外した。
「でも、嘘はつけないのです。申し訳ありません」
 先ほどより更に小さい声だったが、しっかりと聞こえた。再びうつむいたイフェリカの肩が震えているように見えるのは、まだ呼吸が落ち着かないせいなのか、あるいは別の理由があるからなのか。
 小さな声で、イフェリカがまた謝る。どうやら、まずいことをしたのはわかっているらしい。
 髪を切り落としたり宿を決めるのに文句は言わず、潔くて柔軟かと思えば、どうやったってごまかすのがいいとわかっている状況であっても嘘はつけないという頑なさは、いったいどういうことだろうか。柔軟なところがあると知っているだけに、どうしても苛立ってしまう。
 だが、うつむいて膝の上に置いた手を握りしめて、本当に申し訳ありませんでした、とか細い声で言われると、ハルダーの方が悪いことをしているようではないか。まるで自分が責め立てて泣かせたみたいだ。泣いているかはわからないが、泣いているように見えるのだ。
「嘘をつきたくないなら、ああいうときは何も答えなければいい」
 ハルダーは頭を掻きむしり、ため息をついた。イフェリカが顔を上げる。予想に反して眼は赤くなっていなかった。
「――はい。次からは、気をつけます」
 ハルダーの目をしっかりと見て、イフェリカは戻ってきてから初めて、はっきりとした声で言った。
 できれば気をつけるのではなくごまかすようにする、と言ってほしかったのだが、頑ななところのある王女様がそう言うので仕方がない。人が多ければ大丈夫だろう、と大衆食堂を選んだハルダーにも落ち度がないわけではないのだ。今度から外食は避けて、総菜でも買ってきて部屋で食べることにしよう。
「せっかく変装しているんだから、名前も偽名にした方がいいな」
 男装していても、初対面の男たちに一発で女と見破られてしまったが、顔はいじりようがない。しかしせっかくの男装なのだから、名前も男のものにした方がいいだろう。身分証はキシルのものなので、彼女の名前を借りるのが一番手っ取り早い。キシル、という響きであれば男でも通らないことはない。
「……嘘の名前で呼ばれても、私は返事できません」
 ハルダーは開いた口がふさがらないとはこのことか、と思った。イフェリカという名前は珍しいものではないが、女の名だ。男装している彼女を人前でそう呼べば、顔を見なくても女だと周囲にわかってしまう。しかし、男装をしてキシルと呼ばれていれば、男だと思われるはずだ。
 ハルダーがそれを言っても、イフェリカは偽名ではだめだと、これまた頑なだった。百歩譲って愛称ならばどうだと提案したが、イフェリカは首を縦に振らなかった。名前によほどの思い入れがあるのはよくわかったが、なんとか抑え込んだ苛立ちが再燃、どころか更に募りそうである。
「おい、王女様。俺はあんたの身の安全を考えた上で言ってるんだぞ」
 ハルダーの声にも表情にも、不機嫌さがにじみ出ていた。しかし、イフェリカはそれを見てもまったくひるまず、これだけは譲れないとばかりに強い眼差しを向ける。
「ハルダー。あなたの雇い主は私です。私がこうしたいと言ったら、あなたはそれに従うのが筋ではないのですか」
 うつむいてか細い声で謝っていたときからは考えられないような、強くきっぱりとした口調に、ハルダーは思わずひるんだ。痛いところを突かれた、というのもある。
「確かにそれはそうだが、あんたの協力もあってこその安全確保ってものもあってだな」
「協力するとお約束はしました。ですが、どうしても譲れないことはあります」
 ハルダーがわずかにひるんだのにイフェリカはめざとく気づき、更に詰め寄るような口調になった。
 しばらくそのまま二人で睨み合いとなる。ハルダーも依頼を果たすために譲れないのだが、イフェリカも譲るつもりはさらさらなさそうだ。
「……わかったよ」
 肩を落として、降参した。どうせ顔を見られたら女だとわかる。人前ではなるべく名前を呼ばないようにすればいい。
 睨み合いに疲れ、ハルダーは寝台に腰を下ろした。それから、深々とため息をつく。今日一日でいろいろあって、座るとその疲れがどっと押し寄せてきた。
「あの、わがままを言って、申し訳ありませんでした」
「いいよ、もう」
 今更そんなこと言われてもな、と思いながら適当に手を振る。
「キシルが、あなたにどうしても言うことを聞かせたいことがあるときは、雇い主であることを強調すればいいと教えてくれたから」
「なるほどね……」
 キシルの言いそうなことである。イフェリカはいらぬ入れ知恵をされていた、というわけか。ついでにそんなよけいなことをイフェリカが明かしてくれたおかげで、違う意味での疲れが襲ってきた気がした。
「はい。どうしても偽名ではだめなので、あんなことを言ってしまいました」
「……よくわかったよ」
「申し訳ありません」
 心底すまなそうな顔をするイフェリカを見ながら、この先また同じようなことがあれば、ハルダーはまたこうやって折れるのだろう。
「明日は朝早くここを出る。もう寝よう」
 できれば今すぐに移動したかったが、門が閉まっているので無理だ。食堂内での騒ぎが外に漏れ出たかわからないが、最初にイフェリカの正体に気づいた男たちが自分から手配書の王女を見かけた、と吹聴することはないだろう。そんなことをすれば懸賞金をふいにしてしまうかもしれないのだ。だが、今頃躍起になって探している可能性は十分にあった。
 見つかってしまう前に、そして亡国の王女がこの街にいる、とリューアティンの兵士に伝わる前に、出なければならない。
「はい、わかりました」
 人一人分の隙間を隔てただけの寝台で、今日会ったばかりの男と並んで眠ることに、イフェリカは何の抵抗も感じていないようだった。てきぱきと外套を脱いで丁寧に畳む。髪の毛に櫛を通して、おやすみなさい、と言うとさっさと布団の中に潜り込んだ。
 ハルダーにはもちろん彼女をどうこうするつもりなどないが、こうもあっさりしていると、さっきの頑なさはいったい何だったのだ、と改めて思わざるをえない。それとも、やはり世間知らずなだけなのか。
 ともかく、亡国の王女との旅は始まったばかりだった。


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