ある騎士見習いの災難

 訓練場を囲む回廊のひとつを通りかかった時、ナーゲルの耳に飛び込んできたのは喚声だった。
 騎士たちに与えられた敷地内とはいえ、仮にもここは王宮の一角。片隅ではあるが、これほどの喚声が上がることなど滅多にないはずである。何事かと思い回廊を進むと、広い訓練場の中央付近に人だかりができているのが見えた。数十人の騎士たちが、なにかを取り囲むようにして集まっている。天に向かって開けている訓練場で訓練に励むには、絶好の天気。風も心地良く吹いている。昼間ならば訓練場に人がいたとしても不思議はないが、そのほとんどが一カ所に集まっているのはおかしかった。
 騎士たちの後ろからのぞき込むようにして、ナーゲルと同じ騎士見習いたちも集まっているのだから、これはいよいよ気になってしまい、ナーゲルは回廊から訓練場に出た。集まっている騎士見習いの中に友人を見つけ、彼に何事かと尋ねた。
「決闘だよ、決闘」
 友人は興奮したように言う。
「決闘?」
 ナーゲルは首をかしげた。騎士ならば、決闘をする機会だってあるにはあるだろう。しかしそれは、確かもっと形式張ったものであり、昼下がりの訓練場の真ん中で、騎士や騎士見習いたちだけに取り囲まれて行われるものではないはずだ。いや、略式だったらこんな形でもいいのかもしれない。
 あれ? でも騎士団内での決闘は禁止されていたような気もする。
「オイセルストさまと、グローセさまがこれから戦うんだよ」
「え。あのオイセルストさまと?」
 決闘を行う二人の名を聞き、ナーゲルは人垣の向こう、騎士たちが取り囲んでいる中心の方を見た。
 人々の隙間から見えたのは、向かい合う二人の騎士。一人は、背筋をピンと伸ばして大地をしっかりと踏みつけて立っている、少し厳つい顔をした騎士。そしてその正面に立つもう一人は、黒髪を風にそよがせ悠然とたたずむだけでも一幅の絵になりそうな程に容貌の整った騎士――こちらが、オイセルストだ。
 ナーゲルは今のところオイセルストと直接的にも間接的にも関わったことはないが、それでも顔と名は知っている。すると彼と対峙している厳つい顔の騎士が、グローセなのだろう。こちらの方は、生憎名前も顔も知らなかった。
「なんだって決闘なんかするんだ?」
 オイセルストが有名なのは、恐ろしく腕が立つからだ。いや、それだけで名を馳せているわけではないのだが、騎士団最強どころか、国中のどこを捜しまわっても、彼の右に出る者はいないとまで言われている。そんなオイセルストと決闘しようなど、相手のグローセには悪いが無謀としか言いようがない。
「ナーゲル。おまえ、知らないのか?」
 友人に訊いたのはナーゲルのはずなのに、逆に呆れ顔で聞き返されてしまった。
「《戦乙女》に求婚しようとする男は、オイセルストさまと決闘しないといけないんだよ」
「なんだそれ」
 騎士見習いとしてここへやって来て半年。そんな話は初耳であるが、どうやら知らないナーゲルの方が珍しいくらい、ここでは有名な話らしかった。
 《戦乙女》は、この国唯一にして史上初の女性騎士、コントラルト・ヘイリー・ヴァルヒルムの二つ名である。それはナーゲルも知っている。彼女はまだ若く、しかも女性でありながら男に引けをとらぬ活躍を見せ、とうとう騎士団の一つ《緋の夏陽》を任せられるまでになり、近頃では王女の身辺警護も務めているほどの騎士だ。《戦乙女》の活躍ぶりは王宮内に留まらず、城下にも知れ渡っている。未だ独身の彼女を妻にと望む男は昔から絶えないというのに、当の本人はまるで応じる素振りを見せず、困り果てた両親がとある賞金首の懸賞金として、コントラルトを差し出したことがあるほどだという。
 その時の賞金首だったという男が、なにを隠そう今はフィドゥルム随一と言われているオイセルストだった。広くその名を知られるほど腕が立つのに、一向に国王どころかどの領主にも仕える素振りを見せなかったオイセルストがいずれ王に弓引くことを恐れ、王宮は彼を賞金首として掲げた。しかし、オイセルストが騎士団へ入団することを条件に懸賞金は解除されたそうである。今まで出仕を拒んでいた男を騎士団へ入る気にさせたのが、《戦乙女》らしい。
 有り体に言えば、オイセルストはコントラルトを好いているのだ。だから、コントラルトに求婚しようとする男が現れたと知るやその男に決闘を申し込み、自分が勝てば求婚をあきらめさせる、ということを繰り返していた。
「ここしばらくそんなことなかったから、結構久々の決闘なんだよ」
 ナーゲルより先に騎士見習いとして入団した友人は、楽しげな顔で、見やすい位置を探して背伸びをしたり、しゃがんで隙間をのぞいたりしている。
 つられるようにしてナーゲルも背伸びをして見ると、人垣の最前列に、渦中の《戦乙女》の姿をみつけた。どこか呆れたような表情をしているように見える。
 誰かがとっとと始めろとはやし立てる。それに答えるかのように、オイセルストが優雅に笑む。一方のグローセは緊張しまくった顔で、剣に手を伸ばしている。オイセルストも、グローセに倣い剣に手を伸ばす。
 二人が剣を握った時点で決闘は開始される。開始を決めるのは当人たちだが、柄を握る前から既に駆け引きは始まっている。じりじりと少しずつ立ち位置を変えながら、グローセが自分に最も優位な間合いに詰め寄ろうとする。それまで飛び交っていた喚声はいつの間にかなくなり、全員が固唾をのんで行方を見守っていた。
 ナーゲルが異色の騎士オイセルストの剣技を間近で見るのは、これが初めてだ。いったいどんな風に彼が剣を扱うのだろうかと、ナーゲルが精一杯背伸びをした時、二振りの刃が陽光を弾いた。先に踏み込んだのはオイセルスト。目で追うのがやっとな程の速さで鞘走る剣先が、抜刀しきっていないグローセのあごの下にぴたりと突き付けられる。遠目には触れているのではないかと思うほどの距離で、剣先は寸止めされていた。喉元に剣を突き付けられたグローセは、わずかに刃の見えている剣の柄を握ったまま、動くこともできずにいた。
 呆気ないほどにあっさりと、決闘の決着がついてしまった。再び、人垣から喚声が上がる。勝利を収めたオイセルストは、優雅な仕草で剣を鞘に収める。一方負けたグローセは、悔しげな表情で、完全に抜くことすら叶わなかった剣を鞘に抑えると、くるりときびすを返し人垣を割っていずこかへ去っていった。
「……すごい」
 ナーゲルは小さく感嘆の声を漏らす。遠く離れた場所から見ていてでさえ、オイセルストが剣を抜く動作を目で追うのがやっとだった。あの速さでは、間近で対峙していたグローセは目で追うことすらできなかったのではないだろうか。最強と謳われる騎士の早業には友人も興奮しているようで、ナーゲルの横でやはり同じようにすごいと繰り返し言っていた。

