第二章 傭兵と傭兵03
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 イフェリカの悲鳴が聞こえた。
 ハルダーの右手首近くに、刃が突き立てられる。だが彼は声も上げず、短剣を握るグラファトの手を掴んだ。左足でグラファトの左足を払う。グラファトは避けようとしたが、ハルダーの爪先は彼のすねを捉えた。体勢を崩したグラファトが左に倒れ込む。二人ともそれでも剣を離そうとしなかったから、ハルダーは顔をのけぞらせて切っ先を避けた。が、ほんのわずか、顎の辺りの皮膚が裂けた。
 地面に倒れ込んだグラファトの手首を掴み、短剣の柄から力ずくで引き剥がす。短剣が右手に刺さったまま間合いの外まで飛びすさり、そこで腕から引き抜いた。当然、刃に血は一滴もついていない。
「やっぱり義手か」
 返り討ちに遭ったというのに、グラファトはまだまだ余裕のある表情で立ち上がる。
 作り物の右腕はハルダーの意のままに動くが、触感はいっさいない。斬られても痛みを感じないのが、今は幸いした。
「動かせる義手があるとはな。腕を斬り落とした甲斐がねえ」
 グラファトは右腕がどうなっているのか確かめたかったようだ。短剣は取り返せたが、その前に相手の狙い通りになってしまい、歯軋りする。
 ハルダーは短剣を鞘に収めた。グラファトは剣だけでなく、魔術具も使う。しかも悔しいことにその扱いはかなりのものだ。今はまだ剣での攻撃しかしてこないが、魔術師殺しの異名を持つこの男が魔術具を一つも持っていないとは考えにくい。
「そんなもんがあるなら、左腕も落として構わねえな」
 グラファトが不穏な笑みを浮かべる。ハルダーは先ほどと同じ、左半身を彼に向ける構えを取る。
 ズボンのポケットから何か取り出し、グラファトはそれを空高く放り投げた。魔術具か。
 高く上がったそれは、中空で破裂し白い煙に変わる。煙幕のような煙の中に、陽光を弾き返すものが見えた。矢、もしくはナイフのように短い刃。それがいくつも、イフェリカをめがけて飛んでいく。
「イフェリカ、走れ!」
 グラファトも剣を構えているが、構わず背中を向けた。きびすを返して駆け出したイフェリカを追いかけるように同じ方向へ走った。走りながら、外套を脱いで大きく宙に向かって広げる。飛んできた刃が、いくつも外套に突き刺さった。外套に引っかからなかった刃が腕をかすめる。
 そのときには、グラファトも間近に迫っていた。頭上に剣を構え、大きく地面を蹴って最後の間合いを詰めつつ、斬りつけてくる。ハルダーは振り下ろされるグラファトの右腕を狙い、下から斬り上げる。
 だが、それを見たグラファトは素早く剣を退いて、ハルダーの一撃を避けた。
 次の動作に移るのはグラファトの方が一瞬早く、斬り上げて延びきっているハルダーの右腕を狙い横殴りに斬りかかる。
 義手にグラファトの刃が食い込む。ハルダーは手首の向きを変えて、グラファトの顔を狙った。
「おっと」
 グラファトは顔をのけぞってそれを避け、軽やかな足取りで数歩下がる。
「義手でよかったな、ハルダー」
 剣を肩に担ぎ、グラファトがにやりと笑う。それから、手でひさしを作り、ハルダーの後方にいるイフェリカを見やる。
「お姫様は無傷か」
 残念そうな口調ではなかった。少しでも当たっていれば儲けもの、程度の攻撃だったのだろう。
「ま、今日のところは様子見だからな」
 グラファトはあっさりと剣を収めたが、ハルダーは構えたままだ。
「やる気満々だねえ、ハルダー。義手じゃなかったら、また腕を落とされて泣きわめく羽目になってたってのに」
「黙れ」
「おまえは今度も守れねえよ」
「黙れ」
 二度目は、一度目よりも語気が強くなっていた。グラファトは肩をすくめ、きびすを返す。
「せいぜい頑張ってヴェンレイディールを目指しな。お姫様の首をもらうのは、ヴェンレイディールに入ってからにしとくからよ」
 不吉でしかないことを軽口のように言って、あまつさえひらひらと手を振る。その背中に斬りつけてやろうかとよほど思ったが、グラファトが退いたのなら、後追いをする必要はない。
 グラファトはしばらく進むと、立ち止まって斜面を見上げた。それから、一度こちらを見る。その顔は不敵に笑っているように見えた。左右のかかとを地面に打ちつけて、軽く体を屈めてから跳躍した。ほんの少し跳ぶだけの動作に見えたが、グラファトの体は大きく飛び上がる。斜面の中腹に着地すると、すぐにまた跳んだ。やはり驚くほど高く飛び上がる。もう一度斜面に降りて、また跳ぶ。その姿は斜面の向こうに消えた。魔術具が靴に仕込んであるのだろう。だから、軽々と着地したのだ。
「ハルダー!」
 グラファトの姿が見えなくなってから、ハルダーはようやく剣を収めた。イフェリカが駆け寄ってくる。彼女のどこにも傷がないのを自分の目で確かめて、安堵の息を吐いた。
「大丈夫ですか」
 イフェリカはひどく心配そうな顔でハルダーを見上げた。そういえば顎が切れたのだった。痛みはさほどなく、血は乾きかけている。
「かすり傷だから大丈夫だよ」
「右腕も……」
「それも大丈夫だ。さすが、キシルが作った義手だよ」
 手首と二の腕部分は斬りつけられてしまったが、二三日もすれば痕はふさがるだろう。義手に組み込まれている薬草や魔術具が、ある程度の傷は直してくれるのだ。
「……よかった」
