第二話 世界に優しい危機的状況のつくりかた
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 世の中の大部分の人は信じないだろうが、幼馴染みのユマに、呪いをかけられてしまった。
 嘘じゃない。俺としては嘘であってほしいのだが、何に誓っても本当だ。
 ユマは、正真正銘の魔女だ。今の世の中、滅多にお目にかかれる存在ではない。珍獣以上に珍しい、世にも稀なイキモノなのだ。紛れもない魔女のユマは、間違いなく本物である呪いを、幼馴染みである俺にかけてくれた。
 まあ、滅多にない体験ではある。が、決してありがたくはない。なにしろ、『世界を救わなければ死んでしまう』という、壮大にしてはた迷惑な呪いだからだ。いや、呪い自体、そもそもありがたくはないのだが、とにかく、俺はユマに呪いをかけられてしまった。
 断っておくが、俺はユマに呪われるほど恨まれるようなことはしていない。むしろその逆で、俺は常に、ユマの魔法の餌食にされていた。仕返しをしようとしたところで返り討ちに遭うだけなので、仕返しすることは十年前にあきらめている。
 そのせいなのか、呪いをかけられたという危機感はあんまりない。世界を救わなければ死んでしまう呪いなのだが、どうやらこの呪い、この平和な世の中ではそもそも意味をなさないらしく、世界が平和である限り、俺の命は保証されているらしい。
 呪いをかけられてしまったが、俺は相変わらずいつも通り平和に過ごすのだろうと思っていた。
 だけど、いつもと違うことが起きた。

 ユマが、消えたのだ。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「エルトック。おまえ、昨日ユマちゃんに会った?」
 幼馴染みから呪いをかけられたと知った翌朝、台所へ入った途端、母さんから訊かれた。
「会ったというか、いつも通り、勝手に俺の部屋に来て、勝手に帰っていったけど」
 昨日のことを思い出す。珍しいことが立て続けに起こったせいか、なんだか遠い日のことのようにも思えてくる。間違ってもいい思い出ではないが。
 嵐のようにユマは去っていったが、結局、俺はユマを追いかけて部屋から出たものの、追いかけることも捜すこともあきらめた。あっという間に姿を消したユマを追いかけることは不可能だし、捜さなくてもそのうちまた、あいつの方から俺の前に現れる。
 ユマが「世界を救えよ」とか言って飛び出していったものだから、俺は思わず追いかけてしまったのだが、そもそもあいつは隣の家に住んでいるのだから、夜になればそこにいる。わざわざ追いかける必要もない。ユマに用があれば、隣に行けばいい。もっとも、うかつにユマを訪ねれば、魔法の餌食にされてしまうので進んで行きたくはないが。
「何か、いつもと様子が違ってた?」
 いつもと同じと言えば同じだし、違うと言えば違っていた。「ごめん」と言ってみたり、しかし結局俺に魔法――昨日は呪いだったが――をかけていたり、無表情な目を輝かせたりしていたのだから。ユマにしては表情が豊かで、好ましい変化であるはずのそれを、いつもと違っておかしかったと言うのは、なんとも皮肉なことだ。
 けれど、母さんがしきりに昨日のユマについて知りたがるから、朝食を食べながら一部始終を話した。
 俺がユマから呪いをかけられたこと、しかし呪いはさほど意味がないこと、ところがユマが呪いを解くために理解不能なことを言い出したこと。
「そうなの……」
 俺の話を聞き終えた母さんは、静かにそう呟いた。妙に深刻そうな顔をするから、いつも通り愚痴るように話していた俺は、なんだかたじろいでしまった。
「エルトック」
 母さんは、しばらく考え込むようにうつむいていたが、意を決して顔を上げ、まっすぐに俺を見つめてきた。俺は思わず、居住まいを正す。そんなに真剣な顔の母さんを見るのは、ずいぶん久しぶりだ。
