紅蓮のをつかむ者―03
/ / 目次 / 書庫 / HOME
 森というには疎遠で、林というには近い。そんな木々の連なりが、ずっと道に沿うように広がっている。
 昔は、人がこんな場所へ足を踏み入れようものなら、あっという間に魔物の腹へ収まっていた。隊商など日常的に移動していた人々は、魔滅士や魔術士に守られて旅をしていた。レキが今乗車している乗合馬車のように、護衛も付けずに街の外を出歩くなど、かつては考えられもしない時代だったのだ。そんな時代に比べれば、現在では旅の危険はずっと小さくなり、人々は移動しやすくなった。
 退魔術、と呼ばれる魔物を遠ざけるための魔術の発達がそれに大きく貢献している。退魔術効果を宿した護符を持っていれば、ある程度の身の安全は保証されるようになったからである。護衛の代わりに強力な護符を装備するのが、現在の乗合馬車の常識となっている。
 レキとガリルが乗車している乗合馬車にも、乗客からよく見える位置に、護符が貼ってあった。護符に退魔術の効果を与える拠り所となる文字が、白く細長い紙の上に躍るようにして連なっている。
「あれが気になるのか」
 レキが護符をじっと見ていたことが、隣りに座るガリルは気になったのか小声で言った。
 十六人乗りの車内は満席ではないが、半数以上の席が埋まっている。レキたちは最後尾の席に座っている。前の座席には誰もいないが、斜め前には一人座っている。その人を気にしての小声だろう。あるいは、レキが見ていたのが護符だったからかもしれない。
「ずいぶん強力そうな護符だなと思って」
 護符に書かれた文字は、魔導師たちが操る魔術文字と呼ばれるもので、魔術士であるレキには、護符に書かれた文字の意味を読み解くことはできない。それでも、護符が確かに魔術を発動していることは感じ取れた。
「……だが、魔物は出る時は出る」
 ガリルはちらりと護符を見て、ますます小さな声で言った。
 レキたちが乗車しているような乗合馬車が、魔物の襲撃に遭って次の街へたどり着かなかったという話は、いまだに絶えることがない。魔物はいつの間にか護符に対して耐性を身に付けるので、いずれ更に強力な退魔術効果を宿す護符が必要となってくる。そのうえ、護符の退魔術効果をはねのけてしまうほど魔力の強い魔物に対して、護符はまるで役に立たない。しかし、人々には護符が頼りなのだ。
 レキとガリルは、共に《赤地(せきち)》という魔物討伐隊に所属する魔術士だ。
 魔物退治を生業(なりわい)とする魔滅士の中でも、魔術でもってそれを行う魔滅士は、特に魔術士と呼ばれる。魔術士が自らを魔滅士と名乗ることはほとんどない。魔物がすぐ隣に潜んでいるこの国では、魔物を退治してくれるならば呼び名はどうでもいい問題で、名乗る本人たちの気持ちの問題である。そして、魔滅士と魔術士は、お互いきっちりと呼び分けをしていた。
 魔術士・魔滅士は、一目でそれと分かる身なりをしている。町の外を出歩く者なら誰でも護身用の剣くらいは持っているものだが、防具まで着込んでいるのは魔物と戦う魔滅士たちくらいだ。町の外ではいつでも臨戦態勢をとり、不測の襲撃に備えるている。そして、レキが《赤地》へ入隊してから教わったことだが、同時に魔滅士以外の人々に少しでも安心感を与えるという意味もあった。確かに、魔物に対してほとんど対抗する手段を持たない人々から見れば、いつでも臨戦態勢である魔滅士が側にいることは、心強いに違いない。魔術士となる前のレキも、町中ではあるが武装した魔滅士たちを見かけるたび、魔物に襲われても彼らがいるからきっと大丈夫だと、安堵していた。
 同乗している乗客たちも、魔術士になる前のレキとそれほど変わりない安堵感を抱いているだろう。もっとも、町中と外では、抱く安心の度合いにずいぶんと差があるだろう。それでも、見るからに魔術士――乗客たちは魔滅士と思っているかもしれない――に違いないレキたちが同乗しているということで、乗客たちがいくらか安心しているのは事実だった。彼らの顔を見ればそれが分かるし、馬車に乗り込む時に、いざというときはよろしく頼むと声をかけてきた乗客もいた。そんな彼らが、ガリルの「魔物は出る時は出る」という言葉を聞けば、不安になることは間違いない。
