お嬢と補佐官

 お嬢。
 補佐官の彼はイサリーゼをそう呼ぶ。
 歳は彼の方が十は上。身分はイサリーゼの方がずっと上。平民からの叩き上げである彼にとって、イサリーゼは、先代の王の孫というだけで隊長に抜擢された小娘なのだ。部下である隊の皆に陰口を叩かれなくとも、実力が伴っていないのはイサリーゼが一番よく分かっている。
 イサリーゼの祖父が治め、今は彼女の父親よりも年上の従兄が治めている国エリスアードは、緑の平原と森が美しい国だ。王がおわす都の名はアースルード。その治安を守り、変事に備えるのが、イサリーゼが所属する王都警備団の役割だ。警備団は六つの隊に分かれていて、イサリーゼはそのうちの一つを任されている。
 イサリーゼの歳は十六。警備団最年少の隊長である。というより、イサリーゼより年若い者の方が圧倒的に少ない。イサリーゼが長を務める第五分隊で、彼女より年少の兵士はわずかに三名。あとは皆年上ばかりで、古参の兵士とは親子ほども歳が違う。
 こんな小娘が自分たちの上官では、部下たちはやりにくいだろう。その上、王族ではないものの、先王の孫で今の王の従姉妹で、エリスアード有数の貴族であるユーベルベーク侯爵家の令嬢ときている。平民から取り立てられた兵士も多い警備団では、イサリーゼがむしろ異物である。
 やりにくいと思っているのは、他の隊長たちも同じだろう。みな叙任を受けている騎士だ。いずれも歴戦の兵(つわもの)たちだが、腫れ物に触るようにイサリーゼに接する。
 イサリーゼも叙任され騎士になったものの、従騎士から騎士になるまでの期間の短さは異例だ。やっと人並みに剣を扱えるようになったイサリーゼを従騎士から騎士に引き上げ、王都警備団の隊長の座につけたのは、従兄のエリスアード国王だった。
「そなたにはそれだけの実力がある」
 早すぎる騎士の叙任と、それから間もない隊長就任にイサリーゼが遠慮がちに異議を唱えたら、王はそううそぶいた。
 面倒で厄介な娘が来ると思われていたのか、誰もがおっかなびっくりといった様子で、着任初日であっても誰も近寄ろうとしなかった。
 右も左も分からないイサリーゼは、しかし、この身に流れる血だけで今の地位を手に入れたと思われたくない、という意地があって、自ら誰かに訊く、ということができなかった。
 今思えばちっぽけでつまらない意地だったが、舐められてはいけないと肩肘張って表情険しく、近寄りがたい雰囲気をこれでもかとふりまいていた。
 そんなイサリーゼに近付いてきた者が一人だけいた。それが、彼である。名はライル・ガノセン。
 隊長及び副隊長には、それぞれ任務を補佐するための補佐官が付く。彼は、第五分隊隊長付の補佐官だった。