 なんなんだ、どうしたんだ一体。昨日のユマもそうだと言えばそうだが、いつもと違うのは母さんの方じゃないか。まさかまた、俺に黙って高い買い物でもしたのか? 美容に良いのだと言って、この前怪しげな液体を買ったばかりじゃないか。あれは高かった。目が痛くなるようなピンク色の液体の値段を知った時は、俺の意識は一瞬だけど確実に途切れていた。間違いなく、俺の意識はどこかへ遊びに行っていたぞ。行った先はきっとたいそう心地良い場所だったのだろうが、厳しい現実に目を向けた途端、その思い出は彼方に消え去って――。
「実はね、昨日からユマちゃんが家に帰っていないそうなのよ」
 浸っていた思い出が、別に嬉しくも楽しくもなかったので、その言葉はするりと俺の耳に入り込んできた。
「なんだって?」
 しっかりと母さんの言葉は聞いていたのだが、俺は思わず聞き返してしまった。母さんは、俺が話をちゃんと聞いていなかったと勘違いして、不機嫌そうに顔をしかめた。
「だから、ユマちゃんが昨日から家に帰ってないのよ」
 俺の部屋から出て行って、どうやらそのままユマはどこかへ行ってしまったらしい。俺はてっきり、家へ帰ったのだと思っていたから、まさに寝耳に水だった。
「昨日、そんなことがあったからなのね」
 母さんは大袈裟なほど大きなため息をついた。ため息をつきたいのは、俺だって同じだ。
「ああ。だけど、まさか家に帰ってないなんて……」
 あの馬鹿、と俺は心の中で舌打ちする。ユマは、どんなに遠くでも、魔法を使ってあっという間に移動することができるから、一日では普通は往復することなどできない場所でも、簡単に行って帰ってくる。どれ程遠くまで行っていても、帰ってこないということは今まで一度もなかったのに。ユマの両親は当然心配しているだろう。その上に人の親まで心配させるなよ。
「ユマちゃん、よほど思い詰めていたのね」
「え? いや、それはどうだろう」
 昨日のユマを見る限りでは、思い詰めていたようには見えない。最初の方こそ殊勝な態度であったようにも見えたが、結局見えていただけで実際はそうでもなかったような気がしてくる。いつものことだが悪びれた様子もなく、最後の方では目を輝かせてさえいた。なんだか思い出すだけでげんなりしてくる。
 ところが、そんな俺とは対照的に母さんの表情は真剣そのものだった。真剣にユマの心配をしているのは、俺の気のせいではなさそうだ。
「薄情な子だねぇ、おまえは。心配じゃないのかい? ユマちゃんは、おまえのために出て行ったんじゃないの」
 昨日の一部始終は、簡単に説明しただけだから抜け落ちていた点はいくつもあっただろう。魔法に関する部分なんて、俺自身よく分からないから、俺が理解した範囲でしか話していない。しかしそれでも、俺のためにあいつが出て行ったという結論は引き出せないのではないかと思う。そもそも、出て行く必要さえなかったのだから。
「だからぁ、ユマが俺にかけたとかいう呪いは、別に放っておいてもいいんだよ。それなのに、あいつはなんかするって出て行ったんだ」
「おまえの呪いを解くためだろう。いい子じゃないの。それなのにおまえときたら……」
 ああ情けない、とまで言われてしまう。確かに情けない気分ではある。母さん、そんなにあなたの息子は薄情そうに見えるのか。
「俺に呪いをかけたのは、その『いい子』ってことを忘れてないだろうな、母さん」
「悪気があって呪いをかけたわけじゃないだろう。うっかり間違うこともあるじゃないの。それでもユマちゃんは責任を感じているのよ」
 悪気があったらたまらないし、「うっかり間違えた」で済まされたくもない。俺に非はないはずなのだが、母さんの言い方からすると、俺が呪いをかけられたことに不満を持つこと自体が、そもそも非難されるべきことであるようだ。
 昔から、母さんはユマに寛容だ。ユマが俺を魔法の実験台にしても、ユマには「もう、ダメよ」なんて笑顔で言っているくらいだ。ユマのやることを、普通の子供のいたずら程度にしか思っていない。普通の子供がいたずらで、幼馴染みに呪いをかけたりするかっ!
