第二章 06
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 カシュラルが、イヴ・エミファリラという魔術師の生まれ変わりだと皆に秘密にする代わりに、エムクドに黙って出て行ったりしない、という約束をした。
 記憶を取り戻した直後は気持ちが高ぶり、今すぐに飛び出していきたかった。でもエムクドに事情を話している間に、ある程度落ち着きを取り戻してもいた。
 朝食のあと、今日は一日自室で過ごすと言ってある。宣言通り、今は自室の寝台で横になっていた。
 皆は、昨日根を詰めすぎたんだからゆっくりするといいとねぎらい、カシュラルならきっと宮廷魔術師になれるから慌てなくても大丈夫、という言葉をくれた。
 彼らの期待を裏切っていると思うと、胸が痛む。イブの記憶を取り戻すと、それまでの生活すべてを投げ出してきたけど、脇目もふらずにすべてを置き去りにしたわけでもなかった。そのたびに、記憶を取り戻す前のイヴを温かく包んでくれた人と別れることに胸を痛めた。理由を言わずに出て行くことも多かったから、罪悪感もあった。
 皆を裏切り、罪悪感を抱くことになっても、しかしイヴはヴァンドールを捜しに行くのをやめられない。
 ――会いたい。とても、会いたい。
 天井を見上げていたカシュラルは、顔を覆った。自分だけのものなのかわからないという疑いより、ヴァンドールに会いたいという気持ちが今は強い。
 カシュラルの瞳は、家族の誰とも似ていない銀色だ。何度生まれ変わろうと、髪の色や姿形は違っていても、イヴは必ず銀色の瞳を持ってこの世に生まれる。それもまた《獣》の核の影響だろう。金色の瞳を持っていたヴァンドールもまた、何度生まれ変わっても同じ色の瞳だった。
 あの瞳をまた見たい。金色のまなざしで見つめてほしい。ヴァンドールの瞳を思い出すだけで、泣いてしまいそうだ。
 三百五十年前、《獣》を追っていた頃のヴァンドールのまなざしは精悍で、射るような輝きを放っていた。だけど《獣》を封印したあとはその鋭さはなりを潜め、木漏れ日のように暖かな視線をイヴに注いでいた。
 あの頃が、数え切れないほど重ねた人生すべてを含めても、いちばん幸せで穏やかな時だった。
 二人で《獣》を追っていた時間の方が長かった。でも、鮮やかに甦るのは、束の間の幸せだった日々だ。『最初の』イヴの時、ヴァンドールと離れて生きることになったあとの彼女を支えたのは、その思い出だった。
 二人をかつては英雄とたたえた人々に追われる日々は長く、つらかった。どうしてこんなことになってしまったのかと、何度己の運命を呪ったかわからない。それでも人々の手から逃れ、這うように生きたのは、ヴァンドールと過ごした幸せな思い出があったからだ。いつか《獣》の核が消滅したら、また一緒にいられる。そう信じていたからだ。
 だけど、《獣》を倒すまでに時間がかかりすぎた。核の影響から逃れられず、何度も転生を繰り返すうちに、だんだんどこまでが自分の感情なのかわからなくなってしまった。
 はっきりと、させたい。
「もうすぐ、おまえのほしがっている答えにたどり着きそうだな」
 カシュラルとして生まれる一つ前の人生で見つけ出したヴァンドールは、最期にそう言った。《獣》の核は二つとも、消滅まであと少しのところまで来ていたのだ。次こそはもしかしたらと思い、願いながらヴァンドールのあとを追いかけた。結局、核は消滅せずこうしてまたイヴの記憶を取り戻しはしたけれど、今度こそ、今度こそこれが最後になるのではないかと期待している。今の前より、核が弱くなっているのを確かに感じているから。
 カシュラルは顔を覆うのをやめ、掌を見つめた。
 数え切れないほど、ヴァンドールを手にかけてきた。ヴァンドールは一度もやめてくれともいやだとも言わず、イヴに殺されてきた。イヴが最期に見るのはいつでも、愛しているかもしれない男の死に顔だった。それはとても穏やかな顔だけど、その人生においてもう二度と金色のまなざしを見ることもイヴと呼ばれることもないと思うと、胸が苦しくて、一秒も長く生きていられなかった。
 もしも。もしも、ヴァンドールをこの手にかけなければ、どうなるだろう。《獣》の封印を解いて、そこで核を消滅させて、この感情が自分だけのものだとはっきりして――そしてヴァンドールを見つけたら。
 何のためらいもなく、彼の腕の中に飛び込んでいけるのではないだろうか。
 そうであったら、どんなにいいだろう。まっさらな状態に戻って最初の出会いからやり直さなくても、心の在処がはっきりとすれば、それだけでも。
「……ヴァンドール……」
 今すぐ会いたい。愁えをなくして、何を疑うこともなく、まっすぐに彼の胸に飛び込みたい。
 《獣》の核が消滅した時、もしかしたらヴァンドールを想う気持ちも消えてしまうのではないかと思うと怖かった。自分の気持ちが自分のものだけだと信じられないから、そんな不安がつきまとっている。だけど、核が消滅寸前まで来てもなお、ヴァンドールに会いたいという気持ちが弱くなることはない。
 感情はすべてカシュラルの――イヴだけのものなのかもしれない。
 ヴァンドールははじめからずっと、感情はすべて自分だけのものだと言っていた。それにもかかわらず、イヴに殺され続けることを受け入れた。
 彼は、感情が自分だけのものではないかもしれないというイヴの言葉を強く否定することもなく、彼女の疑いも否定せず、何もかもを受け入れてくれた。イヴの気が済むようにすればいい、それにいつまででも付き合う、と。
 思えばずっと、ヴァンドールに受け入れさせるばかりだった。イヴは彼の言葉を聞きながらも、受け入れることをしなかった。自分の感情を疑っていたから、彼の感情も同じように疑っていたのだ。
 それを、もういい加減にやめてもいいのではないだろうか。きっと愛している男の言葉を、もっと信じていいのではないだろうか。
 今さら遅すぎたかもしれないけど、ヴァンドールに会いたいという気持ちと同じように、彼の言葉も信じたい。
「ヴァンドール……」
 心は、決まった。

