紅蓮のをつかむ者―13
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 声を張り上げながら、レキはクロエめがけて走っていた。
 自分を鼓舞するための声には違いなかったが、ヤケになっている部分もないわけではない気がした。
 魔物に寄生された人を助けたいと思った。
 寄生されていたのはクロエだった。
 そのクロエが、ガリルを襲っている。
 ガリルを見捨てることなどできない。彼はレキの相方だ。未熟なレキの師でもある。そして、ガリルは今、死んだシキと同じ歳だ。レキはシキの最期を知らないが、今のガリルのように魔物と戦い、果てたと聞いている。ここでガリルが死んでしまったら、きっとシキを失ったと知った時と同じ思いをするだろう。
 ガリルを見捨てるなんて、とんでもないことだった。あんな思いを二度としたくなくて、レキは魔術士になったのだから。
 けれど、クロエも見捨てたくなかった。
 幼い頃から彼女を知っている。物心ついた時には魔術士となっていて家にいなかったシキに代わり、レキの遊び相手をしてくれたのがクロエだった。
 魔物に襲われ、魔滅士を続けられなくなったのに、討伐隊に身を置いていたクロエ。どんな気持ちで日々を過ごしていたのか。魔物に寄生され、討伐隊に居続けるクロエは何を思っていたのか。なにより、クロエは死にたくないと叫んでいた。見捨てられるはずがない。彼女が死んでも、レキはやはり、シキを失った時と同じように悲しむだろう。
 だが、両方を助けることなどきっとできない。
 クロエが魔物に寄生されているからではなく、レキが未熟だから。ほかの方法が分からないから、取るべき道がひとつしかない。
 レキは歯ぎしりした。自分が未熟だからと言い訳しているようで悔しかった。自分の至らなさを理由に、誰かを助けられないことが悔しくて情けなくてたまらない。しかし、今のレキに、情けなさを悔やむ時間はなく、それを払拭できるほどの力もない。
 《紅蓮》が赤い軌跡を描く。
 刃を彩る炎が、残像となってレキの目に焼き付いた。
 しかし、赤い刃はただ虚しく空を切るだけだった。
 クロエは素早くガリルの上から飛び退いていた。かわされたが、ガリルから引き離せたのであれば構わない。
 熱のない《紅蓮》の柄を改めて握り直し、レキは一歩踏み込んだ。
 同時に、素早く呪文を紡ぐ。《紅蓮》の刃に踊る炎が勢いを増し、それが実際の炎となって燃えさかる。
 しかし、近くにありながらレキはその熱を感じなかった。《紅蓮》の放つ熱が、持ち主であるレキを傷つけない。完全に、《紅蓮》をレキの魔術の支配下に置けているのだ。
 クロエはじりじりと後退する。レキはクロエにじりじりと迫る。
 少しずつ、クロエが下がるよりも早く足を前に出す。
 そして、間合いに入った瞬間、一気に踏み込んでいった。
 クロエの口元が歪む。
 笑っていた。《紅蓮》の炎に照らし出されたクロエの顔は、笑みを浮かべていた。正気でないのは一目で分かる。クロエではなく、魔物が笑っているのだ。
 その笑みにぞっとし、それでも《紅蓮》を振り下ろす。
 硬い金属にぶつかるような音が上がった。
 レキは息をのみ、目の前で起きている現象を見つめる。クロエの右手が《紅蓮》の刃をつかんでいる。止められてしまったのだ。しかもそれだけではない。燃えさかる刃を素手でつかんでいるというのに、クロエの手にはかすり傷ほどの傷もなく、火傷さえ負っていない。
 魔術で防いでいるのだ。
 熱を遮り、刃さえも届かない防壁を魔術で編み上げ、それを右手にまとわせている。
 愕然とした。

