気持ちよく晴れた空の下に、それにふさわしくない音が響いていた。
死の宣告のように重苦しい音。それに比べるとかわいそうなほど小さく、必死な足音。
一人の少女が、岩と泥でできた人型の化け物に追われていた。化け物の大きさは、少女の優に三倍はある。化け物は手も足も長いが、長い故に、素早くは動かせないらしい。少女が額に汗を浮かべながらも逃げられるのはそのおかげではあったが、化け物との距離は少しずつ縮まりつつあった。
結んでいた髪はいつの間にかほどけて、走る勢いと風にもてあそばれてぼさぼさだった。けれど、少女にそれを気にする余裕がないのは誰の目にも明らかだった。
目尻からこぼれる涙を、風が無慈悲にさらっていく。化け物が無造作に伸ばした手で、彼女の頭上に影が落ちる。より近付いてきた化け物の足音も相まって、死への恐怖が否応にも膨らんでいく。走り続けてきたせいで、体力の限界にも近付きつつあることを、少女は嫌でも感じていた。
周囲には人影どころか、町もない。助けなど期待するべくもない。
もうだめだ――絶望的な気持ちで覚悟したときだった。
甲高い雄叫びが頭上から降ってきた。直後、何か重く大きな物が砕ける音と、崩れ落ちる音が少女の鼓膜と体を震わせる。
振り返り、彼女は目を見開いた。自然と走る勢いが弱くなる。
先程まで彼女を執拗に追いかけていた化け物の胴体にぽっかりと穴が開き、体をのけぞらせていたのだ。長い足は動きを止め、両腕をだらりと垂らしている。
何が起きたのか分からず、少女は何度も目をしばたたかせた。そして、化け物の向こうに、化け物とは違う、人型の異形がいるのを見つけた。
異形とはいうものの、化け物に比べればずっと小さい。大柄な人くらいだ。泥と岩ではなく、機械でできたロボットのように見えた。
高いところから飛び降りたあとのように片膝をついてしゃがんでいたロボットが、おもむろに立ち上がる。その時点では、化け物に背を向けていた。けれど少女が息を吸うよりも早く、化け物の足に回し蹴りを食らわせる。
左の足首を砕かれた化け物は、背中から地面に倒れた。その直前に、ロボットは化け物から離れて、跳躍する。どうするのかとその行方を目で追うと、ロボットは右足をまっすぐに伸ばし、化け物の喉元につま先を食い込ませた。
化け物の体が大きくはねる。攻撃してくるロボットを振り払おうと、手を振り回す。しかしロボットは化け物の体に密着するように身を低くしてそれをかわし、まだ胴体と首とを繋げている喉を、右手で掴んだ。
強い風が吹き抜けるような音が響く。化け物が体をのけぞらせて、悲鳴を上げているのだ。
少女が、化け物の悲鳴を聞くのは初めてだった。それでも悲鳴と分かったのは、生き物が命の危機に放つ切迫感に満ちていたからだ。
悲鳴はすぐに小さくなり、聞こえなくなった。のけぞっていた体は地面に沈み、岩と泥は、急速に水気を失ってさらさらと崩れて、砂に変わっていく。少女の髪をもてあそんでいる風が、同じように砂をさらっていく。
声も出ない少女の前で、ロボットがゆっくりと立ち上がり、こちらに向き直った。
口と鼻はないが、横長の長方形をした目はあった。目、というか、人間であれば目がある位置に、長方形があった。うっすらと白く光っている。
化け物を倒してくれたようだ。だけど、果たして味方なのだろうか。それとも、命がけの追いかけっこを、再びしなければならないだろうか――。
「大丈夫? 怪我はない?」
ロボットは手を差し伸べて、そう言った。機械的な響きだが、思いの外声音は優しい。
緊張の糸が途切れて、少女は意識を手放した。
●
「……なぜ気絶する?」
砂の山の近くで卒倒した少女を前に、ロボット――ではなく、その中にいる者が、呻いた。
「彼女は恐らく絶体絶命の危機にあったのに、訳の分からない存在が現れて助かったのです。安心したあまり意識をなくした――かもしれませんが、訳の分からない存在を受け入れがたく、己の心を防御するために気絶したのかもしれません」
淡々と答えを返したのは、呻いた声とは別の声だった。ただし、この場には少女がロボットだと思った人型の異形、それしかいない。
