第二章 08
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 獣のようにうめくことはあっても、魔物は人の言葉は話さない。《獣》もそうだ。ずっと昔、今より遙かに大きな体の時でも、この魔物は人の言葉など話さず、恐ろしげな声で吠えていた。
「外の空気に冷たい地面……なにもかもが泣けてくるほど久し振りだなぁ」
 魔物は赤い瞳を、まっすぐにカシュラルに向ける。
「しゃべ……るなんて……」
 消滅寸前まで弱っていたはずなのに、何故今になって人語を操るのか。頭の中が真っ白になる。
「久しいなぁ、イヴ。つるむ男を変えたのか? そいつはヴァンドールではなかろう」
「ど……して……」
 イヴの名も、ヴァンドールの名も《獣》が知っているのか。いや、これを長い間追っていたのだから、名は知っていたのかもしれない。それより何故しゃべれるようになったのか、その方が問題だった。《獣》は弱っているように見せかけて、実はそうではなかったのかもしれないのだ。
「どうしても何も」
 表情はほとんど変わっていないように見えるけれど、声の調子で嗤っているのだとわかった。
「おれは長い間おまえの魂と共にあったのだ。言葉くらい、覚える」
 頭を殴られたようだった。共にあって、影響を受けてきたのはカシュラルだけではなかったのだ。《獣》もまた、カシュラルの、イヴの魂の影響を受けていてもおかしくはなかったのだ。自分のことばかりに意識が向いていて、そんな単純なことに気がつかなかった。
「カシュラル!」
 呆然とするカシュラルの肩をつかんで下がらせ、エムクドが魔術を放つ。暴力的な風と炎が《獣》に襲いかかる。しかし、《獣》は避けもせず、口を大きく開けた。
 いけない、と思ったが遅すぎた。《獣》の体を包み込むはずだった風と炎は、魔物の毛の一筋も揺らさず焦がさず、その口に吸い込まれた。
 これにはエムクドも言葉をなくす。
 《獣》は食べ物を咀嚼するように口を動かして嚥下すると、満足げに息を吐いた。
「悪くない味だ。ちと、薄いがな」
 口の中で赤い舌がちろちろとうごめく。心なしか、《獣》の体がさっきより少し大きくなったように見える。魔術さえ喰らう悪食の魔物は、腹に収めたものをすべて体の大きさと強靱さに変える。明瞭単純な能力だが、それだけに厄介でもある。奴は食べた分だけ、大きく強くなるのだから。
「――逃がさないわ!」
 鋭く言い、カシュラルは右手の五指から魔力の糸を延ばした。
 《獣》は地面を蹴り迫り来る糸を避ける。
 小屋は狭く、扉の前にはカシュラルとエムクドがいる。そこから逃げるのは無理と、《獣》もわかっているようだった。
 もっとも、結界があるから、扉に体当たりしたところで、今の力では外に出られないはず。《獣》の悪食は脅威ではあるが、その口に入る大きさでなければ食べられないのだ。小屋そのものが今は結界となっていて、《獣》は若干大きくなったとは言ってもまだ子犬程度。結界を飲み込むのは無理だろう。
 カシュラルは糸を操り、《獣》を小屋の隅へ追い詰めていく。口を縛り上げれば、魔術を食べられる心配がなくなる。
 とうとう《獣》は小屋の隅まで追い込まれ、逃げ場がなくなった。口だけでなく全身を縛り上げようと、カシュラルは左手からも魔力の糸を出した。
「イヴ。ヴァンドールは見つけたのか」
 追い詰められているはずなのに、《獣》の声に焦りはなかった。カシュラルの指がわずかに動く。
「カシュラル。聞くな」
 魔術を放てば《獣》に喰われてしまうから、見ていることしかできないエムクドが言った。
「わかっ――」
「まだだろう。近くに片割れがいるのを感じぬ。だがまあすぐに見つけられる。おれは、な。おまえはどうだろうなあ、イヴ」
 《獣》が嗤った。
