02. 最後の一仕事
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 魔物が近づいていたことに、誰も気が付かなかった。
 最後尾の馬にまたがっていた商人が、一瞬にして消えたようにも見えた。しかし、商人が連れ去られる時の勢いで馬は引き倒され、そのいななきを聞いて、護衛たちは魔物が商人を連れ去ったのだということを理解した。
「何が起こったんだ」
 異変に、自分の馬の足を止めた隊商の長が声を張り上げる。先頭を行く彼には、突然最後尾の馬が横倒しになり、そこに乗っていたはずの仲間の姿が消えているようにしか見えなかっただろう。
「魔物だ」
 護衛の一人がこわばった声で言い、護衛たちは皆一様に警戒態勢に入った。剣を抜く者もあり、魔物の姿を見つけようと辺りを見回す者もいる。
「魔物だと?」
「そうです。一人、さらわれたようです」
 長の近くにいる護衛が、周囲を警戒したまま答える。
「さらわれただとぉ? 貴様ら、何のための護衛だ!」
 隊商のほかの商人たちは、魔物が出たと聞いて馬上で縮み上がっていたが、長は萎縮することもなく、逆に護衛たちの失態に怒鳴り声を上げた。
「休憩をたくさんしてるだけあって、元気だねぇ」
「嫌みを言っている場合か。それより、先を急いだ方が良い。あの魔物、多分また襲ってくるぞ」
 嫌みを言うライにそう言って、セドは長の方へ駆けて行った。
「また襲われたくなければ、立ち止まらず進んだ方が得策ですよ」
「……護衛もせず、逃げるというわけか?」
 馬上から、長が嫌みな声を降らせる。いけ好かない男ではあるが、仕事である以上守らなければならなかった。
「護衛として、そう忠告しているんです。これだけの数の護衛がいても、一人がさらわれた後、ようやく襲われたと分かったんです。つまり、魔物は恐ろしく足が速い。近づいてきていると分かったとしても、その次の瞬間にはまた誰かさらわれていますよ」
「役立たずめ、減給ものだな――急ぐぞ!」
 長は吐き捨てるようにそう言ったが、忠告はちゃんと受け取ってくれた。手綱を引いて、馬を進める。
 倒れた馬を起こして、隊商の全員が、先程よりも更に足早に歩を進める。こんな草原のただ中では、おそらく魔物からこちらの姿は丸見えだ。できるだけ早く、街にたどり着くしかない。
 だが、全員無言で進む中、またしても一人がさらわれた。今度は、しんがりを歩いていた護衛だった。
「くそ。またやられた」
「止まるな。進め!」
 長の怒鳴り声に、一瞬動きを止めた隊列はすぐに元の速さに戻る。
「セド。まずくないか?」
「まずい。また誰かさらわれるぞ」
 街までの距離を考えると、あと二、三人はさらわれてもおかしくはない。その前に魔物が満腹になり、狩りをやめるかもしれないが、そんな甘い期待は抱かない方が良い。
「なら、ここらで点数稼ぎするか」
 ライがにやりと笑う。
「賛成だ」
 セドも笑い返す。狩られる側に立つのは、面白くない。
「おい。何を立ち止まっている。急げと言ったのはおまえだろう!」
 セドとライが立ち止まったのに気が付いた長が、振り返る。ほかの護衛たちも同じように彼らを振り返っていた。
「先に行ってください。俺たちは、あの魔物を退治してから追いつきます」
 セドは剣を抜いた。
「なんだと?」
 長をはじめ、全員が怪訝な顔でセドたちを見る。
「囮になるってことだよ」
 ライがにこやかに笑って手を振る。移動する獲物より、移動しない獲物の方が狙いやすい。魔物が狙うとすれば、立ち止まって待ちかまえるセドたちのはずだ。
 隊商の長は、長くは考えず、行くぞと短く言って、すぐに馬を進めた。
「これで、報酬は約束の倍はもらえるな」
 去っていく隊商を見送りながら、ライが指の骨を鳴らす。
「そこまではないだろう。せいぜい二割り増しだ」
 セドは既に、剣を構え風下を睨んでいる。近づくのなら、風下からだ。馬の倒れた方向から見ても、間違いない。風が背後から目の前に通りすぎていく。
 風になびく草の中で、微妙に動きの違う一点があった。しかも、移動している。速い。
「セド。来るぞ!」
「分かってる」
 そう言い終わるやいなや、道から十歩ほど離れた草むらから、塊が飛び出した。セドは体をかがめ、剣を振る。頭くらいの高さの所を、獣が通りすぎていった。目の前に、叫び声と共に赤い雨が降る。
「やったか……?」
 手応えはあった。セドはすぐに立ち上がり、振り返った。
「セド!」
 振り返ると眼前に、牙の並んだ口が大きく広がっていた。紫色の舌が唾液でねとついている。だが、その口はそのまま真横に吹き飛んだ。首の根元に、見覚えのある剣が深々と刺さっている。剣の持ち主は、見るまでもなく分かっている。ライだ。
 魔物は剣を首に刺したまま、どさりと地面に崩れ落ちた。まだ息があるが、セドに斬られて赤く染まる腹はせわしなく動いていた。腹を斬られ、首に剣を突き刺していてもまだ息があるのだから、驚くべき生命力だ。
「やったな」
 ライが魔物の体に足を当てて、剣を引き抜く。魔物の体が、一度大きくうねる。
「ユバツか」
 道に倒れ、腹と首を赤く染める魔物を見下ろしてセドが呟く。
 引き締まった体は短い体毛で覆われ、黒いまだら模様がある。俊足で知られる魔物だ。動物でも同じように足の速い獣はいるが、ユバツの方が最速で走れる距離は長いと言われている。だからこそ、その接近に気が付かず襲われることがあるのだ。だが、こうしてよく見極めれば、仕留められないこともない。優れた動体視力が必要であるが。
「毛皮を剥げば売れるかな、こいつ」
 ユバツはようやく虫の息である。もう間もなく、死ぬだろう。血に塗れていない背中の毛皮を、ライが指先でつまむ。
「ユバツの毛皮ね……物好きなら買うかもしれん。持っていくか?」
 魔物によっては、その毛皮や角に利用価値があるものもある。しかし、ユバツの爪や牙は、鋭さこそあるものの、これといった価値はない。売れないことはないだろうが、普通の肉食獣の爪などと変わらぬ値段だろう。解体する手間を考えると、はした金である。それに、毛皮もたいした価値はない。ユバツの毛は短く、固くはないが柔らかくもない。土色の地に黒いまだら模様の毛皮は、少なくとも、貴婦人たちがその身を飾る毛皮には向かなさそうである。それでも、剥いでなめせば、防寒用として傭兵などに売れるかも知れない。
「血まみれになるな……」
 地面はユバツの血を吸って赤く染まり、地面が吸いきれなかった血が溜まり始めている。ライはユバツの前足をつかんで持ち上げる。腹も頭の後ろも、べっとりと血で汚れている。足をつかんで体から離して持っていれば汚れないだろうが、そんな運び方は疲れる。カーナンは見えているが、まだ距離はあるのだ。
「言い出しっぺはおまえだぞ、ライ」
 ライが助力を求める目でセドを見るが、セドはそれを無視して刃に付いた血糊を拭き取り、鞘に収めて先に歩き出した。
「セドちゃん、冷たいなぁ」
 ライがわざとらしいほど大袈裟に溜息をついていた。


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