「ちょっと。訳の分からない存在というのは、もちろん自分のことを言ってるんだろうね、マス?」
「ヴィオ、わたしはあくまであなたのプロテクターであり、支援AIです。常人ではおよそ倒すことができない地球外来種を倒したあなたに、少女が恐れおののいたとしても不思議ではありません」
マスと呼ばれた声の主は、あくまでも淡々としていた。
「あの子が見たのはあくまでプロテクターで、わたしの外側を覆ってるあんたなんだから、あの子が訳の分からない存在と思ったのはあんたでしょうが!」
「ヴィオ。少女が気を失っている以上、この議論は不毛です」
「ああ、もう! あんたを殴りたい気分だけど、できないのが悔しい!」
「わたしは殴られても構いませんが、プロテクターがダメージを負う可能性があることを考慮して下さい、ヴィオ」
「そういう物言い! なんでいつまでたってもあんたはそうなの!」
ヴィオは文字通りに地団太を踏んでいた。行き場のない苛立ちを晴らすためでもあり、殴るに殴れないマスへの、ささやかすぎる腹いせだった。
「もっと建設的なことをしましょう、ヴィオ。あの少女は、恐らくしばらく目を覚ましません。『食事』をする絶好の機会といえます」
ドスドスと地面を踏みつけていたヴィオが、ぴたりと動きを止める。
「――今はいい。あの子は貴重な『食糧』なんだ。別にお腹は空いてないし、慌てて『食事』をする必要はないよ」
「ヴィオ。あなたはそう言って、いつも『食事』をしません。わたしがあなたのために作られてから七十年間で、一度も」
「……お腹が空いてないんだよ、七十年間、ずっと」
ヴィオは光る横長の目で、ぐったりとして動かない少女を見た。
十四、五歳くらいだろうか。手はほっそりとしていて、体も細い。背はそれほど高くない。このご時世、満足な食事ができている人間は少数派だ。食べ盛りであろう年頃の少女の体を見れば、その少数派でないことは明らかだ。体力も十分ではないだろう。それでも地球外来種から逃げ切ったことは、称賛に値する。
――いや、それだけ必死だったのだ。
岩と泥でできた人型の化け物は、およそ百年前、地球にやって来た。人類は初めて遭遇する地球外の生命体を歓迎したが、意志疎通はとうとうできなかった。その上、彼らが好む食べ物は、あろうことか人間の血だったのだ。
あの空虚な穴みたいな口で人間の体に噛みつき、血を吸うのである。他の動物の血も吸うが、地球外生命体は、殊更に人間の血を好んだ。
人類の敵と判明してからは、奴らを地球外来種と呼び、駆除が始まった。だが、人類は今のところ勝てていない。人口は減る一方で、地球外来種は数を増やしている。
「あなたの師匠は常に空腹のようでしたし、あなた達は『そういうものだ』とよくおっしゃっていましたのに」
「うるさいな。師匠は師匠、わたしはわたしだよ。それより、マス、このあたりに集落があるはずだ」
「そこで『食事』をするのですか?」
「違う! あの子はきっとその集落の住人だ。送り届けるんだよ! こんなところでのびてたら、他の地球外来種がやって来る」
地球外来種が単独行動を好むのは、不幸中の幸いだった。炎をものともせず、大砲で体に穴を開けられても爆弾で吹き飛ばされても、散り散りになった岩と泥は磁石で引き寄せられるように集まり、元の形に戻るのだ。岩や泥を、それぞれ違う容れ物に閉じこめておけば再生を防ぐことはできるが、一割でも取りこぼしがあれば、その一割で体を小さくして再生してしまう。
地球外来種を活動不能にするには、バラバラにした上で別々の容れ物に閉じこめるか、砂ほどの大きさまですり潰すくらいしかなかった。
すり潰すのも容れ物を用意するのも、時間と労力がかかりすぎて、人類が減る方が早く、地球外来種には勝てない――。ほとんどの人類が諦め、隠れるように生きていくことを受け入れざるを得なかった。
ごくわずかな人々――いや、人と言えるかどうか少々疑わしい者達をのぞいて。
ヴィオは、右の掌をじっと見て、開いて閉じるという動作を何度か繰り返した。動かす度、かすかな駆動音が聞こえる。