      ●

 三階建ての警備団本営の裏庭は、建物に遮られてまったく日が射さない。いつでも薄暗く、じめじめとしている。警備団本営は大人の男よりも背の高い木製の塀に囲まれているせいで、建物と塀に囲まれた裏庭は風通しが悪い。じめじめしている原因の一つだ。
 そのうえ、目立たない場所なのをいいことに、裏庭には誰かが捨てていった壊れた鎧や兜、そのほかよく分からない色々ながらくたが転がっている。風雨にさらされ土埃にまみれて汚らしく、誰も触りたがらないからいっこうに片付く気配がない。
 しかし、そんな場所だからこそ、人気はなかった。好んで近付く者はほとんどなく、まして長居する者は皆無だ。イサリーゼと、もう一人をのぞいて。
「お嬢は今日も頑張るねえ」
 塀にもたれ掛かってポケットに両手を突っ込んでいるライルが、のんきな声で言った。
 風通しが悪くじめじめとしている裏庭でも、育つ植物はある。苔がほとんどだが、よく見れば地面にも建物や塀にも張り付いていて、案外裏庭も緑にあふれている。鮮やかさはないが。
 ライルがもたれている塀にも苔は生えていて、服が汚れるのではないか、とイサリーゼはいつも思っている。別に、彼の服の汚れを心配しているのではない。彼の服を洗濯しなければならない、警備団お抱えの洗濯婦たちの仕事が増えることを心配しているのだ。
「お暇でしたら休憩室で休んではどうですか、ガノセン補佐官」
 イサリーゼは素振りの手を休め、ライルを半眼で見る。日は射さなくとも、動けば夏のこの季節、額に汗がにじむ。淡い金色の髪が額に張り付いて気持ちの悪い違和感があり、イサリーゼは手を休めたついでに髪をかきあげた。
「こう見えて仕事中だよ」
「とてもそうは見えませんが」
 地位はイサリーゼが上だが、彼女は常に敬語を使う。ライルやほかの隊長、兵たちが年上だからというよりは、彼らに敬意を払ってのことだ。身分など関係ないと思ってそうしているが、イサリーゼの敬語もまた、取っ付きにつくと思われている要因の一つかもしれなかった。だけど今更やめるわけにもいかない。
「お嬢を見守るのも補佐官の俺の役割さ」
 ライルは肩をすくめる。
 イサリーゼが敬語を使うからか、あるいはそうでなくても身分と地位のせいなのか、誰もが彼女に敬語で話す。例外はライルくらいだ。彼は、初めて顔を合わせた時からずっと、ずいぶんとくだけた口調でイサリーゼに接している。しかし、それをありがたいとか気安くて嬉しいとは、あいにく思えなかった。
「……補佐官は、隊長の護衛ではないでしょう」
「隊長どのが自主鍛錬で無理をなさらないよう、気を配っています」
 言葉だけなら丁寧だが、表情は先ほどののんきなものと変わらないし、口調も同じ。そのせいで余計に、からかわれているとか馬鹿にされているとかいう印象が強くなる。
 そも、イサリーゼを「お嬢」と呼ぶところからして、小馬鹿にしているとしか思えないのだ。

      ●

 隊長とその補佐官として初めて顔を合わせた時、ライルは軽く目を瞠り(イサリーゼに関する噂をまったく知らなかったと後に判明した)、開口一番に言った。
「ここは、あんたみたいな綺麗なお嬢さんが来るような場所じゃないぜ」
 お嬢さんではなく第五分隊の隊長で、名前はイサリーゼ・ヴォン・ユーベルベークだと言っても、手遅れだった。
「お嬢さんが新しい隊長なのか。俺は隊長付補佐官のライル・ガノセンだ。よろしくな」
 悪気のない明るい表情で差し出された手を、イサリーゼは仕方なしに握り返した。ライルの手は皮が厚く硬く大きくて、イサリーゼは自分の手が子供のように小さく見えたことを今でもよく覚えている。
 それからずっとライルは、イサリーゼを「隊長」でもなく「イサリーゼ」でもなく、「お嬢」と呼ぶのだ。
「お嬢さん」でないのは、そう呼ばれるといつまでたっても客人扱いのようで嫌だ、とある時イサリーゼが言ったからである。イサリーゼとしてはそれで、お嬢さんと呼ぶのをやめて隊長か名前かで呼んでほしいと言外にほのめかしたつもりだったが、ライルには通じなかったらしい。あるいは、わざとはぐらかされたか。
 ともかく、よそよそしいというのならこれからはお嬢と呼ぼうかとライルは提案し、イサリーゼは半ば諦めてろくに反論も不満を口にしなかったため、お嬢と呼ばれるようになってしまった。
 しかし、諦めかけてはいるが諦めきれないイサリーゼは、時々「お嬢ではありません」と言ってみる。
 あいにく効果はまったくない。それどころか「お嬢が嫌ならば、隊長どの」とかライルは言う。今まで気安くしていたくせに急に隊長どのと言われたところで、なんだが嫌みな感じがするからお嬢の方がまだましで、結局なあなあになってしまうのだ。
 呼び方についての不満は尽きることがない。しかし、それ以上に不満なのが、補佐官と言いながら、ライルがイサリーゼの護衛のような真似をすることだ。
 自分の実力不足は認める。だが、誰かに守ってほしいとは思わない。誰かに守ってもらわなければならない隊長が王都アースルードを守っているなど、滑稽ではないか。

