第一章 02
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 仲間が魔物をここまで追い立ててきたのだ。まだ魔物も仲間も、姿は見えない。けれど耳を澄まし神経を研ぎ澄ますと、下草を踏みしだく音や繁みをかき分ける音が聞こえる。人の気配も届く。もうすぐ所定の位置までやって来そうだ。
 ギーディスは音の聞こえてくる方を注視しながら、いつでもすぐに杭を突き立てられるよう、片膝をついて待ち構えた。ナサシアの顔に再び緊張が走る。魔物を迎撃すべく、魔術構成を組み立てるのがわかった。
 やがて、にらみ続ける闇の中に赤いものが浮かび上がる。炎だ。その中心に黒い塊がある。あれが、何日もの間ギーディスたち警備団が探していた魔物に違いなかった。
 魔物と距離を空けて、じりじりと動く同僚たちの姿が見えた。魔物が雑木林の奥へ逃げ込まないよう、退路を断つ形で取り囲んでいる。剣や槍で牽制しながら、ギーディスたちが待ち構えている場所へ追い込んでいく。
 魔物の姿形は熊に似ていた。大人より一回りも二回りも大きい体、丸太のように太い脚。下草に隠れて見えないが、太く鋭い爪があるのだろう。体毛は艶のある黒だ。
 同僚たちの牽制に対して時折うなり声を上げて威嚇する。そのたび、体のあちこちから小さく赤い炎が吹き出した。よくよく見れば、牙の並ぶ口からも、白い蒸気と共に赤い炎が出ている。艶のある体毛がその炎の色をはねかえしているせいもあって、魔物は炎に包まれているように見えた。
 自分を取り囲む人間たちを警戒しているようだが、彼らが牽制ばかりで積極的に攻撃してこないのにはもう気がついているのだろう。魔物は、ギーディスとナサシア、新たに現れた人間二人に顔を向けた。炎よりも赤い目が、ギーディスたちをにらむ。
 ――あともう少し、こっちへ来い。
 ギーディスは魔物から目を離さず、胸中で呟いた。並ぶ杭の内側まであと五歩ほど。熊のような魔物なら、三歩も踏み出せば入る。
 退路を塞ぐ同僚の一人が、じりっと前に踏み出す。そちらへの警戒を少々怠っていた魔物は、その動きに過剰に反応した。距離を取ろうと、結界の内側となる場所へ身を移す。
 その瞬間を逃さず、ギーディスは最後の杭を、力強く地面に突き立てた。
 条件が整い魔術が発動する。杭と杭の間を魔術構成が駆け抜けてつながり、蔓草のように絡み合って上へと伸びていく。半球状にできあがった結界は雑木林の背丈を超す高さで、魔物が逃げる隙もなく完成した。
 その様子はギーディスとナサシアにしかわからないが、ギーディスが杭を突き立てたのを見て、仲間たちも結界が完成したのはわかったはずだ。
 ナサシアが魔物に両手をかざす。
「貫け!」
 それが呪文となり、かざした掌の前に月明かりに青白く輝く透明な物体が大小いくつも現れる。荒削りな岩の矢のようなそれは、うっすら白い煙をまとっている。ナサシアが得意とする氷の矢だ。
 勢いよく氷の矢が魔物向かって飛んでいく。この距離であの数なら、すべては避けきれないはずだ。
 だが。
「ナサシア!」
 ギーディスは彼女を突き飛ばしていた。
 横から体当たりを食らったナサシアは、なす術もなく吹き飛ぶ。直後、彼女が立っていた場所を猛烈な勢いで炎の塊が通り過ぎた。
 炎は結界にぶつかると潰れて広がり、音をたてて消えた。結界の構成に影響が出なかったのは幸いだが、この結界は一時的なものだから同じようなことがあと何度かあれば、耐えきれず消えてしまうだろう。
 氷の矢のほとんどは炎に飲み込まれて形を失い、なんとか炎を貫通した矢は、しかし魔物の体には届かなかった。魔物は、炎を吐くと同時に横へ逃げていたのだ。図体のわりに動きが素早い。
 同僚たちが大丈夫か、と声を上げる。その声に魔物が反応し、唸り声を上げる。
