魔女は涙を流さない 後編

「また必ず来ます」
「来なくていいわよ」
 翌朝、王都に戻る俺は一方的に再訪を約束したのだが、近い将来の師匠・ソフリアはそんな俺を迷惑そうに見た。しかし、迷惑顔など俺はすっかり見慣れている。迷惑がられようとも、俺の夢を叶えるためならば何度でも足繁く通ってみせる。
「今度は準備万端にしてきますから。待っていてください、お師匠さま」
「来なくていいし、わたしは坊やの師匠でもないから」
「師匠になる方ですから」
「……もういいから、帰りなさい」
 諦めたのか呆れたのか、魔女はさっさと行けと手を振った。
「ではお師匠さま。しばしのお別れです。すぐに戻って来ます」
「はいはい。気をつけて帰りなさい。それで、わたしのことはすぐ忘れなさい」
 ソフリアは完全にあしらう口調だったが、二度と来ないように釘を刺すことは忘れなかった。
 いまいちかみ合わない会話を交わし、俺は一度王都へ戻ったのだった。


「俺を弟子にしてください」
 二日後、俺は再びソフリアの家を訪れていた。
 扉を叩くとソフリアは一度開けたのだが、訪ねてきたのが俺だと分かると、今度はすぐに扉を閉めた。
「お師匠さま。いきなり閉め出さないでください」
「もう来るなと言ったでしょう。それから、わたしを師匠と呼ばない」
 扉越しに声が返ってくる。
「そうは言っても、俺はあなたの弟子になるつもりでこうして来てるわけですから」
「弟子はいらないって、一昨日も言ったはずよ。そんな物覚えの悪いやつを弟子にしたくはないわね」
 一昨日は扉越しでも返事をしてくれなかったことがほとんどだったので、今日はまだましな反応だろう。ここで粘らないわけにはいかない。
「一昨日言われたことはしっかり覚えているんで、俺を弟子にしてください」
「……」
 扉が再び開く。心底呆れた顔をしているソフリアがいた。
「あのねぇ、どちらにせよ弟子はいらないのよ」
「でも、ほしくなるかもしれないですし」
 この直後、ソフリアは無言で扉を閉めた。この日は二度と再び扉が開くことも、返事が返ってくることもなかったのだった。
 今度は夕暮れが迫る前に帰途につき、俺はまた二日後に彼女を訪ねる、という繰り返しをこの後続けることになる。
 何故一日間に置くのかというと、王都での滞在費を稼ぐためだった。泊まっている宿で手伝いをするのだ。俺が魔術師と知った宿の主人に頼まれて、薪割りや風呂たき、食材の運搬なんかをしている。主人とその奥さんは俺の両親よりも年配で、力仕事が年々大変になっているからとても助かる、と言ってくれる。俺としても、彼らの手伝いをすることで滞在費を捻出できるのでありがたかった。
 これでソフリアが俺の弟子入りを認めてくれればいいのだが、魔女はなかなか頑なで、
「俺を弟子にしてください」
「一昨日おいで、坊や」
「一昨日も来ましたよ」
「……そういう意味じゃないでしょう」
 弟子入りはいっかな認められない。しかし彼女は律儀な性格なのか、その日最初に扉を叩いたときは、必ず応じてくれるのだ。その後は無視されることも多いのだが。

