第五章 嘘つき王女と隻腕の傭兵04
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 斬られたところがひどく痛い。体を伝って血が流れるのを感じる。だが、深い傷ではない。痛みはあるが、義手にまでその痛みが伝わることはないから、剣を持つこと自体に問題はない。グラファトに腕を落とされたおかげで、と思うとなんとも皮肉なものだ。
「木の実爆弾やあんなしょぼい矢は、玩具みてえなもんだ。いいこと教えてやるよ、ハルダー。触れば大鎌になって首を落とす仕掛けが、どこかにあるぜ」
 グラファトの目に残虐な光が瞬く。
「イフェリカ、その場から動くな!」
「動かざるをえなくなるって」
 グラファトの放った何かが、ハルダーの頭上を通り過ぎる。
 話はイフェリカにも聞こえていたはずだ。下草を踏む音が聞こえる。振り向きたいが、もう一度グラファトに背中を見せるわけにもいかない。
「くそっ!」
 ハルダーは地面を蹴った。剣を持つ手の力が緩むことはないが、振るう腕は、どうしても痛みの影響が出てしまう。それでも、ハルダーがグラファトを攻め続け、イフェリカにちょっかいを出す隙を作らないようにしなければならなかった。
 痛みを吹き飛ばすように雄叫びを上げ、次々と打ち込んでいく。グラファトは薄笑いを浮かべながらそれを受け流していく。ほんの少しでも隙があれば、それを決して見逃さずあっという間に攻撃に転じてくる。ハルダーはそれらすべてをかわしはしたが、完全に防ぎ切れずに浅い裂傷が腕や顔に増えていく。
 真上から振り下ろしたハルダーの剣を、グラファトは胸の前で受け止めた。更に押そうとハルダーが体重をかけるが、いつの間にか笑みが消えていたグラファトが、珍しく歯を食いしばって渾身の力でハルダーを弾き返した。
 間合いから逃げるように、後ろへ飛ぶ。グラファトの左手が懐を探る。何もさせるかとハルダーは間合いを詰める。懐から手を出したグラファトは、それをハルダーに向かって投げた。グラファトから視線を逸らさずに叩き落とす。木の実か。足下で弾ける音。どうせ小さな爆発だと思った瞬間、足に衝撃があった。小さな礫がいくつも突き刺さったような痛み。膝から崩れ落ちそうになるのを、気力で堪えた。
 ハルダーが狙い通りに倒れなかったからか、グラファトが一瞬目を剥く。しかしすかさず次の魔術具を投げようとした。今度はもっと威力のあるものかもしれない。
 ぐっと歯を食いしばって、残った距離を一気に詰めた。剣を左手に持ち替える。投げようとする物を握っているグラファトの拳ごと、義手の右手でがっしりと掴んだ。グラファトがさっきよりいっそう目を丸くする。
「離せ!」
「そう言われて素直に離すかよ!」
 いつも余裕綽々でいやらしい笑みを張りつかせているグラファトが、青ざめた顔で、いいから離せと叫ぶ。このままでは魔術具が発動して自分も巻き添えになる、といったところなのだろう。
 グラファトが右手を振り上げた。お互い距離がほぼなく、剣を使うには近すぎる。視界の隅に見えたのは、剣ではなくナイフだった。持ち替えたか。だが、そのナイフがハルダーに突き立てられるより前に、ハルダーは更にグラファトとの距離を詰めた。焦る男の顔に、ハルダーは頭を叩きつけた。グラファトがうめいて顔をのけぞらせる。ハルダーは額に鈍い痛みを感じながら、左手に持った剣を、自分の右腕――義手に突き立てる。根元近くの刃が食い込んだ。手元に近い方の刃は切れ味があまりよくない。それに、自分の腕を切り落とすような体勢では力が入りにくい。まして利き腕ではないとなると。
 ふっと手応えがなくなり、ハルダーはグラファトの腹を思い切り蹴りつけた。その反動を利用して、自分は後ろへ飛ぶ。ハルダーの切り離された義手は、グラファトの左手をしっかりと掴んだままだ。
 蹴り飛ばされたグラファトが地面に倒れる直前、網膜を焼くような閃光が走った。耳が痛くなる爆音に、グラファトの悲鳴が重なる。ハルダーは爆風を予想して両手で顔をかばったが、風は思ったより強くはなかった。
 だが、爆発としては十分すぎた。
 地面に仰向けに倒れたグラファトの左腕は、肘辺りから吹き飛んでなくなっていた。わき腹や足も真っ赤に染まっている。じっと見ていたが、胸は上下していなかった。
「……」
 あれだけの傷を負えば、もう戦うのは無理だ。生死を確かめる気にはなれず、ハルダーはイフェリカの姿を探した。
 イフェリカはさっきとさほど変わらない場所でへたり込んでいた。ハルダーと目が合うと、のろのろと立ち上がり、最初はふらふらとした足取りで、やがて小走りに駆けてくる。
「ハルダー」
 擦り傷だらけの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「もう大丈夫だ」
「ごめん……ごめんなさい。私のせいで、ハルダーが、人を……」
「気にするな。それより、怪我をしてるだろう」
 頬や額にある傷に指を伸ばそうとして、右腕ではそれができないことに気づく。
「安全なところへ行って、手当てをしよう」
「私の怪我なんて……ハルダーは、右腕が……」
「どうせ義手だ。キシルに頼めばまた新しいのをつけてくれる」
 ハルダーは右腕の残った部分と左腕で、泣きじゃくるイフェリカをしっかりと抱きしめた。背中の傷が痛かったが、それには構わず、なだめるようにイフェリカの背中をさすった。

