第五章 嘘つき王女と隻腕の傭兵03
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 手に弓を持った男が、木立の向こうから現れた。にやけた笑みを顔に張りつけ、目は、獲物を見つけた獣のように炯々と輝いている。
「また会えて嬉しいぜ、ハルダー。それに、イフェリカ王女」
 グラファトが次の矢をつがえる。
「網を張ったのはおまえか」
 グラファトとの距離は十分にあった。これなら、矢を叩き落とすくらいはできる。飛んでくる方向はわかっているのだ。
「正直、徒労に終わるんじゃないかと期待してなかったんだがな。苦労と金をかけた甲斐があった」
「魔術具を使って張ったのか」
 結界は、魔術具でも張れないことはない。一定の間隔で結界の要となる魔術具を設置するのだ。だが、広範囲に渡れば渡るほどそれぞれの魔術具が互いに干渉し合うため、設置する間隔や数をうまく調整しないといけなくなる。魔力を持たない者には、この調整が難しい。同じ結界を張ろうと思っても、場所によって微妙に変わってしまうからだ。網も、同じようなものだろう。
 ハルダーも魔術具で結界を張ることはあるが、広い範囲はうまくできない。グラファトの方が、やはり魔術具の扱いは数段上手なのだ。悔しいが認めないわけにはいかなかった。
「王女を殺せば、網を張るのに使った魔術具の金も十分に回収できる」
 言い終わると同時に、グラファトが矢を放った。そのまま弓を投げ捨て、駆け出しながら剣を抜く。ハルダーはそれを視界に端で捉えながら、剣で矢を叩き落とした。
 迫り来る殺気を感じた。剣を持つ腕を前に出し、斜めに振り下ろされたグラファトの刃を受け流す。グラファトは振り下ろした刃を、そのまま真上に切り上げた。ハルダーは体をのけぞらせて、それをかわす。
「誰が――」
 目の前を銀色の刃が通り過ぎる。
「誰が、殺させるかよ!」
 左から右へ、横一線に剣を凪ぐ。刃同士がぶつかる甲高い音が響き、まるでそれに弾かれたように、ハルダーとグラファトはその場から飛びすさった。
 グラファトは前に突き出した右手で柄を握り、切っ先はやや下に向ける。ハルダーも右手で剣を握り、左足を半歩引き、左の肩に担ぐようにして構えた。
 一挙手一投足を見逃すまいとグラファトを睨むと、彼は刃で切り裂いたように薄く唇を開け、にたりと笑った。
「ずいぶん、王女に情が移ってるみたいじゃねえか」
 目元にもいやらしい笑みがにじむ。人を嘲り、人の感情を食らって悦に入っているような顔だった。
 相変わらず嫌な男だ。ハルダーの眉間のしわが深くなり、眼光は更に鋭くなる。
「それだけかわいくて高貴なお方となりゃあ、そりゃやる気も起きるだろうな、ハルダー」
 なんともわかりやすい挑発だ。誰がそれに乗っかるものか。ハルダーは表情を変えないまま、唇を堅く引き結ぶ。答えを返さなくともハルダーのかすかな変化でさえ、グラファトを喜ばせることになる。
「なあ、どうなんだ。おまえが守って俺が殺したあの女魔術師より、守り甲斐はあるのか」
 剣を握る右の義手に、ハルダーの小さな動揺と憤りが伝わり、強く柄を握る。滑り止めのために巻いている布の感触が、たとえ手袋をはめていなくとも義手から伝わることはないが、それを強く握り込んだのはよくわかった。
 守れなかった女の顔が脳裏に浮かぶ。その最期の表情を、ハルダーは無理矢理意識の下に沈めた。
「ハルダー。おまえ、あの女とできてたんだろ? 俺があの女の胸を貫いたとき、泣き叫んでたよなぁ。腕が落とされたときでも大してわめかなかったおまえが、まるでガキみたいに」
 挑発だ。わかっている。
 ハルダーはあのとき確かに、彼女を失って泣いた。血と汗と涙にまみれたまま、まだ温かい体にすがった。グラファトはそんな惨めな男を、今のようにさも面白そうに見ていた。見ているだけで、それ以上は何もしなかった。彼女を殺したことで、グラファトの用件は終わったのだ。腕を失い、愛しい女も失ったハルダーを、グラファトは完全に負け犬を見る目で見下ろし、鼻で笑って去っていった。
 あのときの絶望と憤りと屈辱を、ハルダーの中から掘り起こそうとしているのだ。
 わかり切っている。
 だが、感情と理性を冷静に冷酷に切り離せるなら、ハルダーはあのときに泣いたりなどしなかっただろう。自分の力が及ばなかった、仕方ない結末だ、と。
「――相変わらず、よくしゃべる男だな」
「俺はしゃべるのが好きなんだよ」
 グラファトの切っ先がわずかに上がる。仕掛けてくるか。ハルダーの右手がぴくりと動く。
「相手の気が引けるからな!」
 だらりと垂らしているだけだった左腕を大きく振りかぶった。
 魔術具か。ハルダーが左手を腰の物入れに伸ばしたときには、グラファトが何か小さな物を投げていた。矢より全然遅い。ハルダーは前に踏み込む。飛んでくる物の姿を一瞬、目で捉えた。木の実か。剣でそれを叩き落とす。刃に当たる感触は軽かった。ちらりと地面に目をやると、それはやはり、その辺りに落ちている木の実だった。
 舌打ちしている間に、グラファトの姿が消えていた。とっさに顔を上げると、木の枝に飛び上がり、にやつく笑みをこちらに向けるグラファトと目が合った。次の瞬間には、グラファトは人間の跳躍力ではとうてい届きそうにない距離の枝に飛び移る。
