紅蓮のをつかむ者―02
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 はぐれてしまった。
 闇夜の中、彼女は必死に目を凝らして見回したが、仲間の姿はおろか、気配さえ見つけることはできなかった。はぐれてしまったのだという焦りに、激痛が追い打ちをかける。
 利き腕である右腕には浅くない裂傷。左の足首は捻挫とまではいかないまでも、満足に走ることはできない痛みを訴えている。こけた拍子に運悪く木の枝が引っ掛かり、額には血が流れるほどの擦り傷を負ってしまった。あと少しで右目を傷付けるところだったと思うとぞっとするが、それ以上に自分が血を流していることがどうしようもなく不安だった。
 恐怖と言ってもいい。いつ、奴らに襲われて喰われてしまうか分からない、恐怖。
 怪我の痛みよりも、自分が血を流していることと、それなのに仲間とはぐれていることが、彼女の恐怖を煽る。
 自分が魔術士だったらどんなに良かっただろう。
 魔術士。身の内に魔力を宿す人間たち。彼らは、呪文を唱えるだけでいい。それだけで、目に見えない刃を、あるいは炎を、あるいは身を守る盾を生み出すことができる。今の彼女のような重傷を負っていても、口さえ動くのであれば、魔術士は身を守ることも攻撃することも可能なのだ。
 同じ魔物退治をする者同士でありながら、なんという大きな差なのだろう。しかし、今そんなことをひがんでも何の役にも立たない。彼女に魔力はなく、どんなに望んだところで魔術士にはなれないのだ。魔術を使えない者は使えない者なりに、身を守るしかない。
 彼女は左足を引きずりながら、巨木の影に身を潜めた。闇に目が慣れているとはいえ、人は昼間を生きる生き物。闇夜を生きる時間と決める、人間とは違う生き物たちほど夜目が利くはずもない。物をはっきりと見ることのできない夜を、今ほど恐ろしく思ったことはなかった。
 喰われてしまう――この国に生まれた者なら誰もが抱えている漠然とした恐怖が、闇の中で実体を持ったように彼女に取り憑き、その心をすっぽりと余すところなく覆い尽くしていた。


 魔力を持つ生き物を総称して、魔物という。人々にとって厄介な隣人。決して共生はできない危険な生き物。
 すべてが、と言い切ることはできないが、魔物は人を襲う。生きるために、喰らうために襲うのだ。人が、生きるために家畜を殺して食べているように。
 しかしだからといって、魔物に蹂躙されることを、人はよしとしない。人は生きるために家畜を食べるように、やはり生きるために魔物と戦ってきた。そうしなければ人はたやすく食い尽くされてしまうほどに、この国には魔物が溢れている。
 かつて、魔物に喰われた人の血で、大地が赤く染まっていたというのは、誇張ではない。紛れもない事実である。街の外で適当に地面に穴を掘れば、人骨が見つかる。魔物の襲撃を受け、ひとつの村が壊滅したという話は珍しくない。身内や友人知人が魔物に襲われて死んだという、悲しい経験を持たない者を捜し出す方が難しい。