      ●

 今も苦々しく思い出す出来事がある。
 イサリーゼが第五分隊隊長に就任して半年ばかり過ぎた頃の夜の巡回中、盗賊に遭遇したことがあった。
 こちらは四人、相手も四人で、いずれも武装していた。盗品が入っていると思しき革袋や、返り血の付いた服。ついさっき盗みを働いたばかりだと分かる不逞の輩を捕縛せんと、イサリーゼが合図するより前にライルを含めた三人が動き、月明かりしかない真夜中の路地での捕り物となった。
 盗賊達の反応も素早かった。逃げるのではなく、斬りかかってくる三人にそれぞれ応戦したのだ。遅ればせながら剣を抜いたイサリーゼに、余った一人が切っ先を向けた。
 実戦は、この時が初めてだった。急に自分の剣を重く感じ、思うように体が動かない。震えていのが分かった。
 相手にもそれを知られてしまった。月夜に目が慣れていたから、警備団に見つかったというのに、にやつく盗賊の顔がはっきりと見えた。
「ずいぶん綺麗な顔したお嬢ちゃんじゃないか。こりゃ嬉しいねえ」
 口元を歪めて盗賊が言う。お嬢ちゃん、という言葉はライルと似ているのに、盗賊が言うとひどく下卑て聞こえた。その盗賊が、にやけた顔のまま剣を振り上げる。
 一撃目は受け止めた。だが、それだけで手が痺れてしまい、剣を取り落とさないようにするのが精一杯だった。
 鉄の錆びたようなにおいが風に乗って届く。部下か盗賊か分からないが、誰かが怪我をしたようだ。剣を打ち合う音や気を吐く声が聞こえるものの、戦っている間にそれぞれ移動したのか、距離があるようだった。
 援護はない。否、援護など望んではいけない。分隊の隊長として、年上ばかりだけど部下を率いる者として、盗賊の一人くらい倒さなければ。
 余裕綽々の表情で盗賊が踏み込んでくる。淀みない動作だ。戦い慣れているのがイサリーゼでも分かった。仲間の盗賊達もおそらく同じだろう。兵士崩れの盗賊なのかもしれない。
 金属音が響き、重い振動がイサリーゼの手に伝わる。ぐっと歯を食いしばりわずかに重心を落として踏ん張り、なんとかよろめくのを防ぐ。一撃目は様子見だったのか、盗賊はすぐに剣を退いた。しかし今度は退かずに力を掛け、じりじりと前に出てくるてくる。
 盗賊の剣を受け止めたままの体勢で力で押され、イサリーゼは退くに退けない。退けば一刀両断にされてしまう。かといって、腕力勝負に勝てる見込みはない。にじり寄る盗賊との距離が少しずつ縮まっていく。あと少し近付けば、足を延ばせば届きそうだ。隙を見て盗賊の足を払って体勢を崩し、この状況から抜け出せるだろうか。鍔迫り合いに耐えるのはそろそろ限界に近い。
「お嬢ちゃん、いい表情するじゃねえか」
 舐めるような視線に全身が泡立つ。その瞬間、盗賊が一気に踏み込んできた。
 両手で柄を握っていた盗賊は、間合いを詰めると同時に左手を離した。やはり両手で柄を握るイサリーゼの右腕の上からその手を通し、盗賊は柄を握る自分の右手を掴んだ。イサリーゼの右腕が、盗賊の肘に挟まれてしまう。
 盗賊の動きは終始素早かった。右足を、イサリーゼの右足の後ろに踏み込んで、体を右に回転させる。腕を取られているイサリーゼはその動きに抗えない。そもそもその余裕もなく、両足が地面から離れて、右後ろに引き倒されるように投げられた。石畳の道路に背中から叩き付けられて息が詰まる。その時の衝撃で剣を取り落としてしまった。
 盗賊は落ちたイサリーゼの剣を遠くへ蹴飛ばし、痛みでまだまともに息ができないイサリーゼの左肩を踏みつけた。
「本当は楽しみてえが、そんな暇はないんでな」