 崖を軽々と飛び上がっていったこともある。あれと同じ魔術具を使っているのだろう。それよりも。
「イフェリカ、こっちへ!」
 グラファトは枝を次々飛び移り、あっという間にハルダーたちの頭上近くまで迫っていた。下草に伏せていたイフェリカが、土埃を落とさないままハルダーの方に駆けてくる。そばまで来ると、ハルダーは彼女を抱き寄せた。
 グラファトは、すぐそばの木に飛び移っていた。剣の届く距離ではない。
 ハルダーは物入れから、指先で探り当てた魔術具を取り出すと地面に叩きつけた。疾風を封じ込めた玉だ。地面にぶつかった瞬間、玉に閉じこめられていた風が解放される。そこを中心に風が四方八方へ駆け抜けていく。
 風は下草をなぎ倒すほどの勢いで、グラファトのいる太い枝も大きくしならせた。突風の吹き荒れる轟音で、肩を抱くイフェリカの悲鳴もよく聞こえない。ただ、暴風の中心近くにいたハルダーたちは、ほとんど風にあおられることはなかった。
 渦巻く風の中、ハルダーはグラファトの姿を逃すまいと見ていたが、いくつもの枝が大きく揺れたせいでその姿を見失った。風にあおられて舞い上がった草や葉がいくつも降ってくる。
 グラファトは枝から振り落とされたのだろうか。その姿を探して辺りを見回すハルダーの頭や腕に、軽い音を立てて木の実が降ってきた。ハルダーの頭や肩で一度跳ねた木の実が、イフェリカにもぶつかる。驚いたイフェリカが小さな声を上げ、次いで、それははっきりとした悲鳴に変わる。
 木の実だと思っていた物が、イフェリカにぶつかった瞬間に音を立てて爆発した。小さな衝撃で、隣にいたハルダーを打ち倒すほどの勢いもない。だが、至近距離にいたイフェリカの肌には浅い傷がいくつも走り、血がにじんでいた。
 ――グラファトは上にまだいたのか!
 顔を上げると同時に、陽光を背に負った黒い塊が降ってきた。
 イフェリカを抱きかかえ、その場から跳んだ。数歩先に着地するや、腕を放して剣を構える。重い音を立てて着地したグラファトが、放たれた矢のようにこちらに向かって低い姿勢で迫り来る。刃がぶつかり、火花が散った。グラファトが次の斬撃を繰り出す。剣のぶつかり合う激しい音が幾度も響いた。
 すぐそこにはイフェリカがいる。逃げろと言いたいが、言う余裕はない。いや、言う前に逃げているだろう。渾身の力で打ち込んでくるグラファトの刃を受けるのに神経のほとんどを持っていかれ、彼女の気配を探れない。
 銀色の残像の向こうで、グラファトが笑っていた。
「次は肩から落としてやるよ!」
 言葉通り、グラファトの刃がハルダーの右肩を狙う。右足を大きく引いて体を左に四分の一ほど回転させ、それをかわす。ハルダーは剣を振り上げ、グラファトの右肘近くに柄頭を叩き込んだ。グラファトの笑みが崩れるが、すぐに戻った。痛みがないはずはないが、剣を放さなかった。
「右が嫌なら、左腕でもいいぜ!」
 左腕を狙い、グラファトが下から斬り上げる。ハルダーは左足を軸にして体を左にねじる。ねじりながら、右足でグラファトの足下を払った。注意がおろそかになっていたのか、避けられなかったグラファトが体勢を崩して後ろへ傾ぐ。ハルダーは半回転ほどしたところで止まり、右足でぐっと地面を踏み込む。体勢を整えて、剣を振り上げた。地面に背中がつこうとしているグラファトめがけて、一閃させ――。
「きゃあっ!」
 イフェリカの悲鳴に、ぴたりと動きが止まる。
「どうした!?」
 とっさに振り返った。イフェリカはハルダーたちから二、三十歩ほど離れたところに座り込んでいた。左肩を押さえている手の間から、短い棒が飛び出ているように見えた。
 誰かに射かけられたのか。グラファト以外に伏兵がいるとは考えていなかった。もしもほかに誰かいるのなら、イフェリカ一人で大丈夫だろうか。グラファトの相手をしている場合だろうか。
 逡巡したのは瞬きするほどの間だったはずだ。しかし、グラファトにはそれだけで十分だったのだろう。
 振り返ったせいで、ほんの少し、背中をグラファトに向けていた。倒れるやすぐに起き上がったグラファトは、その背中めがけて斬り上げた。
 右の肩胛骨付近に激痛が走る。痛みにうめきながらも、ハルダーは向き直って剣を横に凪ぐ。グラファトは易々と後ろへ飛んで避けた。
「残念。落とせなかったな。次はちゃんとやるよ、心配するな」
 酷薄な笑みを浮かべるグラファトは、血の滴る刃で指し示した。
「この辺り一帯に、いろんな魔術具を仕掛けてあんだよ。おまえらが網にかけって、ここへ来るまで時間があったからな。さっきの風で飛ばされちまって、俺でもどこにあるのかわからねえ仕掛けがいくつもあるけどよ」
 落ちてきて爆発した木の実や、今イフェリカに刺さっている矢もその仕掛けの一部というわけか。
「貴様自身が、仕掛けた罠にかけることもあるわけか」
「俺はそんなに間抜けじゃねえよ」
 わからないと言いながらも、魔術具の在処をおおよそ捕捉する術を持っているのかもしれないし、ただのはったりかもしれない。ハルダーたちが戦っている場所は、さっき風を起こした中心だ。今のところハルダーたちに対して発動した仕掛けはないが、この辺りは、飛ばされてしまった可能性が高いだろう。


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