第一章 03
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 見上げれば、満月に近い月が我が物顔で空にいた。すっかり夜だ。
 ジェフテスは小さく息を吐いた。
 彼は、近くの村からガエリアに向かっている最中だった。村を発つのが予定より遅くなってしまい、道中駆け足気味で来たものの、日が落ちてもまだガエリアの城壁は見えなかった。田園風景がとぎれ、道の両脇にはまばらに木が生えている。もう少し進めば、真っ黒にそびえるガエリアの城壁が見えてくるはずだ。
 ジェフテスは、村ではなくガエリアの住人だ。初めての出産で村に里帰りした妻を見舞うため、上司に無理を言って休暇を取ったのである。
 上司にはゆっくりしていいと言われていた。だが、ジェフテスが急に休んだしわ寄せは同僚たちにいっているし、妻と難産の末に産まれた子供の状態も落ち着いているので、ガエリアに戻ることにしたのだ。休暇を取る前から懸案だった件がその後どうなったのかも気がかりだった。
 夕方にはガエリアに着き、そのまま職場へ顔を出すつもりでいたのだが、かわいい我が子にかまっていたらあっという間に時が過ぎていた。
 慌てて村を出て、ほとんど休まずここまで来た。疲れを感じたら妻と子の顔を思い出し、がんばらなくてはと己を鼓舞する。
 妻と子の顔を思い出すだけでもジェフテスの表情は緩む。二人の状態がもっと落ち着いて、ガエリアで親子三人で暮らせるようになれば毎日が楽しいに違いない。
 ジェフテスがそれを想像してまた顔をにやつかせていると、満天の星の下に黒く無骨な影が見えた。ガエリアの城壁だ。
「やれやれ、あと一息だ」
 思わず呟いた時、草の揺れる音がした。
 ジェフテスは足を止め、音のした方を見た。
 道の両側はまだまばらな林が広がっている。ジェフテスの手が、腰に提げてある剣の柄を握る。
 また、草を踏みしだく音が聞こえた。小さくはない生き物が移動している。ただ、まばらとはいえ林の中は闇に沈み、動いているその影も見えない。
 ジェフテスは剣を抜き、注意深く音のした方を見つめた。
 人、ではなさそうだ。人里近くで盗賊が出ないわけではないが、ガエリアとその周辺は、警備団が目を光らせているので治安が良い。
 可能性として高いのは、動物か魔物。
 魔物ではないか、と思った。ジェフテスが休暇を取る前から、ガエリアの警備団はある魔物を探していた。それではないのか。
 息を殺し、林の中を注視した。また草を踏む音。近づいてくる。ゆっくり踏んでいた音が、急に激しくなる。
 いよいよご対面、飛び出してくるか――。
「上!?」
 最後に聞こえたのは、葉ずれの音。それが、黒い影と共に上から降ってきた。どうやら木を駆け上り、そこから飛び出してきたらしい。
 犬ほどの塊のそれは、ジェフテスめがけてまっすぐに飛んできた。まさか上から来ると思わず、向き直ったものの剣を構えるのが間に合わず、塊の体当たりを食らった。
 地面に倒され、四本の脚がジェフテスの体を押さえつける。
 それは青黒い体毛に覆われ、姿形は狼に似ていた。だが、目を見れば狼でないとすぐにわかる。
 血が滴り落ちそうな真っ赤な目――魔物だ。
 犬のように突き出た口が薄く開き、隙間から鋭い刃と赤い舌が見える。獣じみた呼吸をし、押し倒したもののジェフテスをすぐに襲う様子がない。何かを探るように、赤い目でじっと男を見て、においをかぐようにしきりに鼻をひくつかせる。
 すぐに食らいつかれないのは助かったが、いつまでこのままなのかはわからない。
 ジェフテスはまだ剣を握ったままだった。魔物に気づかれないよう、そっと逆手に握り直す。距離が近すぎるが、魔物の腹に斬りつけるくらいはできるはず。
 ――こんなところで死んでたまるか。
 ジェフテスが柄を強く握る。
「……おまえじゃあないな」
 魔物の口が動き、低い声が漏れた。
「え?」
 いま確かに、目の前の魔物が、人の言葉を話した。だが、そんな魔物、見たことも聞いたこともない。
 呆気にとられ、そして背筋が凍りつく。この魔物は尋常ではなく危険だと、ジェフテスの本能が告げた。
 そして、彼は闇に飲み込まれた。再び、え、と呟いた声が悲鳴に変わる。
 頭から魔物に食らいつかれたのだと理解した時には首に激痛を感じ、喉をほとばしる悲鳴は狂ったような絶叫になった。
 断末魔は魔物に飲み込まれ、ほどなく途絶えた。
 魔物はジェフテスを頭から喰らい、そこから下もすべて、服や靴ごと喰らった。
 あとに残ったのは、ジェフテスがいつの間にか手放した剣と、倒れた時に手元から離れた荷物、そして血だまりだけである。
 魔物はそれらを一瞥しただけで、興味は持たなかった。まだ口の中に残っているものを数度咀嚼して飲み下すと、喉を鳴らした。
「どこにいる……ヴァンドール……」
 魔物は頭を巡らせあたりを見回す。近くにいるのは感じるが、はっきりとつかめない。
 やがて魔物は地を蹴り、林の中に姿を消した。