          ●

「ソフリアは、どうして弟子がいらないんだよ」
 魔女を訪ねるようになって、一月以上。ソフリアが「丁寧語は堅苦しいし、お師匠さまも、ソフリアさまもいや」と言ったので、俺は素直に彼女の言葉に従った。
 名前は呼び捨て、まるで気安い友人に語りかけるような口調に「言った途端に、現金な子ね……」と、すっかり見慣れた呆れ顔をされたが、彼女はそれ以上咎めることはなかった。
「わたしは師匠という柄じゃないからよ」
 畑の手入れのためにソフリアが外へ出てきたので、俺は素早く彼女に駆け寄った。弟子入りを断られるのは相変わらずなのだが、夕方が迫れば俺が必ず帰って行くからなのか、最近は追い払われることはない。
「そんなの、やってみないと分からないだろう。試しに俺を弟子にしてみれば」
「仮にわたしに指導者の才があっても、弟子はいらないわよ」
 ソフリアは黙々と雑草を抜いていく。弟子がいれば、というか俺が彼女の弟子であれば、畑の手入れくらいいくらでも手伝うのに。未来のやる気を今発揮すれば、彼女の考えも変わるかもしれない。
「手伝うよ」
「手伝ってくれても、弟子にはしないわよ」
「……」
 俺の浅はかな考えはあっさり見抜かれたが、たとえ弟子になれなくとも、一度手伝うと言ったからには実行あるのみ。腕まくりして、雑草抜きに取りかかった。
「へえ。慣れた手つきね」
 実家は農家なので物心ついた頃から親について、畑仕事をやっていた。今だって、宿屋の小さな畑を耕したりしている。俺にとっては日常のありふれた仕事である。そんな俺の手慣れた仕草を見て、ソフリアがわずかに目を瞠る。彼女が驚くとは珍しい。
「実家は農家だからね」
「坊やは、王都出身じゃないの?」
 王都はこの国で最も人口が多く、栄えている都市だが、農民はほとんどいない。王都に住むと税は高いし、耕せる場所もほとんどないからだ。会ったとしても、家庭菜園が出来る程度である。城壁の外に畑や田んぼはあるのだが、壁の外はもう王都ではなかった。
「タッツクっていう、小さな村だよ」
 俺は地方の出身だと彼女に言ったことがなかったし、王都のことを幾度か話したことはあったから、勘違いされても無理はなかった。そして悲しいかな、ソフリアは俺に関心がなかったらしく、具体的な出身地を尋ねられたことがなかった。
「ずいぶん東の方から来たのね」
「場所、知ってるのか?」
 たとえ東の都市であっても、小さな村の名前を知っている者は少ない。ましてそれが王都となれば、言わずもがなである。
「こう見えて、ずいぶん長生きをしているからね」
 ソフリアは当たり前のことのように言ったが、俺はすっかりその事実を忘れていた。そうだった。彼女は、強大な魔力によって老いを止め寿命さえ延ばしてしまうような魔女だ。長く生きている分、知識も俺とは比べものにならないほど多いに違いない。その片鱗をさりげなく見せられては、彼女の弟子になりたい、とますます思うようになるじゃないか。
 その思いをすぐさまソフリアに伝えようとしたが、彼女は急に険しい顔をして立ち上がった。
 いったい何事かあったのかと、彼女が顔を向けている方に、俺も顔を向ける。すると、森の中から、男が一人現れた。
「ソフリアどの。お久しぶりです」
 宮廷魔術師。男の姿を見て、すぐに分かった。
 藍色の染められた服の左半分に施された、蔓草をあしらった白い刺繍。王都で宮廷魔術師の姿を見かけるたび、いつかあの衣装を俺もまといたいと、憧憬のまなざしを送っていた。
「……何度訪ねてこようと、わたしが承諾することはないわよ」
 ソフリアは、俺の弟子入りを断るとき以上に硬質な声だった。
「陛下は最上級の待遇を約束されています」
 宮廷魔術師の男は、俺を一瞥しただけですぐにソフリアに視線を戻した。俺に興味はないらしいが、俺は彼の言葉に俄然興味があった。
 陛下。男は確かにそう言った。二人の少ない会話を聞いて、すぐに分かった。この宮廷魔術師は、陛下の使いに違いない。ソフリアに弟子入りしてみろ、と俺を体よくあしらった男が、ソフリアは王が呼んでもその求めに応じていない、と言っていたことを思い出す。