 ○ ● ○ ● ○

 オイセルストの剣技を初めて目にしてから、一年と少し。ナーゲルは、まさか自分がそのオイセルストと直に剣を交わらせることになる日が来るとは、夢にも思っていなかった。
 騎士見習いが、先輩騎士から直々に教えを受ける機会はそれほど多くない。なにしろ叙任を受けた騎士たちの役目は後輩の指導ではなく、国の盾となり剣となることなのだから当然だ。しかし、それだけにその滅多にない機会に騎士見習いたちは、なんとか少しでも多く先輩騎士に稽古をつけてもらおうと躍起になる。名を馳せている騎士ともなると、まるで砂糖菓子に群がるアリのごとく、騎士見習いが殺到するのだ。もちろん、ナーゲルも数少ない機会をものにしようと意気込み、今日の訓練に望むつもりだったのだが――
「まさか、今のが君の全力ではないでしょう」
 世の女性をたちまち虜にしてしまいそうな満面の笑みを浮かべ、地面に叩き伏せられたナーゲルを見下ろしているのは、フィドゥルムが誇る騎士オイセルストだった。刃を潰してある稽古用の剣の切っ先を、ナーゲルの目の前に突き付ける。
「戦場では、倒れても敵は悠長に待ってはくれません」
 爽やかな笑みを浮かべているが、目が少しも笑っていないのを、ナーゲルは見逃さなかった。戦場はそれほど厳しいのだと暗に教えているのだったら、彼の厳しい言葉も態度も納得がいくのだが、生憎、どうもそうではないらしい。
 ナーゲルは自分の稽古用の剣を掴むと、体中に付いた土埃を払い落としもせず立ち上がった。それを見たオイセルストが、満足げな顔をする。
「両手でしっかりと構えないと、俺の剣は受け止められないですよ」
 ということは、またもナーゲルはオイセルストに相手をしてもらうことになるわけだ。
 何故なんだ。
 実戦経験の豊富な騎士に稽古をつけてもらうのは滅多にないことだが、一人の騎士がいつまでも同じ騎士見習いの相手をすることはない。彼らは、なるべく多くの騎士見習いの相手をしようと、一度稽古をつければ次の騎士見習いの相手をする。ところが、ナーゲルはオイセルストの方から指名され、一度の稽古では終わらず、次で五度目となる。
 オイセルストはかなり手加減をしているのは、彼の動きを見ていれば分かるのだが、それでもナーゲルには防戦するのが精一杯で、打ち込む隙を与えられていざ打ち込んでみても、あっさりと弾き返され、返り討ちにあって地面に叩き伏せられてしまう。
 二度目までは、もしかして自分に見込みがあるから一度では終わらなかったのかと密かに喜び勇んだのだが、三度目に背中から地面に叩きつけられて、それが間違いではないかと疑い、四度目で確信した。五度目となる今は、どうしてしつこいくらいにオイセルストは自分にこだわるのか、疑問を抱いている。
 三度目くらいまでは、仲間の騎士見習いたちがナーゲルに嫉妬や羨望の眼差しを向けていたが、今はなんだか気の毒そうな目で見ている。
「次はさっきよりも速いから、しっかりと構えておきなさい」
 オイセルストは笑みを消して、剣を構える。殺気さえ漂うような眼差しがナーゲルを射抜いたと思った次の瞬間には、目前にオイセルストの剣が迫っていた。
 あっと思う間もなく、ナーゲルの意識は暗転した。

