紅蓮のをつかむ者―終
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 いくつかの墓標が立ち並ぶだけでほかにはなにもない閑散とした場所に、レキは立っていた。目の前の墓標をじっと見つめたまま、ずっと一人で佇んでいた。
 ガリルは、討伐隊へ行っている。
 魔物の討伐をした報告をしに行ったのだ。帰ると言ったはずのガリルがその次の日にまた顔を出したのだから、きっとリソルは驚いているだろう。そして、魔物の正体を知ったら、更に驚くだろう。
 血を吸う魔物はクロエに寄生していた。魔物に寄生されたクロエが、どんな気持ちで生きてきたのか、今となっては分からない。けれど、魔滅士として剣を握れなくても、彼女は確かに魔滅士だった。
 あの魔物を倒したのはレキではない。クロエだ。


 昨夜、決着が付いた後、警備隊員たちが駆け付け、ガリルの指示で速やかに事後処理が行われた。
 クロエは魔物に寄生された被害者として、遺体は町外れの墓地に埋葬された。そこは、主に身元の分からない人々を埋葬する墓地だった。クロエの身内が眠る墓地はちゃんとあるが、警備隊と討伐隊の仲がこれ以上険悪になることを避けるため、あえてクロエの正体は明かさず、身元不明の女性と偽ったのだ。バラバラになった守環はこっそりと拾い集め、ガリルが討伐隊へ届けたはずである。
 空の棺で実家に戻ってきたシキのことを思い出し、なんとかクロエの遺体を彼女の家族の元に返したかったレキであるが、クロエが魔物に寄生されていたという事実が事実だけに、ガリルの指示に従うしかなかった。アージェの住民のために、警備隊と討伐隊の仲をこじらせることを避けなければならないことは、レキでも分かった。クロエの守環だけは家族の元に帰るだろうことが、せめてもの救いだ。
 事後処理がすべて終わったのは夜明け近くだった。警備隊の善意で、レキたちは昼間も使わせてもらった小部屋で体を休めることができた。
 短い睡眠をとった後、討伐隊への報告はガリル一人で行くことになり、その間レキは警備隊本部で待っているはずだったのだが、いつの間にか墓地に足を向けていたのだ。
 ここに、レキの兄の墓がある。ここへ来るのは、アージェを出て行く時以来、三年ぶりのことだ。
 一人前になって戻ってくると兄の墓の前で誓い、故郷を後にしたはずだった。そうなるまで実家はもちろん、ここにも来るつもりはなかった。それなのに、レキは誓いを果たさず訪れている。
 未熟なままなのに。
 クロエさえ救えなかったのに。
 どうすればクロエを救えたのか、兄の墓の前に来れば分かるのかもしれないと莫迦なことを考えたのだ。シキは優れた魔術士だったから、寄生された魔物の退治法も知っていたかもしれない。しかし、この墓に兄は眠っておらず、また死者は生者に語りかける術を持たない。来たところで、答えなど得られるはずもない。それでも、少しでも手掛かりを得たくてレキは警備隊の小部屋を抜け出していた。しかし、手掛かりなど見つかるはずもない。
 自分はなんて無力なんだろう。魔術士になると出て行った日から、少しも変わっていない。一人前と言える日は、まだ果てしなく遠いように思えた。
「ここにいたのか」
 空が少しずつ赤く色を変え始めた頃、静かな声と共に墓地へ入ってきたのは、ガリルだった。討伐隊への報告が終わったらしい。
「警備隊にいるかと思えば、おまえは……」
 レキの隣まで来たガリルが、溜息をつく。
「……よくここだって、分かりましたね」
 警備隊で待っておくはずだったのに、レキは不意に思い立ってここへ来た。書き置きを残そうとも、警備隊の誰かに伝言を頼もうとも思い付かなかったのに。
「おまえが行きそうな場所で心当たりがあるところは、限られてるだろ」
 俺が知っている中じゃ、とガリルは肩をすくめる。ガリルの読みは見事に当たったわけである。
「戻るぞ、レキ。もうすぐ日暮れだ」
 明日の朝には、リジュネイ行きの馬車に乗る。これ以上警備隊に厄介になるわけにはいかないから、預けている荷物を取りに行き、今夜泊まる宿を探さなければならない。
 《赤地》から早く帰ってこいと言われているが、今は魔物退治をしようという気分にはなれなかった。こんな自分が、誰を助けられるというのか。クロエ一人すら助けられなかったのに。
「ガリルさん……わたしは、兄のような魔術士になれるんでしょうか」
 シキ・イルクゥドという名が刻まれた墓標をじっと見つめたまま、ぽつりと訊いてみた。
 人に訊くようなことではない。けれど、誰かに何かを答えてもらわなければ、自信など持ちようがない気がした。
「五年前にも、ここで同じことを訊いたな」
 シキの葬儀が終わった後の墓地に残ったレキを、今日のようにガリルが迎えに来た。シキは死んでいないと言い張るレキをやんわりと諭し、慰めてくれた。その時、レキは同じことをガリルに訊いたのだ。それを、思い出す。
「憶えていたんですか」
 ガリルが五年も前のことを憶えていたことに、軽く驚く。レキ自身、そういえばそうだったのだと、言った後に思い出したのに。
 あの時のレキは、魔術士がどういうものかよく分かっていない、そうなると決意しただけの子供だった。同じことを同じ人に訊くその子供が、その時から、どれ程変わったのだろう。
「……おまえ次第だ、レキ」
 ガリルの答えは、五年前と同じだった。
