紅蓮のをつかむ者―01
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 この大地は、かつて赤く染まっていた。
 人間の血を吸い、大地は赤く染まっていた。

 そして今、大地は魔物の血で赤く染まろうとしていた。
 
 染め上げるのだ。
 かつて人の血で、魔物たちがそうしたように。
 今度は魔物の血で、大地を赤く染め上げるのだ。
 
 守るために。
 失わないために。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 葬儀は何の滞りもなく、ひっそりと終わった。参列した親類たちは、言葉少なに墓の前から去っていく。重苦しい雰囲気と同じくらい重く進まぬ足を、無理矢理動かしているようだった。まるで、墓の下に眠る故人を忘れるために、この場所から去らなければならない義務感に突き動かされているようだ。
 レキは真新しい墓標を見た。その下には、空の棺が埋まっている。それしかない。それだけしか、そこにはない。この墓標の下には誰もいないのだ。それでも葬儀は行われ、人々は嘆き悲しんだ。葬儀の間中、レキは大声で言いたくて仕方がなかった。
 お兄ちゃんは死んでない、と。今でも、去りゆく親類たちにそう言いたかった。
 空の棺にすがって泣く母。黙って悲しみに耐える父。生前の兄の活躍を讃え、その死を惜しむ親類たち。
 遺体もないのに、みんな兄は死んだと決めつけて、嘆いていた。そんなおかしなことはないではないか。兄が死んだという証拠は何処にもないのに、みんな疑うことをしないのだ。
 魔物討伐という危険な仕事をしていた兄が、生きて帰ってくるかどうかをレキと共に毎日心配していた両親でさえ、兄が見つからないからといって、その死を信じ切っている。どうして彼らは、レキと同じように兄がどこかで生きている可能性を信じないのだろうか。レキにはそれが不思議でならず、空の棺を囲んで行われた葬儀は、なんだか真剣にままごとをやっているようで白々しかった。
 親類も両親も既に家へと引き上げたが、レキは彼らにはついていかず、ひとり墓の前に残っていた。兄の死を信じている彼らとこれ以上一緒にいたら、本当に大声を上げて暴れ出しそうだったからだ。
 レキはふてくされた顔で、墓標に刻まれた名前を見た。刻まれた名が、兄の死を認めろと迫っているように思えてならず、レキはそれを消してしまいたかった。
「戻らないのか?」
 墓標に刻まれた真新しい兄の名前を消せるわけもないのに、レキが指を伸ばそうとした時、頭の上から男の声が降ってきた。レキが伸ばしかけた手を引っ込めて振り返ると、一人の若い男がレキを見下ろすようにして立っていた。
 葬儀に参列していた、数少ない部外者の一人だ。レキは彼のことを知らないが、彼は兄とは親しい間柄らしく、兄の名前だけが記された空の棺を運んできた。両親には自己紹介をしていたようだが、その時レキはその場にいなかったし、彼が名前で呼ばれる場面も見かけていないので、いまだに名前を知らなかった。
 彼もまた、親類たちと共に引き上げたと思っていたが、こうして残っているところを見ると、レキと同じように兄の生を信じているのだろうか。もしそうだとすれば、両親や親類たちよりもずっと、この男に親近感を覚える。
「もうしばらくは、ここにいたいんです」
 レキは名前を知らない男を見た。兄より年は若いが、背の高さは兄と同じくらいあるから、見上げる形になってしまう。
「君が、レキだね」
 レキ以外にも、親戚の中に同じ年頃の女の子はいたが、レキは兄とよく似ていると評判だから、一目で分かったのだろう。レキは彼の名前を知らないが、兄から聞いたのか、それとも両親から聞いたのか、彼は確かめるようにしてレキの名を呼んだ。
「俺は、ガリル・カウム。お兄さんの後輩だよ」
 ガリルはレキの目線の高さに合わせるように、しゃがんだ。レキを安心させようと穏やかな表情を浮かべているが、それがどことなくぎこちなく見えるのは、レキのような幼い子供に接することに慣れていないのか、あるいは別の感情をその下に隠しているためなのかもしれない。
「家に帰らないとご両親が心配するし、風が出てきたから身体が冷える。戻ろう」
