第一章 01
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 彼は待っていた。
 潮風が吹き上げる崖の突端で。
 夕陽が見える窓のある部屋で。
 泥と血が混じり合った戦場で。
 炎が赤々と燃える暖炉の前で。
 岩と砂礫で荒れ果てた大地で。
 緑色の穂先が波打つ畑の中で。
 思い出せないほど様々な地で、彼は待っていた。
 いつでも、待っていた。名を呼ばれるのを。彼の名を呼ぶ者が現れるのを。
 待ち続けていれば、必ず現れるのだから。
 必ず現れるから、彼は待ち続けていた。
「――」
 待って待って待ち続けて、ようやく現れる待ち人は、必ず最初に彼の名を呼んだ。それは彼らにとって、もはや一種の儀式といって良かった。
 愁いを帯びた声が彼の名を紡ぐ。
 その声が甘やかにきらめいていたのは遠い昔のことだ。
 だが、声にこめられた感情と、彼の名を呼ぶことの意味がかつてと変わってしまっていても、その声が耳に届けば、彼の心を震わせる。変わらないものはやはり『ここ』にあるのだと、改めて確認する。
 名を呼ばれて、彼が返事をして、振り返る。
 彼の名を呼んだ声の主は、そこに立っている。その顔を見られるのは、ほんの一瞬。変わらない瞳を見つめ、見つめ返され――。

 あの温かく柔らかな肌に、最後に触れたのはいつだっただろう。
 彼にだけ許してくれた感触を忘れてはいない。忘れるはずがない。
 もう一度、その頬を伝う涙を拭い、抱き締めるだけでいい。
 彼が望んでいたのは、いつでもただそれだけだった。

    ●

 夜だというのに空は明るかった。少しだけ端をかじられた月がかかっている。月光で夜の闇は薄められ、長くたなびく雲には灰青色の影がにじんでいる。星影は月明かりの中に溶けてほとんど見当たらない。その代わりのように、足元には己の影がくっきりと落ちていた。
 日中は動けば汗ばむ陽気になってきたとはいえ、まだ初夏。夜気はひやりとしている。
「ギーディス、なにかあったの」
 問いかけられ、空から意識を引き戻された。
「……あの月、色が俺の目の色と似てるかな、と思って」
 思わぬことを返されたからなのか、ナサシアが目を瞬かせる。それから、さっきのギーディスと同じように空を見上げた。
「ギーディスの方が、もっと明るい色をしてるわよ」
 ナサシアの瞳は新緑を連想させる色で、同じ色を持つ者はよく見かける。
 一方、ギーディスの目は黄金色だ。同じ色の瞳を持つ者を見たことがない。鏡は持っていないし、周囲の者に言われることもないから普段は意識していないが、ふとした折りに意識を向けることがあった。
 赤ん坊の時にギーディスは孤児院の前に捨てられていた。おそらく両親が、金色の目を不気味に思ったのだろう。
 たとえば今夜のような月の明るい夜に、ふと自分の目の色に意識が向くことがある。だが、別段感傷的な気分に浸るわけではない。こんな瞳でなければ、と恨みがましく思うこともなく、自分の目は本当に金色だろうかと、どちらかといえばその確認だった。
「でものんきね。仕事中よ、いま」
 ギーディスに向けられたナサシアの顔には、半分呆れた表情も浮かんでいた。
「もちろん。わかってる」 
 手に持っている棒を軽く掲げてみせる。ナサシアは短く息を吐いた。
 ナサシアは、濃い茶色の長い髪をうなじでくくっている。その毛先一本一本まで、油断なく前方を警戒しているかのような緊張感が、ギーディスにも伝わってくる。
「ナサシア。もう少し肩の力を抜いても大丈夫だろ」
「そんなに力んでないわよ」
「眉間にしわが寄ってる」
 と、ギーディスは自分の眉間を指さした。
 この場所に来てから数時間、二人は待ち構えていた。あとどれくらい待てばいいかもわからない状況で、体力より先に気力を消耗してしまっては、いよいよという時に使いものにならない。それでいちばん困る――というより危険にさらされるのは、ナサシア本人だ。
 ギーディスは左手に持っている棒に視線を移した。太さは指二本分、長さは二の腕と同じくらいの木製。一端を削って尖らせてあるので、棒より杭といった方がいいかもしれない。その表面には、文字のような複雑な文様が描かれている。魔術の構成を示すものだ。
 木や繁みに隠れてここからは見えないが、これと同じものが七本、円を描くようにして周囲の地面に突き立てられている。
 ギーディスとナサシアは、七本の杭が描く円周上にいた。八本目となる、ギーディスの持つ一本が地面に突き立てられた時、魔術が発動して結界となるのだ。
 結界は外敵の侵入を阻むため設置されることが多い。ただし、今はまだできあがってもいない結界の目的はその真逆。侵入を阻むのではなく、閉じ込めるためのものだ。
 二人は、結界に閉じ込めるべき標的が現れるのを待っていた。