 ○ ● ○ ● ○

 人の話し声が聞こえて、ナーゲルは目を覚ました。
 見覚えのない天井が飛び込んできたが、すぐには自分の置かれている状況が把握できない。頭がズキズキと痛む。首だけ動かして周囲を見て、ここが医務室で自分はそこに寝ているのだと理解した。
 痛む頭に、気を失う直前の記憶が戻ってくる。構えろと言われて構えたものの、オイセルストの一撃を受け止め損ねたのだ。柄を両手で持ち、顔の高さで横に構えたが、予想以上に重い一撃を叩き込まれ、オイセルストの剣の勢いに押されて自分の剣が顔に当たったのである。それで、意識を手放してしまったのだ。
 鼻に違和感を覚えて手をやると、脱脂綿が左の穴に突っ込まれていた。どうやら鼻血を流したようだが、今はもう出血は止まっている。
 鼻血とはいえ、流血するほど稽古をつけられるとは思ってもみなかった。寝台に寝たまま、ナーゲルは深々と溜息をついた。それにしても、なんだってあんな執拗といえるほどオイセルストはナーゲルに稽古を――しかも、かなり手厳しく――つけたのだろう。
「――大人げない奴だな、貴様は」
 心当たりになりそうなことがあったか思い出そうとしていたら、医務室のすぐ外の廊下から、非難するような女の声が聞こえてきた。王宮内にあってこんな勇ましい話し方をする人は、一人しかいない。コントラルトだ。
「騎士見習いに稽古をつけるのは、先輩騎士として当然の務めですよ」
 彼女の声に答えたのは、オイセルストである。
「程度と加減というものがあるだろう。彼らはまだ経験も不十分、体格も体力も発展途上だ」
「実戦では、そんなことは全く関係がありませんよ」
「オイセルスト。わたしが言いたいのは、そういうことじゃない」
 あっけらかんとしたオイセルストに、コントラルトが厳しい声を返す。どうやら、今日のナーゲルに対する稽古のつけ方について話しているらしい。医務室にはナーゲル以外には人はいなく、廊下にも誰もいないのか、周囲をはばからない二人の声がはっきりと聞こえてくる。
「どうしてナーゲルにだけ、あんなに手厳しいことをした。いつもはもっと手加減をするだろう」
「おや。騎士見習いの相手をしている俺を、見ていてくれたんですか。意外な事実ですね」
「ふざけるなよ、オイセルスト」
 オイセルストの茶化すような口調にも、コントラルトはまったく応じようとしない。険しい顔でオイセルストを睨む彼女の姿が想像できた。
「……フローセンでのことを、覚えていますか」
 しばらくの沈黙のあと、オイセルストが口を開いた。それまでとは打って変わって、真面目な口調である。
 ナーゲルは二人の会話を一言も聞き漏らすまいと、いっそう耳をそばだてた。自分に対するオイセルストの態度の理由が知りたかったが、その話をしていて何故フローセンが出てくるのだろう。
 約二ヶ月前になるだろうか。カルティーナ王女が国内の巡視行啓をする際、騎士見習いも何名か同行していた。騎士見習いに経験を積ませることが目的で、成績優秀者が選抜されて同行を許されたのだが、ナーゲルもその中に入っていたのだ。王女の巡視行啓中、騎士見習いは正式な騎士の従者として、一人の騎士に一人の騎士見習いがつくことになった。公平なくじ引きの結果、ナーゲルは《戦乙女》であるコントラルトの従者を務めることになり、同行する仲間からも羨ましがられたことを覚えている。
 そこで、ナーゲルははっとした。従者となれば始終そばに控えているのが当たり前であるが、コントラルトに求婚しようとする者を、決闘して阻止するようなオイセルストならば、コントラルトの従者に嫉妬しないとも限らないではないか。
 もしそれが当たっているとすれば、コントラルトの言う通り、オイセルストのしたことは大人げない。
「――フローセンの、なんのことだ」
「書斎で、俺が《沈黙の森》にいた理由を話した時ですよ」
 フローセンに滞在している間、コントラルトは領主の書斎の一つを、事務仕事をする部屋として借りていた。ナーゲルもたびたび、コントラルトに用があってその書斎に出入りしていたが、そういえば行くたびに、オイセルストがそこにいた。オイセルストの今日の態度の理由も知りたかったが、オイセルストが騎士団に入る前、賞金首だった頃に《沈黙の森》にいた、その理由もまた、知りたかった。純粋に好奇心である。
「その時と今日の貴様の態度と、どういう関係がある」
「大ありです。あの話をしたあと、あの騎士見習い――ナーゲル・エレイク・ベヘルツトでしたか、彼があなたを呼びに来ましたね」
