《沈黙の森》へ

 ここを、死に場所としよう――。

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 おまえの右に出る者は、国内はおろか、この大陸でもいないかもしれないな。

 とある領内で随一と謳われた剣士と決闘したとき、言われた言葉だ。脇腹を深く斬られ、口から血を吐いているが、剣士の目に憎悪や恨みの色は見えなかった。己より強い男と相見え、全力でぶつかった末に迎えた結末を、泰然と受け入れているように見えた。
 その剣士の最盛期はとおに過ぎていたが、それでも血気盛んな数多の挑戦者を退けてきた実力者だった。最後の挑戦者にして勝者となった男とて、無傷で勝てたわけではなかった。勝者の男は腕から流れる血を止めることもなく、地面に横たわる剣士を見下ろしていた。
 強者の手にかかって逝けるなら、本望だ。
 剣士は苦しげながらも笑みを浮かべ、そして息を引き取った。
 強者、最強と老練の剣士に称えられながらも、しかし男の心にあった空虚な部分は埋まることがなかった。
「……やはり、何も変わらないんですね」
 剣士の瞼をそっと下ろしながら、「俺の心は」と男は付け加える。驚くほど整った容貌をしている男は勝利に酔いしれることもなく、むしろ鬱屈とした雰囲気を漂わせていた。


 オイセルスト・ルフティヒ・シュナウツ。それが、男の名だった。
 最近では、あちこちで自分の名を耳にするようになった。老練な剣士と決闘してからしばらく経った頃、ふらりと立ち寄った街で見かけた手配書。そこに自分の名と、特徴が記されていたのである。
 初めて見たときは、驚いた。手配された理由に、王に仇なす可能性あり、とあったのだ。
 王に弓引こうと考えたことは、一度もない。貴族の家に生まれながら、そしてそこで剣を取っていながら、騎士になることを目指さなかった。それだけである。
 オイセルストはただ、強くなりたいと思い、剣と共に家を出た。騎士団に入る道を選ばなかったのは、人から指図されることを好まない性分であるからだった。その性分ゆえ、引き留めようとする家族の言葉も、耳には届いても心にまでは届かなかった。
 家を飛び出した彼は、各地を転々としながら腕を磨いていった。高名な剣士に師事して腕を鍛えたこともある。数多くの剣士と刃を交え、幾度となく決闘を繰り返してきた。路銀を稼ぐため、地方領主に仕えたこともある。しかし、長くは続かなかった。
 オイセルストの噂を聞き付けた騎士団から、勧誘のための使者が訪ねてきたこともある。地方領主に仕えてもその退屈さを知っていたオイセルストは、どうせ国王に仕えても同じことだと勧誘を断った。
 どうやらそれが、王に仇なす可能性、と見なされたらしい。
 適当に入った酒場でも自分の手配書を見かけた。オイセルストは、酒を飲みながらその手配書を眺め、形の良い唇を歪めて冷笑した。俺が強いからといって、何になる――。