 彼らの標的は魔物。人間をはじめとして生き物を喰らう化け物だ。
 ただ待っているだけではない。魔物を結界の中に閉じ込め、退治するのが二人の役目なのだ。
 人間は二つに大別できる。魔力を持ち魔術を使える人間と、魔力を持たないために魔術を使えない人間だ。世の中には多種多様な人がいるが、魔術に関しては二分される。ギーディスとナサシアは、魔術を使える側だった。
 構成を組み立て、発動させる。それが魔術だ。
 構成というのは、魔術の効果を決定する設計図のようなものだが、実体があるわけではない。魔術師だけが感覚的に捉えることができる。まずはそれを組み立てる。
 魔術構成が完成したら、それに魔力を注ぎ込む。ただし、それだけではまだ魔術の効果は現れない。
 魔術が効果を発揮するためには、発動の契機となる条件が必要だ。そしてそれは、あらかじめ構成に組み込んでいなければならない。発動要件の組み込まれていない術式は、魔術として成立しないのである。
 ただし、組み込んでさえあれば条件はなんでもいい。最も簡単で普遍的なのが、言葉だ。構成に発動要件となる言葉を組み込み、それを口にして初めて魔術が効果を発揮する。
 言葉がもっとも簡便なため、発動要件として組み込む言葉を『呪文』とわざわざ呼ぶほど魔術師たちも多用しているが、発動要件は呪文でなくとも構わないのだ。
 たとえば、いまギーディスが手にしている杭。魔術が発動すれば結界が完成するわけだが、その発動要件は『八本すべてが地面に刺さっている』ことである。この魔術は最後の杭を突き立てて完成するので、誰が行っても効果は現れる。魔物が範囲内にやって来たところを見計らいさえすればいい。
 この結界のように、条件さえ整っていればさほど気張る必要はないが、問題は条件を整えるところまでだ。魔術構成を組み立てるにはそれなりの集中力がいる。精神が磨り減っていたらそれだけ散漫になりやすいし、発動させるまでに正常状態より時間がかかるようにもなる。
「遅いわね」
 ナサシアの眉間のしわはなくなったものの、声から緊張の色は消えていない。
「ああ。少し、な」
 魔物を結界に閉じ込め討伐するのがギーディスたちの役目で、結界の中となる場所まで魔物を追い込むのは仲間の役目だ。
 辺境の温泉街ガエリア。ここはその西側に広がる雑木林の入り口である。
 城壁の外なので、昼間であっても人気がほとんどない場所だ。真夜中ならばなおのこと。年がら年中温泉目当ての旅人でにぎわう街中ならば、こんな時間でも大通りに人影がまばらにあるから、いっそうわびしく感じる。
 ずっとこの場にいたおかげで目は夜の暗さに慣れているが、雑木林の奥は墨で塗り潰したように何も見えない。時折吹く風で木の葉がこすれる音と、フクロウの鳴き声が聞こえてくるだけで、仲間の気配は一向に感じない。自分も追い込む側に回れば、ここでやきもきすることはなかったのだが――。
 杭を握る手に自然と力が入る。
 ギーディスとナサシアは、およそ百名いるガエリアの警備団にあって、十人しかいない魔術師のうちの二人だ。警備団の主要な任務は治安維持と魔物討伐。どちらの任務においても、魔術師は強力な戦力となる。
 もっとも、ギーディスは灯火を生み出すのと結界の簡単な修繕がせいぜいの、魔術師と名乗るのはおこがましいほどの力しかないが。それでも、囮役からは外された。
 警備団は四つの分団に分かれ、街の東西南北に詰め所を構えている。ギーディスは第二分団第四小隊の所属で、第二分団の担当区域がガエリアに西側だ。
 ガエリアに限らず中規模以上の街ならば大抵そうなのだが、街は城壁に囲まれているだけでなく、結界に覆われている。
 壁と結界があるから、基本的に街中で魔物に襲われる心配をする必要はない。警備団も、魔物に関しては街中より結界の周縁部に重点を置いて見回りをしている。
 結界のすぐ外で魔物を見た、という目撃情報があったのは四日前。ガエリアの西にある湖を見に行った旅人がその帰りに、雑木林を抜ける時に見かけたそうだ。
 黄昏時の林の中は一足先に夜が訪れていたものの、旅人にとって幸いなことに魔物は遠く離れたとこにいたため、襲われることも気づかれることもなくやり過ごせた。それでも旅人が見たものが動物ではなく魔物とわかったのは、それがうっすら赤黒い光をまとっていたからだ。
 旅人の通報を受け第二分団は現場に急行したのだが、件の魔物を探すどころではなかった。魔物より先にぼやが見つかり、その消火作業に追われたのだ。誰かが焚き火をしていた痕跡はなく、ここ数日晴天続きで空気が乾いていたから自然発火したのだろう。
 雑木林の中はそれほど乾燥していないが、その時はそう結論づけられた。
