第三章 01
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 西の空が赤く色づく頃、詰め所に戻った。《獣》に遭遇した、その報告をする前に、カシュラルは否応なく現実を突きつけられた。
 ジェフテスの遺品を引き取りに来た彼の妻が、いたのだ。カシュラルが解き放った魔物に夫が殺されたことを知らない彼女は、必ず仇を取ってくれと涙をこらえて言い残し、遺品と共に帰っていった。腕には、まだ首が据わっていない赤ん坊を抱いて。
 あの子は父の顔を知らないまま大きくなる。
 彼女が帰った後の、ナサシアの刺すような視線が痛かった。
 でも、許してほしいとは思わない。彼らを哀れんで泣く資格さえ、カシュラルにはない。
 これが、自分のしたことの結果なのだ。
 宿に戻ったカシュラルは、自室にこもっていた。
 泣いてはいけないのに、枕に顔を押しつけても涙は止まらず、染みこんでいく。声を押し殺しても、自分の中にいやでも響く。
 半分以上が消えてなくなった家屋。
 冬を越すための穀物をすべて奪われた農村。
 目の前で恋人が食べられてしまったと泣き叫ぶ女。
 父の顔を、あるいは母の顔を知らない子供たち。
 剣と共に飲み込まれた仲間の仇を討つため、雄叫びを上げ立ち向かう魔術師――。
 そんな人たちを、イヴは数え切れないほど見てきた。生き残った人々に思いを託され、《獣》を追い詰めていった。
 なのにどうして、忘れてしまったのだろう。《獣》の猛威に遭った人たちの恐怖や悲しみを胸に刻みつけてきたはずなのに、それがイヴを動かす力となっていたはずなのに。
 《獣》を封印して、何もかもが変わってしまったのだ。英雄と称えられたイヴとヴァンドールは、やがて新たな脅威として人々に追われることとなった。《獣》の脅威がなくなり、その時の記憶や恐怖が薄れていったから、あるいは思い出したくないこととしてふたをしてしまったから、そうなったのだ。
 だけど《獣》が猛威を振るった時のことを忘れた、あるいは過去に置き去りにしたのはイヴも同じだ。英雄から一転、追われる立場になってヴァンドールとも生き別れ、自分の運命は歪んでしまったと嘆いた。
 歪んだのは運命などではない。イヴ自身が、歪んでしまったのだ。自分の気持ちを信じられず、ヴァンドールの言葉も信じ切れず、何もなかった時に戻るのだと、最愛の男を手にかけ続けた。どうして今の自分があるのか、そこに至った経緯などすっかり忘れて、カシュラルは自分のためだけに災厄にも等しい存在を解き放ってしまった。
 《獣》の痕跡をたどる間、人を襲った形跡はなかったから油断していた。たまたまなかっただけで、《獣》はいつでも人を襲えたのだ。犠牲が出て、取り返しのつかないことになってから悔やんでも遅すぎる。
 エムクドは、自分にも責任があると言ったけれど、カシュラルが封印を解かなければ、ジェフテスが死ぬことはなかっただろう。
 どうして何もかも、カシュラルは――イヴである自分は、気がつくのが遅いのだろう。自分の気持ちを素直に認め、ヴァンドールの言葉を信じていれば、こんなことにはならなかった。消滅寸前だから封印を解こうと思うこともなかった。
 これ以上、気がつくのが遅かったとか、手遅れだったとかいうことは許されない。ヴァンドールへの思いがとか心の在処がとか、そんな甘えたことを言っている場合ではない。
 《獣》は必ず倒す。この身と引き替えにしてでも、今度こそ必ず消滅させる。

    ●

 ガエリア近くで《獣》と遭遇してから五日が経った。カシュラルたちは毎日のように城壁の外へ出ていた。結界からも出て、ギーディスの感覚を頼りに《獣》の居場所を突き止めようとしているのだ。
 あれ以来、《獣》は姿を見せない。近づくことさえしていないようで、ギーディスが何かを感じ取ることも今のところなかった。もっとも、カシュラルたちが探索しているのは、第二分団の担当区域内であるガエリアの西側だけ。それ以外の場所には、他の分団との兼ね合いや、カシュラルとエムクドが、ルフトの独断で協力していることもあり、ずかずかと入り込めない。
 五日前は同僚の襲われた現場を見るという口実があったから、第四分団の担当区域であっても堂々と足を踏み入れることができた。
 そこで《獣》と遭遇したと報告を受けたルフトが、それを他の分団に知らせないわけにはいかない。ギーディスを狙っている魔物だとまでは知らせていないそうだけど、魔物が出たとなれば、その区域を担当する分団が躍起になって探すので、カシュラルたちはますますうかつに入ることはできなかった。
「責任感が強いせいなのか、変に縄張り意識があるんだよ」
 《獣》と遭遇した近辺から手がかりとなるものを探してみようと提案したら、肩をすくめギーディスがそう言った。
「魔術師はことさら強い気がするわね。結界の補修とかがあるから」
「俺は、魔物から人と街を守れるなら、縄張りとかどうでもいいけどね」
 ギーディスは縄張り意識が薄いようだし、ナサシアも魔術師ではあるものの強くはなさそうだ。
「それならぼくとカシュラルで、北側に行こうか?」
 カシュラルとエムクドは警備団の制服は着ていない。一見すればガエリアの住人か、そこを訪れた旅人だけど、そんな人間が結界の外にある雑木林をうろついているところを第四分団の人に見つかったら、それはそれで厄介なことになりそうだ。それに、二手に分かれて行動している時に《獣》がギーディスに襲いかかったら――。
「いえ、四人一緒の方がいいわ。いつまた《獣》が現れるかわからないから」
「でも、わたしたちも魔術師よ」
「俺は、一応、がつくけどな」
 ギーディスは気にした風のない口調だったけど、ナサシアは少々剣呑な声だった。
 彼女には悪いけれど、ナサシアの腕前では《獣》には太刀打ちできない。ナサシアよりも魔術の腕が劣るギーディスは言うまでもない。ギーディスはそれをわかっているようだけれど。
「《獣》は魔術も喰らう。君も見ただろう」
「……そうね」
 エムクドに言われ、ナサシアはあっさり退いた。《獣》と直接対峙したのだから、彼女もわかっていないわけがないのだ。カシュラルの言葉に素直に頷くのがいやだったのだろう。
 ナサシアが、カシュラルを気に入っていないのはわかっている。たぶん最初に会った時から、いけ好かないと思っていたはずだ。ナサシアを見ていれば、彼女がギーディスを好いているのはすぐにわかる。カシュラルは、生まれる前からギーディスと因縁浅からぬ関係があると言って突然現れたのだ。カシュラルがギーディスに抱きついた時、気がつかなかったけれどナサシアもその場にいたらしい。ならばカシュラルが気にくわなくて当然だ。まして、ジェフテスが殺される原因を作ったのもカシュラルとなれば。
 カシュラルの視線に気づいたのか、ナサシアがこちらを向く。目元には険があり、カシュラルはそっと目をそらした。
 許しを請うつもりはない。自分のしたことは、今までのことすべてをひっくるめて許されざることだから。


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