第四章 王女と幼なじみ02
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 ジノルックの屋敷に来た日を含めてから三日は、おとなしくしていた。イフェリカを休ませるためだ。そして、イフェリカがジノルックの交換条件に応じるつもりがあるようだと思わせ、彼を油断させるためでもあった。
 丸二日間、ハルダーは客室から出られなかった。用を足すとき以外でも、廊下に顔を出すくらいは見張りの男たちも見逃してくれたが、それ以上のことは許してくれなかった。仕方なく、ハルダーは部屋の中を歩き回ってみたが、そんな退屈しのぎはすぐに飽きた。庶民感覚で広い部屋とはいえ、歩き回り続けていたら目が回りそうになる。結局、寝台に転がるか、窓の外を眺めて過ごすしかなかった。
 ジノルックが訪ねてくることはなく、イフェリカも部屋に軟禁されているのか、彼女がもう一度現れることもない。見張りの男たちは数時間おきに交代するので、なんとか彼らからイフェリカの様子を聞き出そうとしたが、ジノルックに雑談をすることも禁じられているのか、無視されるか、知らないと答えられるかのどちらかだった。
 ハルダーが何もすることがなく寝台でごろごろとしている間に、ジノルックが乗り気ではないイフェリカを説得してなんとかその気にさせようとしているかもしれない。いや、きっとしているだろう。イフェリカは戦は嫌だし自分では再興はできないと言っていたが、どうか頼むと言われれば、どうすればいいのかと悩むのだろう。
 今にも泣き出しそうな顔でうつむいているイフェリカの姿が思い浮かんだ。ハルダーの胸がきりきりと痛む。そんな状況から連れ出して墓探しの旅に戻り、イフェリカの望みを叶えてやりたかった。
 三日目の夜、ハルダーは行動に移った。
 夕食を終えたあと、ハルダーは少ない荷物をまとめて夜が更けるのを待った。ここまでおとなしくしていたので、見張りの男たちも油断し始めている。夜中になると見張りの数は一人に減り、しかも特に何事も起きないのでうたた寝をして、交代に来た仲間にこづかれて目を覚ます、などということもあった。ハルダーは夜中に起きて扉越しにその様子を観察していた。どうせすることがないから、昼間に寝ていればよかった。
 見張りが一人に減り、その一人もうたた寝を始めた。扉をほんの少しだけ開けて、廊下に置いた椅子に座る男が船をこいでいるのを確認する。ハルダーは扉の隙間をもう少し広くして廊下に滑り出た。音を立てないよう慎重に扉を閉め、抜き足差し足で歩き始める。ジノルックの屋敷は廊下にも絨毯が敷かれていて、気をつけて歩けば足音を吸収してくれる。安い宿屋なら、こうはいかなかっただろう。
 廊下には等間隔にランプが灯っていた。ハルダーの部屋にあったのと同じ、魔術具を使ったもののようだ。夜中なので光量は控えめだが、おかげで歩くのに不自由はなかった。
 誰もが寝入っていて、耳が痛くなるほど静かだった。絨毯のおかげで足音は響かないとはいえ、こうも静かだと、ちょっとした音が屋敷中に響いてしまうのではないかと冷や冷やする。階段を上るときや廊下を曲がるとき、腰に提げた剣の鞘がどこにも当たらないよう、必要以上に気をつけた。
 三階の廊下に出ると、左右を見回した。二階と同じく三階の廊下もほのかに明るいが、そこに人影は見当たらない。王女にはハルダーのような見張りはついていないらしい。
 しかし、自由にさせているわけでもあるまい。自由にできるのであれば、イフェリカはハルダーの部屋をまた訪ねてきてもいいはずだ。自由な行動は制限しながらも、ハルダーのように閉じこめたままというわけにもいかないだろう。
 もう一度人影がないことを確かめ、ハルダーは廊下を進んだ。心持ち足早に、右の奥の部屋に向かう。
 イフェリカがいると言っていた部屋は、両開きの大きな扉だった。立派な装飾が施され、把手も凝った造りだ。主賓室といったところだろう。
 ハルダーはかなり控えめに扉を叩いた。ここにイフェリカがいるのなら、ジノルックの部屋も同じ階にあるかもしれない。眠っているだろうが、極力物音をたてるのは避けなければ。
 数回呼吸する間待ったが、反応がない。ノックの音が小さすぎたか。あるいは、イフェリカは待っていると言っていたが眠っているのかもしれない。
 もう一度叩いたが、反応はなかった。やはり寝ているのか。もっと大きな音を立てればもしかしたら起きるかもしれないが、そうするとイフェリカ以外も起き出してくる可能性がある。
 ハルダーは鍵がかかっていないことを祈りながら、把手を回した。滑らかに動き、扉の重さを腕に感じる。知人の屋敷内とはいえイフェリカは鍵もかけずに寝ているのか、と驚きながらも、ハルダーは扉の隙間にその身を滑り込ませた。
 室内は廊下よりも薄暗く、ハルダーの客室よりはるかに広かった。天蓋付きの立派な寝台があって、その傍らのテーブルにはランプが置いてあった。高い天井にはシャンデリアがぶら下がっているようだがそちらには明かりはなく、テーブルのランプだけが光を灯していた。広い部屋の隅々にはとうてい行き渡らないささやかな光で、寝台とその周辺だけを浮かび上がらせている。
 ハルダーはゆっくりと寝台へ向かった。端っこにちょこんと腰掛けたまま、うつらうつらとしている小柄な影。部屋は間違っていなかったようだ。
 目の前に立っても、まだ気配に気づかない。
