第二章 傭兵と傭兵02
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 大衆食堂にはイフェリカを含めて十人ほどの手配書が貼り出されていたが、実際にはもっとたくさんの人物・集団の手配書が出回っている。城門の衛兵が手配書のすべてを記憶するのは無理だろう。そのおかげか、変装が功を奏しているのか、ミファナスを出てから三つ目の街までは、詳しく検分されることなく通過できた。
 あの一件以来、食堂には行っていないから同じような騒ぎも起きていない。出歩くときには頭巾を目深にかぶっているおかげで、道行く者は誰一人としてイフェリカの正体に気づかない。
「この調子なら、ヴェンレイディールまで大丈夫かもしれませんね」
 三つ目の街を出たあと、ハルダーの数歩先を行くイフェリカがくるりと振り返って笑った。晴れた朝の爽やかな空気がそうさせたのか、ハルダーが初めて目にする、屈託のない笑顔だった。そういう顔もするのか、と思わず見とれてしまうほど。
 だが、それも一瞬だった。
「このまま順調なら、な」
 ハルダーはすぐに気を引き締める。油断はできない。リューアティンにとって、イフェリカは存在しているだけで厄介な人物なのだ。手配書に記された懸賞金の額と、生死を問わない、という文言がそれを物語っている。ヴェンレイディールに彼女が帰還することも、望ましくは思っているまい。
 ただ、この状況を楽観視しているイフェリカを、今はまだそのままにしておきたかった。周りに人がいないのを確認して、イフェリカは外套の頭巾を脱いでいた。黒く染めた短い髪を揺らしながら、朝の光に輝く緑を眩しげに眺めている。
 数日前、自らの顔を薬で焼けばよかった、とげに恐ろしいことを言った娘と同一人物とは思えない。だが、今の姿が本来の彼女なのではないか、と思った。どうしてもヴェンレイディールへ戻り、家族の墓を探したい。その強い思いが、あんな発想になったのだろう。
 自分の願いを叶えるためなら、自身を犠牲にすることを厭わない。小柄な娘の体には、驚くほど強い意志が宿っている。
 なんにせよ、偽名は使えないと言って譲らなかったときのように、人相を変えると言い張らずに済んだのはよかった。
「イフェリカ、そろそろ頭巾をかぶれ。日差しも強くなってきているし」
「はい」
 散策するように景色を楽しんでいたイフェリカだが、ハルダーの言葉に素直に従った。基本的には素直な王女様なのだ。十近く歳が離れているせいもあり、雇い主と言うよりは妹のような感じがする。ハルダーに弟妹はいないから、正確に言えば、妹がいたらこういうものだろうか、という感覚だったが。
 
 時々、旅人や商人とすれ違うだけの、平穏な旅路だった。イフェリカを探し回っている兵士は見かけない。実はそれほど熱心に捜していないのか、と淡い期待を抱くが、戦の事後処理に人手を割かれ、十分な人員を回せていないだけでかもしれない。
 太陽が頭上にさしかかる頃には、人気のない山間の道に入っていた。長い上り坂が続くが、この峠を越えればあとは下るばかりで、やがて次の街が見えてくる。
 道のすぐ左側は切り立つ斜面だが、右側は林が続いているおかげで、それほど圧迫感は感じない。ただ、木陰を求めて林の奥まで入り込むと、崖がある。下草が繁っているので、油断していると真っ逆様だ。街道を進む限りは、それも関係ないことだが。
「ハルダー?」
 坂を上ってしばらく歩いたところで、イフェリカがいぶかしげな声をかけてきた。ハルダーが鋭い目つきで斜面の上を見ていたせいだろう。
 イフェリカに静かにするよう、手で合図をする。イフェリカは神妙な顔で頷いて、頭巾をかぶり直した。
 この道に入ってからほどなく、視線を感じた。最初は気のせいかと思ったが、どうも誰かに見られている気がしてならない。単なる勘だが、案外当たるのでないがしろにもできない。