 構造上、結界が解除されない限り内側にいるものは外に出られない。先程の炎のように、生き物以外も同じだ。ただし、外に出られない代わりに中へ入ることもできない。
 結界の中にいるのはギーディスとナサシア、そして魔物だけ。同僚たちは皆結界の外だ。すぐそばにいるが、結界がなくならない限り彼らの助けは得られない。それを承知で、今回の作戦を実行したのだ。
「ナサシア、立てるか?」
 魔物から視線は外さないまま、ナサシアに尋ねる。立ち上がる気配があった。
「ええ」
 横目で見ると、彼女もまた魔物を注視している。
 魔物も、同僚からこちらへ視線を戻していた。本能的に、ギーディスたちを倒さなければこの場からどこにも行けないと悟ったのだろう。体中から発せられる炎が大きくなっている。さっきまで涼しかった夜気が、いまはかすかに熱を帯びている。魔物の足元を見ると、踏み潰された下草が白い煙を上げ、黒く焦げているものもある。長引かせればぼやになりそうだ。
「俺が牽制する。その間に次の攻撃の準備を」
「わかった」
 ナサシアが神妙な顔で頷いた。
 頭を潰さなければ魔物の動きを止められない。頭を潰さなくとも、相当の重傷を負わせれば動きを止められるが、戦う時間が長引けばこちらの体力も魔力も消耗する。
 ギーディスの武器は弩と長剣だが、攻撃系の魔術も使えるナサシアの方が、当然ながら戦力となる。ただし、彼女の魔術は完成するまでに少々時間がかかるため、接近戦はあまり向いていなかった。
 今回の作戦では、ナサシアは当初結界の準備をするだけだったのだが、急遽代役で参加することになったので仕方がない。ギーディスが牽制して時間を稼ぎ、その間にナサシアには魔術を組み立ててもらう。
 炎を噴出し、立っているだけで草を燃やす魔物に近づくのは得策ではなさそうだ。
 ギーディスは矢を装填済みの弩を構えた。うなり声と炎を吐き出す魔物の眉間に狙いを定める。さっきナサシアの攻撃を避けたのを考えると、この矢もかわされそうだ。しかし、牽制が目的なのだから、当たればもうけものと思うくらいがちょうどいい。
 魔物が炎を吐き出す。それに合わせ、ギーディスは引き金を引いた。
 重い音と反動を残し、短く太い矢が夜の大気を裂いて飛ぶ。予想はしていたが、魔物は頭を低くしてそれを避けた。矢は結界にぶつかり、刺さることなくその場に落ちた。
 発射した時点で次の矢の装填をしていたギーディスは、最初の矢が結界に当たって落ちてから数秒後には、次の矢を放っていた。弩は普通の弓より連射性に劣るが、ナサシアが魔術を組み立てるより先に次の矢を放てる。魔物との距離もそう遠くないから、当たれば威力も大きい。
 二本目も魔物は避けた。しかし、ギーディスは気にすることなく三本目を発射する。
 その反動を感じるのとほとんど同時に、ナサシアの魔術が完成するのも感じた。
 冷気が肌をなでる。見ると、ナサシアの周囲に、先程よりも小さい、だが数はずっと多い氷の矢が浮かんでいた。
「行け!」
 ナサシアが小さく鋭く呟くと、無数の矢が一斉に飛び出した。
 今度は、真正面からだけの攻撃ではなかった。左右からも回り込むように、魔物に向かって鋭い氷塊が飛んでいく。
 矢の速度は、さっきよりも速い。
 ――今度はいけるか。
 ギーディスはいつでも援護できるよう、弩を構えて矢の行方を見守る。
 魔物は正面の氷めがけて炎を吐き、同時に前脚を大きく振って右からの矢を叩き落とす。だが、左から来る分は避けきれない。
 避けきれないはずだが、それを見届ける余裕がこちらにはなかった。
 氷を飲み込んだ炎は勢いをなくさないまま、再びナサシアを襲う。
 だが、ナサシアは氷の矢を放った直後、二人の正面に魔術で障壁を作り出していた。
 炎が、その壁にぶつかる。燃えさかる赤い光の向こうで、魔物のうめき声が上がる。
 今度は命中したのだ。好機到来だ。
