第二章 03
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 彼はいつでも彼女に背を向けていた。彼女に呼ばれるのを、名を呼ばれるのを待つかのように。
 初めて見る、けれど懐かしい後ろ姿。彼女が彼に呼びかければ、きっと振り返ってくれる。その時どんな表情を浮かべているのかも想像がつく。彼女はそれを知っていた。彼を背後から呼ぶのは、これが初めてではないから。
「――」
 彼女の口が彼の名を紡ぐ。
 呼びかけられた彼の肩がほんの少し揺れる。もったいぶるように、ゆっくりとした動きで振り返る。
 この瞬間を何度繰り返したのか、もうわからない。けれど、このあと彼が何を言うのかはわかっている。わかりきっている――。
「誰だ?」
 それは世界が凍りつく合図だった。いや、凍りついたのは彼女だけ。ほかには何も変わってなどいない。彼が彼女に向き直る。
「誰だ、と問うている」
 険しい声音、警戒に満ちた目。彼に、そんな眼差しを向けられたことなどなかったのに。
 彼の手には抜き身の剣があった。刃が冷たく輝く。その色は、彼女の瞳の色と似ている。でも、刃としての役割を果たすことに何の疑問も抱いていない迷いのない輝きが、彼女の瞳にはない。似ているように見えるのは、その色のみ。瞳の色だけ。
 苛烈な目で睨めつけられ、彼女は悲鳴を上げていた。