「あれから五年経っても、まだわたしは未熟なままで。それでも、なれると思いますか」
 なれると、言ってほしかった。このままでは、自信を持てないまま、兄のような魔術士どころか、一人前にすらなれない気がする。誰かに、「なれる」と確かな言葉を言って欲しかった。
「俺に訊くようなことじゃないだろう、それは」
 ガリルの声は静かで、それどころか穏やかだった。ガリルのそんな声を聞くのは、初めて会ったとき以来ではないだろうか。
「だって、誰かになれるって言ってもらわないと、わたしは……」
 それに対し、レキはいつになく声を張り上げる。
「わたしは、クロエも救えなかったのに。それでも、お兄ちゃんのような魔術士になれるか、自信がないんです」
 しかし、声はすぐに尻すぼみに小さくなり、顔もうつむいてしまう。
「クロエは救われたさ」
 下を向いてしまったレキに、ガリルの声が柔らかく降ってくる。
「死んでしまったのにですか」
 レキは顔を上げることができなかった。
 昨夜のクロエの最期を思い出す。魔物を倒したのはクロエだ。けれど、そのクロエを死なせたのは――殺したのは、自分だ。その時の感触は、今でもはっきりと手に残っている。
「死にたくないと言っていた彼女が、自らの命をかけて魔物を退治することを選んだんだ。おまえは、その手助けをした。だから、クロエは魔滅士として終われたんだ」
 クロエは確かに死にたくないと言っていた。その彼女が、死ぬことになると分かっていてもどうして魔物を退治しろと言うようになったのか、レキには分からない。それどころか、死にたくないという言葉さえ、クロエの本心だったかどうかも分からない。最初の遭遇から昨日までの間に、クロエに何があったのかも、今となっては知る術がないのだ。
 けれど、昨日のクロエの言葉は、魔滅士としてのクロエの言葉だった。それは分かる。
 それは分かるが、クロエは死んでしまったのだ。クロエが魔滅士だったから、自分の命と引き替えになっても魔物を倒したかったのだと思いたくはない。命がけで魔物と戦う魔滅士ではあっても、命と引き替えに魔物を倒す魔滅士であってはならないはずだ。魔物を倒すために誰かが犠牲になるなんて、レキには納得できないのだ。たとえそれが、魔滅士たちであっても。
「魔物を退治するほかの方法を見つけられたら、クロエは死なずにすんだはずなんです。それなのに、わたしが」
 殺してしまった。レキの未熟さの報いを、クロエが受けたのだ。レキがもっと強ければ、クロエは自分を引き替えにする必要などなかったはずだ。
「それでも、クロエは救われたさ」
 ガリルの声はやはり静かなままだった。レキが高ぶればたかぶるほど、ガリルの声は静かになっていくような気がする。
「『ありがとう』と、最期に言ったじゃないか」
「聞こえたんですか」
 レキは弾かれたように顔を上げ、隣りに立つガリルを見上げた。炎にかき消され、目の前にいたレキにも聞こえなかったのに、離れたところにいたガリルには聞こえたというのだろうか。
「聞こえてはいない。けど、クロエはそう言ったさ。俺がクロエだったら、そう言う」
 ガリルの声は、確信に満ちていた。ガリルならば、確かにそう言うかも知れない。けれど、クロエが果たしてそう言うかどうか、もう決して分からない。
「……気休めを言わないでください」
 レキは肩を落とし、再びうつむいた。
「そんな都合のいい解釈……」
 クロエが本当にそう言ったのであれば、きっと彼女は救われたのだと、少しはレキも思うことができるだろう。けれど、クロエの最期の言葉をレキは聞き取れなかった。本当は恨み言を言ったのかも知れない。まったく関係ないことだったかもしれない。それを、「ありがとう」と言っていたと解釈するなんて、こちらに都合のいい受け取り方でしかないではないか。
 だけど。
 だけど、クロエが真実、そう言ったのであれば。
「レキ、おまえが確かに彼女を救ったんだ――よく頑張ったな」
 言葉と共に、ガリルの手がうつむいたレキの頭にゆっくりと降るように置かれる。大きな温かい手が、レキの頭を優しくなでた。
 五年前も、同じ場所で同じように、ガリルに慰められた。
 自分は、あの時からどれくらい変わったのだろう。全然変わっていないのかもしれない。けれど、少しだけは変われたのかもしれない。
 クロエを救えたというのなら。
 それでも、レキは涙を堪えることができなかった。救われたのだとしても、クロエは死んでしまった。レキが未熟でなければ。もっと強ければ、死なずにすんだかもしれない。
 強くなりたい。切実に単純に、そう思った。
 シキのように、クロエのように、失わないために。
 ガリルは兄のような魔術士になれるかは、レキ次第だと言った。
 確かにその通りだと、五年も経ってようやく分かった。ただガリルの後をついていくだけでは、強くなれない。未熟だと分かっているだけでも仕方がない。ガリルに言われたから、どうにかなるようなものでもない。自分を変えられるのは、自分自身なのだ。
 レキは涙を拭い、顔を上げる。ガリルの手が、頭から離れた。正面には、夕陽で赤く染まったシキの墓標がある。
「ガリルさん。わたしは、強くなります――必ず、なります」
 守るために。失わないために。
 シキとクロエと、ガリル。そして自分自身に、それを誓う。

第一章 了
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