「母さん……ユマに悪気はなかったにしても、うっかり間違ったってことは絶対にないんだぞ。あいつは、いつものように俺で魔法の効果を試そうとしただけだよ」
 俺は心底うんざりした顔をしていただろう。それを見た母さんは、肩をすくめた。
「愛情表現じゃない。好きな子にほど、意地悪したくなるものでしょ」
 ……母さん。ユマはそんなに幼い子供ではないし、俺に愛情を持っているとも思えないんだが。仮にそうだとしても、好きな子に呪いをかける怖い女なんて、俺はお断りだ。


 ユマの愛情表現説はさておき、やはり母さんも、ユマの両親も心配するので、俺は自分の足で行ける範囲内ではあるが、姿を消した魔女を捜すことにした。もちろん、毎日の配達を休むわけにもいかないので、その行き帰りにいつもと違う道を通ってみたりするくらいしかできない。だけど、予想していた通り、ユマの姿はおろか、見かけたという人すら見つけられなかった。
「どこに行ったんだよ……」
 あいつめ。
 俺の部屋からは、ユマの部屋が見える。だけど部屋の持ち主は、一向に姿を見せなかった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 形のよい左右の眉の間にしわを寄せ、悩ましげな表情を浮かべたユマは考え事にふけっていた。
 幼馴染みのエルトックに『呪い』をかけて早三日。
 エルトックにかけられた呪いを解くためには、なにがなんでも彼に世界を救ってもらわなければならない。ただし、そこに危険が伴ってはいけない。世界を救うため、呪いを解くため危険を冒し、その結果エルトックが命を落としてしまっては、それこそ元も子もないのだ。エルトックが危険を冒すことなく、なおかつ世界を救うためには、いったいどんな状況をつくればいいのか――。
 ユマはここ数日、それについて頭を悩ませていた。意気揚々と飛び出してきたものの、早々に行き詰まってしまっていた。
 だいたい、世界を救うということは、世界がまず救われなければならない状態である必要がある。しかし今現在、ユマが知る限りではこの国をはじめ、周辺諸国にもこれといった重大な問題はなく、世界はかつてないほど平和な時代を迎えている。エルトックの呪いを解くことも重要であるが、この平和な世界に危険なことを吹っ掛けるわけにもいかない。
 ユマとて、望んでこの平和を崩したいとは思わない。多少の迷惑すらかけずに事を済ませるわけにはいかないであろうが、それでも誰も傷付けることなく世界を救うような状況を生み出さなければならなかった。
 がらんとした広い空間の片隅に置かれた、ユマの身長の優に二倍はある背もたれをもつ椅子にどっしりと座り、ユマは腕組みをして考えつづけていた。
 ここは、ユマが密かに作った隠れ家である。魔法を研究するために集めた、実家の自室にはとても収まりきらない量の本や様々な道具を置くために、山の中腹にある洞窟に手を加え、書庫や倉庫、仮眠室に台所までしつらえた場所である。山の中腹とはいえ、人が歩いてたどり着けるような場所ではないので、誰にも邪魔をされずに研究に打ち込むことのできる良い場所だ。実家を飛び出したユマは、ここを拠点としていた。エルトックでさえ、ユマがこんな隠れ家を持っていることは知らない。
「ああ、もう。らちがあかない」
 腕を組んだり足を組んだり、頬杖もついて、姿勢を変えればいい考えでも浮かぶのではないかと思ったが、結局なに一つ思い浮かんではこなかった。ユマは飛び下りるように椅子から降りると、台所へ向かった。気分転換を兼ねて、お茶を淹れるのだ。
 椅子が置いてある広間は、主に魔法を使うための空間なので広い。ユマやエルトックの実家二軒分の敷地の、軽く三倍はあるだろう。書物から見つけた魔法を初めて試す時、その威力が分からないことが多いので、これだけ広い空間が必要なのだ。天井は四階建ての建物がすっぽり入るほど高いので、冬に寒いのが難点である。椅子は広間の入り口からいちばん遠い片隅に置いてあるので、台所が遠くなってしまうのも問題だ。書斎は別に造ってあるが、本や書きかけのノート類が散乱している。考え事には良くないと思って広間で考えていたのだが、広間の奥にいるとあらゆる場所が遠いし、今のところ良い考えも浮かんでこないので、案外不便だった。
 この国を治める王の住む城は、こんな広間などいくつもあるだろ。城は見に行ったことがある。大きすぎて生活をするには逆に不便そうだと思っていたが、実際にその通りだ。
 ようやく台所にたどり着いたユマは、やかんに水を入れて火にかけた。薪さえあれば、火打ち石を使わずたった一言呟くだけで火をつけられるのが、魔法の便利なところである。しかし、お湯を出す魔法があればもっと手っ取り早いのだが、あいにくどの書物にもそんな魔法の記録はなかった。