   ●

 グラファトの仕掛けた魔術具がまだ残っているかもしれないので、用心しながら村へ向かった。グラファトが追いかけてくることはとうとうないまま森を抜け、村を見下ろす小高い丘に出た。
 周囲で一番大きな木の根元で、二人は一息つくことにした。日が傾きかけていて、村は見えているが今晩はここで野宿となりそうだ。
 出発する前に、傷の上から治療用の魔術具をイフェリカに貼ってもらった。止血はできているが、服の上からでは効果がいまいちだったようだ。先にイフェリカの手当てを、と言ったのだが、彼女はハルダーのが先だとがんとして聞き入れず、仕方なしに自分から治療することになった。
「服を脱がないといけないんだが、いいのか」
 今更ではあるが、さすがに王女の前で半裸になるのはいかがなものかと思う。いや、王女でなくとも、若い娘の前だ。
「恥ずかしいですけど、そんなことを言っている場合ではありませんので」
 まじめな顔でイフェリカが言う。
 やっぱり恥ずかしいのか、と思いながら、このままではにっちもさっちもいかないのでハルダーは上着を脱いだ。夕方の空気に、筋肉でよろわれた肌が晒される。服は血で汚れうっすら汗ばんでいたから、涼しい空気が心地よい。
「……失礼します」
 背中を向けているからイフェリカの表情はわからない。たぶん、さっきと同じまじめな顔で、しかし頬を少し赤らめているのだろう。
 水筒の水で手拭いを湿らせ、傷の周辺を拭う。最初は遠慮がちな手つきだったが、それでは乾いてこびりついた血が落ちないとわかったのか、徐々にこする力が強くなる。
「傷口も洗えたらよかったのですが……」
「魔術具に多少の殺菌効果もあるから大丈夫だ」
 川を見つけられなかったため、ジノルックの屋敷を出るときに持っていた水筒の分しか水はない。残りは本当にあとわずかで、このままでもハルダーは構わなかった。しかしイフェリカができるだけ清潔にした方がいいと言うので、ハルダーは渋々承諾したのだ。目の前に村が見えていなかったら、ハルダーは譲らなかっただろう。
 傷口に直接魔術具が貼りつけられる。
「痛くありませんか?」
「大丈夫だ」
 治療用の魔術具は、傷口にあてがってしまえばはがれ落ちたりはしない。傷が癒えるか、癒えるより先に魔術具の効果がなくなれば勝手にはがれ落ちる。傷の様子からすると、治る前に魔術具が剥がれそうだ。
「ありがとう、イフェリカ。助かったよ」
 自分では治療しにくい位置だ。浅いとはいえ生々しい傷痕を見せることになってしまい、悪いと思った。
「私にはこれくらいしかできませんから」
 イフェリカはきっと申し訳ないと眉尻を下げて笑っているのだろう。背を向けているから見えないが、そうではないかと思った。
 替えの上着に着替え、血だらけの服は丸めてから荷物の中へ突っ込んだ。どこかで洗って破れたところを繕えば、まだ着られる。
「イフェリカ。傷の具合はどうだ」
「私は平気です。もう血は止まっています」
「だが、顔とかにたくさん怪我をしただろう」
 ハルダーが向き直ると、イフェリカが首を横に振った。
「擦り傷ばかりです。ひどい怪我は、一つも」
「治療用の魔術具はまだ残ってる。それを一枚使えば、傷は全部治るよ」
「ハルダーの怪我の方が、私よりよほど重傷です。一枚でも多く、あなたの治療のために残しておくべきです」
 こうすると決めたら、イフェリカは考えを翻さない。それはハルダーももう十分にわかっていた。
「わかったよ」
 小さくため息をつく。
 イフェリカの顔には、いくつも擦り傷があった。木の実爆弾でやられた分や、ハルダーの目の届かないところでできてしまったものもあるようだ。右目の下、左右の頬、額に二カ所、顎にも。
「ハルダー?」
 左手を伸ばし、右の頬にある傷のそばに触れる。擦り傷だからいいか、と頭では妥協できても、心情的には治してやりたかった。この傷はすべて、ハルダーがイフェリカを守り切れなかった証だ。グラファトから無傷で守ることはできなかったのだ。
「悪かったな。怪我をさせてしまって」
「ハルダーは悪くありません。この程度、大したものではありませんから」
 触れている頬が赤いのは、西の山の端に沈もうとしている太陽のせいだろうか。
 構わないというイフェリカの傷を治したいのは、結局のところハルダーの自己満足だ。己の情けなさの証拠を消してしまいたいのだ。
 イフェリカの傷が治るまで、ハルダーの怪我の治癒を最優先に考えてくれるイフェリカの思いやりと、自分の情けなさを見つめることになる。戒めとして、それはちょうどいいのかもしれなかった。
「――この先、もう二度と、怪我なんてさせない」
 傷に触れないように注意しながら、イフェリカの顔に掌を添える。絡み合う視線でたぐり寄せられたように、どちらからともなく顔を近づける。イフェリカの瞳に映る自分の姿を認めたと思ったら、長いまつげの向こうに隠れた。ハルダーも瞼を閉じる。鼻先が触れ、唇が重なった。ハルダーの唇はがさついているが、イフェリカのそれはしっとりとして柔らかかった。


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