「イフェリカ」
 ハルダーは囁きかけた。浅くない眠りなのか、イフェリカの返事はない。もう一度、今度は少し声を大きくして、名前を呼んだ。
「……ハルダー?」 
 イフェリカがゆっくりと頭をもたげた。半分眠っていそうなとろんとした眼が、ハルダーを見つめる。数度瞬きを繰り返して、いきなり覚醒したように目を見開いた。
「も、申し訳ありません。起きて待っているつもりだったのに――」
「しっ。大きな声は出すな」
「あ、ごめんなさい。あの、本当にさっきまでは起きていたのです」
 眠ってしまったことをよほど気にしているらしい。それがなんだかおかしくて、ハルダーは小さく笑った。
「気にするな。それより行こう。準備はできてるな?」
「はい。――でも、どこから出るのですか」
 脇に置いていた荷物を腕に抱えたイフェリカが首を傾げる。
「こっそり抜け出すなら窓から――と言いたいところだが、道具がない」
 三階の窓から降りるとなると、長い縄が必要になる。何かに使うかもしれないと、荷物の中に縄はあるが、長さが全然足りないし、体重を支えきれるほどの太さもない。
「正面から、とはいかないが、一階のどこかの窓か勝手口から出よう」
 ただ、ハルダーには屋敷の間取りがまったくわからない。どこに適当な場所があるか、イフェリカはわかるだろうか。
 それを尋ねると、しばらく記憶を探るように考えてから、イフェリカが口を開いた。
「……確か、一階に応接間がありました。この時間ならそこに人はいないはずです」
「よし。じゃあそこから出よう。応接間なら、窓もあるだろう」
 荷物を抱えたイフェリカの前に立ち、ハルダーはそっと廊下に出た。相変わらず人気のない廊下を足早に通り、階段へ移動する。二階には見張りがいるが、そこは通らないから大丈夫だろう。見張りが交代するまでまだ時間もあるはずだ。
 廊下であれば、ところどころにある柱の影に身を隠すことができる。しかし、階段にはそんな場所はない。人の気配を感じたら見つかる前に反対の方向へ逃げるしかないが、階段にも照明が灯っている。慌てて大きく動く影は見咎められるだろう。誰にも出くわさないことを祈りながら、二人は一段一段降りていった。
 そうして、何事もなく一階の踊り場にたどり着いたときには、思わず安堵の息がこぼれた。見ればイフェリカも胸をなで下ろしている。
 だが、まだ一階に来ただけだ。屋敷の外に出て、取り囲む柵を越えなければ、ひとまず安心だ、とは言えない。
 二人が降りてきた階段は、玄関から少々奥まった位置にあった。廊下を少し進んで右に曲がれば、玄関ホールに出る。それは、ハルダーも覚えている。
「こちらから行くと、左の廊下の奥に応接間が……。二番目の扉がそうだったと思います」
 まっすぐ行けば玄関だが、さすがに夜は鍵がかかっているに違いない。内側から開けられるだろうが、開けたら閉める手立てがない。すぐに、ハルダーたちがそこから逃げたのだと気づかれるだろう。徒歩で逃げるしかないから、少しでも時間を稼ぐためには玄関からは出られなかった。
 再びハルダーが先を歩いて、周囲の様子を伺った。柱の陰に隠れ安全を確かめると、イフェリカに手招きをする。イフェリカはきょろきょろと左右を見回して、逃げる子犬のように駆けてくる。
 その繰り返しで少しずつ進み、とうとう玄関ホールまで来た。広々としたそこを通り抜け、左の廊下へ入らなければならない。よく見れば、小さな廊下へ通じているところもあるようだった。
「あそこでいいんだよな?」
 一番大きそうな廊下への入り口を指さす。イフェリカが頷いた。
 ホールを斜めに突っ切ることになる。そこに人影はないが、他の廊下の様子はここからではわからない。ホールの端には大きな柱時計や等身大の人の彫刻、大きな花瓶がある。それらの陰に隠れながら進む方法もあるが、そこから見えない廊下は必ずあって、どこからも身を隠せる場所というのはなさそうだ。
 耳をそばだて、意識を研ぎ澄ます。人の気配がないであろうことを確かめ、突っ切るしかない。
 自分の呼吸音も邪魔になる気がして、浅く息を吸い、吐き出す。やがて、大丈夫だろうと判断した。
 ハルダーは大股でホールを横切り、応接間へ通じる廊下へ入った。横切るとき、左右へ目配せした限りでは人の姿はなかった。すぐに壁に身を寄せて、顔をのぞかせているイフェリカに合図を送る。
 短い髪を揺らし、イフェリカがホールを駆け抜ける。が、真ん中辺りで、焦っていたからなのか、爪先が絨毯に引っかかって前につんのめった。
 イフェリカの動きが止まった瞬間にハルダーは息を飲んだが、イフェリカは転ぶまではいかず、すぐにまた駆け出した。
 ハルダーの隣の壁に倒れかかるようにもたれたイフェリカは、彼を見上げて、苦笑した。
「……びっくりしました」
「俺もだよ」
 ハルダーも苦笑いを返す。しかし、すぐに気を引き締めた。
「あそこか」
「ええ」
 イフェリカのいた部屋より少々見劣りするが、それでも十分に立派な扉だった。
「鍵も開いてる」
 ハルダーが扉を開け、イフェリカを先に入らせる。誰も使っていないから、中は真っ暗だ。あとを追いかけるようにハルダーも入り、扉を閉めて視界が暗闇に満ちた瞬間、小さな足音を聞いた気がした。


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