名前で呼んで

※本作は『お嬢と補佐官』の続編になります。



 合同訓練の打ち合わせはとんとん拍子で進み、日没後間もなく打ち上げと称した宴が始まった。団長の音頭で乾杯した後は無礼講だ。酒が進むに連れ、広間には男たちの怒号のような笑い声が響き、追加の酒や料理を運ぶ侍従たちが忙しそうに広間を駆け回っていた。
 明日もほとんどの者が仕事なので、夜中になる前に一度お開きとなったが、飲み足りない連中がまだ何人も残っている。そんなにぎやかな広間を、ライルはイサリーゼを半ば引きずるようにしてあとにした。
「わたしは子供じゃないんれすよ。第五分隊を任されている騎士です。自分の邸にくらい、一人で帰れまふ!」
 イサリーゼはライルの腕を振り払うが、その勢いで足下がふらつき倒れそうになる。慌ててライルが彼女の腕を掴むと、離してくらさい、とろれつの回らない舌で抗議する。
 ライルは深々とため息をついた。誰がどう見たって立派な酔っ払いだ。それもべろんべろんに酔っている。
 イサリーゼは酒に強くない上、飲み慣れていない。宴が始まった頃はさほど強くない酒を上品に少しずつ口にしていたはずだが、彼女の杯にいつの間にか葡萄酒が注がれ、いったい誰がすすめたのやら、ライルが気が付いた時には火酒が入っていた。多少水で割ってあるようだったが、イサリーゼが飲むには強すぎだ。ほろ酔いをとっくに通り過ぎ、自分が酔っていると思っていないイサリーゼは更に火酒をあおろうとしたが、ライルは水の入った杯とそっと取り替えた。酔っているせいでイサリーゼはそれにまったく気が付いていなかった。
 足下のおぼつかないくせに一人で帰れると言い張るイサリーゼをなんとか歩かせ、やっとのことで彼女を待っている迎えの馬車まで連れてくる。
「ほら、お嬢。家に帰るんだから、乗ってくれ」
 御者に扉を開けさせ、中に押し込めようとするのだが、酔っ払いはそう簡単に言うことを聞かない。
「自邸くらい、歩いてでも帰れまふ」
 どう考えても不可能だ。五歩も歩かないうちに転ぶ。それにもう夜も遅い。酔っていなくともイサリーゼを一人で歩かせるわけにはいかない刻限だ。
「わたくしは歩いて帰れまふから、ガノセン補佐官もどうぞお帰りくらさい」
 人がせっかく手を貸しているというのに、イサリーゼは猫か犬を追い払うような仕草をする。
 そんな令嬢の姿を見て、ユーベルベーク家の御者はおろおろとするばかりだ。どうして侍女の一人や二人連れて来なかったんだ、と内心で悪態をつきながら、その場に座り込もうとするイサリーゼの両脇に手を入れ、立ち上がらせる。
「わたくしはひとりで大丈夫……」
 はあ、とライルは大きくため息をついた。まったく手の焼ける分隊長どのだ。
「なあ、お嬢。お嬢はひとりで帰れるかもしれないが、俺はひとりじゃ帰れないんだ。だから、お嬢が送ってくれないか」
「わたくしが、ガノセン補佐官を?」
「ああ、送ってくれ。頼むよ」
 振り返ったイサリーゼの目はとろんとしていたが、途端にぱっと顔を輝かせる。送られるのが嫌ならその逆はどうかと思って言ったみたのだが、効果覿面だったらしい。
「ええ、喜んで!」
 普段ライルに子供扱いされているのがよほど不満だったのか。頼られたと思いここまで嬉しそうにするイサリーゼを見て、ライルは普段の自分の言動を少しだけ反省した。
「ガノセン補佐官を送って差し上げてから、自邸に帰るわ」
 御者に嬉々とした声で言うと、イサリーゼは意気揚々と馬車に乗り込み、早速足を踏み外したのでライルはまた慌てて助け起こした。
 イサリーゼをなんとか押し込めて座らせてライルも乗り込み、扉を閉めようとする御者にまっすぐユーベルベーク邸へ向かうよう耳打ちした。
 ユーベルベーク家所有の馬車はさすがとしか言いようがない。暗くてよく見えないが豪華な装飾が施された内装のようだし、座席を覆う布の手触りもよければ、中の詰め物も上等だ。もっとも、長時間座っていると尻が痛くなるような馬車になじんでいるライルにとっては、逆に座り心地が悪かったのだが。
 そんなライルの向かいで、イサリーゼはうつらうつらしている。
「ガノセン補佐官」
 馬車の揺れに合わせて大きく頭を揺らしていたイサリーゼが、一度びくりと震えたかと思うと、突然顔を上げた。
「わたくしは前々からあなたに申し上げたいことがあるのです」
 決意表明でもするような強い口調である。しかも揺れる車内で、やめればいいのに立ち上がる。
 侯爵家のものとはいえ普段用の四人乗りの馬車はさほど大きくはない。立ち上がったイサリーゼの頭はぎりぎり天井に届いていないが、対面に座ってかろうじて膝がぶつからない程度だ。
 が、その程度の広さなので、イサリーゼでも立ち上がれば圧迫感があった。