「待って、ギーディス!」
 障壁の横へ飛び出して矢を放とうとしたら、ナサシアが声を上げた。
 彼女は、障壁の構成を変化させた。構成の変わった障壁は目の前で燃え上がる炎にまとわりつきそのまま飛んできた方向――魔物に向かい、飛んでいく。
 魔物自身の炎が効くかどうかわからない。目の前の障壁がなくなった瞬間、ギーディスは炎のあとを追わせるように矢を放った。
 魔物は左脇にいくつかの矢を食らい、体勢を崩しかけていた。自分の放った炎が返ってくるのに気づき、はっとして顔を上げる。
 避けるには遅いはずだった。
 結界の外で見守っていた仲間の誰かがあっと声を上げる。
 魔物は避けることなく、逆に炎に向かって突っ込んでいった。
 赤い火の玉を突き抜け、炎はそのまま魔物の体にまとわりつく。しかし、炎に隠れて見えなかったのか、ギーディスの矢が初めて魔物の体に食い込んだ。
 こめかみあたりに刺さっただろうか。魔物が吠える。だが、突進は止まらない。赤黒い塊が咆哮と共に大地を蹴る。魔物はギーディスを狙っていた。
 ――避けるには遅すぎる!
 ナサシアが魔術を使うにも、ギーディスが矢を放つにも。
 重い音が響き、その場にいた者の体を震わせる。
「ギーディス!」
 ナサシアの叫び声はほとんど悲鳴だった。
 大丈夫だ、と答えたいところだがこれほど説得力のない状況はない。
 抜けきれなかった剣で、ギーディスは魔物の太く鋭い爪を受け止めていた。
 熊のような魔物は、見た目通り力も強い。剣の柄を握る片腕一本で魔物の怪力を支えている今の状況は奇跡的と言ってよかった。
 だが当然、長持ちするものではない。鞘は腰の位置、剣はそこから抜けきっていないわけだから爪は体のすぐそばまで迫っている。ほんの少しでも力を抜けばギーディスの胸に爪が食いこむ。
 絶望的だ。奇妙な体勢だから腰にも相当の負担がかかっている。体勢を崩して彼が倒れ込めば、やはり爪の餌食になる。
 この状態になってからまだ一呼吸するほどの時間しか経過していないが、渾身の力がこもる右腕が早くも悲鳴を上げはじめていた。
 だが、ここでやられるつもりなどない。
 ギーディスは金色の瞳で、魔物の赤い目を刺すようににらんだ。
「燃えろ」
 魔物の赤い目に、比喩ではなく炎が灯る。
 全身から炎を吐き出す魔物でも、目からは出ていなかった。もしかしたら、そこはさすがに炎に耐えられないのかもしれない。しかし、魔物は炎を突き抜けてきた。瞼で守られたから無事だったのか、やはり炎をまとう魔物だから耐えられるのか――。
 迷ったのはほんの一瞬で、目は炎に弱いという可能性にかけた。
 魔物の吠える声が耳をつんざき、腕に掛かる力が一気になくなる。ギーディスは抜きかけていた剣を完全に抜くと、痛みで大地を乱暴にたたき、全身から激しく炎を吹き出す魔物に斬りかかった。
 大きく振りかぶり、暴れる魔物の首の付け根に刃を食い込ませる。吹き出す炎にさらされ全身が熱かったが、気にせず剣を引き、もう一度同じところに振り下ろした。
 吹き出す炎が一斉に消えた。魔物の体が大きく傾ぎ、地面に倒れる。ぐったりとして動かない。
 誰も声を発しない。自分の荒い息遣いだけが、耳に届いていた。
 魔物と真正面から力比べしたせいで体力と気力を消耗していた。だが、まだこれで終わりではない。ギーディスは重くなった足を動かし、半分落ちかけている魔物の首を、完全に落とした。
「ギーディス!」
 ナサシアが駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「……俺はいい。それより、魔物が」
 よほど危なっかしい足どりに見えたのだろうか。ナサシアはひどく心配そうな顔だ。
 ギーディスはその視線を振り切るようにして、魔物を見た。
