第二章 07
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 魔術を使うための場としては中庭があるけど、そこだと何をしているのかと見咎められるのは間違いない。そこで二人が選んだのは、中庭の一角にある、今はほとんど使われていない小屋だった。
 カシュラルたちが暮らす館ではかつて使用人たちが寝起きしていたけれど、今は城のすぐそばに建てられた館に住んでいる。増築を繰り返し城が大きくなると、働く使用人の数も増え、この館では手狭になったのだ。
 中庭の小屋は、使用人たちが暮らしていた頃は物置として使われていた。荷車の車輪らしきものや、さび付いてぼろぼろのくわが片隅に転がっている。壁は石造りで窓はないものの、木造の屋根のあちこちに穴が空いていて光が射し込んでいる。入り口の木の扉は苔むしていて腐りかけていた。
 使用人が住処を移り、宮廷魔術師の卵たちが暮らすようになってもしばらくはこの物置を使っていたらしいから、なんとか屋根も扉も残っているようだ。
 見回すほど広くもない中の有様を見て、エムクドが肩をすくめる。
「昔覗いた時より、古くなってる」
「そうね」
 当たり前のことだけど、カシュラルは素直に同意した。
 《獣》は核の状態で封印されている。だけど封印を解けば、おそらく肉体を取り戻す。それが魔物なのだ。
 だから、封印を解く前に、《獣》が逃げないための結界を張らなければいけない。結界は魔力のみでも構成できるけど、要となるなにがしかの物質を用いれば、その特性を付加した結界を構成することも可能だ。この小屋は壁が石でできていて、それを結界の要として魔術構成に組み込めば、固く頑丈という石の特性を結界に付加できるのだ。
「屋根も要に使えたら良かったけど」
 今にも腐り落ちそうな屋根と梁を見上げ、カシュラルはため息をついた。
 魔術構成は魔力を持たない人間には知覚できないけれど、その効果は物理的であることが多い。魔物という物体の侵入を阻む、あるいは今回のように閉じ込めるなど、結界は物理的な側面を持つ魔術の代表だ。
 術者の熟練度や魔術構成に注ぎ込まれた魔力の強さによって、結界の強度は大きく変わる。そして、物理的側面の強い術だけに、要となる物質を組み込むと、その影響を強く受ける。たとえば、小屋の石壁を基礎とすれば、結界の、特に側面の強度は格段に増す。だけど、腐りかけた木造の屋根まで要に組み込むと、結界の天井部分の強度は要に引きずられて下がってしまうのだ。魔力で補強をしたとしても、石を要としている側面部分に比べるとどうしても弱くなる。腐っていない屋根であれば要として使えただろうけれど、今回の場合は使わない方がむしろよかった。
 先にエムクドが、石壁に掌を当て、小屋の形に沿うように結界を張った。エムクドは魔術構成を組み立てるのが速く、しかも精確だ。石壁はきっちりと結界の一部として組み込まれ、要に使えない屋根の方は強度が強くなるように魔力を配分してある。
 エムクドの作った結界に、カシュラルの結界を重ねる。カシュラルももちろん石壁を要として組み込み、その上エムクドの結界も、自分の作る結界の補強として使わせてもらった。エムクドほど組み立ては速くはないが、緻密さにおいては彼より上手だと自負している。エムクドの魔術構成を完璧に読み取り、そこにあるほんの少しの無駄な部分を見つけ出して、自分の魔術構成に絡めるのだ。集中力と慎重さ、更に精確さも要求される高度な技術である。
 カシュラルが結界の魔術構成を組み立てる――魔力のない人から見れば、中空に視線を彷徨わせているようにしか見えないだろう――のを見ていたエムクドがため息をこぼしたのにも気づかず、カシュラルは結界を完成させるのに没頭した。
「……できたわ」
 ようやく終わり、大きく息を吐いた。エムクドがぱちぱちと拍手をする。
「お疲れ様。さすがとしか言いようがないよ」
 と、エムクドは結界をまじまじと見る。
「カシュラルの、あの糸状のものも、結界に使ったんだね」
「ええ」