 ようやくうっすら笑みを浮かべたイフェリカだったが、糸が切れたようにその場にへたり込む。
「どうした、大丈夫か?」
 無傷と思ったが、どこかやられたのだろうか。顔色を変えたハルダーに、イフェリカが微笑む。
「大丈夫です。あなたが無事とわかったら、なんだか腰が抜けてしまって」
 グラファトが退いたからこの程度で済んだが、ハルダーは押され気味で二度も義手を斬られた。生身だったら重傷である。
「……心配をかけたな」
 グラファトとは、必ずまたやり合うことになる。そのときに勝てるだろうか、という不安が胸をよぎった。
 手を貸してイフェリカを立ち上がらせ、街道脇の林に移動する。まだ足下のおぼつかない彼女を適当な場所に座らせ、ハルダーもそのそばに腰を下ろす。休憩してからまだそれほど時間は経っていないのに、ひどく疲れた。
 さっきまで剣を交えていたのが嘘のように静かだった。
「……あの人とは、お知り合いなのですか」
 遠慮がちにイフェリカが口を開く。会話を聞いていれば、初めて会った者同士でないのはわかっただろう。
「知り合いたくなかったけどな」
 ハルダーはため息を吐いた。イフェリカには、グラファトがどういう男か教えておかなければならない。苦い記憶と密接に結びついているから、表情はどうしても険しくなる。
「あいつは、グラファト・ラットレッタ。傭兵だが、暗殺依頼もよく引き受けているらしい。今回も、たぶん」
「私の暗殺を依頼されたのですね」
 手配書が出回ってからしばらく経つし、イフェリカは脅えた様子はなく落ち着いているように見えた。
「おそらく、リューアティン王家でしょう。彼らは、ヴェンレイディール王家の根絶を望んでいますから」
 戦を仕掛けたイフェリカの兄も、彼女の父も弟も、そして母までも、既に亡い。噂では、イフェリカの叔父や従兄弟など、直系に近い一族も軒並み処刑されたという。ヴェンレイディール王家の生き残りは、イフェリカ一人きりだ。
「グラファトは、魔術師殺し、というあだ名がついてる。あいつ自身は魔術師じゃないが、魔術具の扱いが抜群にうまい。それで、今回雇われたんだろう」
 だが、キシルの話によると、イフェリカは今は魔術を使えない。実際、ここまで彼女が魔術を使うところを一度も見ていない。グラファトに攻撃されたときでさえ、イフェリカは魔術で身を守る素振りを見せなかったから、本当に使えないようだ。それをグラファトには知られない方がいい。
「……四年前、ある魔術師の護衛をしていた。彼女も、イフェリカと同じように、自分の国へ戻る道中の護衛として、キシルを介して俺を雇ったんだ」
 懐かしくもあるが、思い出というにはあまりに苦々しい結末を迎えた仕事だった。
 だが、イフェリカには話した方がいいと思った。ハルダーを護衛として雇っている以上、彼女には知る権利がある。
「彼女はリューアティンの宮廷で働いていたが、そこでもめ事に巻き込まれたらしい。詳細は知らないが、命の危険さえあった。ただ、彼女が何か悪いことをしたわけじゃないから、おおっぴらに狙われることはなかった。その代わり、暗殺者に執拗に狙われた。それが、グラファトだ」
 彼女は、異国から来てリューアティンの宮廷で活躍できるほどの実力を持った魔術師だった。ハルダーとともに、自分の命を狙う暗殺者と戦った。だが――。
「彼女も魔術の腕は立つが、グラファトは強かった。俺は最後まで守り切れなかった。彼女は故郷を目前にして、グラファトに殺された。そのとき、俺は右腕も失った」
 袖をまくり、傷口を見る。少しふさがってきている。義手の中に組み込まれている薬草が、斬られたところをふさごうとゆっくりと生長しているのだ。
 腕の傷はふさがり、キシルが義手を作ってくれた。だが、喪失感までは埋められなかった。腕をなくした以上に、彼女を守り切れなかったこと、失ったことがハルダーを打ちのめした。
「……その話は、あなたと会う前にキシルが教えてくれました。暗殺者の名前は知りませんでしたけど」
 驚くハルダーに、イフェリカが申し訳なさそうな笑みを向ける。
 ハルダーにとって苦い記憶だから、ほとんど誰にも話してこなかった。だが、キシルが四年前の件をイフェリカに教えたことに対して、怒りはない。あらかじめ教えておかなければ、イフェリカを危険に晒してしまうかもしれないのだから、キシルを責めるわけにはいかない。驚いたのは――。
「俺が四年前に依頼主を守れなかったのを知っていて、それでも俺に護衛を頼んだのか?」
 もっと腕の立つ傭兵を、と何故キシルに頼まなかったのだろうか。
「キシルが、あなたならきっと大丈夫だと言ったからです。彼女が言うのなら信用できる人なのだろう、と思いました」
 イフェリカはよほどキシルを信頼しているようだ。まあ、そうでなければ、会ったばかりの傭兵と危険を冒して故国へ帰ろうとは思わないだろうが。
「でも今は、私自身が、ハルダーならきっと最後まで守ってくれる、と思っています」
 イフェリカが微笑みかける。
「そうですよね?」
「――ああ」
 つられるように、ハルダーも微笑を浮かべる。キシルほどではないにせよ、出会った頃よりは、ハルダーのことも信頼してくれているらしい。
「俺が守るよ。必ず」
 その信頼を裏切りたくない。同じ轍は二度と踏まない。


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