    ●

「封印を解いて《獣》を倒すわ」
 朝食を終えたばかりの、朝のさわやかな空気が残る書庫で、エムクドに言った。
「わたしはわたしの気持ちと、ヴァンドールの言葉を信じる。疑うのは、もうやめるわ」
 その証として《獣》を葬り去る。この手にかけるべきはヴァンドールではない。三百五十年前からずっと倒そうとしてきた《獣》だ。
「決めたんだね」
 一日で決心すると思わなかったのか、エムクドが軽く目を見開いた。が、すぐにほっとしたような、困ったような複雑な表情に変わる。
「……でも、《獣》を倒したあと、ここを出て行くつもりみたいに見えるよ」
 カシュラルはその言葉に応えなかったけれど、エムクドは表情と雰囲気から察したようだ。でもそれ以上何かを言うことはなく、気持ちを切り替えるように、複雑な表情をやめる。
「昨日も言ったけど、ぼくも手伝うよ」
 そう言うだろうと予想はしていた。今度は、カシュラルが困った顔をする番である。
「これはわたしの因縁よ。エムクドを巻き込むわけにはいかない――と言って、聞き入れてくれるのかしら?」
「くれると思ってるの?」
 エムクドが口の端を持ち上げる。これもまた予想していた答えではあったが、カシュラルはますます困った顔になった。
 《獣》は強い。消滅寸前とはいえ、そこらをうろついている魔物を討伐するのとはわけが違う。油断はできない。だけど、カシュラル一人で退治できるかどうか、正直なところ心許なかった。
 《獣》の核が転生のたびに弱くなっていっているように、カシュラルの魔力もまた、弱くなっていた。仲間内ではエムクドと並んで筆頭の術者だけど、『最初の』イヴの時の力には遠く及ばない。
 だから、エムクドの協力があるのは心強い。でも、これはイヴとヴァンドールの因縁であり、エムクドは無関係だ。それに巻き込んでしまうのは心苦しかったし、自分の力に自信がないからと彼をあてにするのは、都合よく使っているみたいで気が咎めた。
「カシュラル。遠慮しなくていいよ。おとといと同じで、二人でやった方が早いし、魔物を相手にするとなれば一人より二人の方がいいだろう」
「でも、エムクドを利用するみたいで……」
「ぼくは、カシュラルの役に立てるなら利用されてもいいよ」
 エムクドが急に真剣な声になる。
 おととい、彼に口付けをされたことをにわかに思い出した。自分をじっと見つめる視線にからめ取られそうだ。こんな目で誰かに見られるのも久し振りで、うろたえてしまう。
 ヴァンドールとは久しく見つめ合うことさえしていない。
 見つけ出し、出会ってからすぐに、彼と死に別れてきたから。そうしたのは、イヴだ。自分でヴァンドールを遠くへ追いやっていたのだ。
 胸が音を立てて軋むような気がした。ヴァンドールの瞳の色を忘れたことはない。だけど、最後にちゃんとそれを見たのがいつだったのか、もう思い出せない。積み重ねてきた記憶の中に埋もれてしまった。
「エムクド、ごめんね……」
「謝らなくていいよ。ぼくは、カシュラルの力になりたいんだ」
 エムクドは、カシュラルの謝罪の理由を別の意味で取ったようだ。
 もちろん、彼を利用することへの申し訳なさもある。だけど、そこまで言ってくれるエムクドに、カシュラルが心を傾けることはきっとない。エムクドに口付けをされた時も、見つめられた今も、考えたのはヴァンドールのことだったのだから。


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