 オイセルストが、数多くいる騎士見習いの一人にすぎないナーゲルの名前を覚えていたことに驚き、そしてオイセルストのような騎士に覚えていてもらえたことにナーゲルは喜んだが、それでも理由は知りたい。
「ああ、そういえば、そうだったかな」
 コントラルトの言葉は、何故か歯切れが悪い。ナーゲルがコントラルトを呼びに行ったことは何度もあるだけに、彼らがいったいいつの話をしているのか分からなかった。
「彼はその時、俺の千載一遇の機会を見事に潰してくれたんです」
 ナーゲルはぎょっとして、思わず枕から頭を浮かせて二人がいる廊下側の壁を見た。自分がそんなたいそうなことを知らない間にしていたなんて、まったく信じられない。
「千載一遇?」
「彼が入ってくるのがあともう少し遅ければ、俺の腕の中にあなたがいたはずなんですよ」
「……っ貴様、何を言っている!」
「あの時、もう少しで触れそうだった俺の手から逃げていったあなたの素早さは称賛に値しますが、俺としてはそれが悔しくてたまりません」
 言われてみれば、一度だけ、ナーゲルが書斎へ入るなり、コントラルトがやたらと慌てた様子でさっさと出て行ったことがある。彼女にしては珍しいことだと、ナーゲルはそのあとを慌てて追いかけていった。オイセルストはその時もやはり書斎にいたような気はするが、なにしろ書斎の扉を開けた途端、コントラルトが行くぞと言ってそそくさ行ってしまったのだ。はっきりと確認していない。
「真顔で言うな! いや、オイセルスト、貴様、まさかその時のことを根に持って、ナーゲルに」
「この俺の邪魔をしたんです。それくらいのことは、彼には我慢してもらいましょう」
「やはり大人げないな、貴様。なにが品行方正だ」
 オイセルストの言うことは無茶苦茶で、それに呆れているらしいコントラルトの声は先程よりも大きかった。
「あの時の続きを、今してもいいですか」
 コントラルトの呆れ声や非難にもまったくめげていない、むしろ真面目で真剣なオイセルストの声が聞こえてきたかと思うと、それに続いて鈍い音がした。コントラルトの返答はなく、その代わりに廊下を踏み抜きそうな足音が遠ざかっていく。
 足音がすっかり聞こえなくなるまで、廊下からはそれ以外の何の物音も聞こえてこなかった。足音は一人分で、会話の流れから推し量るに、コントラルトのものだろう。ならば取り残されたオイセルストは、今いったいどんな状態になっているのだろう。
 そんな疑問がナーゲルの中で湧き上がる。あの鈍い音は、多分オイセルストが殴られた音だ。甲高い音ではなかったから、平手打ちではなく、拳。普通の令嬢ならばまずオイセルストの顔を殴ることさえためらうだろうに、さすがは《戦乙女》。しかも、拳とは。
 ナーゲルは感心するよりも、言葉より先に手を出したコントラルトが少しだけ怖かった。
 しかし、それで湧き上がった好奇心が萎えることはなく、ナーゲルはそろそろと寝台から下りると、足音を忍ばせて医務室の扉に向かう。廊下から物音は聞こえてこない。もしかして、オイセルストは殴られて気絶してしまったのだろうか。もしもそうなら、オイセルストのかなり稀な姿を目にすることができる。彼に大人げない八つ当たりをされたわけだし、それくらいの醜態を見ることは許されるのではないだろうか。
 ナーゲルは自分にそう言い聞かせ、音をたてないように細心の注意を払いながら、扉を少しだけ開けて、廊下に顔を覗かせ――
 声どころが息がつまる。医務室側の壁にもたれかかり腕組みをしたオイセルストと、目がばっちり合っていた。彼は、まるでナーゲルが覗くことを予想しいていたように、笑みを浮かべている。左の頬が赤いのは、殴られたからだろう。
「ナーゲル・エレイク・ベヘルツト」
 口の端をつり上げ、オイセルストがナーゲルの名を呼んだ。
 扉の隙間から顔を覗かせたまま、ナーゲルは身動きができなかった。
 口の端が少し切れているオイセルストが浮かべた、笑み。不敵な笑い方でもなく、かといって優雅に微笑んでいるわけでもなく。獰猛な獣が哀れな獲物を見つけた時に浮かべるような、笑み。
 オイセルストの素行からは決して想像することができないような、凶悪ささえ感じる笑みを向けられ、ナーゲルは情けない愛想笑いをするしかない。
「野次馬根性が旺盛なのは悪いとは言わないが、見たことを吹聴するのは利口じゃない」
 いつもとは違うオイセルストの喋り方に、ナーゲルの愛想笑いが凍りつく。
「利口なところを見せてくれよ」
 オイセルストはそれだけ言うと壁から体を離し、ナーゲルに背を向けて行ってしまった。
 凍りついた愛想笑いを浮かべたまま、賢明に生きていかなければオイセルストに潰されかねないと、ナーゲルは半ば本気で思っていた。