それから、空を見上げた。雲の少ない空に、太陽が力強く輝いている。特殊なフィルターがあるおかげで、太陽を直接見ても、目にもそれ以外にもダメージはない。
ヴィオの体を覆う、金属と樹脂で構成されたプロテクターのおかげである。しかも支援AI付きだ。
「……まったく、ありがたくて涙が出るね」
「ヴィオ、涙は出ていませんよ」
マスは皮肉というものを理解できない。ヴィオと普通に会話ができているように見えても、人の感情に寄り添うようにはできていないのだ。
淡い灰色を下地にした緑色の迷彩柄のプロテクターは、ヴィオの体を防護するだけではない。支援AIであるマスが、ヴィオの動きや思考の癖を学習して、彼女の能力を最大限以上に引き出し、補助してくれるのである。
そのおかげで、人間離れした動きが可能であり、地球外来種と渡り合える。
人類の天敵となった地球外来種を倒すため、ヴィオの師匠とその協力者達が作ったのが、このプロテクターと支援AIだった。
地球外来種は、細かく砕いてそれぞれを違う容れ物に閉じこめて動かなくなるまで保管するか、砂のような大きさにすり潰す以外に、もう一つ、再起不能にする方法があった。
連中の生命エネルギーを奪うのである。
生きるための力を奪われたら、どんな生き物でも生きてはいけない。そして、ヴィオやその師匠は、生き物から生命エネルギーを奪えるという、特異的な能力があった。
もっとも、地球外来種の生命エネルギーも奪えるとは、連中と接触するまで、彼ら自身も知らなかったのだが。
地球外来種は人間を襲い、その生き血を吸う。自分達以外にそんな存在が、しかも地球外から現れるなど、想像もしなかった。
「地球外生命体は吸血鬼だった!」
「吸血鬼は実は地球外生命体!?」
などという言説が世界中で駆け巡っていた頃のヴィオの師匠は、すこぶる不愉快そうだった。そして八つ当たりのように地球外来種と対峙して、連中から生命エネルギーを奪えることが判明したのである。
以来、ヴィオは師匠や他の仲間達と共に、地球外来種を見つけては生命エネルギーを奪い、倒している。
そうしなければ、人類が滅びてしまうからだ。人類が滅びてしまっては、吸血鬼はいずれ飢え死にしてしまう。
「ヴィオ。少女を集落へ送り届けるのなら、そこで休息を取って下さい」
「へえ。わたしの体を気遣ってくれるんだ?」
「いいえ。わたしの『食事』が必要です。あなたが大暴れするので、バッテリーの残量が心許なくなっています」
「あっそう……」
吸血鬼は昼間に活動できない。しかし、地球外来種は昼間の方が活発に行動する。そのため、このプロテクターは、吸血鬼が昼間でも活動できるように設計されていた。
プロテクターは太陽光を遮断し、とことん軽量化され、かつ容量が大きいバッテリーを搭載している。おかげで、昼間だけならば数日間活動することが可能だった。充電モードに切り替えれば、マス単体で日向ぼっこすることでバッテリーに充電できる。
天気が良ければ身一つで(という言い方は若干正確ではないが)、地球外来種を倒すためにどこまでも行けるのだ。
明日が晴れなら、一日で十分に充電できるだろう。その間、ヴィオはプロテクターを脱いで、日の当たらない部屋を借りて眠っていればいい。少女の命の恩人だから、それくらいの要求は通るだろう。
ヴィオは再び空を見上げた。師匠や、他の仲間達は今頃どこにいるだろう。十年以上、彼らとは会っていない。
まあどうせ、みんな元気に地球外来種を倒して、こっそり人間の血をすすっているだろう。会えば、まだ人の血を吸わないのかとうるさく言われるので、むしろ会いたくなかった。
「う、ううん……」
小さなうめき声に振り返ると、少女がもぞもぞと動いていた。どうやら意識を取り戻したらしい。
家まで送るよ、とヴィオが話しかけたら、また気絶してしまうかもしれないが。
それでも、人間だった頃の感情も感覚も捨てきれないヴィオは、地球外来種と戦い続けるのだ。
了
空が晴れである限り
小説
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