    ●

 第二分団の詰め所は、東西を貫く目抜き通りの一角にある。石造りの二階建て(ただし屋根は木製)で、建物の左右には板塀が延びている。通りに面した建物もそれなりに大きいが、敷地も広い。板塀に囲まれて外からは見えないが、訓練のための広場、武器類を保管するための倉庫、いざという時のために備蓄されている穀物庫などがあるのだ。
 裏に回れば裏口があるが、通りに面した入り口は建物にある一カ所だけ。入ってすぐの部屋は待機室と呼んでいる広間だ。名前の通り、団員たちが待機する場所である。夜中であろうと、誰かしら人がいる。出勤したギーディスが入ると、四人いた。
 待機室には大きな長机と、長椅子が置いてある。それ以外はなにも置いていないから、人が四人いても広々として見える。
 扉が開くと、待機室にいる全員がそちらに顔を向けるのはほとんど条件反射だ。
「おはよう。体調はどう?」
 ナサシアが真っ先に口を開く。
「問題ない。ナサシアはどうなんだ。ちゃんとゆっくり休んだのか?」
「わたしも問題ないわよ。お茶、飲む?」
 そう聞く彼女の前には、カップが置いてある。みんなでお茶を飲んでいたらしい。
 昨日の朝方、魔物退治が終わり詰め所に戻ったあと、簡単な引き継ぎをしてから家に帰り、倒れるように夜まで寝ていた。夕飯は近くの屋台で買ったもので済ませたし、今日の朝食もそうだ。飲み物もたいてい買っている。一人暮らしのギーディスの部屋には、まともにお茶を飲める道具はない。
「ああ、頼む」
 空いている場所に腰を下ろしたところで、机を挟んで向かいにいた同僚が口を開いた。
「おいおい、お二人さん。ここは警備団の詰め所ですよー」
「朝っぱらから見せつけてくれるねぇ」
 もう一人も頬杖をついたまま、からかうように言う。
「何言ってるの! 違うわよ! 同僚としての普通の気遣いよ!」
 お茶を淹れようと席を立ったナサシアが、声を大にして否定する。
「俺たちには飲むかどうか聞かなかったのに」
「私が来た時にはもう飲んでたじゃない!」
 と、三人の前にあるコップをそれぞれ指さす。
「そうだっけ?」
「そうだった!」
「でかい声だな。隣にまで聞こえてきたぞ」
 不意に扉が開き、苦笑いを浮かべたルフトが立っていた。
「あ……す、すみません!」
 ナサシアが慌てて頭を下げる。彼女をからかっていた三人も、ごまかすような笑みを浮かべて頭を下げる。
 ルフトはそれを見て小さく頷いた。強く咎めるつもりはないようだ。
「雑談するのは構わんが、詰め所であまり騒いでいたら、ここの警備団員は大丈夫なのかと市民に心配される。ほどほどにしておけ」
 言いながらルフトは、待機室へ入ってきた時とは違う、奥に続く扉を開けた。
「奥で休む。何かあったら起こせ」
 よく見れば、ルフトの目の下にはくまがある。足どりもどことなく重く、全身から疲労感がにじみ出ていた。奥には仮眠室があり、そこで休むつもりらしい。
 彼が扉の向こうへ消えたあと、ギーディスは小声で同僚に尋ねた。
「小隊長は、もしかして昨日も仕事をしてたのか?」
 徹夜で魔物討伐をした団員は皆、あのあと家に帰ったと思っていたのだが。
「ああ。例の魔物を退治したから、本隊に出す報告書を書くとか言ってな。終わったら帰ると言ってたけど、結局なんやかんやで、ずっと働いてるよ」
 本隊というのは、ガエリアでいちばん人数が多い東の詰め所のことだ。公式には第一分団だが、警備団の中枢機能があるので仲間内では本隊と呼んでいる。団員数はほとんど変わらないが、各分団があげてくる報告をまとめたり予算を編成したりと事務仕事が他の分団より多いので、事務員が複数いる。
 ここガエリアは、ラトアティン伯爵の領地の一つだ。現在は、伯爵の三男がガエリア領主になっているが、彼は複数の小さな街をまとめて統治しており、ガエリアには常駐していない。名代が常駐し、多忙な三男に代わって統治している。そして警備団は、ガエリア領主である伯爵家直轄の組織。総団長は三男になるが、これもまた名代が代任していた。
 その名代には、例の魔物を退治するよう再三言われていたらしい。下っ端であるギーディスたちにはわからない苦労が小隊長のルフトにはあるはずだが、彼はその苦労を窺わせない。市民と部下を守るため、誰よりも働いている。
 警備団で魔術師は重宝される。有力な戦力となるからだ。ギーディスが警備団に入った時、各分団がこぞって彼をほしがった。だが、ぜひほしいと言う小隊長たちと実際に会ってみると、誰もが予想外だという顔をして、少し考えさせてくれと掌を返した。
 理由はわかっている。魔術師という触れ込みながら、ギーディスに使える魔術がほとんどないからだ。その上この目の色。魔術師という存在自体がそもそも常人から逸れているのに、そこから更にはみ出した容姿を持っている。それが小隊長たちに二の足を踏ませた。
 例外は、ルフトだけだ。
 最後に会ったのがルフトだったが、彼はギーディスの目を見ても、灯火をともす魔術くらいしか使えないと知っても、表情すら変えなかった。代わりにこう言った。第二分団にはいま魔術師がいない、ぜひ来てほしい、と。
 そんなルフトがいるからなのか、第二分団の誰も、ギーディスの眼の色を気味悪がらなかった。
「……早く結界の補修をしないとな」
 ルフトの消えた扉を見つめ、ぽつりと言った。


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