    ●

 カシュラルは弾かれたようにまぶたを押し上げた。
 眠っていたはずなのに心臓が激しく脈を打ち、額に手を当てると、うっすら汗がにじんでいる。嫌な夢を見た、というのはわかる。でも。夢から逃げ出すときに記憶を置き去りにしたようで、どんな夢だったのかは思い出せなかった。
「……朝?」
 いつの間にか書見台に突っ伏して眠ってしまったらしい。肩や背中の筋肉は凝り固まり、ずっと座りっぱなしだったからお尻が痛い。まさかそのせいで嫌な夢を見たのだろうか。
 書見台は窓のそばにあるけど、日が落ちてからは鎧戸を閉めてあった。今はその隙間から白い光が漏れている。
 エムクドも書見台に顔を伏せて眠っていた。彼が眠気に負けるところを見た覚えはなかったから、先に寝たのはカシュラルなのだろう。カシュラルは、夜中過ぎまでは起きていたように思うけれど、エムクドはいつまで起きていたのだろうか。彼とは関係のないはずのことなのに、こんなになるまで手伝ってもらって、いくらエムクドが言い出したとはいえ申し訳なかった。
 節々も痛む体をゆっくりと動かし、音を立てないようにして椅子から立ち上がった。
 鎧戸の隙間からほのかな明かりが差し込んでいるとは言え、書庫には夜の気配が濃厚に残っている。
 掌を差し出し、小さく短い呪文を呟いた。その上に暖かい橙色の光が音もなく現れる。
 魔術で生み出した灯火が周囲を照らし出す。手を引っ込めても、灯火は同じ高さにあった。本当は頭上まであげた方がより広い範囲を照らせるけど、そうするとその明るさでエムクドが目を覚ますかもしれない。それに、書庫を出るだけならこれで十分だった。
 書庫を出ても薄暗かった。廊下が北側にあるせいで窓がほとんどないのだ。人の気配はなく、ひっそりとしている。夜の闇が隅にわだかまっている。書庫と居室は離れているけど、静謐な雰囲気を破ったら皆を起こしてしまう気がして、なるべく足音を立てないように、建物の外へ出た。
 空は黒から藍に変わりつつあって、東の端はうっすら朝焼けになっている。日の出まであと少しのようだ。
 季節は初夏だけど、早朝は涼しいと言うよりも肌寒い。でも動けばすぐに体が温まるだろうから、朝露で濡れた小道に踏み出した。
 ノリストラル侯爵の居城は壁に囲まれていてる。壁に囲まれた敷地は南北に細長く、壁伝いに一周歩くと三十分ほどかかるけれど、外に通じる門の数は少ない。南側にいちばん大きな大手門が一つ。北側にそれよりふた回りくらい小さな裏門が一つ。東側、真ん中近くと裏門寄りに小さな通用門が一つずつ。西側の城壁の向こうはなだらかな斜面になっていて、門はない。侯爵の居城は、ノリストラルの街を一望できる丘の上にあった。
 カシュラルたちの館からいちばん近い門は、真ん中にある通用門だ。しかし、カシュラルは門ではなくいちばん近い壁をまっすぐに目指した。
 壁にたどり着くと、縁を見上げた。高さは三階分くらい。飛び上がって届く高さではない。近くには木も植えられてはいない。仮にあっても、壁の方へ伸びた枝はことごとく切り落とされている。はしごでもなければ壁を越えるのは無理だろう。普通の人間ならば。
 カシュラルは軽く膝を曲げ、地面を蹴った。階段の一段さえも飛び越せない、跳躍と言えない跳躍。だけど、飛び上がった彼女の足は地に落ちることなく、竿で釣り上げられたように上へ飛ぶ。
 楽々と壁より高い位置まで飛び上がり、放物線を描いて反対側へと落ちていく。地面が近くなるにつれ、その速度を弛めながら。
「……ふう」
 ゆったりと地に降り立ち、軽く息を吐いた。左右を見回すが人の姿はない。
 城壁の中に閉じ込められているわけではないのだから、裏門へ行けば外には出られる。ただ、こんな早朝ともなると、散歩とはいえ門番は渋り、どこまで行ってどれくらいの時間で帰ってくるのかと尋ねられる。それは煩わしい。それに、カシュラルたちの暮らす館から裏門まで散歩するのに十分な距離がある。でも、館と裏門を往復するだけの散歩は味気ない。
 だから、あまりに早く目が覚めた朝は、時々こうして城壁を跳び越えて抜け出していた。見つかればやかましく言われるだろうけれど、今まで見つかったことはない。
 城は丘にあるけれど、ここは最高地点ではない。街は見渡せるが、城壁沿いの小道を少し上った先の方がもっと見晴らしがいい。
 その道を早足に進んだ。道は城壁から徐々に離れ、登り切ったところで振り返ると、さっき飛び越えた城壁と、その向こうに隠れて、館の屋根も見えた。視線を横へ動かすと、ノリストラルの街並みが目に飛び込んでくる。丘のふもとから、長い裾のようにどこまでも街は広がっている。
 ずっと遠くには藍色の山が連なっていて、その端が白く輝き始める。日の出に間に合った。
 山の上でたゆたう薄い雲が、生まれたての朝日に照らされ白く輝く。太陽が山の端から顔をのぞかせた一瞬、その鮮烈な光に思わず目をすがめた。夜の名残を押しのけて、日がゆっくりと昇る。カシュラルの立つ丘にも光が届き、彼女の背後に影が伸びる。寄せていた波が引いていくように、薄暗く沈んでいた街から夜が取り払われていく。
 手でひさしを作り、カシュラルはますます目を細めた。全身を現した朝日は白金に輝き、もはや直視できない。
 日の出より早く目を覚ました時はいつも、朝日を眺めてきた。雪の降り積もった寒い朝でも、熱気をはらむ暑い朝でも。晴れている日ならば。
 朝の来る瞬間を眺めるのが好きだった。薄ぼんやりとしていながらも陽光がなければ、夜は夜。その終わりを明確に告げる日の出の瞬間を眺めるのが、生まれたての太陽を見るのが好きだった。
 それが、何かを思い起こさせるから。カシュラルは細めていた目をとうとう閉じた。まぶたの裏に、鮮烈な輝きが焼きついている。
 こうして朝日を浴びていると、思い出せるたくさんの記憶の奥の、そのまた奥で眠っている記憶まで光に照らされ、指先がほんの少しだけ届く気がするのだ。もっとも、ただ触れるだけで、その記憶を引っ張り出すことはおろか、つかむこともできない。
 胸が苦しくなる。思い出せない記憶はかけらであってもつかめないのに、心はつかまれて締めつけられるようだった。
 ――早く、早く思い出したい。それなのに思い出せなくて、もどかしくてたまらない。
 太陽が完全に姿を現し、カシュラルの全身を白く照らす。目を閉じていても、まぶた越しにそれがわかる。清涼な空気にさらされて少しだけ冷えていた肌が温められる。
 ――あの人に触れられると、こんなふうに温かかった。
 小さな気泡がいくつも湧いてきて、それまでしわ一つなかった静かな水面を揺らす。
 カシュラルははっとまぶたを開けた。朝日が目を刺す。
「……ヴァンドール」
 目をしばたたかせ、その名を呟いた。懐かしさが押し寄せ、奥の奥のそのまた奥で眠っていた記憶が一気に表層に浮かび上がる。
「ヴァンドール」
 もう一度その名を呼んだ。だけどここにあの人はいない。
 朝日を浴びる頬に涙が伝う。
 どうして今まで彼の名前を思い出せなかったのか不思議だった。どうしてこんな大切なことを思い出せなかったのだろう。
 生まれ変わるたび、いつもそう思う。最初から覚えていれば、こんなにじれったい気持ちで長く過ごすこともないのに。
 カシュラルはすべて思い出していた。
 ヴァンドール。それは、彼女が愛しているかもしれない男の名前。
 イヴ。それが、彼女の魂の名前。
 カシュラル――あるいはイヴは、はるか昔から、何度も何度も生まれ変わり続けてきた。今までずっと思い出せなかった大切な記憶は、何度も生まれ変わりそのたびに蓄積してきた『イヴ』としてのものだったのだ。


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