第四章 王女と幼なじみ03
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 閉めたばかりの扉に耳を押し当てる。イフェリカが何か言おうとしたのを手で制した。イフェリカがその場で硬直する雰囲気を感じた。
 パタパタという足音が聞こえた。気のせいではなかったのだ。音の軽さからすると女か。扉の前を通り過ぎ、そのままどこかへ去ることを願ったが、すぐに戻ってくる。
 まずいな、とハルダーはひとりごちた。用を足しにか水を飲みにか、いずれにせよ誰かが起きていて、怪しい動きをする人影を見つけてしまったのだろう。
 足音が遠ざかっていく。何事もなかったと思ってくれたのだろうか。
 このまま戻ってこないかもしれない。しかし、足音の主はおそらく女。一人で確かめるのが怖くなり、誰か応援を呼んでくるかもしれない。
 どうするか、ハルダーも迷った。しかしそれは一瞬だった。戻ってこなければそれでよし。もしも戻ってくるなら、より厄介になる。
「イフェリカ」
 闇の中に囁きかけた。闇に慣れていない目ではイフェリカの顔は見えないが、すぐそばにいるのはわかる。おおよそここだろうと右手を伸ばすと、彼女が腕に抱えていた荷物に触れた。驚いたらしく、イフェリカの体が揺れる。ハルダーは小声で謝りながら、イフェリカの手を掴んだ。
 たいまつ代わりになる魔術具はあるが、この状況では使えない。ハルダーはイフェリカの手を引き、手探りで闇の中を進んだ。机か椅子に手足がぶつかるたび、イフェリカに注意を促す。漠然とした雰囲気から広い部屋だと見当はつく。まあ、こんな屋敷の応接間だから広いのは当然だろうが。
 それだけに、窓までの道のりは遠かった。いつ、足音の主が人を連れて戻ってくるかもわからない。だが、どたばた進めばあちこちにぶつかって不要な音を立ててしまい、気づかれなかったものが気づかれてしまうかもしれない。だからゆっくり進むしかない。だが、気持ちは焦っているから部屋が実際以上に広く感じた。
 指先が固い布に触れた。更にぐっと手を伸ばして、それがカーテンだとわかるとハルダーは振り返った。
「窓だ」
 切れ目を見つけ出し、そっとめくった。黒く滑らかな闇にいくつもの格子がはまっている。夜空は晴れ、半分に欠けた月のおかげで明るかった。
「見間違いだったんじゃないのか?」
「違うわよ。わたし、はっきりと見たもの」
 男女の声がはっきりと聞こえ、ハルダーとイフェリカはぎょっとして振り返った。
 前触れもなく応接間の扉が開いたのだ。廊下の明かりが差し込む。扉のところに立つ二人は、逆光で顔はよく見えなかった。
 ハルダーは慌ててカーテンから手を離した。イフェリカがハルダーに寄り添う。
 大きく放たれた入り口から廊下の明かりが差し込み、室内の様子がおぼろげに浮かび上がる。薄闇の中、かすかに揺れるカーテンと、その前に立つハルダーとイフェリカの姿は、闖入者たちにすぐに見つかってしまうこととなった。
「誰だ!」
「きゃ――あ、イフェリカ様!?」
 二人がそれぞれ声を上げる。女の方は、どうやらイフェリカの顔を知っているようだった。男は、ハルダーは見たことのない顔だった。
 この二人を縛り上げるなりすれば、まだ逃げられる。悪いが男には気絶してもらって、女はちょっと脅せばおとなしくしてくれるだろう。
 ハルダーがぐっと拳を固めようとすると、その腕をイフェリカがやんわりと掴んだ。
「ハルダー。ひとまず、あきらめましょう」
「……いいのか?」
「いいのです。きっとまた機会はあります」
 そうだといいが、と思いながら、人を呼んでくる、と慌てて出て行く女の背を見送った。