 ほら、とガリルが手を差し伸べる。
「まだ戻りたくない」
 レキは、差し出された手を拒否するように自分の両手を身体の後ろに回した。今は、両親とも顔を合わせたくなかった。
「お兄さんのそばから離れたくない気持ちは分かるよ。だけど、いつまでもここにいるわけにはいかないだろう」
 ガリルの声は優しい響きだったが、その言葉を聞いたレキの中から、ガリルに対して抱いていた親近感が一気に消え失せていった。できる限りきつい眼差しを、ガリルに向ける。
 ガリルが軽く驚いた顔で、レキを見返した。睨まれた理由が分からないらしい。
 彼もまた、両親や親類と同じだったのだ。兄の遺体も入っていない空の棺が焼いて埋められ、名前だけが刻まれた墓標の立つこの場所に、兄がいると言うのだ。兄は死んで、ここにいると。
「お兄ちゃんは、死んでなんかない」
 レキはガリルを睨んだまま、とうとうその言葉を口にした。我慢に我慢を重ねて飲み込んでいたが、兄の知人とはいえレキにとっては見ず知らずの人間であるガリルにまで、兄は死んだのだと言われては、これ以上我慢することができなかった。
「レキ……」
 ガリルの顔に困惑が浮かぶ。レキがこんなことを言い出すとは、思いもよらなかったのだろう。差し出されたガリルの手は、行き場をなくしたままだ。
「どうして、お兄ちゃんの身体もないのに、死んでるなんて言えるの。どこかで生きてるって、どうして誰も思わないの」
 後ろに回していた手で、いつの間にか服の裾を握りしめていた。
「帰りたくても帰ってこれないだけかもしれないじゃない。それなのに、どうしてみんな、お兄ちゃんは死んだなんて言うの」
 溜めに溜めていた怒りをようやく吐露したというのに、声は途中から涙声に変わっていた。兄が死んだと決まったわけではないから悲しいことはないはずなのに、涙がこぼれていた。
 誰も兄が生きていることを信じていないから、それが悔しくて涙が出るのだと、自分に言い聞かせ、レキは声を上げる。
「お兄ちゃんは、いつでも生きて帰ってきてたもん。お兄ちゃんが、死ぬわけない。絶対にどこかで生きてる」
 悔しくて涙が出ているはずなのに、何故か気持ちは悲しかった。兄は生きていると主張すればするほど、悲しみで胸が覆われていく。
「レキ……君のお兄さんは、死んだんだ」
 ガリルが痛みを堪えるような面持ちで、レキの言葉を真っ向から否定した。レキがこれだけ言っても少しも信じてくれないのは悔しかったが、レキの心の中にある冷静な部分が、黙ってガリルの声を聞いていた。
「否定したい気持ちは分かる。だけど、それを認めて乗り越えて、人は生きていくんだ」
 行き場をなくしていたガリルの手は、ようやくその役目を見つけたように、レキの頭を優しくなでた。ガリルの言葉はレキの思いを否定するものだが、その大きな手は温かかった。
「でも、お兄ちゃんが死んだって認めてしまうのは、つらい……」
 こうして頭をなでられると、兄からも同じことをよくやってもらっていたことを思い出してしまい、ますます涙がこみ上げてくる。二度と兄にこうしてもらうことはないから、と悲しんでいるようで嫌だったが、頭のどこかで分かっていた。
 兄はきっと、死んでしまったのだと。
 自分はその事実を受け入れたくないだけなのだと。
「誰だって、親しい人の死は辛いよ。だけど、その辛さは、どれだけその人のことが大事だったのかという証だ。その気持ちを忘れずに、これからを生きていけばいい。お兄さんは死んでしまっても、お兄さんとの思い出までなくなるわけじゃないんだ」
 それまで沈痛な面持ちだったガリルの表情が、ぎこちなさのない紛れもなく優しい表情へと変わる。レキは小さく何度も、彼の言葉に頷いていた。
 頑なに事実の受け入れを拒んでいたレキの心に、その言葉と表情が染み込んでいき、凝り固まっていたものが、涙に姿を変えて目頭からこぼれ落ちていった。
「ガリルさん。わたし……」
 兄を失ってしまったという喪失感を埋めるかのように、レキの中にひとつの決意が生まれていた。
 レキは涙をぬぐい、真っ赤になった目でガリルを見つめた。

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