 盗賊が剣を逆手に持ち替える。絶望的にまずい状況だった。
 殺される――唐突に直面した死の危機に、全身が一気に冷たくなった。これが実戦だと緊張した時の比ではない恐怖に支配される。
 死にたくない、と強く思いながら襲い来る痛みを予想してきつく目をつぶる。
 悲鳴を上げたのは、しかしイサリーゼではなかった。
 左肩にのしかかっていた圧力がなくなり、目を開けると、盗賊の右肩にダガーが突き刺さっていた。
 盗賊が痛みに呻き、叫びながらダガーを引き抜いて投げ捨てる。イサリーゼのことはもはや眼中にないようで、剣を順手に持ち直して背中に担ぐように構える。
 盗賊が雄叫びを上げ、突撃する。それに応じるような勇ましい声。ライルだった。
 ライルは頭の高さに剣を掲げ、向かってくる盗賊を待ち構えていた。盗賊が、自分の間合いになった瞬間、担いでいた剣で弧を描く。ライルはそれを受け止める――とイサリーゼは思った。おそらく盗賊も思っただろう。
 しかし、ライルは盗賊の剣を受け止めずに右足を一歩前に踏み出し、それと同時に掲げていた剣を右旋回させ、盗賊の左側面に剣を打ち込んだ。
 刃が手首に食い込み、盗賊は再び悲鳴を上げた。切断には至らなかったが、盗賊の左手が柄からな離れる。ライルは剣を退かないまま更にもう一歩踏み込んで、盗賊の下腹部に蹴りを入れた。傍目にも容赦のない蹴りだと分かる。とうとう盗賊も剣を手放し、仰向けに倒れてそのまま起き上がらなかった。
「お嬢、大丈夫か?」
 盗賊を縛り上げたライルはイサリーゼの元に駆け付け、起き上がるのを手伝った。差し出された彼の手に掴まらなければ腰が抜けて立ち上がれず、震えているのもきっと知られてしまった。
「……ありがとうございました……」
 情けないが、ライルのおかげで助かったのは事実だ。それは素直に認める。
「どういたしまして。お嬢、怪我はないか?」
 イサリーゼが先に、ライルに怪我の有無を聞かなければならないのに、これでは立場が逆だ。
「わたしは何も。それより、ガノセン補佐官、顔から血が――」
 浅い傷のようだったが、ライルは左頬から出血していた。
「これくらいはかすり傷だ。お嬢に怪我がなくて良かったよ。綺麗な顔に傷でも付いたら大変だからな。陛下やユーベルベーク侯爵にどやされる」
「……え?」
 最後の一言はどういう意味かと聞く前に、てこずっている仲間の加勢をする、とライルは行ってしまった。
 他意はないのかもしれない。イサリーゼをお嬢と呼んで、ちっとも上官として扱わない彼のことだから、若い娘の顔に傷でも付いたら大変だと、ごく一般的なことを思っただけかもしれない。
 だが、イサリーゼはうがった風に考えずにいられなかった。
 ライルは、補佐官としての役目以外に、イサリーゼの護衛も、王やイサリーゼの父に密かに命じられているのではないか、と。
 部下の一人が腕を折る重傷を負ったものの、あとは擦り傷程度の怪我で済んだ。盗賊たちは、イサリーゼに襲いかかった男がいちばんの重傷で、ほかの三人もなにかしらの怪我を負っていたが、全員生きて捕まえることができた。
 王都を荒らす盗賊団を捕まえたとして、この一件はイサリーゼの手柄となった。
 しかし、イサリーゼは何もしていない。ライルがダガーを投げなければ殺されていただろう。
 何もしていないどころか、守ってもらわなければ死んでいたであろう自分の手柄とされてしまい、涙が出る程情けなくて悔しくて、イサリーゼはそれから、暇さえあれば裏庭で鍛錬するようになったのだ。