「わたくしは、警備団の第五分隊長であなたはその補佐官です。そして、わたくしの名前はイサリーゼ・ヴォン・ユーベルベークと申します」
「ああ。知ってるよ」
 相手が酔っているから、いきなりそんな分かり切っていることを言われても驚きはしない。
「では何故わたくしを『お嬢』と呼ぶのですか」
 前々から言いたいというのはそれか、とライルは苦笑した。
 酔っているから忘れてしまっているのか、前々から、時々言われていることだ。いい加減に諦めただろう、と思った頃にイサリーゼは思い出したように何故と言い出す。
「丁寧に『お嬢さん』の方がいいか?」
 そういうことではない、というのはもちろんライルも分かっている。
「お嬢やお嬢様などの問題ではありません。わたくしには名前があって、あなたの上官です、一応」
 口調がいつもと少々違うな、と今になって気が付いた。酔っているせいなのか。わたくし、というのがイサリーゼの本来の一人称なのだろう。そのくせ、一応とつけるのを忘れないところがおかしい。よほど気にしているようだ。
「じゃあ上官どのと呼べばいいのか?」
「その呼び方は、わたくしを小馬鹿にされているのですか?」
 イサリーゼは不満そうに唇をとがらせる。
「お嬢。そうなるともう名前で呼ぶしかない」
 だが今更、とライルはますます苦い気持ちで笑う。
 今更、イサリーゼを『お嬢』以外に呼びようがない。名前で呼べば、周りが変に勘ぐるだろう。分隊長と呼べば、イサリーゼは小馬鹿にされていると思うだろう。
「わたくし、常々その方がよいと思っているのです」
 平素のイサリーゼであればおよそ口にしないせりふだった。お嬢はやめろと言うから、一度名前で呼んだら、自分で呼べと言ったくせに耳まで赤くして怒ったことがあったというのに。
 本当はお嬢と呼ばれたいのか、呼ばれたくないのか。名前で呼んでほしいのか、呼んでほしくないないのか。侯爵家令嬢の矜持なのか女心なのか。何とも扱いが難しい。
「それなら――」
 どうせ彼女はひどく酔っていて、明日になればこんな他愛のない会話は忘れてしまう。だからこその、ふとした思い付きだった。
「俺のことも『ガノセン補佐官』じゃなくて、名前で呼んでくれよ」
 さあどうするだろうか、とイサリーゼを見上げる。彼女は大きな目を更に大きくして食い入るようにライルを見ていた。
 だが、それも一瞬のこと。イサリーゼの顔が綻ぶ。
「ライル」
 形の良い唇に笑みを浮かべ、彼の名前を紡ぎ出す。
 まさかこうもあっさり呼んでくれるとは思わず、ライルの方が今度は目を丸くした。
 その時、馬車が大きく揺れてイサリーゼが体勢を崩した。ライルはとっさに腕を広げ、小さな悲鳴を上げてこちらに倒れてきたイサリーゼを抱き留める。
「あ……ごめんなさい」
「イサリーゼ、大丈夫か?」
 ライルの胸に顔を寄せる形となってしまったイサリーゼが顔を上げる。
「大丈夫です。ありがとうございます、ライル」
 今まで見せたことのないような満面の笑みで、まっすぐにライルを見つめてくる。
 彼女の頬がうっすら赤いのも、目が潤んでいるように見えるのも、酒に酔っているせいだ。どこかしどけないのも、酒のせいだ。
 それなのに、柄にもなく動揺してしまった。
 ライルを見上げていたイサリーゼが、長い睫毛に縁取られたまぶたをゆっくりとおろしていく。その動きに引き寄せられるように、やはりゆっくりと、ライルは首を前に傾けていく。
 彼も酒を飲んでいないわけではない。
 彼女の唇がかすかに動く。ライル、と名前を呼んだ。彼も、イサリーゼ、とささやく。
 イサリーゼのまぶたが完全に閉じられる。それを間近で見届けたライルも目を閉じて、あと少しの距離を詰めていき――。
 互いの名前を呼んだ唇が触れ合う前に、イサリーゼがかくんと頭を揺らしてライルの胸に音もなく寄りかかった。
「……」
 胸元から、安らかな寝息が聞こえてくる。
 ライルは首を屈め、ひとり唇を突き出した格好で固まっていた。端から見たらさぞかし滑稽なことだろう。
 何だろうか、この、もてあそばれたような、肩すかしを食らったような気分は。普段お嬢と呼んでいる、その仕返しをされたのかと疑いすらした。もちろん、イサリーゼは足下がおぼつかないほど酔っていたからそんな意図はなかっただろうが。
 ほどなく馬車が止まった。ユーベルベーク邸に到着したらしい。御者にこんなところを見られては厄介と、ライル元いた場所にイサリーゼを座らせる。
 完全に寝入ってしまったイサリーゼは、ライルの気など知りもしない、安心しきった寝顔である。その口元が小さく動いた。寝言なのか、また彼の名前を呼んだのか。
 それを確かめる術もなく、到着しました、と御者が扉を開けた。

〈了〉