 しかし幸いなことに、護符のおかげなのか今のところ魔物に遭遇することなく、馬車は順調に目的地を目指して走り続けている。気休めではなく確かに効果があるように思える護符を見ても、レキはガリルのように「出る時は出る」と言うことができない。
 それが、レキとガリルの、魔術士としての経験の差なのだろう。
 五年前、レキの兄の葬儀で初めて出会った時、ガリルは既に魔術士になって数年を経ていた。今ではガリルの魔術士歴は十年近くになり、最近正式な魔術士と認められたばかりのレキとは、経験値がまるで違う。レキとガリルは魔物討伐をする上での相方同士であるが、ガリルは相方というよりは、まだ経験の浅いレキの師匠といった感が強いし、否めない。任務先へ向かう馬車の手配さえ、手慣れているということでガリルがいつもやっている。討伐の進め方もそうだ。ガリルが指示を出し、レキは指示された通りに動いて討伐をする。ガリルのやることなすことを、とりあえずはすべて見て憶えている最中という状態なのだ。
 魔物は出る時は出るのだと言うガリルの言葉は、護符に頼るなと暗に言っているようにも聞こえた。それくらいはレキも言われずとも分かっているつもりだが、護符のおかげで魔物に出くわさないのであれば、それに越したことはないとも思うのだ。
 レキとて腐っても魔術士。いざというときには、乗客を守るために全力で魔物と戦うつもりでいる。しかしそれでも、魔物が現れないのであれば、それはそれで構わないのではないだろうか。魔物の姿を見るだけで、普通は恐れおののいてしまう。護符があって魔術士がいて、身の安全が保証されていたとしても、魔物の襲撃に遭えば、結局人々は魔物に怯えるだろう。それくらいに、魔物に対する恐怖心は人々に根付いている。
 それくらいに、この国には魔物がはびこり、人を襲う。
 身内や知り合いが、魔物に殺されたという経験を持たない者の方が、圧倒的に少ないのだ。そんな国に生まれて、近しい肉親を亡くし、そして魔術士になる素養――魔力を持っているならば、魔術士という生き方を選ぶのはごく自然のことだった。レキは、自分のように肉親を亡くす人を減らすため、ひいては人々を守るために、魔術士となることを決意した。身内を失う悲しみを知っているからこそ、自分と同じ思いをする人を、同じ思いをする回数をなくしたいと思ったのだ。自分には、それを可能にするだけの力、魔力があるのだから。しかし、護符の認識ひとつとっても、ガリルとの差は歴然としている。
 ガリルほどの魔術士ともなれば、その存在自体が護符のようなものである。魔術士の扱う魔術は魔物退治に特化したものだから、いくら魔術士としての経験があっても退魔術は使えないだろうが、襲いかかってくる魔物を退ける、確かな力はあるのだ。レキが全力で立ち向かっても敵うかどうか怪しい魔物も、ガリルならばそれほど多くの苦労を払うことなく退治してのける。ガリルは知識も経験もレキより勝り、そして単純に強い。レキよりもずっと強い。そんなガリルならば、護符をあてにしないのは当然のことなのかもしれず、そんなガリルに及ばないレキは、護符をあてにするのかもしれない。
 それでも、レキの存在もまた、間違いなく乗客に安堵を与えているのだ。
 レキの未熟さなど乗客は知らないし、関係もない。魔物を倒す者。それだけが、彼らにとっては重要なのだ。彼らにとって、経験の浅い、自分たちを守る力のない魔術士は、あってはならないのだ。それを思うと、確かに護符ばかりをあてにしていてはいけない。いざ魔物が現れた時、護符はもはや何の役にも立たないのだから。
 レキは護符から目を離し、車内を見回した。誰もが口数は少なく、車内はしんとしている。魔物が現れたら、ガリルと二人で、彼らを守らなければならないのだ。
 守りきれるだろうかという不安が、頭をよぎる。しかし、それをすぐに振り払う。乗客はそれを期待しているのだ。レキの経験など関係なく、魔術士にその役割をまっとうすることを求めてくる。