「どれほどの地位を用意しようと、わたしは宮殿へは行かない。王にそう伝えなさいと、この前も言ったはずよ」
「あなたもこの国に住まう民の一人なのですから、陛下のお言葉に従う義務があるはずです」
「あなたの王は、わたしの王じゃない」
「ソフリアどの。いくらあなたでもその言葉は不敬ですよ」
「捕らえて罰せられるというなら、そうしてみなさい」
 ソフリアから不穏な空気が漂い始める。男もそれを感じ取ったのか、身じろぎした。
「――また日を改めて伺いますが、よくよくお考えください」
 近くにいる俺の背筋が寒くなるほど、ソフリアの発する雰囲気の不穏さが増していく。宮廷魔術師は出直すことを早々に決め、そそくさと森の中へ入っていった。
 逃げ帰る宮廷魔術師の姿に、気の毒さを感じると同時に少し幻滅しつつ、俺は恐る恐る魔女を見た。
 男の姿がすっかり見えなくなると、ソフリアの不穏な気配が霧散していく。そのことに安堵し、胸をなで下ろす。
 ソフリアと目があった。
「――坊やがどれだけ頼み込もうと、わたしは弟子をとらない。分かったでしょう?」
「……」
 ソフリアは、王の招きにさえ応じない。さっきの宮廷魔術師が彼女を訪ねてきたのは、二度や三度ではないだろう。
 魔女は国王に対してでさえ、にべもない。俺なんかをあっさり追い払うのも当たり前だ。何度ここに足を運ぼうと、いくら畑仕事を手伝おうと、彼女の弟子にはなれない。いい加減に、それを認めるしかないのだろう。
「……どうして、頑なに拒むんだよ」
 俺の弟子入りも、王の招きも。
 魔女のソフリアに比べれば、俺の才能なんて彼女の足下にも及ばない。俺をあしらうのはまだしも、王の言葉さえ同じように拒むのは納得できなかった。
 俺がここへやって来たのは、最終的には宮廷魔術師になるためだ。
 これで呼ばれたのが自分だったならば、俺は喜び勇んではせ参じるというのに。魔女の力がどれほどのものか、魔術師ならば実際に目にしたことがなくとも知っているし、宮廷魔術師を目指す俺にしてみれば、ソフリアの行為はひどくもったいなく思えた。
 なじるような俺を一瞥して、ソフリアは王都の方角を見る。
「宮殿の中は、坊やが思っているほど楽しい場所ではないよ。あそこで生きる魔術師は、飼われているようなものだもの」
「そんなこと」
 否定しようとする俺の言葉を、魔女がすぐさま否定する。
「坊やは、自分の術で誰かを殺せる? 誰かを殺すための術を編み出すことができる?」
「……そんな必要は」
「あるわよ。坊やにはなくても、この国にはある。国が、王が求めるのはそういう魔術師。求めに応じられない魔術師は、必要ではないのよ」
 例外があるとすれば、魔女のように強い力を持つ魔術師くらいだろう。
 ソフリアも、かつては宮廷魔術師として仕えていたことがあるという。ならば再び、魔女は宮殿に舞い戻ることもあるのではないか。あの宮廷魔術師は、その上にいる王は、そのわずかな可能性に期待をしているのだ。
 ソフリアは何故、王の求めに応じないのだろうか。
 俺は何故、求められてもいないのに王に欲されることを望んでいるのだろうか。――自分の手で、魔術で、人を殺す。そんな想像さえしたこともないのに。
 俺の使う魔術と言えば、一度にたくさんの薪を割ったり、それに火をつけたり、重い荷物を運んだりと、日常生活で主に活躍の場があるようなものばかりだ。
 人を殺す、と言われても全然ピンと来なかった。
 誰かを傷付けようと思って魔術を使ったことはなかったし、そんなことをしては絶対にだめだ魔術師の技は人々の生活に役立ってこそのものだ、と師匠にも教えられた。俺も、その通りだと思っていた。
 けれど、国が、王が求めているのは、そんな魔術師ではない。人を殺す術を使うことを厭わず、新たに編み出すことのできる者だという。
 俺はそういう魔術師になれるとも、なりたいとも思えない。目指していたのは、人々の役に立てるような魔術師なのだ。