 ○ ● ○ ● ○

「今日もまた、オイセルスト様に稽古つけてもらったんだろう」
 《蒼の冬月》の騎士たちを交えての訓練で、ナーゲルは真っ先にオイセルストに捕ま――いやいや、指名されて稽古をつけられた。さすがに、いつかの時のように何度も連続で、気を失うまでということはあれ以来一度もないが、オイセルストはナーゲルの姿を見つけると、必ず彼の方からやって来るようになった。
 それを、同輩たちは彼に目をかけられていると思っているらしい。訓練が終わり、後片づけをするナーゲルの隣で、友人が「羨ましいよなぁ」とぼやいていた。ナーゲルはそんなことはないと返しつつも、胸中は複雑だった。
 同輩たちが言う通り、オイセルストに目をかけられているのなら、嬉しい。だが、口封じの再認識をさせているような気がしないでもなく、素直に嬉しいとは思えない。けれど、オイセルストの厳しい稽古のつけ方のおかげで、腕が上がってきているのは自覚できるほど、確かだ。
 それを単純に喜べばいいのか、あるいはオイセルストに感謝すればいいのか、それとも彼を恨めしく思えばいいのか分からず、ナーゲルは再び複雑な面持ちで、溜息をこぼした。


 ナーゲルがまだ思い描いてもいない、近くも遠くもない将来、《フィドゥルムの双璧》の片割れ、『オイセルストの右腕』とナーゲルが呼ばれるまでには、もう少し厳しくちょっと理不尽な目に遭わなければならないことを、今はまだ誰も知らない――。

〈了〉