 彼には、それを一度見せたのだから使っても構わないだろうと思った。カシュラルがイヴであった時からずっと使えていた魔力の糸も、物理的効果が強い。カシュラルはこの糸に魔力を注ぎ込み縄のように太くして、外側から結界に三重ほど巻きつけた。糸は、物理的に魔物の通り抜けを防ぐほかに、結界全体に魔力を放出して、なるべく長く維持できるようにしてある。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出して、上がっていた呼吸を落ち着かせる。
「始めましょう」
 呼吸は整った。気持ちも落ち着いている。結界は十分に強度があり、魔術師数人がかりでないと倒せないような魔物でも逃げ出すことはできないはずだ。
 カシュラルは目を閉じて、再び意識を集中させる。自分の中の深いところに潜り込むのだ。
 魔物は存在の源として核を持つ。人は、それと同じように魂を持つ。人だけではなく、動物も、植物も。魔物以外の生き物はみな魂を持つからこそ存在し、生きている。
 ただ、物体として魔物の肉体にある核と違い、生き物の魂は実体ではない。魂という概念は誰もが理解できても、その存在を己の中に知覚できる者は、魔力という見えない力を有し操る魔術師くらいだ。その魔術師も、体を駆けめぐる魔力の奥に隠れている自分の魂を知覚するのは容易ではなかった。
 カシュラルは、緻密で大きな魔術を組み立てる時よりも意識を研ぎ澄まし、彼女の意識にまとわりつく魔力の流れをかき分けていく。いつもはこの魔力をつまみ上げ、編み物をするように(エムクド曰く積み木を組み立てるように)魔術に仕立てるが、今はその向こう側まで意識を持っていかなければならない。
 目を閉じて、ゆっくりと息を吸い、吸った時の倍以上の時間をかけて肺の空気を押し出す。吸うたびに魔力の流れがゆっくりになり、吐き出すと、宙に舞い上がっていた羽毛が落ちるように、魔力が自分の中のどこかに『落ちて』いく。
 流れを止め、意識という視界の見通しをよくすべく落ちていく魔力。徐々にその向こう側が見えてきた。
 仄暗い空間に、それは音もなく浮かんでいた。ぼんやりとした白い光を放ち、青黒いものが光の中に見え隠れしている。白い光が、カシュラルの魂。見え隠れしているのが《獣》の核だった。
 魔物の核は、たいてい硬い玉の形をしている。指先でつまむと見えなくなるような小さなものから、人の頭大のものまで大きさは様々だけど、おおよそ魔物の強さに比例して核は大きくなる。硬さも同じだ。
 桁外れに強く凶暴だった《獣》の核は、ヴァンドールの握り拳より一回りは大きかった。狼に似た姿だった《獣》の胸の奥に核はあって、取り出したそれをヴァンドールはありったけの魔術をまとわせた剣で二つに叩き割ったのだ。それでも、イヴは両手を使わなければ、核の片割れを持ち上げられなかった。
 イヴは魔力の糸で半分になった核を包み込み、自分たちの中に封印した。
 《獣》の核の気配はいつでも感じていた。自分の中にある異物でなおかつ力を放ち続けているから、感じ取りやすかったのだろう。でも、それをしっかりと見る――意識を向けるのは、封印以来、これが初めてだった。封印直後の核はもっと大きかったけれど、今はかつての大きさがうそのように小さい。
 弱くなっているのはわかっていた。だけどここまでとは――。
 これならば、この手で葬ることができる。そんな自信がほのかに生まれ、しかし油断はしないよう慎重に、核を封印している魔力の糸を解いていく。今のカシュラルに、『最初』のイヴほどの力はない。だけど自分で巻きつけたそれは、ちゃんと制御できた。でも少々きつく巻いてあるので、落としていた魔力を拾い上げて意識の中で糸状にし、封印してある糸に絡ませて引き剥がす。
 魂と核を結びつけてある糸を解いても、核はまだ全容を表さなかった。それ自体も糸に巻かれてあるので、封印はまだ完全には解けていない。ここから先は、自分の外に出して行わなければいけなかった。カシュラルの中で封印を解けば、彼女の体が《獣》に乗っ取られる可能性が高いのだ。
 自分の魂を離した核に、糸を絡みつかせて引っ張り出す。人間の魂に実体はないが、核にはある。実体を持つものを自分の中に封じ込めるのは至難の業だったけれど、イヴは魔力の糸で巻くことでそれをやり遂げた。あの時は、他に方法もなく、またもたもたしていたら《獣》が復活するかもしれなかったから必死だった。
 あの時ほどの魔力がない今、外に出せるかどうか、一抹の不安はあった。