 カシュラルはまなじりをつり上げ、十本の糸に魔力を流し込む。糸が四方八方から《獣》に押し寄せる。《獣》は再び地面を蹴って、壁を一気に駆け上った。糸がそれに追いすがる。一本が、《獣》の短い尾をつかみかける。が、それより早く、《獣》の顎が、腐りかけた梁を噛み砕いた。大して咀嚼せずそれを飲み下した《獣》は、空いた穴をとっかかりにして、屋根板に食らいつく。そこにも結界はあったのに、《獣》は屋根板と一緒に結界を引き剥がした。
「まずい!」
 エムクドが焦った声で言い、すぐさま追撃の魔術を放った。《獣》はこちらに背中を見せている。しかし、エムクドが放った炎の矢を避けると同時に、穴から外へ飛び出した。
「ヴァンドールごと喰らえば、おれは一つに戻れる」
 《獣》がわざわざ穴から顔をのぞかせて言った。舌打ちして、エムクドがまた炎の矢を放つ。しかし、《獣》がすぐに顔を引っ込めたので、矢はむなしく宙を切り裂いて飛んでいき、霧散しただけだった。
 カシュラルは小屋から飛び出した。《獣》が屋根を軽やかに走る音が聞こえる。急いで入り口の反対側に回り込むと、地面に降り立った《獣》が、まるで待ちかまえるように、いた。
「封印を解いてくれてありがとうよ、イヴ」
 そしてさもおかしげに嗤った。奥歯を噛みしめ、カシュラルは糸を放つ。しかし、《獣》は脱兎のごとく地を蹴って駆け出した。自在に操れる糸でも、追いつけない。《獣》は中庭を駆け抜け、その勢いのまま館の壁を駆け上り、屋根の向こうへ消えていった。
「……ヴァンドール」
 顔から血の気が引く。自分は、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
「逃げられた……」
 小屋を出てきたエムクドが、《獣》の消えた方角を見て、悔しげに言う。
「カシュラル!?」
 駆け出したカシュラルの背に、エムクドの驚いた声が届く。
「どこへ行くんだ!」
 あっさり追いつかれ、腕を掴まれた。
「追うのよ。あいつを逃がしてしまった。このままじゃヴァンドールが」
 カシュラルはその手を振り解こうとするけれど、エムクドは離そうとしない。
「すぐに追わないと。離して、エムクド!」
「落ち着いてくれよ、カシュラル。追うと言っても、当ては? ヴァンドールがどこにいるのかわかってるの?」
「どこに――」
 胸が詰まって息が苦しい。空気を吸い込んでも、喉がひゅうひゅうと鳴るだけでうまく吸えていない気がした。
 ヴァンドールは、彼女の愛するあの男がどこにいるのか、わからない。今までずっと、カシュラルとして生まれる前もずっとあった、漠然とした感覚がきれいに消えてなくなっている。
 カシュラルの中から《獣》はいなくなった。もうその影響は受けていない。それでもなお、ヴァンドールへの想いは消えていなかった。
 ヴァンドールに会いたい。会いたくてしかたがない。ヴァンドールとかつてそうしたように、手を取り合って、二人で一つのもののようになりたい。
 《獣》が彼を狙っている今、彼の元に駆けつけて共に戦いたかった。カシュラルのせいで、ヴァンドールを危険な目に晒してしまった思うと胸が張り裂けそうだ。
 胸で渦巻く感情のすべては、紛れもなくカシュラルだけのものだったのだ。今、それがはっきりとした。どうして疑っていたのかばかばかしくなるほど、それは明瞭なものだった。
 泣けばいいのだろうか。それとも、笑って喜べばいいのだろうか。
 感情はすべて自分だけのものだったのに、それを知るための代償として、カシュラルはとんでもないものを解き放ってしまったのだ。そして、《獣》がいないためにもう、ヴァンドールがどこにいるのか、わからない。
「……捜すわ。絶対に見つけてみせる」
 今はもう、その感覚はなくなってしまった。だけどまだ《獣》を封印していた時に抱いていた、無性に気になる感覚は忘れていない。手がかりはそれしかなかったけど、ないよりはましだ。
「捜すって、どこを」
「西――ここからもっと西の方に、きっといるわ」
 何かが西にある。《獣》を封印していた時にあった、いいようのない感覚。西といってもどれほど西なのかがわからず、漠然としすぎているけど、そこへ行かなければならないという焦燥感があった。《獣》の核が、片割れの存在をかぎ取っていたのだ。