 宮廷魔術師となって、みんなの暮らしに役立つような魔術を編み出すことができれば。宮殿から、世間で活躍する魔術師たちに、広く速く伝えられると思った。
「わたしは、国の求めるような魔術師になるつもりはない。だから、拒むのよ。でも、坊やは宮廷魔術師になりたいから、そのためにわたしの弟子になりたいと言う。弟子はいらないけれど、目指す先が正反対の弟子をわざわざとることは、もっと必要ない」
 きっぱりと、ソフリアは断言した。今までで一番、俺を拒んでいるように聞こえた。
「……違う。俺は、俺が目指しているのは、そういう術師じゃない」
 誤解されたくなかったから、否定しようとした。しかし、言葉が詰まる。俺は、どんな魔術師になろうとしていたのだろう。すぐには思い出せなかった。
「魔術師の生きる場所は、宮殿の中だけじゃない。市井の方が、よほど生きる場所はあるわ。必要とされている。坊やは、王からではなくて、人々から求められる魔術師になりたかった。そうじゃないの?」
 彼女の言葉を聞いて思い浮かんだのは、故郷にいる両親や近所の人たち、それに定宿の主夫婦の顔だった。
 俺が魔術を使って彼らの手伝いをすると、ありがとうと言ってくれる。子供の頃、薪に火をつけてお礼を言われるたび、俺は嬉しかった。魔術を使う俺を気味悪く思う人もいるにはいたが、そのことを大して気にしなかったのは、自分の力が人の役に立っている、とささやかな誇りを持てたからだ。
 その時から、俺は何も変わっていない。田舎から出て来た世間知らずで無知な小僧のままなのだ。宮廷魔術師の役目がどんなものなのか分かっていないのにむやみやたらと憧れ、何者になりたかったのか忘れてしまっていた。
「俺、何も分かってなかった……」
 だれかれ構わず、推薦を得ようと弟子入り志願したことが急に恥ずかしくなった。穴があったら入りたいとは、まさに今だ。
「分からないことがあったって、これから知ればいいだけのことよ」ソフリアは笑みを浮かべ、うつむく俺を見た。「君の人生は、まだまだ、これからなんだから。知らないことがあることに早く気がついた分だけ、得をしているわよ」
 俺なんかの想像も及ばないような永い時を渡るのであろう魔女は、意外と明るく言った。強大な力を持っていれば、それゆえ色々な面倒事――望んでもいない王からの招きや、俺みたいな弟子入り志願者――に巻き込まれることもあるだろうに、悲壮感はなかった。
「……結構前向きなんだな」
「人からの受け売り」
 魔女が笑う。その笑顔を見ていると、自分の人生は本当にまだまだこれからなのだ、と思えてきた。そんな俺から視線を外し、ソフリアは空を仰いだ。
「そろそろ夕飯を作らないといけないね。ハンスク、手伝ってくれる?」
 初めて名前を呼ばれ、俺は彼女をまじまじと見た。名乗ったのは、初対面の時だけだったはずだ。ソフリアが俺の名を覚えているとは思いもしなかった。
「薪が足りないから薪割りをして、それからかまどに火を入れてほしいんだけど」
 畑仕事の後片付けを済ませ、ソフリアはさっさと家へ向かう。俺は固まったように、てきぱき動く魔女を見ていた。夕飯の手伝いも頼まれた、ということは。
 動かない俺を見咎めたソフリアが、眉間にしわを寄せる。
「さっさと動く。それとも、かまどに火も入れられないくせに、わたしに弟子入りしようとしたの?」
「はい……いや、そんなことはない。かまどに火を入れるのは、得意中の得意だ」
「そう。なら、得意技を見せてもらおうじゃないの」
 ソフリアがにやりと笑う。そういう笑い方もするのか、と俺はくるくる表情を変える魔女に急かされ、薪割りをするために家の裏手に回った。
 割った薪を抱えて家に入ると、かまどの中で燃えやすいように組んだ。それから、使い慣れた構成で火をつける。赤い炎が組まれた薪の中心に生まれ、周囲の薪を飲み込んでいく。
「手際がいいじゃないの。――ありがとう」
 赤い炎を受けるソフリアの横顔は、子供の頃からいろんな人たちが見せてくれた表情で、彼女を少しだけ身近に感じた。そしてもう少し、その顔を見ていたい、と思った。
 