 首を落としたから、今は死んだ状態になっている。だがこのまま放っておけば首はつながり魔物は息を吹き返す。核を壊さない限り、何度でも甦るのだ魔物なのだ。核は必ず体のどこかにあるが、場所は魔物によってまちまちだ。探すのは手間だから、普通は魔物を倒したらその体ごと燃やしている。
 そしてそれは大抵、魔術師の役目だった。焚き火くらいの炎で壊れる核もあるが、魔物の体が骨になるほどの苛烈な炎でなければ壊れない核もある。なにより、魔物を燃やすための薪を調達するのが手間になる。
「あとはやるから、ギーディスは休んでて」
「悪いな」
 もっとも、ギーディスの魔術でこんな大きな魔物の体を燃やし尽くすのは無理だ。
「いいのよ。あ、でも結界の解除はしてね」
「ああ」
 重い足を叱咤して、杭の一つに向かった。疲れた体で深く刺さった杭を抜くのには難儀だった。突き立てたのは自分だが、こんなに深く突き立てるんじゃなかったと後悔した。
 抜いた杭を起点に、結界を作っていた構成が波が引くように消える。魔術師ではない同僚たちにはその様子は見えていなかったが、ギーディスが杭を抜いたことで結界がなくなるのはわかっているので、次々と結界だった場所へ入ってくる。
 同僚たちは、座り込んだギーディスに一声かけて脇を通り過ぎていく。ただ、最後の一人だけは立ち止まった。
「ご苦労。よくやった」
「小隊長の推測通りでしたね」
 かたわらに立つ男を見上げる。
「最後、何故一度退かなかった。おまえと魔物が力比べをしている間に、ナサシアは魔術を組み立てられただろう」
 ギーディスを見下ろすルフトの表情は、晴れ晴れとしているとは言い難かった。
「……すみません。でも、あの勢いで一気に片を付けた方がいいと思って」
 ギーディスは血気盛んなわけではない。だが魔物退治の場では、今日のように時々あとさき考えずに突っ込むところがあり、そのたびにルフトにたしなめられていた。
「後処理が終わるまで休んでおけ」
 ため息を残し、ルフトは後処理をする部下たちの元へ向かった。
 魔物の体を燃やす炎と、黒い煙が立ちのぼっている。肉の焼ける臭いが届かないのは、ナサシアが周辺に結界をつくっているおかげだ。遠目にもその構成が見える。その周りでは、同僚たちが焦げた草を刈ったり、残った杭の回収作業をしていた。
 短時間で体力を使い果たし、立っているのもしんどい。だが寄りかかれる場所がほしくて、木の根元に移動する。
 固い幹にもたれかかると、深々とため息をついた。
 魔物の目に灯火の魔術を使った時。ギーディスの脳裏を掠めたものがある。
 意識の奥底に薄くこびりついて剥がれない、奇妙な記憶。魔術を使うたび、それは意識の表層に顔を出すのだ。
 それは、人影だった。けれど輪郭は曖昧で、顔はあるはずなのにまったくわからない。ただ、その人影は女だとわかる。男女の区別がつかないほど曖昧にしか思い出せないのに、何故か女だと断言できた。だが、それが誰なのかはわからない。
 魔術を使うたび、その女を思い出すのだ。しかし何度思い出そうと、記憶は少しも明瞭にならない。
 ギーディスは、物心ついた時には魔術を使っていた。使えたのは灯火の魔術くらいしかなかったが、その頃から、おそらく女の記憶が浮かんでは沈み、沈んでは浮かびを繰り返していたのだと思う。
 思い出すのはギーディスを捨てた母なのかと思ったこともある。捨てられた時は乳飲み子だったけれど、母の顔を記憶に留めていたのか、と。
 だが、そうではない。そんなはずはない、とその記憶と同じぐらい、あるいはその更に奥にある意識が告げている。あれは母などではなく、別の、もっとずっと昔から知っている女だ。
 だが、それが誰なのか、答えはまだ見つかっていない。


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(C) Nagasaka Danpi 2018