 ところが、その後もぼやが出続けた。場所は同じ雑木林で、見つかるのは夜。見つけるのは巡回している第二分団だった。一夜で三回ぼやが見つかった夜もある。一方で魔物は見つからない。
 ぼやといまだ見つからない魔物は関連しているのではないかと最初に言ったのは、ギーディスの上官である第四小隊の小隊長ルフトだった。
 魔物は一見しただけでは獣と区別がつかないような姿形をしているものが少なくないが、動物と違う大きな特徴が二つある。
 まずは目。魔物は共通して血のように赤い目を持ち、その瞳孔は細長い楕円形だ。昼間の猫の目に似ているが、猫とは違い暗いところでも瞳孔はそのままである。動物か魔物か区別がつかない時には、目を見ればわかる。
 もう一つの特徴は、核を持つこと。魔物は体内のどこかに玉のような核を持っていて、魔物の肉体を殺しても、核を潰さない限り魔物はまた復活する。魔物の最大の特徴だ。魔物を倒したら、必ず核を見つけ出して、これをたたき割るなり燃やすなりして粉々にしなければならなかった。
 目と核以外にも、獣にはない特徴や力で区別はできる場合もある。件の魔物のように、赤黒い光をまとっているものは遠くから見ても魔物とわかりやすい。
 その赤黒い光は、炎かもしれない。それが雑木林に引火し、ぼやが起きた――ルフトはそう推測している。
 わざわざ雑木林の入口まで追い立てずに見つけ次第退治すればいい、という意見もあったが、ルフトに却下された。炎を使う魔物ならば、林の中で戦闘になった時にぼや以上の火事を起こす炎を出すかもしれない。魔物を退治できても火事になったらそれはそれで困るので、なるべく刺激しないように気をつけながら追い立てるという作戦になったのだ。
 ガエリアは温泉目当ての旅人たちが落とす金が、大きな収入源となっている。郊外で魔物が出没しそのために大火事が起きたとなれば、外聞が悪くなる。ガエリアは魔物による被害がほとんどない、という評判を守ることもまた、警備団にとって重要な任務なのだ。
 ギーディスは目線だけ左右に動かした。この雑木林はそれほど大きくはない。一周するのに数時間ほど。だが、どこにいるかわからない魔物を探して追い立てるとなると、それでも広い。
 ぼやは雑木林の中心近くで見つかっているから、恐らく魔物はその近辺にいるのだろう。魔物を雑木林の外に出さないため、別の結界で雑木林を取り囲んでいる。これから張ろうとしている結界は、魔物をさらに追い込んでしとめやすくするためだ。雑木林の中は障害物が多く夜であればなおさら暗いが、入り口付近ならばそれがない。もっとも、魔物にとっても同じことだろうから、こちらが動きやすいからといって油断はできない。
 人員も割いている。通常、当直勤務は十人で行っているが、今夜の当直は十五人。第二分団の半分以上を駆り出しているのだ。五人は街中にある詰め所で待機しているが、それ以外はこの周辺にいた。魔物を追い立てているのは八人。その指揮を執っているのは、小隊長であるルフトだ。
 ナサシアは杭の結界を用意するだけで、この場にはいないはずだった。
 今夜に勤務する予定だった同僚のジェフテスが急遽休むことになったので、代わりにナサシアが当直になったのである。ジェフテスは、出産のため里帰りしている妻が難産で苦しんでいるという知らせを受け、ルフトに頼み込んで休暇を取ったのだ。
 先輩団員から聞いた話によると、ルフトの妻は難産の末に亡くなり、産まれた子も数日しか生きられなかった。そのうえ、魔物退治をしていて妻の死に目に間に合わなかったそうだ。だから、ジェフテスの休暇を許したのだろう。
「ギーディス、聞いた?」
 不意に、ナサシアが言った。
「何を?」
「男の子だって、ジェフテスの子供。奥さんも元気だってさ」
 ジェフテスの話題になったのは、たまたまだろう。だがちょうどギーディスもジェフテスのことを考えていたから、まるで心中を読まれていたようだと密かに驚いた。
「それはなにより。でも、誰に聞いたんだ?」
「夕方前に、手紙が届いたのよ。わざわざ早馬を使って出したみたい。ギーディスは見なかったのね」
 ナサシアはそれまでの張り詰めた表情を少し和らげた。
「ジェフテスのことだから、のろけが書いてあったんだろ」
 ナサシアは肩を竦めただけだったが、それで手紙の内容はおおかた察しがつく。
「明日には本人もガエリアに帰ってくるっていうから、ジェフテスにはおいしいものをおごってもらうわ」
「食事の間中、のろけ話を聞かされるぞ」
「そうでしょうね」
 言いながらも、ナサシアは笑っていた。緊張の糸が切れたのではなく、たぶん雑談をして気を紛らわせたかったのだ。
「ギーディス、ナサシア!」
 雑木林に巣くう闇の奥から、鋭い声が聞こえた。


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