 ここは、そんな国だ。

 そして今、彼女自身の血が大地を赤く染めようとしていた。
 彼女は、魔物を討伐する魔滅士だ。魔術士ではないが、魔物を狩る側に立つ者であり、狩られる側、襲われる側に立つ者ではなかった。
 しかし、一瞬の隙をつかれて怪我を負い、いつの間にか仲間とはぐれてしまった。満足に戦えないいまま、彼女は魔物に狩られる立場に身を落としていた。仲間と共に魔物と戦い、生き抜いてくることができただけに、自分を守ることも仲間に守られることもできないこの状況が怖い。怖くて仕方がなかった。
 今ここで魔物が現れたら、いったいどれだけ抵抗することができるだろうか。剣さえまともに扱えるかも怪しい今の状態で――
 彼女は想像し、背筋が寒くなる。そして、想像したことを悔やんだ。利き腕がろくに使えない今の状態では、わざわざ想像などしなくても、どうなるか分かっている。彼女はその想像を、頭から追い出そうとした。
 しかし、月の光さえない夜の森は、その闇の中に恐怖を潜ませている。それが、彼女に不吉なことを想像させ、魔物よりも先に彼女の心を喰らおうとしていた。
 今、彼女がいる場所は、街からそう遠く離れてはいないだろう。しかし、肝心の街がどちらにあるのかさえ分からないのでは、うかつに動くことができない。下手に歩けば、森の更に奥へ行きかねない。怪我をしているというのに動けば、出血はなかなか治まらないだろう。それに、移動すれば血の臭い森中に振りまくことになる。臭いを嗅ぎつけ、彼女の存在に気付く魔物の数は増えるだろう。しかし一カ所に留まり続ければ、存在だけでなく、彼女の居場所を教えていることになる。
 だが、彼女は動かないことを選んだ。多くの魔物に手負いの自分の存在を知られ、そのうえ森の奥へ迷い込んでしまうよりは、数少ない――とは限らないが――魔物に居場所を知られる方が、まだましだと思ったのだ。
 心に恐怖や不安を植え付け喰らおうとする闇夜に身を浸し、心を静めるためにできる限りゆっくりと深く呼吸する。早く夜が明け、仲間が自分を見つけてくれることだけを願った。それ以外の余計な、不吉な想像などする隙間もないくらい、彼女はひたすら木の陰で祈り続けた。
 額の傷の出血は止まっている。しかし、右腕の傷の出血は完全には止まっていない。そして、失血した量は自分で思っている以上に多かったのだろうか。寒気に襲われ、気を抜くと意識が遠退きそうになるのを、傷の痛みが引き留める。それがいいのか悪いのか分からないが、意識を保つことができるのはありがたかった。
 しかし、朝はなかなか訪れない。世界中の時の流れが緩慢になってしまったかのように、闇はいつまでも闇のままだった。普段は意識しない、瞬きの動きを意識してしまう。瞬く回数を増やせば早く朝が訪れるような気がして、彼女はせわしなくまぶたを上下させた。
 生き物の気配を感じたのは、その時だった。彼女は瞬きをぴたりとやめ、あたりの様子をうかがった。一度は収まりかけていた、喰われてしまうという恐怖が一気に甦る。この気配は、仲間や普通の動物のものではなかった。
「魔物……」
 口から出てすぐに闇の中へ溶ける声。当然、彼女の声に応える者はない。それで、彼女の孤独感が増してしまった。彼女は右腕の痛みと共にそれをこらえ、そっと剣を抜く。
 手が震えていることが、自分でも分かった。怪我の痛みで、手に力が入らず柄を握るのがやっと。出血はかなり治まったが、剣を振ればすぐにまた、どくどくと血があふれ出すだろう。
 左足の痛みもまだ引いていない。朝が来る前に回復する見込みはまったくない。魔物から走って逃げるのは不可能だ。立ち向かうしかない。けれど、今の状態でまともに立ち向かえるとも思えない。意識しないようにしていたあの不吉な想像が、頭をよぎった。
 それを振り払うように、彼女は左手で剣を持ち直した。これでどれ程、自分を取り囲む状況が改善したかと言えば、気休め程度でしかない。どちらにしろ、左足が痛むのでは、足を踏ん張ることはできない。だが、怪我をした右腕で剣を持つよりはましだった。
 こちらの様子をうかがうように、魔物が下草を踏む音がゆっくりと近付いてきている。
 喰われてしまう。
 魔物に襲われる人は、仕事柄、何度も目にしたことがある。
 逃げ惑う人を、凶悪なあごや爪でいとも簡単に捕らえる魔物。これから自分に襲い掛かる運命を否応なく自覚し、人々は絶望を声にして叫ぶ。そのときの、恐怖以外の何も見出せない彼らの顔――
 自分も、あんな最期を迎えなければいけないのか。意識せず、振り払ったはずの想像が、足音を聞くたびに膨れはじめる。どれだけ不吉でも、それまではあくまで単なる想像だったのに、足音が現実感を与える。
「死にたくなんかない……」
 喰われるという恐怖よりも強く、そう思った。応える者がいなくても、今度は孤独感は感じない。そんな余裕さえ彼女には残っていない。
 草を踏みしめる音がゆっくりと近付いてくる。足音が与える現実感に反発するかのように、彼女の心が叫んでいた。
 死にたくない。死にたくない。
 闇の中に、彼女の生を終わらせるであろうものの輪郭が現れる。柄を握る左手に、力が入る。
 死にたくない。
 喰われてしまうという恐怖よりも強い生への執着を叫び、彼女は魔物に向かって剣を突き出していた。

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