      ●

 建物の裏庭に面している側は、北向きということもって窓が少なく、小さい。景色の良くない裏庭をあえてその窓から眺めようという物好きはなく、イサリーゼは人目を気にせず鍛錬に打ち込むことができたのだが――。
「お嬢、そろそろ一休みしたらどうだ? 切っ先が下がってきてるぞ」
 割と早い段階で、ライルに知られてしまった。彼は補佐官だから、イサリーゼの近くにいることが多く、仕方ないのかもしれない。
 だが何故ほぼ毎回、イサリーゼの鍛錬をのぞきに来るのか分からない。見守っているとか言っているが、それは補佐官の仕事ではないだろう。
 やはりライルは、イサリーゼの護衛を命じられているのだ、と思ってしまう。一度、真っ向から訊いたことがある。当然のごとくそんな命令は受けていないと否定されたが。
 彼の言葉に従うのはなんだか癪だったが、疲労を感じているのは事実だった。
 ライルから少し離れた壁にもたれ、息をつく。休憩して、あともう少し鍛錬したら仕事に戻ろう。今夜は、各分隊の隊長と副隊長、その補佐官達が集まって、合同訓練の打ち合わせをかねた宴がある。その前に片付けなければならない仕事は――。
「お嬢。ちょっと手、見せてくれないか」
 今後の予定を考えるのに夢中で、迂闊にもライルの接近に気が付かなかった。いきなり真横から低い声が聞こえたから、心臓が飛び出しそうなほど驚いた。
「は、え……え?」
 手を見せろと、聞き間違いでなければ言われた気がする。ライルがイサリーゼの手を見たい理由がさっぱり分からない。
「お嬢の手だよ、手。ちょっと見せてくれ」
「な……何故そんな必要があるのですか! 別に、あなたと同じですよ。指は全部で十本です!」
 自分でも何を言っているのかと思うが、ライルが突然手を見せろと言うのだから仕方がない。イサリーゼは自分の体の後ろに両手を隠したのだが、
「お嬢の手が俺と同じわけがないだろう。――ちょっと失礼」
 ライルは少し呆れた顔をして、イサリーゼの腕を掴んで引っ張り出した。そしてあろうことか、手を取って自分の方へ近付けたのだ。
 何をするのか、と抗議をしようとしたが、突然であまりの出来事に言葉にならない。そんなイサリーゼにお構いなしに、ライルは彼女の掌をまじまじと見た。
「――肉刺(まめ)ができてる」
「え」
「血豆が潰れた痕もある」
 ライルが、わずかに眉間にしわを寄せる。彼が今見ているのは、イサリーゼの右手だった。その手を離すと、今度は左手を見せるように言われた。あまり見たことのない真面目な表情だったので、イサリーゼはおずおずと左手を差し出した。
「……左もだな」
 同じようにイサリーゼの掌をあらため、そう呟くと、イサリーゼの手を解放した。
 ほとんど毎日素振りをし、敵に見立てた人形(とも呼べないような木の柱)に打ち込んだりしているのだ。手の皮がずいぶん厚くなったとはいえ、しょっちゅう肉刺ができては、潰れている。
 そんなイサリーゼの掌を見た乳母は危うく卒倒するところだった。
 ユーベルベーク家の末娘として生まれたイサリーゼを蝶よ花よと育てて、騎士になると宣言した時には十日寝込んだ乳母が、令嬢とは到底言えないイサリーゼの掌を見て嘆くのは理解できる。
 しかし、まさかライルが掌の肉刺を気にするとは思わなかった。剣を取る者であれば、その掌がどうなっているのかよく知っているはずなのに。
 乳母のように、騎士などやめて姫に戻れとでも言うのだろうか。その方が「お嬢」には似合っているから、と――。
「この軟膏を塗るといい」
 腰に提げている革袋から、小さな陶製の壷を取り出した。ふたを開けて中身を確かめると、イサリーゼに差し出す。半ば押し付けられるように、イサリーゼはそれを受け取った。
「薬……ですか?」
 イサリーゼはきょとんとした顔で、小さな壷とライルの顔を交互に見た。まったくの想定外である。
「ああ、傷薬だ。肉刺の潰れたとことかちょっとした切り傷なら、これを何日か塗れば治る。俺もよく使ってるんだ」