「魔法って便利なんだか不便なんだか、分かんないなぁ」
 ユマはブツブツと愚痴とも独り言ともつかないことを言いながら、壁にもたれてお湯が沸くのを待った。召使いでもいれば、お茶が欲しい時にはすぐに持ってきてくれるのだろうけれど。
「……そうか」
 城で生活する王族たちには、たくさんの従者が仕えている。料理を作る者、身の回りの世話をする者、掃除をする者――城の生活がどんなものなのかは想像するしかないが、様々な役割を持った従者たちがいることだろう。従者がいれば、たとえ広くても生活するのに不便はないはずだ。
「それだ……!」
 ユマはお湯が沸くのも待たず、台所から飛び出して書庫へ走った。
 隠れ家での不便な生活を快適なものに変えることのできるものが、ある。しかもそれは、ユマを数日間悩ませていた『世界を救わなければならないような状況』をも生み出すことができるかもしれない。そうなれば、もはやのんびりお湯が沸くのを待っている場合ではない。思い立ったら、即実行である。
 走るユマの顔には、笑みが浮かんでいた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 白い城壁と、そこに寄り添うようにして生える蔓草の緑色の対比が美しいと讃えられる、ヴィトラス城。王の居城であると同時に国を動かす中心でもある城内は、昼間は人々の声がそこかしこで聞こえるが、深夜ともなれば城内を見回る巡回兵士の足音が時折聞こえる以外は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っている。
 巡回兵士のヒエラ・ソーニックは、今夜も一人で城内を見回っていた。
 昼間のにぎやかさを知っているだけに、深夜の人気のない城内はかなり物寂しい。吹き抜けになっているエントランスや、祭典に使われる広間などは、広々としているから寒々しくさえある。巡回兵士になりたての頃は、口にこそ出したことはないが、実はちょっと怖かった。ほとんどの部屋の照明は落とされ、廊下も必要最低限の灯りしかともされていないので、物陰の暗闇はますます強調され、その暗闇に何かが潜んでいるのではないかとビクビクしていたものだ。先輩兵士から、ヴィトラス城にまつわる怪談を聞かされたあとは、余計に不気味に感じられ、定められた巡回路をはしょって詰め所に戻ったこともある。これはあとでばれて、こっぴどく怒られたが。
 今では、眠りにつく夜の城内にもすっかり慣れた。昼間であれば、大臣などとすれ違う時は廊下の隅に移動して道を譲り、彼らが通り過ぎるまで敬礼をしていなければならないが、夜はそんなことをする必要もなく、堂々と廊下の真ん中を歩けるので、むしろ爽快である。
 ヒエラはその夜も、鼻歌混じりに巡回していた。そもそも、ヒエラの祖父の代から目立った内乱も、外国との戦争もなく平和なこの国では、城内に不審者が現れることすら滅多にない。少なくともヒエラが巡回兵士となってから、そんなことが起きたという話は聞いたことがない。
 ヒエラが今夜巡回を担当しているのは、ヴィトラス城の西側部分。舞踏場や謁見の間など、とにかく広い部屋が集まっている。深夜人のいなくなる部屋には、念のため必ず一度入って室内をぐるりと見回らなければならないので、小部屋が集まっている東側より大半が大部屋の西側の方が、巡回自体は楽だ。
 西側一階で最も場所を占有しているのは、舞踏場だ。毎日使われるということはないが、ひとたび舞踏会などが開かれると、ヒエラのような平民生まれの兵士には目もくらむような絢爛豪華な世界が広がる。舞踏会の後は、夜中まで片付けや掃除などが行われているから人が残っているが、今日は使われていないので、当然ながら広い空間の中に人はいない。

 いないはずだった。

 ヒエラはいつものように合い鍵で舞踏場の鍵を開け、大きな扉を両手で押して中に入る。灯りは、ヒエラの手元にあるカンテラのみだから、舞踏場全体を照らすにはとても足りず、ほんの少し先までしか見えない。ヒエラはカンテラを持って、壁づたいにぐるりと一周する。
 ほぼ円形の室内を半周ほどしたところで、何か違和感を感じた。ヒエラは左回りに壁づたいを歩いている。視界の右は、壁。左が、舞踏場の中心。その左側の視界の端で、何かが動いたような気がした。最初は気のせいかと思ったが、何か白いものが時折ちらつく。残り四分の一となった所でとうとう立ち止まり、ヒエラは舞踏場の中心の方を見た。白いものは見えないが、その代わりにカサカサと小さい音がする。昼間であれば、ほかの音に紛れて聞こえないような小さい音だが、今は人気も物音もない真夜中である。小さくとも、イヤでも耳に付いた。