          ●

「もうここへは来ない方がいいわよ」
 翌朝、俺を送り出すソフリアは、いつかの再現のようにそう言った。笑ったりお礼を言ってくれたりした魔女だが、やはり変わらないところは変わらないらしい。
「……俺は、やっぱりソフリアの弟子になりたい。もっと腕を磨きたいんだ」
 ただしそれは、宮廷魔術師になるためではなく、人の役に立つ魔術師になるため。自分が何者になりたいのか、しっかりと思い出したからだ。
 しかし、それでもソフリアは首を縦に振らなかった。
「腕を磨くのは、ここでなくても出来るわ。むしろ、ここではない方がいい。故郷へ帰りなさい、ハンスク」
「でも」
「君なら、村に根付いた魔術師になれる」
 弟子入りを断られたのは残念だが、魔女にそう言われると、太鼓判を押されたようで嬉しい。だが、気がかりは残る。
「人々のために技をふるう魔術師。――幸せな生き方だと、わたしは思うよ」
 けれど彼女は、こんな森の奥に一人で住んでいる。
「……ソフリアも一緒に村へ帰ろう」
 俺の気がかりは、それだった。
「は?」
 よほど意外だったのか、ソフリアが怪訝そうな顔をする。
「村に二人も魔術師がいれば、みんなが喜ぶ。俺が風邪を引いたときとか、ソフリアがいればみんなが困らないだろう」
「君が風邪を引かないように、日頃から体も鍛えておけばいいのよ」
「ソフリア。俺は真面目に言ってるんだ」
 魔物も住む森の中。悠久の時を生きる魔女は、何故こんなところを住まいに選んでいるのか。訪ねてくるのは、俺や宮廷魔術師のように、招かざる客ばかりだろうに。人々のために術を使う生き方を幸せと言うのに、何故その生き方をしないのだろう。彼女ならば、俺よりもずっと人々の役に立つに違いないのに。
「――わたしは、ここを離れないよ」
 微笑さえ浮かべる、柔らかな断り方だった。
「どうして。だって、こんな森の奥に、一人で」
「離れるわけにはいかない。森の奥だろうとも、一人だろうとも、わたしは『ここ』にいないといけないから」
 魔女は、俺の頼みをとことん拒むつもりらしい。だが、俺とソフリアの付き合いは、わずか一ヶ月余り。それも、俺が一方的に押しかけるばかりで、友人ですらないのだから、彼女が断るのも仕方がない。
 だけど俺は、それがどういうわけか悔しくて悲しくて、情けない声を出していた。「なんでだよ」
 なんでもなにもないのは分かっていた。ソフリアにとって、俺はきっと今までも大勢いた訪問者の一人に過ぎないのだ。特別な間柄でも何でもない。だけど、二度家の中へ招き入れてくれた。その分だけ、俺を気にかけてほしかった。
「わたしは、君の帰りを待っているであろう家族の気持ちが、よく分かる」
「……誰かを、待ってるのか」
 ソフリアは答えなかったが、微笑を浮かべたままだった。誰か待ち人がいるのだ。
「早く帰ってあげなさい。みんな、喜んで迎えてくれるわよ」
 話を打ち切るように、ソフリアがさあと促す。待ち人がいるとほのめかしてくれただけ、ほかの来訪者と俺は、彼女にとってなにがしかの違いがあったのだろうか。そうであってほしいと思った。
「……またここへ来てもいいか? 一人で待つのは退屈だろうから、たまに遊びに」
「来なくていいわよ」ソフリアは俺の言葉を遮ってはっきりと言った。「来なくていい。――あの人が来た、と期待してしまうから」
 彼女がかすかな笑みでは隠しきれない寂しげな目をしているのを、俺は見てしまった。
 初めてここを訪れた日のことが脳裏をかすめる。
 扉を開け、俺の顔を見て、一瞬だけだが落胆の色を浮かべたソフリア。彼女はきっと、とうとう待ち人が来たのではないかと期待していたのだ。俺は、彼女の期待に応えることが出来なかったのだ。
 再びこの扉を叩いたとき、ソフリアは、待ち人ではない俺の顔を見てまた落胆するのだろう。そんなソフリアを見て、俺は失望するのだ。どうして俺が、彼女の待ち人ではないのだろう、と。
 ソフリアの言うとおり、俺はもうここへは来ない方がいいのだ。
「……寂しくないのか」
 往生際が悪いと分かっていたが、俺はソフリアに訊いた。
「意外と退屈はしないわ。森の奥といっても、ここまで来る物好きは結構いるし、君みたいに弟子入り志願する変わり者もいる。それに――魔女は、寂しさに慣れ親しんでいるからね」
 常人とは違う生き方を選び取った魔女の、それが避けられない運命なのかもしれない。
 笑っているのに、彼女はどこか寂しげだった。そんな表情を見せられ、俺はどうしようもなく悲しくなった。彼女が満面の笑みを浮かべることができるのは、いつ訪れるのかも分からない待ち人が現れたときなのだと思うと、余計に胸が苦しくなる。
「泣くんじゃないよ。別れるときは、笑って別れなさい。そうすればわたしは、君の笑顔を覚えていられるから」
 俺がこの世を去っても、きっと生きつづけているであろう魔女。いつになっても彼女が俺のことを覚えていてくれるように、俺は精一杯の笑みを浮かべた。
「さよなら、ソフリア」
「元気で、ハンスク。さよなら」
 それが、俺が聞いた魔女の最後の言葉だった。

     ●

 彼女は今も、あの森で待ち人の訪れを待っている。
 俺にできることは、彼女の待ち人が早く現れるよう、祈ることだけだ。

〈了〉