 ユーベルベーク家にはお抱えの医師がいて、病気や怪我をした時にはその医師が薬を出していた。それ以外の薬をイサリーゼは服用したことがない。よく使っている、とライルに言われてもちょっと躊躇してしまう。
「効果のほどは保証する。なじみの魔女どのが調合したものでな。彼女の薬はよく効くんだよ」
「……魔女?」
 魔女や魔術師と呼ばれる、不可思議な力で不可思議な現象を起こす人々の存在は、イサリーゼも知っている。王都にも何人かいるらしい、とも聞いたことがある。ただ、見たことはない。魔術師たちを召し上げる貴族もいるらしいが、ユーベルベーク家では、胡散臭く怪しい輩と見なしていた。
 そんな輩に近付いてはいけないと教えられてきたイサリーゼであるから、魔女と聞いて思わず顔をしかめてしまった。しかも、ライルのなじみの魔女だという。いったいどれほどその魔女と親しいのだろうかと、イサリーゼはつい考えてしまった。
「怪しげなものじゃないよ」
 ライルは苦笑すると、イサリーゼの手の中にある壷のふたを取って、その中身を指先ですくい、自分の掌に擦り込んでみせた。
「ほら、なんともないだろう」
「……」
「遅効性の毒でもないから大丈夫だって。だまされたと思って、一度使ってみるといい」
「……どうして、それほど勧めるのですか、ガノセン補佐官。なじみの魔女どのとやらに、売り込んでくれと頼まれたのですか」
 すると、今度はライルがきょとんとした顔になる。が、すぐに彼は笑った。
「そんな険しい顔するなよ。見てたら、お嬢は最近柄の握り方が甘いから、もしやと思っただけだよ。お嬢はこの頃鍛錬する時間増やしたからな。肉刺が潰れて痛かっただろう」
 図星である。柄を握れないというほどではないものの、強く握って激しい動きをすると、じくじくとした鈍くしつこい痛みがあった。
 それをライルに気取られていたとは思わなかったが、心配して薬まで用意してくれたのは、少し、嬉しいと思った。騎士などやめた方がいいとか言われるのではないか、と一瞬でも思ったから。
「それとな、お嬢。魔女どのとは、顔なじみってだけだよ。常連客と店主って仲でしかない。魔女どのには、彼女に似合いの恋人がいる」
「……はあ?」
 ライルの意図するところが分からず、思わず素っ頓狂な声になっていた。
「ん? やきもち妬いたんじゃないのか、お嬢は。俺が魔女どのと親しいと聞いて」
「違います! 何故わたしが!」
 大声を上げるイサリーゼを、ライルは少し不満そうに見る。
「さっき怖い顔で俺を睨んでたじゃないか」
「睨んでなどいません!」
「睨まれたけどな、俺……まあいいか、そういうことにしておこう」
 と、ライルはいたずらめいた顔で笑う。イサリーゼの言うことをまったく聞いてくれていないのは明らかだった。
「ともかく、お嬢、寝る前に塗るのがいいぞ」
 この話題は終わりとばかりにそう言うものだから、イサリーゼもこれ以上抗議はできなかった。言えば、それこそ嫉妬しているみたいではないか。そんなことはまったくないというのに。そう、まったくだ。ライルにやきもちを妬くとか、ない。
「じゃ、俺は仕事に戻るから、お嬢も程々にして切り上げろよ。夜はおっさんども相手に打ち合わせという名の宴会だしな」
 まったくもって今更だが、上官に対する口調と態度ではない。そもそもどことなく子供扱いだ。ライルは一方的にそう言って、裏庭を去ってしまった。
 一人取り残されたイサリーゼは、しんとした裏庭を見回す。ライルがいなくなっただけでなんだか少し薄暗くなったように感じるのは、気のせいだと思いたい。
 静かになると、沸々と小さな不満が沸いてくる。いずれ機会があれば、今度こそちゃんと、やきもちなど妬いていないと、ライルに理解させねばならない。
 手の中にすっぽりと収まっている壷を見る。中には、白っぽい緑色の軟膏が詰まっていた。ゆっくりと鼻を近付けると、すっとした清涼感のある匂いが鼻腔をくすぐる。
 魔女の調合したものだと言えば、乳母や医師はすぐに捨てろと言うに違いない。だけど、黙っていれば分からないだろうから今夜使ってみよう、と思った。

〈了〉

続編あります『名前で呼んで