 魔力を持つ生き物を総称して、魔物と呼ぶ。

 しかし、魔物が持つ魔力は生存競争を勝ち抜くために使うものであり、それは魔術士たちが操る魔術とはかけ離れている。単純に魔力を力と変える魔物もいれば、大地を早く駆けるために使う魔物もいる。魔物の魔力の使い方は多様であるが、それでも一種の魔物につき、二、三通りがせいぜい。魔術と呼ぶには構成として稚拙なものが多い。
 しかし、クロエに寄生した魔物は、レキたち魔術士が魔術として操るものとよく似ていた。同時に二つの攻撃を防ぐ複雑さを持ち、それを局所に展開している上にその完成度は高い。
 レキには、自分の手を覆うような防壁は構成できない。まして、魔術は防げても物理的な攻撃さえ防ぐものとなると、それすらレキには無理だ。
 自分と魔物の魔術の差よりも、魔物がここまで高度な魔術を操ることに戦慄する。
 こんな魔物を野放しにし続けるわけにはいかない。人を操り、魔力を持たないクロエに魔術を使わせる魔物の魔力だけとっても、相当なものだ。
 どうする。どうすればいい。
 《紅蓮》の柄が熱い。
 レキは歯を食いしばり、その柄をきつく握る。迷う暇はなく、自分に今できることをするしかなかった。
 今の状態で、新たな魔術を展開する余裕はない。《紅蓮》の炎を維持するのが、今のレキには精一杯だ。あとはもう、自分の腕力だけしか頼れるものはない。
 レキは歯を食いしばり、渾身の力で《紅蓮》を押した。
 クロエの手がしっかりと《紅蓮》を握っているから、退くことはできない。レキは《紅蓮》の柄を両手でしっかりと握り、渾身の力で押し返そうとするクロエの腕力に、必死で対抗する。
「レ……キ……」
 噛みしめたクロエの歯の間から、自分を呼ぶ声がかすかに聞こえた。クロエの顔を見る。その目に、正気が戻っていた。だが、ひどく苦しそうで、悲しげだった。
「早く……早く、わたしにとどめを」
 命令するような強い口調で、クロエが早口に言った。それで魔物の意志に対抗しようと、必死なのだと分かる。
「魔物はわたしの中にいる……わたしごと、あなたの魔術で燃やし尽くして!」
 クロエの腕は《紅蓮》をつかみ、押し返そうとし続けている。クロエの意志が働いているのは、身体のすべてではないようだった。魔物の意識の合間を縫って、懸命に訴えているのだろう。
 クロエの意識が表に出たことで、魔術による防壁は右手から消え去り、刃がめり込んでクロエの手が炎に飲み込まれる。肉の焦げる臭いと、血が燃える煙が上がる。しかし、クロエの腕はそれでも《紅蓮》を押し返そうとしている。腕は己の意志で動かせないのに、《紅蓮》を素手でつかむ痛みは感じているのか、苦痛に顔を歪めながらも、クロエの喉が叫ぶ。
「レキ、早く!」
「クロエ……」
 《紅蓮》を押す力を緩めることはできない。力負けすれば、クロエの爪が一気に襲い掛かるだろう。
 ためらいも迷いも捨てたはずだ。レキが取るべき方法はひとつしかない。
 それでも、クロエ自身の口からそれをやれと言われると、逆にためらってしまう。
 レキのそんな心の内を読み取り、《紅蓮》の柄が熱を持つ。その熱が、レキの中に再び生まれつつあったためらいを消し去っていく。
 自分はなんて愚かなのだろう。魔物を倒すと決めたはずなのに、やれと言われてためらってしまうなんて。
 魔術士は魔物を倒すために存在する。それを満足に果たせない自分は、未熟者でしかない。
「レキ……お願いよ」
 クロエの頬に、涙が伝う。それが痛みのためなのか、それとも懇願からなのかレキには分からなかった。
「わたしを、魔滅士と、して……死なせて!」
 その瞬間、クロエの腕の力がわずかに緩み、押し続けていた《紅蓮》がクロエの胴を薙ぐ。《紅蓮》の炎とクロエの血、二つの赤い軌跡が描かれる。振り切られた《紅蓮》を、クロエの右手がつかんだ。
「クロエ!」
 胴を裂いた刃は、内臓に達したのだろう。クロエが血を吐いた。しかし、クロエの目は正気を失ってはいない。痛みに堪えながらも、必死で《紅蓮》の刃をつかんでいた。それが魔物の意志なのかクロエの意志なのか、判然としない。
 引くべきか押すべきかレキが迷った瞬間、クロエが歯を食いしばり、ぐいっと《紅蓮》を引き寄せた。
 あっと思った時には、《紅蓮》の刃先はクロエの胸に深々と刺さっていた。
 クロエに引っ張られるままに《紅蓮》の柄を握り続けていたレキの手に、その感触が伝わる。
 クロエの口からは溢れるように血が流れ続けている。
「はや……く……」
 血と共に吐き出される言葉は不明瞭だったが、クロエが何を言おうとしているのかは分かった。もうためらうことはできない。ここでためらっては、クロエの行為を無駄にしてしまう。レキは素早く呪文を紡いだ。
 《紅蓮》の刃に映る炎が飛び出してきたかのように、炎がクロエの身体を包んだ。痛みと熱さにクロエの顔が歪むが、それでも安心し、満足しているように見えた。
 炎に包まれたクロエが、その顔をレキに向ける。クロエの口がほんのわずか動いた。
「――」
 しかし、声は炎にかき消されたのか、それともクロエがもはや声を出せなくなっていたのか、彼女が何を言ったのかは分からなかった。
 クロエの手が《紅蓮》から離れ、彼女は後ろにゆっくりと倒れた。炎に包まれたせいで玉をつなぐ糸が燃えてしまい、クロエの右手にあった守環が地面に散る。
 同時に、《紅蓮》がクロエの身体からずるりと抜けた。レキの手元に力は入らず、《紅蓮》の剣先は地面に軽くめり込む。
 土を少しだけ焦がし、《紅蓮》の刃に映る炎は役目を終えたといわんばかりに小さくなった。
 レキは《紅蓮》を鞘に収めることもせず、炎と焦げて地面に散った守環の玉を、呆然と見ていた。

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