 どこかにひどく引っかかるような感覚があり、そのたびに体に激しい痛みが走る。実体のあるものを、そうではないものとして封じ込めていた。今度はその逆をやろうとしているから、体にも負担がかかっているのだ。
 額に脂汗がにじむ。歯を食いしばって堪えても、堪えきれなかった痛みでうめく声が漏れる。目はずっと強く閉じていて周りの様子は見えない。でもたぶん、エムクドが心配そうな顔で見守っているだろう。
 左の二の腕を激痛が襲った。鈍く強い痛みが、肘から手の先へゆっくり移っていく。痛みで涙がにじむ。でもあと少し、あと少しだ。
「――!」
 声にならない声を上げ、カシュラルは目を見開いた。いつの間にか強く握り込んだ左手の中に、感触があった。
 荒い呼吸をしながら、指を開く。細い糸をたくさん巻きつけられ、丸くなっているものが、そこにはあった。
「これが……」
 エムクドが息を飲む。
「まだ、封印は完全に解けてないわ」
 両手でなければ持てなかった核が、今はこんなにも小さい。足で踏み潰せるのでは、と思うほどだ。
「エムクド。準備はいい?」
 目配せすると、エムクドは頷いた。
「ああ」
 カシュラルは封印を解くのに専念するので、解いた直後にエムクドが核を消滅させる手はずになっている。
 核を覆う糸に指先を押し当てる。ゆっくり離すと、巻いてある糸の端が切れてカシュラルの指についてきた。糸はするすると指先からカシュラルの中へ戻っていき、封印が少しずつ解かれていく。糸の隙間から青黒い核そのものが見え、カシュラルは核を掌から地面に落とした。さすがにこれで割れるほど柔ではなかったけど、掌を離れて地面に転がる核は、ますます小さく見えた。
 エムクドが魔術を組み上げ、完成させている気配を感じた。いつでも発動できそうだ。カシュラルたちは戦闘向けの魔術より、支援的魔術の方に重点を置いて修行をしてきた。魔物退治の経験はあるけど、専門ではない。それでも、エムクドの方が魔術の組み立てが速いから、畳みかけるような攻撃は可能だ。
 カシュラルとエムクドは食い入るように核と、解けていく糸を見つめていた。核に巻きつく糸が四重、三重、二重と減り、端が核から離れた瞬間、エムクドが手刀を切るように腕を振り、魔術を発動させる。
 音はないのに耳が痛くなり、カシュラルは顔をしかめた。エムクドの魔術は、局所的に大気を振動させるものだった。振動の周期はひどく短く、大気のその揺れは、石をも粉砕する威力を持つ。何度か見たことのある魔術だった。
 大気の揺れが核を取り囲む。しかし、表面にはひびさえ入らない。
「それならこうだ」
 エムクドは、しかし大して気にした様子もなく、次の魔術を素早く組み立てる。カシュラルも攻撃のための魔術を組み立てていく。
 早くも次の魔術をエムクドが放った。叩き潰すように手を振ると、核が白い炎に包まれた。カシュラルも遅れてではあるが、組み立てた魔術を叩きつける。魔力を物理的力にそのまま変換した魔術だ。カシュラルはこれで、剣を縦方向に押し潰したことがあった。
 核を包んでいた白い炎が吸い込まれるように消え、相変わらずひびのない、半分に割られている核があった。
 では次だと魔術を組み立てようとして、カシュラルは目を瞠った。
 核がころりと勝手に転がり、数回小さく震えた。そして、核から、同じ色の小さな棒が飛び出てきた。
 棒、ではない。獣の脚だとわかった時にはそれは四本に増え、爆発的に大きくなっていく。
 エムクドが風の刃を放った。しかし、ぶつかる直前にはそれは完全に形を取り戻していて、地面を蹴って宙に飛び上がり、一回転して着地する。
「《獣》……!」
 子犬ほどの大きさではあったけれど、それは紛れもなく、あの魔物の姿をしていた。
 復活を許してしまったと呆然としている場合ではない。カシュラルは自分の髪を一本引き抜くと、それに魔力を通してぴんとした針金のようにし、魔物めがけて投げた。外すような距離ではない。一連の動作は素早く、カシュラルが髪を抜いて投げるまで、一呼吸する間もなかった。
 避ける方は間に合わない。そう思ったけれど、《獣》は飛んできた髪を口で捕らえ、ごくりと飲み込んだ。
「ああ、久方ぶりの魔力の味だ……」
 《獣》が口を動かすと、そんな音が――声が、漏れた。


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