「昔、貴族の男に恋をした侍女がいたんだが、その男の『誰よりも上手に踊ることができるようになれば、相手をしてやる』という言葉を真に受け、侍女は踊ったこともないのにその日から毎夜舞踏場で踊りの練習をするようになった。暑い夏の夜も、凍えるほどに寒い冬の夜も、昼間働いてどんなに疲れていても、侍女は毎晩欠かすことなく練習を続けた。ところが、ようやく自分でも上達したと思えるようになった頃、意中の男は貴族の娘と結婚した。それを知った侍女は、舞踏場で自殺したそうだ。その侍女は幽霊となって、今でも夜中に練習をしているんだとか」
 不意に、先輩から聞かされた、舞踏場にまつわる怪談を思い出す。こんな時に限って思い出してしまった自分を恨みたくなる。
「自殺する時、侍女は精一杯に着飾ったらしい。安物の髪飾りや首飾りを身に付け、したこともなかった化粧をして、そして給料をはたいて買った――」
 白いドレスを着て。
 ヒエラは頭の中で怪談をする先輩の姿をなんとか揉み消そうとしたけれど、思考は思い通りにはいかない。
 本当にどうして、そんなことを今思い出さなくったっていいじゃないかと自分に言い聞かせ、なるべくほかの、楽しいことを思い浮かべながら、ゆっくりと壁から離れて舞踏場の中心の方へと歩いていく。何がいるのか確かめなければいけないという巡回兵士としての使命感が、ヒエラの足を動かしていた。
 手に持つカンテラの灯りの届く範囲は狭い。かさかさという音は、遠くで聞こえたかと思うと、すぐそばでも聞こえる。移動しているらしい。
「……誰か、いるのか」
 意を決して誰何する。もしかしたら、怪談話ではないけれど、誰かが夜中にこっそり舞踊の練習をしているのかも知れない。ああ、またあの怪談を思い出してしまった。馬鹿だ、自分――と思いながら、辺りを見回す。返事はない。
「誰もいないのか」
 大声ではなく、隣人に届くくらいの声で、暗闇に問い掛ける。ちょっと待てよ。舞踏場の扉の鍵は確かにかかっていた。自分で鍵を開けて入ったのだから、間違いない。
 視界の隅に、白いものが通り過ぎる。ヒエラは急いでカンテラをそちらに向ける。すると今度は反対側を、白いものが通り過ぎる。ヒエラは殆ど振り回すようにして、カンテラを向ける。
「だ、誰かいるのか?」
 顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。右に目を向ければ左に、左に目を向ければ右に。何かが通り過ぎていく。いつの間にか、ヒエラは後退りしていた。舞踏場の扉はすぐそこだ。とりあえず、出よう。というか、出て行きたい。
 背を向けた途端後ろから襲い掛かられることを警戒して、ヒエラは後ろ向きに扉へ近付いていった。
 もう少しで扉につくという時、グシャリと、何かを踏みつぶした感触が靴底を通して伝わった。ヒエラはその音と感触に驚き、飛び上がるようにして足をあげ、足下に視線を落とす。白いものが、薄っぺらく白いものが、クシャクシャになって潰れていた。
「な……」
 ホッと胸をなで下ろす。
「なんだ、紙くずかよ」
 足下で潰れていたのは、紙くずだった。こんなモノにビクついた自分に苦笑いしつつ拾い上げようとかがんだところで、はたと手を止める。今日はもちろん、最近舞踏場は使われていない。使われていない時は、無駄は省くという方針であるため掃除は三日に一度しか行われていない。その掃除は、今日の昼間に行われたはずで、ゴミが落ちているとは考えにくい。
 いや、誰かが入って使ったのかも、って鍵を開けたのは自分で――。
「その侍女が自殺して以来、舞踏場には鍵がかけられるようになったんだよ。夜中に舞踏場に入った人間を、幽霊になった侍女が舞踊の相手として連れて行こうとするから……」
 あの怪談の締めくくりを思い出してしまう。あんなのは、子供だましの怪談だ。城の侍女を戒めるための作り話に決まっている。ヒエラは頭を振って怪談を閉め出そうとする。
 カサカサという音が、すぐそばで聞こえた。ヒエラは慌ててカンテラと視線を音の聞こえた方に向ける。カンテラの灯りが届くギリギリのところに現れたそれを見て、ヒエラは絶叫していた。


 いつまでたっても詰め所に戻って来ないヒエラを心配した仲間が、舞踏場で気絶している彼を見つけたのは、それから数時間後のことだった。

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(C) Nagasaka Danpi 2006-2009