 それに応えられるほどの力があるかと問われれば、レキは十分には応えられないと言うだろう。絶対に大丈夫だと、うぬぼれた答えが口にできるほどの実力は、まだレキにはないのだ。頼りないと思われるかもしれないが、自分の今の実力がどれくらいのものなのか、客観的に把握しておく必要はある。自己を過大評価することで、かえって状況の悪化を招く可能性は否定できない。しかし、それを言い訳にはしたくなかった。自分が弱いから守れなかったと、言いたくはなかった。
 強くなりたい。
 車内から窓の外に視線を転じる。馬車は軽快に走り続け、開けた窓から入ってくる風は土と木々のにおいをわずかに含んでいて爽やかだ。けれど、魔物がいつ現れるか分からない緊張の下にある人々の雰囲気は、風の爽やかさをもってしても、明るくはなることはない。護符があって魔術士がいても、これが現実だ。
 強くなりたいと思ったのだ。魔物の襲撃に怯える乗客を全員守れるくらい。人々を脅かす魔物という存在を、もっと減らすことができるように。人々が、魔物に怯えず生きていける国にするために。
 そのためには今よりももっと、今よりもずっと、強くならなければならない。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 目的地までの道のりが残すところ三分の一くらいになった頃、乗合馬車の向かいから近づいてくる馬の蹄の音が、開け放たれた窓から飛び込んできた。レキが窓から顔を出してのぞいてみると、こちらを目指して走る馬が見えた。
 その馬に騎乗するのは男で、どう見ても恐怖に引きつられた顔をしているのが視認できる距離まで近付いた時、男は馬を走らせたまま口に手を当てて大声で言った。
「引き返した方がいい。この先で、魔物が出たぞ!」
 乗合馬車の向かう先から馬を走らせてきたのは、商人のような出で立ちをした男だった。しかし、彼が騎乗する馬には鞍しか付いておらず、それ以外には荷物も何もない。男の顔色は真っ青だが興奮しているのが見て分かる。彼が騎乗する馬もまた、興奮しているように見えた。
 よく見ると、馬の胴体には血が付いていた。しかし馬自身は元気に走っていたし、見える範囲に傷はない。するとあの血の持ち主はあの馬以外の馬の血か、それとも人の血か。とにかく、既に魔物は襲撃を始めているらしい。馬に乗った男は、それで役目は終わったとばかりに馬を走らせ逃げていった。
「お聞きの通り、今すぐ引き返します」
 御者台と車内の間にある小窓を開けて、御者が客に告げた。車内がにわかに騒然となる。誰もが不安な表情を浮かべてはいるものの、魔物が出たというのはまだこの先の道の方だから、怯えている様子はない。あの商人がここまで逃げられたのだから、この馬車は今すぐここで引き返せば十分に魔物から逃げられる。何より、この馬車にはレキたち魔術士が同乗しているのだ。
 だが、魔物が出て、しかも誰かが既に襲われているのだとしたら――
「ガリルさん」
 レキが呼ぶよりも早く、ガリルは席から立ち上がって小窓を叩いていた。
「俺たちはここで降りる。止めてくれ」
 馬車を方向転換させ始めていた御者だけでなく、ほかの乗客たちもぎょっとしてガリルを見た。
「魔物に襲われちゃいますよ」
「俺たちは魔術士だ。ここで下ろしてくれ」
 魔術士として放っておくわけにはいかない。たとえ馬車を降りることになっても、目の前の惨事を見捨てて行くようでは魔術士ではないのだ。
 魔術士や魔滅士がそういう人種だと分かっていても、自分の馬車に乗っていれば乗客である魔術士たちを置いて逃げるというのは、乗客を守る立場にある御者はためらうのだろう。その上魔物が出たと聞いた今となっては、魔術士に同乗してもらっていた方が、御者自身も乗客たちもより安心できるに違いない。
 しかし、出たと分かった魔物を放置するわけにはいかないのだ。それを分かっている御者の迷いは、そう長くなかった。
 一旦止めてもらった馬車から、荷物を持ってレキとガリルは降りた。
「一刻も早く逃げるんだ」
「お客さんたちも、ご無事で」
 御者は心底心配そうな表情で、来た道を急いで戻っていった。

TOP / / / 目次 / 書庫 / HOME