   ●

「まさか逃げようとするとは思わなかったよ」
 ジノルックは大いに顔をしかめて言った。夜中に叩き起こされたから眠くて機嫌が悪い、というわけでないのはもちろんわかっている。
 あれから、すぐに数人の男たちがやってきた。その中には、ハルダーの部屋の前でうたた寝をしていた見張りの姿もあり、まんまと部屋を抜け出したハルダーを見て、気の毒なほど顔を青くしていた。
 こちらはもう観念していると言っても男たちは信用せず、応接間の椅子に座らされた。ジノルックが来るまでの間、男たちがぴたりとそばについていたが、イフェリカもいたおかげなのか、縛り上げられなかっただけましだった。
「逃げようとしたんじゃない。黙って出て行こうとしただけだ」
 肩をすくめるハルダーを、ジノルックが刺すような眼で睨んだ。
「それを逃げると言うんだ。君がイフェリカをそそのかしたんだな!」
 広い応接間にジノルックの声が響いた。男たちは四人が室内に残り、二人は入り口、一人はジノルックの傍ら、もう一人は窓際で控えていた。イフェリカたちを逃がさないように、と命じられていたであろう彼らは、ばつが悪そうにしている。
「ジノルック。そんなことはありません。私がハルダーに頼んだのです」
「――イフェリカ」
 ジノルックの険しい眼差しは、イフェリカにも向けられた。
「あまりこういうことは言いたくないけど、恩を徒で返されるとは思わなかったよ」
「……ごめんなさい」
「どうして逃げようとしたんだ。僕の頼みを聞くのが――ヴェンレイディールの再興をするのが、そんなに嫌なのか。君がいない間になくなってしまった故国を取り戻したいと思わないのか」
 責めるような口調に、イフェリカが肩をすぼめてうつむく。この屋敷へ来たその日にも、きっと同じようなやりとりがあったのだろう。
 四人の男たちの顔に、期待とかすかな失望がにじんでいた。彼らもまたヴェンレイディール人であり、主のジノルックと同じ望みと苛立ちを抱いているようだ。
「ヴェンレイディールがなくなってしまって、私も、悲しいし寂しいと思います。でも、そうなる原因を作ったのは私の兄です。それを止められなかった私には、皆と同じように悲しむ権利はありません」
「でもだからこそ、取り戻す責任があるだろう。イフェリカ、君にしかできないんだ」
「……責任はあるでしょう。だけど、私には無理です。できないのです。どうしても、できないのです」
「何故だ、イフェリカ。何故、できないと言うんだ。君がいてくれるだけでいい。危険な目には遭わせない。君がいて、ヴェンレイディールを取り戻したいと言っている――それだけで人々は立ち上がり、励みになる」
 ジノルックはイフェリカの前に片膝をついて、うつむく彼女の顔をのぞき込む。イフェリカは、しかしジノルックの真剣な眼差しから逃れるように顔を背け、小さな声で、できない、と言った。
「理由を言ってくれ、イフェリカ! 陛下たちの墓前に立つためだけに、危険を冒して戻ってきたわけではないんだろう? 君が国を取り戻すことこそが、一番の弔いになるんじゃないのか!」
 ジノルックの声は口から出るたびに高くなって、しまいにはだだをこねる子供をしかりつけるような調子になっていた。うつむいたままのイフェリカは、もはや何も答えない。
「……そのへんにしておいたらどうだ」
「部外者は黙っていてもらおうか」
「俺も人のことは言えないが、一国の王女に対する態度とは思えないな。落ち着けよ」
 軽く睨みつつ言うと、ジノルックが押し黙った。自分でも言い過ぎたことに気がついたのだろう。黙って立ち上がった。
「――再興のことは抜きにして、ここにいてほしいんだ、イフェリカ。君の身を守るために。それは、わかってくれ」
 イフェリカは顔を上げず何も応えなかったが、ジノルックもイフェリカから顔を背けていた。自分の気持ちが通じないことがもどかしい。ハルダーには、彼の横顔がそう言っているように見えた。
 沈黙が重苦しく室内に広がる。ジノルックはそれに絡め取られたような足取りで部屋を出て行こうとした。
「ジノルック様、大変です!」
 大きな扉を勢いよく開けて、男が一人飛び込んできた。
「どうした」
「使者が……ユヴィジーク殿下の使者が、お越しです」
「こんな時間にか? いや、それより、何故ユヴィジーク殿下の……」
 ジノルックが瞠目する。イフェリカも、ユヴィジークの名を聞いて顔を上げた。誰もが、非常識きわまる時間の訪問に戸惑い、使者を差し向けた者の名におののいた表情を浮かべる。
「どうされますか。今、主を呼びに行くと言って玄関の外でお待ちいただいていますが」
「非常識な訪問は向こうも承知だろう。迎える用意が整うまでと言って、しばらく待たせておけ。使者は一人か?」
「いえ。門番の報告では、十数名を従えてきているようです」
「なんだと?」
 ジノルックの声が高くなる。こんな時間に、こんな場所にそんな大勢で押し掛けてくるとは、尋常ではない。
「イフェリカ。すぐに部屋へ戻ってくれ。念のため、明かりはつけないで」
「ハルダーは……」
 イフェリカに問われたジノルックが何かを言う前に、ハルダーは口を開いた。
「ただ事じゃなさそうだから、俺と一緒にいた方がいい。あんたは使者の応対をしないといけないんだろ?」
 ジノルックは苦虫を噛み潰したような顔になるが、ハルダーの言うことはもっともだと思い直したようだ。悔しさのにじむ声ではあったが、そうしてくれ、と言った。