 本来ならば青く澄んでいる瞳には、暗い翳りがあった。
 強くなりたかった。幼い頃から、オイセルストはそう思っていた。それは飢えた者が食べ物を求める渇望と似ていて、彼はその飢えを満たすために剣を取り、ひたすら修行に励んできた。強い剣士を倒せば、わずかに飢えが癒やされる。しかし、すぐにまた同じ飢えは訪れる。わずかながら癒されても、完全に満たされることはない。
 きっとまだ、己が弱いからだと思った。しかし、漁るように強い剣士を捜し求め、戦い、打ち破ってもなお、飢えは満たされなかった。あの老練な剣士に、最強だと称えられても、もはや癒しようはなくなっていて、飢えは空虚な渇きに変わっていた。
 強い者を倒しても、なにも感じない、なにも得られない。あれほど強くなることを渇望し、そして強くなったはずなのに、自分の中には何も生まれてこない。では自分は、いったい何のために強くなったのか。
 オイセルストは、酒場の薄汚れた壁に貼られた、自分の手配書を見た。
 強くなって得られたもの。あるとすれば、あの手配書だ。そこには生死は問わぬ、と書かれている。かけられた懸賞金が奇妙だったことに眉をひそめたが、きっとこの先、彼を倒そうとする者が何人も現れるだろう。強くなった果てに得られたものが手配書というのも、考えようによっては悪くないかもしれない。
 賞金稼ぎに勝ったところで、どうせオイセルストは何も得られない。生きているという実感さえ、もはや感じなくなってしまっている。それならば、自分を倒す者が現れるのを、待つのも悪くない。
 あの老練な剣士の死に際を思い出す。彼もまた、自分を倒す者の登場を待っていたのかもしれない。
「あんた、ひょっとしてオイセルスト・ルフティヒ・シュナウツか」
 自分の名を呼ぶ声に振り返ると、無精ヒゲを生やしたいかつい体をした男が立っていた。腰には剣を帯びている。
 早速来たのかと、オイセルストはわずかに口の端を持ち上げた。
「そこの手配書にある男だな」
 男が、壁の手配書を顎で示す。
「あの手配書は、俺の特徴をよく捉えていますね」
 オイセルストは立ち上がった。酒場の中にいたほかの客たちが、オイセルストたちの周辺を取り巻く剣呑な雰囲気を察し、ざわつきはじめる。
「容姿端麗な優男ふうの剣士――場末の酒場にいては、少々目立つ風貌ですから、すぐに見つかったでしょう」
「自分で言うとは、相当顔に自信があるようだな」
 男が鼻で笑う。オイセルストも笑った。
「事実ですから」
 笑っていた男の顔が、ぴくりとひくついた。
「その自慢の顔を首だけにしてやるよ。表に出な」
 男が外を示す。オイセルストは見る者の背筋が冷たくなるような笑みを浮かべた。
「ぜひ、お願いしますよ」

 ○ ● ○ ● ○

 賞金稼ぎとして初めてオイセルストの前に現れた男は、いかつい外見に反して強くなかった。オイセルストの一撃であっさりと利き腕を失い、泣いて命乞いをしたほどである。
 自分よりも弱い男にそれ以上の興味は湧かず関わるつもりもなく、オイセルストはさっさと男の前から姿を消した。
 それから何人もの男が、オイセルストの前に現れた。出自が貴族だから、平民の中にあっては洗練された所作振る舞いが目立つし、何より黙って突っ立っていても、その容貌自体が目立つ。街中を歩いていても、彼の姿を見た女たちがうっとりとした目で見てくるのである。オイセルストは自分の容姿が優れていることは理解していたが、ただ人より見た目がよい、その程度にしか思っていなかった。しかし、賞金首となってからは、その目立つ風貌のおかげで賞金稼ぎたちは彼を容易く見つけることができたらしい。自分を倒す可能性のある者と巡り会う機会を増やしてくれたと、初めて自分の容姿に感謝したくらいである。
 だが、その感謝の気持ちも長くは続かなかった。
 弱いのである。オイセルストの首を狙う賞金首たちは、話にならないほど弱かった。中には多少手応えのある者もいたが、そんな賞金稼ぎでさえ、オイセルストを追い詰めるまでには至らない。彼が賞金首となる前に、名のある剣士とは決闘してしかも勝っていたため、自分の腕前をわきまえている剣士はあえてオイセルストの首を狙うことがなかった。そのため、腕前そっちのけで一攫千金を夢見る賞金稼ぎや、懸賞金に目の眩んだ貴族の子弟くらいしか、彼の前に現れなかったのだ。
 戦えば戦うほど、空虚さは膨らんでいく。心の中に空いた部分を吹き抜ける風の音が聞こえるほどに、膨らんでいた。
 弱い賞金稼ぎの相手をすることに、オイセルストは心底飽いていた。自分を倒す可能性のある者など、もはや現れないのではないか。そう考えるようになったとき、ふと《沈黙の森》に入ることを思い立ったのだ。
 人の訪れを拒むように鬱蒼と茂る森。その中では、数多の魔物が息づいている。《沈黙の森》の名の由来は、己の存在を魔物たちに気取られないため森に入った者は口を閉ざすからとも、魔物に喰い殺されて二度と口をきけぬ体になるためだとも言われている。
 ならばその森の中には、自分よりも強い、自分を喰い殺してくれるほどの魔物がいるのではないか。
 森の中に入れば、いずれそんな魔物と出会すかもしれない。


 そう思い立ったオイセルストが、剣とわずかな荷物を持って《沈黙の森》へ踏み込んだのは、彼が賞金首となってから半年後。のちに彼と共に《双璧》と称される騎士と出会う、一年前のことである。

〈了〉