 イフェリカが不安そうな表情を浮かべているのに気づき、ハルダーは大丈夫だと言って、斜面上から視線を外した。ただ、警戒は解かない。
「そろそろ休憩しよう」
 峠まではまだかかるし、街を出てから短い休みを何度か取っただけで、ほとんど歩き詰めだった。
「お昼ご飯にちょうどいい頃合いですね」
 街を出る前に、露店で昼食を買っていた。肉と野菜を挟んだパンと、砂糖をまぶした球状の焼き菓子である。店頭で焼いていた甘い匂いに惹かれ、イフェリカが食べてみたい、と言ったものだ。
 林の中に入り、座りやすそうな木の根元に直接腰を下ろした。イフェリカは、膝を抱えるようにして木の根に座る。それぞれ自分の鞄から食べ物と飲み物を取り出し、イフェリカは丁寧に頂きますと言って食べ始めた。ハルダーは何も言わずにパンにかぶりつく。
 水筒の水をあおるついでに、木々の隙間から見える斜面に視線を走らせる。どこかで鳥が鳴き、そばでイフェリカがごそごそとしている物音以外、何も聞こえない。林の中に入ったせいか、視線も感じなくなった。
 片側は林、片側は斜面。盗賊が身を潜める場所はいくらでもあるため、昼間でも襲われることがある道だ。一度、大規模な盗賊討伐があって、この辺りの盗賊は壊滅したそうだが、戦で失業した傭兵が盗賊に転職する、というのはよくある話だ。視線は、そういう傭兵崩れのものかもしれない。
 辺りを警戒しつつハルダーはさっさと食べ終えたが、イフェリカはまだだった。パンがあと三分の一ほど。見ていると、一度に食べる量が少なく、また一口ごとによく噛んでいるから時間がかかるようだ。休憩がてらの食事なのでのんびりでも構いはしないが、腹が減っているときにもあの早さでは、じれったくてしょうがないのではないだろうか。
「そのお菓子、食べないんですか?」
 ようやくパンを食べ終えたイフェリカは、ハルダーが手に持ったままの焼き菓子を指す。
「……菓子はあんまり食べないんだ」
 店先でかいだ匂いだけで腹一杯である。甘ったるいだけの菓子は、どちらかといえば苦手だった。これを食べたいと言ったイフェリカは、ハルダーの分まで買ってくれたのである。
「申し訳ありません。知りませんでした」
 イフェリカが眉根を下げる。あの場で断ればよかったが、イフェリカが嬉しそうにしていたので言えなかったのだ。
「でも、甘いものを疲れているときに食べると、おいしいですよ」
「じゃあ疲れたときに食べるよ」
 ハルダーの言葉にイフェリカは苦笑し、一口ほおばった。甘い、と笑みを浮かべる。
 イフェリカが全部食べ終え、しばし食休みとなる。天気は良好。風もほとんどない。食事の間中、目の前の街道を通る者の姿もなく、静かなものだ。手配されている亡国の王女を連れた旅とはとても思えない。
 このまま何事もなくすべてが終わればいいが、さすがにそれは、先ほどの菓子よりも甘い考えだろう。
「そろそろ行くか」
「はい」
 林を出て街道に戻ると、真上にある太陽の日差しを暑く感じた。夏が近い。
 相変わらず、前にも後ろにも人の姿はなかった。前後左右を見回したハルダーは、最後に斜面を見上げた。
 目に飛び込んできたものに息を飲む。
 中腹に人の姿があって、それは、ハルダーが気づいたのに合わせるように斜面を蹴って、宙に身を投げ出した。
「イフェリカ!」
 数歩先を行くイフェリカの背中に叫ぶ。人影は、ちょうど彼女がいる辺りに落下しようとしていた。
 驚いて振り返るイフェリカの腕を掴んで引き寄せ、背後にかばう。腰の後ろに装備している短剣を抜いて、人影に向かって放った。
 金属音が響き、叩き落とされた短剣が地面に突き刺さる。その向こう側に、男が深く膝を折って着地した。