 ヴァンドールの中に封印されている《獣》の核も、カシュラルの中にあったそれと、強さとしては大差ないはず。弱くてもかぎ取れたということは、それほど遠くにはいないということ。経験上、ヴァンドールに近づくほどに、彼の中にある《獣》の核の存在を、強く感じていた。それからすると恐らく、ヴァンドールは同じ国の中にいる。
 行かなければと踏み出そうとすると、エムクドに腕を引かれた。
「離して。ゆっくりなんてしてられないの」
「一人で行くつもりなの?」
 そのつもりだったけど、エムクドはそれを許してくれなさそうな顔をしている。
「ぼくも行くよ」
「……エムクドをこれ以上巻き込めない。いつ戻ってこられるかもわからないのよ」
 カシュラルは、宮廷魔術師になるつもりがないからいい。だけどエムクドは違う。彼は宮廷魔術師になるべきだった。それを期待している家族がいるのだ。
「それでも行くよ。こうなったのはぼくのせいでもあるんだ。ぼくが、《獣》の封印を解けばいいと言ったんだから」
 迷いもためらいもない声だった。《獣》の能力を目の当たりにしても、恐れを抱いてもいなかった。
「……わかったわ」
 本当は巻き込みたくない。でも、ここでエムクドと押し問答をする時間が惜しかった。
 中庭の騒ぎを聞きつけて何事かと出てきた仲間たちには、小屋で魔術の練習をしていた、とごまかした。幸い疑わしく思う者はなく、《獣》の姿を見た者もいなかった。

    ●

 カシュラルとエムクドがひっそりと館を出たのは夜半過ぎ。皆が完全に寝静まった刻限に、簡単にまとめた荷物だけを持って、城壁を飛び越えた。
「明日の朝には大騒ぎになってるだろうね」
 飛び越えたばかりの城壁を見上げ、エムクドが小さく笑う。
「……そうね」
 出奔した理由もわからず、仲間は驚くだろう。もちろん、師匠とノリストラル侯爵も。この二人は激怒するに違いない。
「今ならまだ遅くないわよ、エムクド」
「選考会までに戻れば大丈夫だよ。怒られるけど」
 エムクドは肩をすくめ、軽く言った。この期に及んでやっぱりやめると言うとは思っていなかったけど、それでもほんの少しだけ、期待していた。
「――ごめんね」
「謝らなくていいよ。カシュラルのせいじゃないんだから」
 そう言われる方が、つらい。どうしたってこの状況はカシュラルのせいだ。
 エムクドの言う通り、選考会までに戻ればおそらく大丈夫だろう。一度推薦した以上、よほどのこと――たとえば人を殺すとか――がない限り、推薦が取り消されることはない。推薦した側のメンツにかかわるからだ。
 問題は、それまでに無事戻れるかどうか。
 《獣》の核を持っていたせいなのだろう。これまで、イヴとヴァンドールはほとんど同じ時期に、それほど遠くない場所でそれぞれ新たに生まれ変わっていた。記憶を取り戻したイヴが、ヴァンドールを見つけ出すまでにいちばん長くかかった時で、一年ほど。
 核がない今、遠くにはいなさそうとは言え、ヴァンドールを見つけ出すのにどれくらいかかるだろう。
 もしも時間がかかりそうなら、エムクドには戻ってもらおう。選考会までに戻らなければ、さすがに宮廷魔術師にはなれない。
 もっとも、時間はかけていられない状況だ。《獣》は、核の片割れを取り戻すために必ずヴァンドールを襲う。そして、力をつけるために無関係の人たちも襲うだろう。
 ――そんなことは、絶対にさせない。
 もう誰も傷つけさせないために《獣》を封印したはずなのに、それを解き、取り逃がしてしまった責任は大きい。封印を解くに至ったのは、自分の気持ちとヴァンドールの言葉を信じられなかった、イヴでもあるカシュラルのせいだ。
 どうして信じられなかったのかとどれだけ後悔しても、《獣》は復活してしまった。これ以上の後悔をするのは後回しにして、今はとにかく《獣》をしとめるのが先決だった。


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