   ●

 つけたままにしていた寝台のそばのランプを消したが、部屋は闇には飲み込まれなかった。窓にかかる厚いカーテンの隙間がうっすら明るい。そっとのぞくと、空はもう真夜中ではなかった。蒼い闇に変わっている。夜明けまでまだあるが、もう夜とも言えない刻限になっていた。目を凝らしてみるが、屋敷の周辺はまだ夜が色濃くて、使者とその集団とやらがどこにいるのかはよくわからなかった。
 非常識な使者が常識的な用件で訪ねてきたという望みは薄い。それでも、このまま静かに夜が明けてくれることを願った。
 イフェリカは、ハルダーが夜中に訪ねてきたときと同じように寝台に座り込んでいた。ただ、あのときよりも意気消沈している。ジノルックに強く責められたことが堪えているようだった。
 ハルダーはヴェンレイディール人ではない。そんな彼にとって、リューアティンに併合されたヴェンレイディールの再興など、関係ないといえば関係のない話だ。それにイフェリカが関わろうとしないのなら、なおさら。
 ただ、こうして沈痛な面持ちで今にも泣き出しそうなイフェリカを見ていると、自分たちには関係ないと言って励ますこともできそうになかった。
「……祖国の再興に手を貸そうとしない私に、ジノルックは失望しているでしょうね。あの場にいた者たちも、ディサドも……」
 イフェリカの口元が自嘲でゆがむ。似合わない表情だ、と思った。
「でも、どうしても、私にはできないのです。ジノルックやディサドの気持ちは、痛いほどわかります。だけど、私にはもう何もできない……」
 イフェリカは顔を覆った。最後の方は消え入るような声だった。
 やりたいけれどできない。ハルダーには、そう言っているように見えた。やりたくないのなら、無理だと言い張るのと同じように、やりたくないときっぱり言えばいいはずだ。
 だけどイフェリカは、無理だ、できないと言って顔をゆがめる。そう言うことしかできない自分に失望しているのは、イフェリカ自身なのではないだろうか。
 ヴェンレイディールの王族は今やイフェリカだけ。ジノルックやディサドのように、唯一の生き残りである王女に希望を託し国を取り戻したいと考える者は、探せばたくさんいるだろう。王族の責任というものを、イフェリカはちゃんと自覚している。だが。
「無理しなくていいんだ、イフェリカ」
 イフェリカの隣に腰を下ろし、細い肩にそっと手を添えた。
「生き残った王女だからって、無理しなくていい」
 イフェリカが顔を上げた。少しずつ薄まる闇の中で、彼女の頬が濡れているのがわかる。
 イフェリカが頑なに無理だという理由は知らない。そうでなくとも、無責任なことを言っているのはわかっていた。気休めにしかならないことも。
 それでも、この細い肩にのしかかる重い期待を少しでも軽くできるのなら、いくらでも慰めの言葉を紡ごう。無責任の責はハルダーがいくらでも負ってやる。
「イフェリカは、イフェリカのしたいようにすればいい。俺が助けるから」
 細い肩がかすかに震え、目からこぼれ落ちる涙が増えた。ハルダーは肩に添えた手を背中に滑らせ、抱き寄せる。イフェリカは倒れるようにハルダーの胸に顔を寄せ、声を押し殺して泣き続けた。


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