 三階くらいの高さから飛び降りたにもかかわらず、軽やかな着地だった。男は目の前の短剣を引き抜き、ゆっくりと膝を伸ばす。髪をかきあげながら、顔を上げた。挑発的な笑みを浮かべる顔に、瞠目する。
「おまえ……」
「久しぶりだな、ハルダー。思ったよりずいぶん元気そうじゃねえか」
 灰色の髪に、薄青の酷薄そうな目。忘れるはずもない、そして二度と会いたくもない男――グラファト・ラットレッタだった。
 義手の付け根が鈍く痛む。ハルダーは動きを確かめるように、右手の指を握り込み、それからまた開いた。
「その腕、まさか生えたわけじゃねえよな」
 グラファトが短剣で指す。ハルダーは答えず、腰に提げた剣を引き抜いた。
「ここで何をしている」
「そりゃ俺の台詞だ――と言いてえが、お互い、わかってんじゃねえのか?」
 山道に入ってから視線を感じていたのは、やはり気のせいではなかったのだ。グラファトにずっと見張られていたわけだ。
 魔術師殺し、というグラファトの異名は、身を持って知っている。そんな男がここに現れた理由は一つしかない。
 イフェリカの暗殺だ。
「まさかまたおまえが護衛についてるとはねえ。俺も驚いたよ」
 あまり驚いているとは思えない。むしろ楽しげな口調だ。一方ハルダーは、降ってきた男がグラファトとわかったときから、険しい表情になっていた。
 じりじりと足を動かし、背後のイフェリカがグラファトの視界に入らないように立ち位置を調整する。
「だが、これで安心した」
 ハルダーにはグラファトと話をするつもりがないから返事もしないが、グラファトはそれでもお構いなしに、一人でしゃべっていた。
「護衛がおまえなら、標的をしとめるのは簡単だ」
 口角の片方だけをつり上げ、グラファトが笑う。ハルダーは唇を引き結び、奥歯を噛みしめた。
「――四年前と同じようにいくと思うなよ」
「四年前、俺に右腕を斬り落とされたのを忘れたわけじゃねえよな」
 グラファトも腰に下げた剣を引き抜き、左手にはハルダーの短剣を構えた。
「ハルダー。後ろに隠してるお姫様をおとなしく渡してくれたら、今度は腕は落とさねえよ」
「……イフェリカ。少し下がってろ」
 イフェリカはいつの間にかハルダーの服を掴んでいたのだが、その手が離れる。彼女の気配も、少しだけ遠くなった。
 グラファトが地面を蹴る。ハルダーも前に飛び出した。
 二つの刃がぶつかり、甲高い音が響く。二人ともすぐに相手との距離を取った。ハルダーもグラファトも、刃の長さが少々違うが片手剣だ。ハルダーは剣を持つ右腕をだらりと下げ、右足を後ろに引いた。左半身と切っ先をグラファトに向ける。グラファトは片手剣を顔の高さに構え、短剣を逆手に持って水平に掲げた。
 構えてから動き出すまでは一瞬だ。グラファトが右足を踏み込んで、片手剣を振り下ろす。ハルダーはその場で剣を上げて防御の姿勢を取った。グラファトの切っ先は、わずかにハルダーの剣に届かずに空気を切り裂く。
 間合いを見誤ったか。グラファトの前面が空く。その隙を逃さず、ハルダーは斬り下ろしにかかった。
 だが、グラファトの方が動きが速かった。大きな円を描くように斬り上げる。ハルダーは自ら前に踏み込んだから、グラファトの間合いの中だ。
 外したのはわざとか。舌打ちして、下ろしかけた剣で刃を受け止める。耳の近くで金属音が鳴り響く。
 グラファトは今度は退かず、左足を前に踏み込んだ。つばぜり合いのまま、剣を滑らせてハルダーの右側面を斬りつけようとする。ハルダーはそれを返そうと右腕に力を込める。その腕をめがけ、グラファトが短剣を振り下ろした。
 退けば斬られる。このままでいれば腕を刺される。どうするか迷ったのは一瞬よりも短かった。


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